第一章 9 絶望の中で
受験勉強に追われていた日々でさえ、どれだけ幸せだったか。
友達と笑いあっていた教室、あたたかい料理が並んだ家族の食卓。そのすべてが、一瞬のうちに手の届かないところへ行ってしまった。そんな平凡な日々が、何十年も昔に思えてくる。きっと、その記憶さえもいずれ朽ち果てていって、思い出せなくなって……。そうなった時、わたしはどうすればいい? 何もかもすべて失ったわたしは、これからどうやって生きればいい?
また、大切なものを守れなかった。わたしは馬鹿だ。最低だ。
自己嫌悪に至って、涙があふれ出す。そんなわたしを守るように別の考えが頭を巡る。
――今回はわたしのせいじゃない。あんなのから守るなんて、わたしじゃ無理だよ。
甘えだ。甘えたっていいじゃないか。そんなの駄目だ。どうしてそんなに自分のせいにしようとするの?
――まだ、あの時のこと引きずってるの?
ああ、間違いなく引きずってるよ。
もうわからなかった。自分が何を考えているのかも、何もわからない。無理解を抱えたまま、また目を閉じる。
部屋に閉じ篭ったわたしは、泣いたり喚いたり眠ったりを繰り返していた。
泣く。何もかもを失ったことに対する悲しみを、とどめようもない思いを、そのまま涙にする。大声を上げて泣くこともあれば、声を出さずにすすり泣くこともあった。いくら泣いても涙は枯れなくて、でも食事も水分も摂っていないから、脱水症状で倒れるんじゃないかと思った。意識を失うことでこの苦しみから解放されるなら良かったんだけど、実際はそんな都合のいいこと起きるはずなくて、わたしはただ泣き続けるだけだった。
喚く。突然に、訳も分からず平和な日常を奪われた怒りを、声にして喚き散らす。自分でも何を叫んでいたかあまり覚えていない。きっと同じことの繰り返しか、意味のない言葉の羅列だろう。すぐに声が掠れて出なくなって、それでも叫び続けた。小説とかでそうやって喚き散らしている人物を見ると狂ったのかなとか思ってたけど、いざそんな状態になってみるとそれは違うとわかった。わたしの場合、狂わないために叫んでいる。自分を見失わないために、無理矢理に声を張り上げていた。
眠り。それは、泣き喚くことに疲れた時に訪れるものだった。泣くこと、喚くこと、どっちもすごく体力がいるから、ノンストップで続けることなんてできない。ふとした瞬間に意識がぷつりと途切れることがほとんどだ。やっぱり人間、睡眠が大事なんだと痛感した。
しかし、わたしが最も恐れていたのがこの眠りの時間だった。
たいてい、眠りに落ちると夢を見る。それも、停止した人間界の夢を。あの場所あの瞬間に閉じ込められて、ただ走り続けることしかできない。纏わりつく恐怖を払いのけることもできない。それなのに、みんなが消えてしまったことだけは鮮明に覚えていて、何の希望も持てないまま走り続けるのだ。そして絶叫しながら目を覚まし、泣きと喚きのループがまた始まる。
でも、たまに手を引かれるときがある。
走り続けている時、誰かに手を握られる。その手は温かくて、すぐに心に巣食う恐怖を打ち消してくれる。その手のぬくもりを追うように走っていくと、そのときだけは穏やかに目覚めることが出来る。それがどうしてなのかを考えられるほど、精神的な余裕はなかったけど。
リンは、そんなわたしをそっとしておいてくれた。目を覚ますとベッドの脇のミニテーブルにスープが置いてあることがあって、その心づかいが強張った心をほぐしてくれるようだった。
だからって、このままずっとリンに甘えていていいわけがない。早く、これからどうしたらいいのか決めないと。
そう主張するのは理性だ。感情はそれについていけない。分離した二つに腕を引っ張られるばかりで、肝心のわたしはまだ身動きが取れないままだ。
わたしだって、こんなことをしていても時間が戻らないことくらい知っている。知ってる。知ってるけど、過去に縋ることしかできなかった。手の届かない日々に苦しみながら、わたしはまた眠りに引きずり込まれる。
わたしは町の中に立っていた。見慣れた通学路。体が震える。
「夢だ……」
はっきりと覚えている。今、本当の人間界がどうなっているのかも、今までの夢とは違って思い出せた。
そして、もう一つ決定的な違いがある。
「彩ーっ!」
名前を、呼ばれた。
その声に名前を呼ばれるのが、ひどく久しぶりに感じた。わたしは声が聞こえてきた方向を振り返る。ゆっくりと、ゆっくりと。わたしの後ろに立っていたのは。
「おー、やっと気づいてくれた」
「よっ彩」
「吉田、元気?」
幼馴染たちだった。
何度夢を見ても、その中でも会えなかった大切な存在。わたしは呆然と三人をみつめる。
「え、なんで……」
ぽろりと口から声がこぼれる。いつもと同じように笑う三人が、すごく懐かしくて。大切だった。失いたくなんて、なかった。
「元気なわけ、ないだろばか……」
会いたかった。今も会いたい。夢なんかじゃなくて、現実で会いたい。
夢の中ですら泣いてしまう弱虫なわたしは、涙声で叫んだ。
「みんな、どこにいるの。なんでわたしを置いて行ったの!? どうして、わたしを一人にしたの!」
手を強く握りしめる。五メートルほど先、微妙な距離を開けて、幼馴染たちはわたしの声が聞こえていないみたいに笑顔のまま表情を変えない。それが、もう手が届かないってことをより感じさせてきて。
もう一度何か言おうと口を開いた時、杏奈の声が聞こえてきた。
「どうしたの? そんなところで立ち止まって」
「お前らしくないぜ?」
「うん。吉田には猪突猛進って言葉しか似合わない」
思いがけないその言葉に、わたしは入りすぎていた全身の力がぬけていくのを感じた。
わたしらしくない? 立ち止まるのが?
「彩、ごめんね。私達は彩に全部押し付けることしかできない」
杏奈は伏し目がちに言う。その口調には、悔しさが混じっているみたいだった。
「どうしたらいいのか、わかんないの。でも……だから、伝えるね。彩は弱くなんてないよ。私達は信じてる。また、笑って彩に会えるって」
「お前はやるときはやる奴だってな」
「うん。私達、離れていても彩のこと思ってるからね」
呆然とするわたしに、杏奈は照れくさそうにはにかんで。
「私達は大丈夫。安心して」
「そ。それに、約束しただろ? 俺たちはその約束を叶えるまでは梃子でも動かない」
「吉田の絶望的な記憶力じゃ、その約束すらも覚えてるか怪しいけどね」
約束。そうだ、わたしは、大切な約束をしていた。日常生活じゃありふれていて、忘れてしまうほど当たり前に叶えられる約束。わたしにはもう叶えられないと思って、頭から追い出していたけど。
突然に、世界がはっきりとした気がした。カメラのピントが合ったみたいな、そんな感覚。ようやくわたしは、この現実を捉えることが出来た。
「玲、うるさい……」
わたしは手の甲で涙を拭った。鼻をすすって、幼馴染たちとしっかりと向かい合う。わたし達が立っているのは、あの日と同じ分かれ道だった。演出が過ぎるだろ、なんて思いながら、わたしは笑う。
「杏奈、陽向、玲」
忘れたりしない。目を覚まさせてくれたこの大事な存在を、脳裏に焼き付ける。結局、わたしはいつも支えられていたんだ。お母さんの言う通り。頼りっぱなしだったんだと思う。
今度こそ一人で歩き出そう。
強い決意を胸に抱いて、わたしは片手を上げる。それはいつもするみたいに気軽で、そんな決意なんて微塵も感じられないようなテキトーさ具合で。
でもそれくらいがちょうどいいんだろうな、なんて思いながら、もう一度約束を交わす。
「またあした!」
明日ってのが、いつになるかなんてわからない。わからないけど……停止していた人間界が動き出して、日が沈んで、日が昇った時。その時、わたしはまた三人に会うんだ。大切な幼馴染たちに、もう一度。
幼馴染たちは顔を見合わせた後、弾けるような笑顔で。
「「「またあした!」」」
いつも通りに別れた後、わたしは迷わず家に向かう。夢の中で何度も辿ったその道を、ゆっくりと確かな足取りで進んでいく。
畑の角を曲がって、自宅を見上げる。明かりの灯ったその家に、わたしはもう一つ果たすべきことを思い出す。
「お母さん」
我が家に向かってささやいた。帰れない。夢の中じゃ、まだ。
「絶対に助けるから。だから、もう少し待ってて。そのときに、ちゃんと謝らせて」
そこまで伝えたところで、すうっと意識が遠のいた。夢から覚めるんだ、とごく自然にそう思う。この場所に未練は尽きないけど、それでも別れ時ってのはあるんだろう。だから、ほら。早く目を覚まそう。
意識を引っ張っていく力にすべて任せて、わたしは目覚めるために目を閉じた。