第一章 8 奪われた日常
図書館に着いて、わたしは彼女の名前を呼んだ。
「リン」
リンまでいなかったら、わたしは壊れていただろう。でも、
「どうしたんだい、アヤ君」
紅茶を飲んでいたリンが、驚いたようにわたしを見た。きっとひどい顔をしているんだと思う。リンはすぐにわたしの傍に飛んできて、心配そうにのぞき込んできた。
「何かあったの? お母さんと仲直りできなかった?」
「ああ、うん……できなかった、よ」
ようやく絞り出した声は、ひどく掠れて小さくて。喉の奥から込み上げてくるものを堪えていた時、手がわたしの頬に触れた。
あったかくて、柔らかい手だった。わたしをみつめる瞳には、真摯な光が宿っている。
そこで、わたしをここまで保っていた糸が切れてしまったみたいだった。
ぼろぼろと零れ落ちた涙が、頬を濡らしていく。いくら拭っても止まらなくて、制服の袖がびしょびしょになっていく。そんなわたしの手首を掴んで止めたのは、いつになく真剣な表情をしたリンだった。
「アヤ君、一体何があった? 君は――」
「――わたししか、いなかった」
自分でも、何が起こったのかわからない。だけど、だから、伝える。
「人がいなくなって、何の音もしなくなって……!」
道路の半ばで止まった車、暗い家並み、静まり返った町。
それらが一瞬のうちにフラッシュバックして、わたしは頭を押さえて俯いた。
痛い。苦しい。頭が割れそうだ。
わたしの言葉に、リンは息を呑んだ。それから一瞬下を向き、すぐに顔を上げる。その時には、もう優しい微笑みが浮かんでいた。
「大変だったね。ボクも今から調べてみるから、アヤ君は休んでいてくれるかい?」
リンの気遣いに感謝する余裕もない。それどころか、その気遣いにすら気づけないまま、声を出す気力もないわたしはただ頷く。
リンはわたしの手を引いて、奥の両開きの扉へと向かった。扉を開くと、そこにはいくつかの部屋が向かい合って並んでいる。
リンは一番手前の部屋にわたしを連れていき、ドアの前でそっと手を離した。
「ここで待っていて。どれくらい時間がかかるかわからないけど……。もし何かあれば、すぐに知らせるんだよ。ボクは向こうの自分の部屋にいる。壁に取り付けられた小さいドアの奥だ」
説明している時間も惜しそうに早口で説明した後、リンはすぐに戻っていってしまう。最後にもう一度わたしを振り返って、今度こそ扉の向こうに消えてしまった。
言われたとおりに部屋のドアを開け、中に入る。
こぢんまりとした部屋だ。棚もベッドもテーブルもある。ほぼ無意識にベッドに向かい、崩れ落ちるように倒れ込んだ。
「みんな、どこ行ったのかな」
誰もいなかった。何の音もしなかった。インターネットも使えないし。でも……そうだ、他の町はどうだろう。わたしの町の人たちはみんなどこかにいなくなってしまったけど、他の場所もそうだとは限らない。そうだったとしたら、離れたところにある会社で働いているお父さんは無事だろう。
あの時は頭がいっぱいで自分の町にしか意識が向けられなかったけど、よくよく考えてみればそうだ。今更戻って確認できるほど、心は強くないけど。
「でも、きっとなんとかなる。大丈夫だよ」
世界中の人たちが力を合わせてくれたなら、きっと解決できる。みんなにまた会える。大丈夫。大丈夫。
――わたしが一人、取り残されたわけじゃない。
その考えに希望を持てたわたしは、そのまますうっと眠りに落ちた。
「……君。……ヤ君、アヤ君」
誰かの声が聞こえて、わたしはまどろみから引きずり出された。重い瞼を開くと、薄い視界に映りこむのはエメラルドの瞳。その色に、わたしは目を覚ました。慌てて体を起こして、妖精と向かい合う。
「リン! ……ごめん、寝てた」
「いや、眠れたのなら良かったよ」
そう答えるリンの表情も声も暗い。まさか、と嫌な予感が頭をよぎる。
それでも、何も気づいていないみたいに笑って。
「おはよう。どうした、の」
「人間界のこと。わかったことを知らせに来たんだ、けど」
そう言って、リンは目を逸らした。幼稚な現実逃避は、呆気なく打ち砕かれて。逃れられようもない確信が、わたしの思考を凍り付かせる。
声が出ない。言葉がうまくまとまらない。
ただ口を開閉するばかりのわたしとは対照的に、リンは覚悟を決めたようにわたしに向き直る。その視線を受けて、わたしの体はぴくりとも動かなくなってしまった。
「辛いと思うけど、君は知る権利がある。だから今から伝えるよ」
嫌だ。怖い恐い聞きたくない、お願い、やめて。
リンの口が、恐れていた真実を紡ぐ。
「人間界に生命体は存在しない。さらに、時間も停止している。例外は君――吉田彩だけだ。きっと、君は妖精図書館に居たから悲劇を免れたんだろう」
どくん、と心臓が嫌な跳ね方をした。手足の力が抜けて、まるで自分のものじゃないみたいに感じた。
聞きたくなかった、なんて思ってしまう。知る権利なんていらなかった。ただ、平凡に生きていく権利が欲しかった。
「ありえない、よ」
声を出すのがひどく久しぶりに感じた。頭を振って、もう一度「ありえない」と呟く。
「そんなのおかしい。誰かが消えるとか、時間が止まるとか、そんなの―――!」
――――本当に、あり得ない?
頭の中に響いた声に、わたしは言葉に詰まった。
――――そんなことないよね。わたしはもう知ってるはずだよ。こういうありえないことを起こす力の存在を。
脳裏に浮かぶのは、何も考えずに妖精図書館に通って、リンと話していたあの日々。ほんの数日前だというのに、遠い昔に感じられて。
『せっかくこんな摩訶不思議な世界とつながりを持てたんだ。このチャンス、逃してなるものか……!』
『今日も能力の話教えてよ』
そうだ。
進んで「ありえない世界」に足を踏み入れたのは、他でもないわたしじゃないか。
それを、今更「ありえない」なんて否定するのは虫が良すぎる……。
「みんなは、どこにいるの」
代わりに口をついて出た問いに、リンは少し眉間に皺を寄せた。眼鏡の奥の目を申し訳なさそうに細めてわたしを見る。
「わからない。でも、人間界には『空間魔法』の痕跡が見られた。だから、どこかの異空間に閉じ込められているというのが最有力だ」
わたしはぎゅっと制服の裾を握った。
閉じ込められたとして、みんなは何をしているのか。口に出そうとした言葉は恐怖で縮こまる。最悪の場合、みんな、人間界のすべての生き物は……。
「まだ分からないことが多い」
リンが疲れたように眼鏡をはずした。
「もう少し調べてみるよ。何かわかるかもしれない。今後のことも、アヤ君のことも考えないといけないし……大丈夫?」
途中で、リンがわたしを見た。よっぽどひどい顔をしているんだと思う。でも、この状況で強がれるほどわたしは強くない。さっきから感情がぐちゃぐちゃになって、体も凍り付いて動かない。到底「大丈夫」なんて言えそうにない。
「アヤ君」と心配そうに呼んできたリンに、わたしはうつむいたまま返事をする。
「ごめん。ちょっと、一人にさせて……」
勝手な話だってわかってる。わかってるけど……もう無理だ。限界だ。これ以上こうしていても、リンに迷惑をかけるだけ。
「うん。本当に……何かあったら、すぐにボクを呼んで」
わたしの身勝手なお願いも、リンは素直に受け入れてくれる。しばらくしてドアが閉まる音がして、それでリンが部屋を出て行ったんだと分かった。
体を倒してベッドに寝転ぶ。視界に映るのは見知らぬ天井だ。でも、少しくすんだその黄色は、わたしを見守っている気がする。
わたしは、これからずっと一人なの? もう二度と、みんなに会えないの?
喉から熱い塊が込み上げてくる。視界がぐにゃりと歪んだ。
「うっ、あ、ああぁぁあああーーっ」
わたしは嗚咽を上げた。堪えられなくなった思いが涙になって頬を伝い落ちる。
何の前触れもなかった。まさかこんなことが起こるなんて、考えもしなかった。ずっと平凡な日々が続いていくんだと思ってた。昨日までの幸せが絶望に変わって、生きている心地がしない。体の震えが収まらない。
わたしも、みんなと一緒がよかった。一人になりたくない。もし、少しだけでもタイミングがずれていたら、わたしはみんなと居られたのかな。たとえ殺されたっていい。一人だけ取り残されるくらいなら、同じ所に行きたかった。
その日、わたしは泣き続けた。涙が枯れ果てるまで泣いていた。いっそのこと涙が枯れて欲しいと願うほどに、涙が止まらなかった。