第一章 7 始まりの終わり
何か嫌な感じがして、わたしは辺りを見回した。
音がしない。車も走っていない。さっきまでは、何台か隣を追い抜いていったのに。エンジン音どころか、誰かの話し声、木々の揺れる音すらも聞こえない。
「―――っ!」
体中に悪寒が走る。思わず両腕を抱いて、それでも無人の道路から目を離せなくて。
気のせいだ、と自分に言い聞かせた。
最近、能力とかわけわかんないことに首突っ込み始めたから、こんな風に錯覚しちゃうんだ。全然大したことない。至っていつも通りの日常風景だ。
「ほら、帰るぞ彩。いくら家に帰りたくないからって、現実逃避が過ぎますよって」
自分自身を奮い立たせる声も情けなく震えている。頬を一発叩いてから、恐る恐る足を踏み出した。
無音の町を、一人で歩いていく。
さっきから足が軋むみたいに動かしづらい。足が動かないから速度も遅いはずなのに、なぜか息も切れてきた。なんで、なんで、なんで。
歩いているうちに、横断歩道にさしかかった。ぼうっとしていて一瞬気づきにくかったけど、信号が赤だ。わたしは慌てて踏みとどまり、一つ息をついた。
心臓がうるさい。さっきからバクバクバクバクと……。何に緊張してるって言うんだよ。
大きく脈打ち続ける心臓を落ちつけようと、何度も深呼吸しながら左を向いた。
別に、左を向いたことに意味なんてない。しいて言えば、妙に長い赤信号の点灯時間が退屈になったくらいだ。
――――目の前の道路の、不自然な位置で車が止まっていた。
そこだけじゃない。後ろも、反対方向も、道路の中途半端な位置で車が停止している。青信号にも関わらず、だ。
「何、これ……」
尋常ではない事態に、呆然としていたはずだ。それなのに、咄嗟に、わたしは道路へ飛び出していた。一番近くの車に駆け寄り、その窓を叩く。
「あの、大丈夫ですか……っ!?」
途中で、わたしはよろめくように後ずさった。
中に人がいない。
隣の車も、その向こうの車も、どこを見ても運転手はいない。
何が起こってる……? みんないないなんて、わたしが図書館に行っていた間に緊急避難警報が出たとしか思えない。なかなかありえない発想だけど……まだこっちの方が信じられる。
『何者かに消し去られた』なんて考えより、よっぽど信憑性がある。
信号は赤信号のまま変わらない。わたしは、赤信号の横断歩道を走って突っ切る。
とにかく杏奈たちを追いかけよう。さっき別れたばっかりだけど、会いたい。顔を見たい。たとえ馬鹿にされようと、構わない。
手足の震えが止まらなかった。膝ががくがくして、うまく走れなくて。それでも立ち止まったら終わってしまいそうな気がして、わたしは無理矢理に手足を動かして走り続けた。
幼馴染たちと別れたのはつい五分前くらいだ。今なら、こうして追いかけていれば、追いつけるはず。三人でのんびりしゃべりながら歩いているのが見えるはず。それで、わたしを見て「戻って来たのかよ」って笑ったりして。そんないつもの帰り道に、辿りつけるはずだ。
それなのに、いくら走っても幼馴染たちの姿は見えてこない。
「あ、杏奈っ」
ずっと走っているからか、喉の奥が焼けるように熱くなって、横腹も痛い。息を吸うたびに刺激してくるそれに構わず、わたしは名前を呼んだ。
「杏奈、玲、陽向! いるよね? ……ねえ、返事してよ!」
返事はない。静かな住宅街に、わたしの声だけがむなしく響く。
嘘だ、と心が叫んだ。
「だ、誰か! 誰かいませんか!?」
震える声で、ひたすらに誰かを呼び続ける。誰でもいいから返事をしてほしかった。妖精図書館でも同じようなことを叫んでいたはずなのに、纏わりつく恐怖が違う。
通りがかった公園の前で足を止め、わたしは時計を見上げる。
もしかしたら、思っていたより妖精図書館で長く過ごしていたのかもしれない、もうとっくに幼馴染たちは帰ってしまったんじゃないか、なんて安易な想像にすがりつくために。その安易な想像を壊すために。
公園の時計は、午後五時四十一分で止まっている。正確には、午後五時四十一分十七秒。秒針までぴくりともせず、ただ静止してこの世界の時間を知らせていた。
嘘だ。
「嘘だ、嘘だ嘘だ……!」
ありえない。こんなの、起こるはずがない。
気分が悪くなる。歯を食いしばっていないと視界がぐらぐら揺れて、今にも吐きそうなくらい気持ち悪い。それでも、まだ足を止めてはいけないとわかっているから。だから、無理矢理に足を踏み出す。
もう向かう場所は一つしかなかった。
震える膝に力を込めて、痛む肺に喝を入れて、折れそうになる心を繋ぎ止めて、わたしはまた走り出す。
何年、この道を通って来たと思ってるんだ。
いろんな家から光が漏れて、美味しそうな匂いが漂ってきて、誰かの話し声が聞こえてきて。今日の夕飯は何だろうななんて呑気なことを考えながら、他愛のない話をして。そんな帰り道を、幼馴染たちと一緒に通って来た。何度も何度も、この三年間。
この町は、いつも、あたたかな音で満ち溢れていたはずなのに。
今、ここで聞こえるのはわたしの足音だけだ。
この期に及んでも夢オチなんてものを期待するわたしを嘲笑うように、道路を走り続ける衝撃が足の裏に伝わってくる。込み上げる何かを飲み込んで、コンクリートを蹴りつけて進み続けた。
近道はいくらでもあるのに、馬鹿正直に通学路を走り抜けて目的地を目指す。桜の木が植わった広い畑を曲がれば、そこはわたしの家だ。
着いた。
あれほど帰ることを嫌がっていた我が家に、息を切らして帰って来た。もう気まずさなんて吹き飛んでいた。飛びつくようにして玄関のドアを開け、中に転がり込む。
玄関で靴を脱ぎ捨てて、鍵も閉めずにリビングに駆け込む。
「お母さん……っ!」
息を整えるのも忘れて、わたしは叫んだ。
「お母さん、お母さん、お母さん……!」
リビングにはいない。キッチン、洗面所、お風呂、階段を昇って二階へ、自分の部屋、お母さんの部屋、お父さんの部屋。どこを見てもいない。
もう一度リビングに戻り、ふと、テーブルの上にお母さんのスマホが置いてあるのに気付く。
機械音痴なお母さんは、パスワードなんて便利なもの設定していない。わたしはスマホを手に、インターネットを開こうとする。
「……圏外」
なんとなくわかっていた結果をぽつりと呟く。テレビも電気も、停電した時みたいに点かない。
これじゃあ、他の場所がどうなってるかわかんないよ。
握りっぱなしで切れていたスマホの電源を入れると、パッと光ってホーム画面が映し出された。
いつだったっけな、家族旅行に行った時の写真だ。わたし、お母さん、お父さんの三人の頭の上に、現在時刻が表示されている。
無機質な17:41。
がくりとその場に膝をついた。ゆっくりと右手を持ち上げて、頭に振り下ろす。
「痛い……」
夢じゃ、ない。
今までに、これほど夢であってほしいと願ったことは一度もない。
わたしはカバンを下ろし、中からあの本を出した。ほとんど無意識にそれを開く。
とにかく、助けて欲しかった。声を聞きたかった。あの妖精に会いたいと、心から思った。
いつもと変わらない、白い光がわたしを包み込む。