第一章 6 夕焼け空と街の匂い
三月と言ってもまだ春は遠く、日が沈むのも早い。
学校を出ると、西の空が茜色に染まっているのが見えた。日が暮れるのが早いからか、辺りはかなり冷え込んでいる。冷たい空気に身を縮ませ、コートの襟をきゅっと合わせた。
「ううーっ、寒いねえ。明日は晴れるといいけどなあ」
杏奈が手袋をした手で口元を覆い、少しくぐもった声で呟く。
「そうだなー。天気予報では曇りだったか?」
「確か。でも、ほら見て」
わたしは夕焼け空を指さす。その茜色は絵のように現実味のない美しさだった。
「夕焼けが見えた次の日は晴れって言うじゃん。ってことは、明日快晴じゃない? ついでにあったかいといいなあ」
「吉田、要求が多い。雨女が口出すと雨が降る」
「理屈っぽい癖に雨女なんて迷信信じてるの? それと、それは全国の雨女に対する宣戦布告だと受け取っていい?」
「玲が喧嘩売ってるのは彩だけだろ」
ファイティングポーズを取るわたしに、陽向が呆れたようにツッコミを入れた。そのまま歩き出そうとする肩にガッと手をかけ、その場に引き留める。
「まあそう焦らずに。夕焼け空と古びた校門。風景がとてつもなく絵になるよね! もうちょっと見ていこうよ!」
「彩、喧嘩して帰りづらいのはわかるけど……」
「杏奈さん一瞬で見抜くのやめてくれる?」
さらりとこっちの魂胆を口にする杏奈に、わたしはがっくりと肩を落とす。
「だってさ、『何も知らないくせに』って言い捨ててきたのに、のこのこただいまーって帰りますか? 無理でしょわたしのメンツが!」
「吉田に面子なんて初めからないでしょ」
「さっきから好戦的だな? そのキリッとした顔を潰してやろうか」
「逃げ足しか取り柄のない非力女が何か言ってる」
「本当に口減らないなあ……」
しかし、痛いところを突かれたのも事実である。実際のところ、わたしが玲に勝てるのは足の速さだけだ。しかも逃げ足。
わたしが反論を考えている間に杏奈に手を掴まれ、学校の外へと引きずり出されてしまった。
我が中学校は、自宅から徒歩三十分のところにある。田んぼに囲まれた田舎っぽい外観でも、もう見なくなるのかと思うと寂しくなる。
「三年間通ったこの通学路とも、もうすぐでお別れかあ」
寂しさと懐かしさがこみあがってくる。思い切り息を吸って、夕暮れ時の冷たい空気を肺に満たした。
「浸ってんなよ。ボーっとして交通事故に遭っても知らないぜ?」
「もう、意地悪だなあ陽向は。少しくらい浸らせてくれたっていいじゃない。ね、彩」
「ほんとだよ。なんでこんな奴がモテるんだか……やっぱり能力者なんじゃないの?」
「吉田の頭がおかしいのは知ってるけど、能力は流石にないと思う」
他愛もないことを話しながら、わたし達はゆっくりと家路を辿っていく。
「俺たち、もうバラバラなんだよな。明日卒業したら、もう」
柄にもなくしんみりとしている陽向を、笑い飛ばそうとしてやめる。通りがかった公園から少し目を背けながら、わたしも茶化さずに答えた。
「そうだね。杏奈も陽向も玲も、何があってもなんとなく傍にいたから」
傍にいて、くれたから。
家が近くなるにつれて足取りが重くなるわたしの背中を、杏奈がぐいぐいと押しながら歩く。
「くっ……。みんな、わたしのことはいいから先に行け!」
「何してんだ。そういうのは俺がやるからカッコいいんだよ」
「うわ、何今のナルシスト発言。引くわー」
わたしは瞬時に陽向から距離を取り、高速で腕をさする。そのわたしの襟を杏奈がまたも引っ張った。扱いはまるで散歩中の犬だ。
「もう、くだらないことしてないで帰るよ! 彩もいつまでウジウジしてるの?」
「ウジ……っ!?」
容赦のない一言がわたしの胸に突き刺さり、ぐうの音も出ない。杏奈は、そんなわたしを「仕方ないなあ」とでも言いたげに見て。
「意地張ってないで、すぐに仲直りしてよ。明日は卒業式なんだし。喧嘩したままなんて嫌でしょ。それに、吉田家は仲良しで羨ましいんだから」
「よく笑い声聞こえてくるよな。彩の悲鳴とか」
「多分それ、キノコデーだね」
キノコデーとは、吉田家で月に一度開催される食卓がキノコ尽くしになる日のことだ。わたしはキノコが大の苦手である。それを知っていながら笑顔で料理を出すお母さんは、恐怖でしかない。
そんなことを思い出すと、なんだか意地を張っている自分が馬鹿らしくなってくる。
今のわたしは、親子喧嘩を引きずって引きずって引きずりまくって幼馴染に迷惑をかける超絶ウジウジ女だ。流石にこれ以上の迷惑をかけるわけにもいかない。今朝、そうやって言われたばっかりじゃんか……。
「うん。そもそも、わたしに守るべき面子なんてないじゃん。そうだよ。どの面下げて帰って来たって怒鳴られても堂々と帰宅すればいいだけだよね」
まくしたてるわたしに、玲が少しだけ笑って聞いてきた。
「ようやくわかった?」
「ようやく、ね。迷惑かけてごめんかった! 喉潤して覚悟決めて帰る!」
そう宣言して、水筒の蓋を開けようとした時。
「あれ?」
そもそも、自分が水筒すら持っていないことに気付いた。肩にかけているつもりだったけど、本当につもりだけだったらしい。カバンの中を引っ掻き回しても見つからず、困惑顔の幼馴染たちがわたしを見下ろしている。
「まさか、学校に忘れてきたのか?」
「吉田は愚かだね」
「教室に忘れ物なんてなかったと思うけどなあ?」
「だよね杏奈! よってわたしは愚かではない」
両方の人差し指で杏奈を指さし、考える。
「教室には忘れていない。だからといって、歩いてるときに落としたら流石に気づくだろうし――あ」
そこで気がついた。
妖精図書館だ。
あの時水筒を持って行って、持ち帰った記憶がない。間違いない、あそこだ!
「ちょっと取りに行ってくる」
すっくと立ち上がったわたしに、陽向が驚いたように声をかけてきた。
「もう時間遅いぞ? 一人で大丈夫か?」
「こんなところでイケメン発揮するなって。だいじょーぶだいじょーぶ。心配すんな。わたしを置いて先に行け」
実際に学校に戻るわけでもないしね。
ひらひらと手を振って、わたしは幼馴染たちに背を向ける。と、
「彩!」
杏奈に名前を呼ばれた。振り向くと、三人が笑ってこっちを見ている。杏奈はニッコリ笑って、顔の横で小さく手を振って。
「またあした!」
またあした。
いつも交わしているその言葉の響きが、今日はなんだか特別なものに感じて。
わたしも笑って、手を挙げる。
「またあした!」
「またあしたな」
「会いたくないけどまたあした」
「玲は明日覚えとけよ」
軽口を叩きながら、幼馴染たちと別れる。別に、明日卒業するからって永遠に会えなくなるわけじゃない。そんなさみしがることなんて、ないんだよ。
人目につかないよう角を曲がってから、わたしは本を開いた。
到着した妖精図書館で、わたしはきょろきょろと周りを見回す。すると。
「うおーい……」
水筒は、テーブルの上で鎮座していた。
わたしはやる気のない声を漏らしながら水筒を回収する。それから「リンーー!」と大声で館長の名前を叫んだ。
「どこ行ったー!!」
「はいはい、ここにいるよ! アヤ君、図書館内では静かにって知らないのかい?」
「どーせ誰も来ないんでしょー」
リンはうぐっと言葉に詰まり、代わりに質問を絞り出した。
「どうしたんだい? いつもだったらこんな風に呼び出したりしないだろう」
「うん。なんで、水筒忘れたこと教えてくれなかったの」
水筒をリンの眼前に突きつけると、リンは「ああ」と納得したように頷いた。それから、どこか意地悪い笑みを浮かべる。
「教えてあげられなかったのは申し訳なかったと思ってるよ。でも、どうやって教えたらいいんだい? 人間界にこんにちはしてアヤ君に届けてあげれば良かったかな?」
「そ、それは……」
今度はわたしが言葉に詰まる番だった。わたしはすごすごと水筒を持った腕を下ろし、頭を下げる。
「ごめんなさい。今のは完全にわたしの八つ当たりです」
「いいよ。ボクは懐が広いからね」
リンは胸を張ってから、一転してわたしを心配そうにみつめる。
「お母さんとは、仲直りできたかい?」
「ううん。今から帰るとこ。覚悟は決めたし……ってことで、今日は図書館来れないかな。その分明日報告するよ」
「そっか……うん、それは良かった。アヤ君」
リンは目を柔らかく細めて、微笑む。
「頑張ってね」
「もちろん。こんなに応援してもらって、頑張らない理由がないよ」
本当に、わたしは幸せ者だ。こんなに優しい人たちに囲まれて。その優しさを無下にするわけにいかない。
わたしはリンにも手を振って、家に帰るために本を開いた。
人間界に戻ると、辺りはもうすっかり暗くなっていた。
群青色の空には星がちらちらと輝きはじめ、茜色が何とか西の端っこでとどまっている。そんなグラデーションに、わたしは笑みをこぼして。
「さーて、帰りますか」
そう呟いてのびをして、そこでようやく異変に気づいた。
――――やけに、辺りが静かだ。
もうそろそろ本編突入です