第一章 5 親子喧嘩、勃発
それは、翌日の朝のことだった。
珍しく目覚まし通りに起床したわたしは、ここぞとばかりに、いつもはダラダラと済ませている朝の支度を全力で終わらせた。うちの両親が驚く程である。
何故、時間があるのに支度を早く済ませたのか。それは、あまった三十分弱の時間を読書に費やすためである。
「っしゃあ、三十分余り! 貰ったあ!」
時計を見て渾身のガッツポーズ。すぐさま自分の部屋に駆け込み、本棚の本をじっと見つめる。
「どれにしよっかな……」
途中、慣れ親しんだタイトルの児童書の前を指が通過する。一瞬ちくりと胸に痛みが走ったのを無視して、結局、まだ読み込めていないミステリ小説を手に取った。
またリビングに降りて、ソファに座って本を開く。お父さんが家を出ていくのを音で感じながらページを捲っていると、
「彩」
お母さんの声が降って来た。本から顔を上げると、お母さんが立った状態でわたしを見下ろしている。
あ、これ何か言われるな。
もう十五年の付き合いだ。これだけでもう状況は察してしまう。よろしくない感じのやつだ。
「何?」
あえていつも通りの口調で聞くと、お母さんは眉間に皺を寄せた。
「そうやって本読んでるなら、お父さんの見送りでもしてあげたらどうなの。暇なんでしょ」
「暇じゃないよ。ちょうど今証拠が出揃って真相に近づいたところで……」
「そうじゃない。彩はそうやってすぐに話をはぐらかそうとする」
お母さんは呆れたようにため息をつく。
「大体、気が抜けてるんじゃない? 高校に受かったのはいいことだけど、それで気を抜いていいってわけじゃないからね。陽向君も玲くんも杏奈ちゃんも、みんなちゃんと勉強は続けてるみたいだよ」
「それはすごい。わたし持久戦向いてないんだよね。定期テスト前の一週間くらいならまだいけるんだけど、受験みたいに何か月間もってなると……。わたし、受験という名の持久走でへとへとなんだよ。今はゆっくり歩いて心拍数を下げていかないと」
「真面目に聞いてるの!?」
怒鳴られた。ただ、流石に今のは自分が悪いことはわかる。素直に「ごめん」と謝ったけど、結局お母さんの怒りを鎮めるのには値しなかったらしい。それどころか、さらに腹を立てたようだった。
「そうやって人の話を真面目に聞いてないと、将来どうしようもない人間になるよ。それでいいの?」
「だめです」
「なら聞きなさい。まず、あんたに目標はあるの?」
「ないです」
「でしょ? 目標を決めなさいよ。高校だって全然決まらなかったんだから。目標もなくダラダラ生きるのとでは全然違うと思うよ」
お母さんはヒートアップしてきて、そうまくしたてる。わたしはばれないように本に栞を挟み、そっと隣に置いて――。
「ずっと杏奈ちゃんたちに頼り切ってちゃ駄目だし、もっと頑張りなさいよ」
お母さんの最後の一言。それに、ぷつんと堪忍袋の緒のようなものが切れた。ほとんど無意識で立ち上がってお母さんと向かい合う。
「わたしだって頑張ったよ。高校決まらなかったって言うけど、お母さんやお父さんが行かせたがってた高校にも受かったし。毎日神経すり減らす勢いで勉強して、それでもまだ足りないって言うの? 頑張ってないって思うの?」
息を吸って、吐き出して。優雅な読書の時間になるはずだったのにな、なんて考えてから、また息を吸った。
「わたしに高望みしすぎじゃない? もう十五年にもなるよね。それくらいわかってよ。わたしに言わせないでよ」
「彩」
「要するに、わたしは目標もなしにダラダラ生きて友達に頼り切るようなダメ人間ってことだ。ひどいなあ。わたし、頑張ったんだけどなあ」
「違う。そういうことじゃなくて」
「そういうことでしょ」
まだ身長はお母さんに届かない。だから、こうして向かい合って立っていても見上げるような形になるのが悔しかった。
「頑張っても母上の理想には届かない不出来な娘ですいませんね。申し訳ありませんでした」
そう吐き捨てて、お母さんの横をすり抜ける。もう時間だ。足元に置いてあったスリーウェイバッグを掴み、勢い任せに背負う。荷物の重みが勢いとともに背中に乗ったところで、わたしは無言で玄関に向かった。
頼り切るのはダメだってわかってる。それに、今はそんなに頼ってるわけじゃない。わたしだって、自分の考えを持って動いてるんだ。もう間違えないって決めてるんだ。それなのに……。
わたしを追いかけてくる足音が聞こえる。わたしは玄関のドアに手をかけて呟いた。
「わたしのこと、何も知らないくせに。大っ嫌い」
力任せにドアを開け、外に出た。
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「――ってなことがあったんですよ」
そこまで話し終え、わたしは大きく息を吐いた。持参した水筒の蓋を開け、ぬるいお茶を喉に流し込む。長話したからか知らないけど、なんだか喉が渇いていた。
自習の時間、今朝の出来事にモヤモヤして集中できなくなった、教室を抜け出して妖精図書館に来ていた。そして、リンにそのモヤモヤを吐露。
音を立てて水筒をテーブルに置くと、リンは「わあ」と小さく肩を跳ねさせた。
「こんなことリンに話してもどうしようもないって知ってるよ? でも、ちょっと聞き役に回ってほしくて」
「うーん……。まあ、君くらいの年になると色々あるんだろうけど」
リンは小さな手を顎に当て、難しそうに考え込む。妖精に家族の相談とか、なかなか妙な話だよね。相談しといてすごい無責任だってのはわかってるけど。
「やっぱり、ボクは早く仲直りするべきだと思うよ」
リンの瞳には、眼鏡越しでも伝わるほどの切実な光が宿っている。わたしは思わず息を詰まらせ、「わかってる」と呟いた。それは誰がどう聞いても、子供の言い訳にしか聞こえなくて。
ほんの少し口元を緩めるリンに、わたしは姿勢を正して向かい合う。
「そうだなあ。ハッキリ言うと、アヤ君にもお母さんにも、どっちにも非はあるんだろうね。きっとどっちも悪い」
「うん」
「お母さんもわかっているはずだ。だから、あとはお互いにそこを認め合うだけだよ」
「おおう、難しいこと言うなあ……」
それが出来ないのが、思春期真っ盛りの中学生なわけで。
今まで特に反抗期もなく生きてきたけど、やっぱり抵抗はある。それを乗り越えてこそ大人なんだぞ、とカッコつけた理性の自分が囁いて、いやいやそんなこと嫌だろうと感情も訴えてくる。まるで天使と悪魔だ。
二つのせめぎ合いに頭を抱えていると、リンがわたしを覗き込んできた。その表情は、なんだかこっちをからかうようで。
「アヤ君は、お母さんが好きかい?」
「うぇー? また答えづらいことを……」
「じゃあ、お母さんは君を大切にしていると思うかい?」
やたら恥ずかしい質問に、わたしはうつむきがちになりながら考える。
ああ、うん。大切に……ね。ダメ人間だとかそんなニュアンスのことを言われたけど、多分大切にはしてくれてる、かな。うん……うん。
「多分。心当たりは……ないことはないし」
「心当たり?」
「んー。昔、なんか妙なことがあったんだけどさ。その時にすごい心配してくれたっていうか」
その時の話は、長くなるしあんまり知らないから省くけど。
何を話すべきか悩んで口ごもっていると、リンに「アヤ君」と名前を呼ばれた。顔を上げると、リンがなんだか諦めたような笑みを浮かべていた。
「本当は、ボクがこんなことを言う資格なんてないんだけどね……。でも、お願いだよアヤ君。どうか仲直りしてくれないかな」
場違いなほどに真剣なリンの声色に、わたしが驚いてしまう。
だけど……まあ、そっか。ずっと意地張ってるよりも良い気がする。妖精のアドバイスだ。胸に刻みつけておこう。
わたしは笑顔を浮かべ、少し顎を引く。
「頑張ってみるよ。スッキリした。ありがとね、リン」
「ううん。お役に立てたのなら何よりだよ」
「いい人……じゃない、妖精だね、リンは。不真面目な生徒は教室に帰るとしますよ」
わたしは立ち上がり、本を開く。お腹が痛いと言って抜け出してきたけど、どうせサボりってことくらいバレてるだろう。特に幼馴染たちには。
そんなことを考えながら、わたしはふと顔を上げる。
転移の直前に視界に映りこんだ妖精の姿。その表情は曇り、陰りの色が浮かんでいて。
ここ数日、ほんの一瞬だけ見せる哀し気な表情によく似ていて。
嵐の前兆のような、そんなものを感じたのだった。