第一章 17 竜と少女
「竜……って」
最近聞いたばかりだ。わたしは脳裏によぎったある名前を口に出す。
「まさか、クロス?」
「クロスじゃない。書物に記されている奴はもっと巨大なはずだ。ただ、竜であることは間違いないよ」
「竜ってクロス以外にもいるの……?」
「もちろん。そもそも竜は空の守護者の使いだからね。虚空の生き残りの末代がいてもおかしくはない。前から目撃情報もあったし」
リンは眼鏡をはずし、レンズについた水滴を拭う。
どうしてその竜がここで暴れているのか、そんなことを悠長に考えていたわたしは、ふとあることに気付いた。
「リン。竜、近づいてきてない?」
さっきまでは聞こえなかった、バタバタと恐らく翼をはためかせる音までもが聞こえてくるようになっている。木が燃えている匂いは強くなり、バキバキと枝か何かが折れる音もする。どうして気づくのが遅れたのか謎に思うまでの明確な変化に、リンは顔を青くした。
「まずい。アヤ君、探索は今度だ。今はとにかく妖精図書館に帰ろう」
「うん、そう―――」
だね、と続けられなかったのは意味がある。
わたしが返事をしようとしたその瞬間、誰かの声が聞こえたからだ。動物の鳴き声ではない、もっと人間的な――。
「――、て!」
言葉だ。不明瞭なのには変わらないけど、それだけは断言できる。
わたしは竜の方を見る。時折聞こえてくる、何かを切り裂くような音。それは火を吐く竜の仕業とは思えず、さっきの声の主が抵抗しているというのが推論だ。
「アヤ君、どうしたの!? 竜たちが近づいてきている! もうそろそろ戻らないと危ない!」
リンの必死の呼びかけを背中に受けながらも、わたしは振り返らない。数歩踏み出して「『風魔』」と唱える。視界を遮っていた葉っぱが切り落とされ、だいぶ遠くが見えるようになる。そして。
「――あ」
ようやく、その人の姿を捉えることが出来た。
わたしと同じくらいの年の女の子だ。こっちへ走ってきながら、容赦なく降り注ぐ火炎を躱している。ただその表情は苦し気に歪んでいて、もう長くは持たないだろう。
そう感じたその瞬間、少女の体が爆風に吹き飛ばされた。だいぶこっちの方へ飛ばされ、わたしの視界から外れる。わたしは続けて「『風魔』」と唱えた。さらに広い範囲の葉が風に落とされる。
「アヤ君!」
少女は、木の幹に強く体を打ち付けてその場にずるりと落ちた。肩より少し上の長さの髪が流れてその表情を隠し、意識があるのかも不明にする。
雨の中、傷ついて倒れている少女。
その光景をただ無言でみつめていたわたしの脳裏に、ある記憶が蘇った。
――騙してたんだね。彩の、弱虫。
「だめだ」
わたしは一歩踏み出した。
「アヤ君?」
「だめだよ。また、足を止めるの」
「アヤ君!」
リンの声が遠くに聞こえる。わたしは強く手を握って答えた。
「ごめん。わたし、ちょっと行ってくるから。リンは先に帰ってて」
「そんなこと――」
「ごめん」
わたしは駆け出した。足元や視界を阻むような枝、葉、草はすべて『風魔』で切り落として、あの子の傍へ向かう。もちろんそこへ向かうのはわたし一人じゃない。竜と人間、どっちが先に辿りつくかの勝負だ。
「『風魔』。風魔、風魔……っ!」
とにかく風を巻き起こして追い風、もう周りの被害なんて気にしない。犠牲になる木の葉たちには申し訳ない。
背筋が凍るようなおぞましい鳴き声がした。確認するまでもない。竜だ。
その姿を見たら足が動かなくなってしまいそうで怖くて、恐怖に体中を震わせながらそれでも走る。
頬に熱風を感じた。すぐ横を通り抜けてきた木が竜の炎を受け、その体を木炭に変えていく。
大丈夫。大丈夫。あと少し……!
少女まであと十メートルほどのところまで距離を詰め、わたしは強く歯を噛んだ。
「いっ……け!」
わたしは地面を思い切り蹴りつけて前方に跳躍。倒れこんでいる少女の隣に頭から撃墜し、痛みの前に体を起こす。そこで、どうして今まで竜がわたしやこの子に直接的な攻撃をしなかったのか理解した。
「なるほど、な……」
ちょうどわたし達を取り囲むように炎が燃え広がっている。あらかじめ逃げ道を潰しておいたってわけだ。竜がなんなのかよくわからないけど、小賢しいことしやがる。
これ見よがしにゆっくりと接近してくる竜を睨んでいた時、小さく声が聞こえた。少女が目を開き、わたしを見ている。
「え……どうして」
五匹ほどの竜がわたし達の前に降り、大口を開ける。火で炙り殺してやろうって魂胆か。でも……なんとか、一瞬くらいは!
わたしは笑って少女に手を差し出す。
「ほら、掴まって」
少女の手は宙で彷徨っている。わたしは竜に向き直って叫んだ。渾身の力で、全身全霊で。
「風魔さん力貸して! 『風魔』っっ!!」
辺りに風を巻き起こし、炎が燃え広がる方向を少し逸らす。それから今まで切り落としてきた草木を風の力で舞い上げ、バリケードのように目の前に広げる。
一瞬だけ、竜に困惑のようなものが見えた気がした。それと同時に少女の手がわたしの手をゆっくりと握る。確かめるように強く握り返して、今まで律儀についてきてくれていた妖精に向かって叫ぶ。
「リン!」
「『此の術は過去と未来をも結び、希望をもたらす。星よ、いつまでも輝き続けろ。我らが世界をとくと見よ。そして叫べ。転移!』」
その隙をついて、リンが早口で詠唱する。それでも、いつまでも困惑してくれる竜じゃない。すぐに炎を吐き出し、向かってきた炎はわたし達に――
――直撃する前に、わたし達は妖精図書館に帰還した。
「はあああ、死ぬかと思ったよ……」
今にも死にそうな顔をして墜落したのはリンだ。床にぶっ倒れているその姿に、わたしは手を離してその場に平身低頭。
「本っ当に申し訳ございませんでした!」
「本当だよ! 突然足を止めてどうしたのかと……。まあ、アヤ君のイメージを裏切らない行動だったけどね」
「……そう?」
実際のわたしの行動原理としてはかなり裏切っていると思う。本来のわたしは、見ず知らずの他人を助けるために死地に飛び込むほどヒーローじみてはいない。今回は、少し……。
「――あの」
やり切った感を醸し出しているわたし達に、控えめに声をかけてきたのは強制連行してきた少女だ。驚きを隠せずに、その大きな瞳を揺らがせながらわたし達を見ている。
「あの、どうして私を?」
そう尋ねる少女には、いくつもの痛々しい傷がある。わたしはビシッと立ち上がってリンを見下ろした。
「って、まずは治癒だよ! リン、手分けして治そう! わたしは軽い方治すから」
「アヤ君に出来るかな?」
「出来るよ……さっき風魔だって使えたし」
さっきとは打って変わって緊張感のない会話を繰り広げながら、わたしは少女を床に座らせる。そして「失礼します」と断りを入れてから、その肩にそっと触れた。
「『治癒』」
リンも同じように治癒を始める。少女は何が始まるのかと身構えていたようだったけど、すぐに大きく目を見開いた。
「これ、能力……?」
「ばれちゃあ仕方ない。わたし達は能力者だよ。あなたもだよね?」
「……はい。見ていたんですか?」
だいぶ傷も癒えてきた。わたしが頷くと、少女は「そうですか」とため息を吐いた。
「――と、これで大体治ったかな。君、どう? 体に異常とかない?」
リンの呟きと同時に、わたしは手を離す。少女は自分の体を見回し、動かし、驚きに小さく口を開けた。
「こんな力が……。はい、どこも悪くありません」
「良かったー。もし間に合わなかったらどうしようと」
「いえ。あなた方は私の命の恩人です。ありがとうございました」
少女は綺麗に礼をする。
少し緑がかった髪は肩ほどまでのボブで、目はぱっちりと大きい。手足もすらりと長くていわゆる美少女ってやつだ。ここに来てまで格差を思い知らされる。
わたしは少女に向かって手を振りながら「いやいや」と答えた。
「わたしはなんにもしてないからね。正直、こうしていられるのってリンの転移のおかげだし。わたしも覚えたいな、あれ。なんだっけ、星がどうちゃらとかなんちゃらとか……我らが世界をとくと見よ。転移! くらいは覚えてるんだけど」
我らが世界をとくと見よ。うん、かっこいいよね。
「転移はさておき、これで治癒も完了したし、獣人界に送り届けるよ。リンが。まあ送り届ける先は、城下町に――」
そこまで言って、わたしはハッとした。
どこからどう見ても、目の前の少女が獣人には見えなかったからだ。獣耳もないし、尻尾もない。そして顔立ちも違う。
言葉を失うわたしに、少女は少し困ったように微笑んで。
「うん、そうなるのが正解よね。その通りで、私は獣人ではありません。帰る場所も今となっては」
首を横に振ってから、少女は唇をきゅっと引き結んだ。わたしとリンをじっと見つめて、何かを飲み込むように小さく喉を鳴らす。
それから、微かに声を震わせて言った。
「厚かましいのはわかっています。でも、どうか、私をここに置いてくれませんか」
数秒間の沈黙。わたしがリンを見ると、同じようにリンもわたしを見ていた。
「そりゃ、ボクは全然構わないけど」
「リンがいいならわたしもいいよ。わたしに選択権ないし、そもそも突っ走ったのわたしだし」
「じゃあ決定かな?」
「……え、ちょっと待ってください。そんなに簡単に決めていいんですか!?」
わたしとリンのあっさりとした会話に、逆に少女が焦ったように聞いてくる。そんな顔されても、ねえ?
「いいよ。というか、ボクたちの方が君に聞きたいくらいなんだ。ボクたちは極めて穏健派なんだけど、いろいろ事情があって、もしかしたら指名手配とかされてるかもしれなくてね。そんな二人だし、これから手伝いもしてもらうかもしれないけど大丈夫かなって」
リンが補足で説明をする。
よくよく考えてみれば、わたし達はそういう危ない立場。もしこの子が帰って目撃情報を伝えたりしたら、それこそ余計にまずいことになる。この子がここに住んでくれるっていうならそんな心配もしなくて済むし、こっちとしても安心できるかもしれない。
「私も能力者ですし、そんなことはまったく。手伝えることなら何でもします」
きっぱりと首を振った少女に、リンは今度こそ「決定だね」と微笑む。わたしも「いえーい」と拍手し、少女も少し笑った。初めて見る、本物の笑顔のような気がした。
少女は立ち上がってもう一度深くお辞儀をした。
「私はナオ。これからよろしくお願いします」
――こうして、予期せぬタイミング、驚きのスピードで、新たな仲間が加わった。まだ仲間と断言していいのかはわからないけど、とにかく、誰も予想だにしていなかったであろう出来事だった。