第一章 11 異世界生活への準備
わたしはリンの手を離すと、「そういえば」とずっと気になっていたことを聞く。
「わたしがここに来てから、何日くらい経った?」
「んー、三日くらいかな」
「三日ぁ!?」
思っていたより時間が経っていた!
衝撃の事実に口を開けたまま硬直するわたし。リンは眉根を下げて、わたしを心配するような表情になる。
「気づかないのも仕方ないさ。焦っても何が変わるわけでもないし、アヤ君のペースで進んでいけばいい」
「わたしのペースはカタツムリ並みなんだよ。だからちょっとは焦らないとヤバい」
そこは流石に自覚している。わたしは意味もなく辺りをうろつき、それからリンに向き直る。
「で、わたしはさっきまで使わせてもらってた部屋を継続して使わせてもらっちゃっていいのかな?」
「いいよー。あ、そうだ。伝えておかないとね。人間界のこと」
人間界、という言葉にびくりと反応してしまう。自分の情けなさに呆れながら、わたしは喝を入れて姿勢を正した。リンは悩まし気に腕を組む。
「今、人間界は危ない状況だと思われる。だから、迂闊に行かないほうがいいかな」
「そっか。早速だけど、人間界に行ってもいい?」
「話聞いてた!?」
見事にリンがのけぞる。大袈裟なリアクションに拍手をしていると、リンが焦ったようにわたしの前まで飛んできた。
「危ないって言ったよね? 行かない方が良いって言ったよね?」
「でも、生活用品がないんだもん」
「そんなのこっちで買えばいいじゃないか」
「こっち?」
首をひねるわたしに、リンは大きく頷く。
「そう。こっち――ひとまずは獣人界でいろいろ買えばいいよ。そこまで人間界と服の文化が違うわけじゃないしね。獣人界は魔法界に比べて技術が発達しているから」
んー……? なんか思い描いてた獣人のイメージと違うんだけど。
「獣人界ってどんなところなの? 狩りとかそういうのする感じ?」
「まさか。この百年くらいで急激に革命が起こってね。狩りの時代なんて考えられないくらいだよ」
余計にイメージがすれ違っていく。首を傾げすぎて体ごと傾いていくわたしに、リンは少し笑いながら。
「まあ、実際に自分の目で見た方が早いかな。ここにはアヤ君サイズの物もそんなにないし、買い出しも済ませた方がいいよね」
「そうしてくれるとありがたいんだけど、わたし無一文だよ?」
こっちの世界のお金が日本円ならまだいいけど、人間界でさえ何種類も通貨があるのに、そんな都合のいい話があるはずもない。しかもよくよく考えてみれば、この前散財したおかげで日本円でさえ心もとなかった。貯金という言葉から一番遠いところにいる、それがわたし吉田彩。
親指と人差し指でわっかをつくってゼロを示す。すると、リンはきょとんとして言った。
「もちろんボクが買うよ。今のアヤ君にお金を要求する妖精が一体どこにいるって言うんだい?」
あまりにも堂々と言い切ったので、わたしの方がたじろいでしまう。
「いや、でもそのお金はどこから……」
「ボクの貯金から。大丈夫だよ、ボク貯金得意だし、アヤ君を養うくらい心配しなくていい」
「すごいヒモ男になった気分」
状況を顧みれば仕方ないんだけど、なんか謎の罪悪感がある。たぶん、原因は相手が妖精ってところにあるんだろうな。妖精に養われる人間って何もフェアリー感がない。
唸りながら頭を悩ませた結果、わたしは一つの結論に辿りついた。
「よし、じゃあ出世払いってことにしよう!」
パチンと指を鳴らすわたしに、今度はリンが首を傾げた。
「出世払い?」
「そ。獣人界とか魔法界? に進出して、活躍して、人間界を停止させたラスボスを倒す。その手柄ってことで報酬をたんまり貰って、それでリンに恩返しする。どう?」
両腕を広げて演説する。我ながらアホみたいな案だと思う。だからまあ、実際には向こうでバイトみたいなのを探そうかなと思ってるけど……こういうのはノリが重要だ。自分を奮い立たせるためでもある。
リンは目をぱちぱちさせた後、ぷくっとふき出して。
「ふふっ、アヤ君ってば面白いね。それっていつの話になるんだい?」
「さあ? もしかしたら一か月後かもしれないし、半年後かもしれないし、十年後かもしれないし」
わたしは肩をすくめながら続ける。
「出来るだけ早く片付けたいところだけども……。ま、追加の目標もつけないとわたしが持たない気がするんだよ。正直なとこ言うとね」
「……そっか。うん、期待しておくよ。出世払いだっけ?」
「そうそう。彩にどーんと任せときなさいって」
どんと胸を叩いて宣言すると、リンは満足げに頷いた。わたしも頷き返し、きょろきょろと辺りを見回す。
「それで、今って何時? ホントに寝てると時間感覚が狂ってくるよね」
「まだ朝だよ。ほら」
リンが指さす先には、読めない文字盤。絶え間なく文字が変わっていく、なんだか見てるこっちが酔いそうなものだ。なるほど、あれが時計なのか。これじゃわたし何もわかんないな。
わからん、が顔に出ていたらしい。リンが文字盤とわたしを交互に見、しばらくそれをしてからポンと手を打った。
「アヤ君文字読めないか!」
「バリバリ読めないね。何もわかんないね」
「そりゃそうだよ。ボク何もしてないから」
そうですよね。わたしもこっちの言語を勉強した記憶が……って、あれ?
おかしなことに気付き、わたしは顎に手を当てた。
「こっちの言語を知らないのに、わたしはなぜリンと話ができるんだ? 話すのはいけるってこと?」
「ううん。ボクがアヤ君の言語を使ってるからだよ。日本語、だっけ?」
「マジかよお前日本語しゃべってんの!?」
納得だけど衝撃だよ! 日本語しゃべる妖精とかファンタジー感皆無だって。
驚愕するわたしに、リンはひらひらと手を振り。
「そういう魔法があってね。対象の物に何かを差し込む魔法なんだけど、それを使えば一発なんだよ。勉強をしなくてもいい。正直なところ、言葉を軽んじるようなことしたくないんだけど……緊急事態だから仕方ない」
「え、わたし達は何のために学校で英語を学んでたの」
「この魔法は、かけられた人への負担が大きいからね。脳に負担が行くし、第一に耐性の強さによって魔法が効くかどうかも変わる。結構難しいんだ」
さらりと説明するリン。でも、ここでさらに不安要素が増える。
「わたし、その魔法効くの?」
そう。わたしにその魔法が効かなかった場合、わたしはどうすればいいのだろうか。もちろん一から学ぶことになるだろう。ちょっとそれだけは勘弁してほしい。
「うーん……効くんじゃないかな? だってアヤ君だし」
リンは少しだけ思案して、それから特に何も考えていなさそうに答える。アヤ君だしってなんだよ。確かにわたしは催眠術とかかかりやすいタイプだけども。
そんなわたしの懸念など一ミリも気にかけていない様子で、リンはわたしの頭に手を置いた。
「よーし、今から魔法使うよ。『我、汝に言詞を授ける。新たなる知恵を受け入れたまえ』」
その瞬間、周りの景色が反転した。反転した景色は、ゆっくりと時間をかけてもとに戻っていく。声を出す余裕もなくただその様子をみつめていると、やがていつもの向きのリンの顔が飛び込んできた。
「アヤ君。どうだい? ボクの言葉わかる?」
「ああ、わかるよ。今までと同じくらい」
わたしが答えると、リンは「やっぱり」と顎に手を当てた。その少し深刻そうな表情には、いきなり魔法をかけられたこっちとしては不安にもなるわけで。
「いや……あの、どうした? わたし、なんにも不調ないからね? これって魔法は成功したの?」
至って何も変わらないと証明するように、わたしはとりあえずラジオ体操をしてみる。わたしに満足にできる運動はこれくらいしかなかった。
しかし、リンの表情はより一層険しくなる。
「うん……それは見たらわかるんだけど。ただ、浸透するのが早すぎるんだよ」
リンは自分の頭を指さす。
「ボクがこの魔法を使ったときしばらくは頭痛がしてね。アヤ君の国の言葉をしゃべることができるようになったのも、数時間後だった。でも、アヤ君は今ボクが話していることを理解できるんだろう?」
「何を言おうとしてるのかは理解できないけどね」
「魔法を使って一分経ったか経っていないかだよ。ボクに比べて早すぎる。それに『治癒』をしていたときも、やけに効きが良かったというか」
つまり、と前置きしてリンはわたしを見た。エメラルドの瞳には、好奇心のような感情が浮かんでいるように思えた。
「君の能力耐性は通常より低い。かなり低い。いや、かなりでも足りないくらいだ。ゼロに等しい」
「なに、今わたしはディスられたの?」
低いって連呼されると、いい気分はしないよね。低くていいことって何があるっけ。それに、聞き逃せない単語も聞こえてきた。
「能力耐性?」
「そのままの意味だよ。能力や魔法に対する耐性の値だ。君はそれが極端に低い」
「んー……でも、さっきのリンの話だと悪いことじゃなさそうじゃん。頭痛にならなくても良かったし、治癒も効いたんでしょ?」
頭痛に関しては事前情報がなかったから、突然激痛に見舞われなくてほっとするばかりだ。でも、リンは首を横に振る。
「確かに、良い面もある。でも、よく考えてみなよ? 能力はそういう穏やかなものだけじゃない。この前言った、火の海に出来るような危険なものもあるんだ」
……なるほど、話の展開が見えてきたぞ?
「それで?」
「能力耐性が高い人は火傷で済むかもしれない。でも、アヤ君の場合は……うん。大丈夫だよ。何か起きても、手遅れじゃなかったら治癒するから!」
「それ手遅れじゃない確率のほうが低いよ!?」
大した怪我じゃなければ、リンがいる限りわりとなんでも治る。しかし、ダメージは人一倍。うーん、なんとも危険度が高いな。
考え込むわたしに、リンがしょぼんとした顔で「ごめんね」と謝ってくる。
「ちょっと怯えさせちゃったかな」
「ちょっとどころじゃないけど、まあいいでしょう! それより今はまず買い出しだ獣人界だ! リン、連れてって!」
ブルーな気分を吹き飛ばすために、大声で返事する。リンは耳を手で塞いだ後、にやりと笑った。
「それじゃあ案内しようか。アヤ君の知らない、別世界に!」
落ち込んでばっかじゃいられない。今はとにかく前を向いて、新たな出会いに期待しよう。