第四章 1 遠い記憶と夢のハコ
「人って無理やりに変われるものじゃないと、私は思う」
わたしの目の前にいる少女は、伏し目がちに囁いた。さらりと黒髪が肩からこぼれ落ちる。
「変われないからその人はその人なのよ。変われないから私は私のまま。今の自分を脱したいと思っても、それはとても難しいことで、同時にとても辛いもので……私がこんなこと言う資格なんてないんだけれど」
少女はどこか遠い目をした。僅かに微笑んだような気がする。なんだか愛おしそうな微笑だった。
「あのままの私でも、愛してくれる人はちゃんといた。でも、私はそれを切り捨てて変わろうとしたから、今ここに独りでいるの。これはあくまで私の話。貴女ならずっと上手に変われるかもしれない。それでも覚えておいてほしい。ここにいる、私の存在を」
まっすぐな瞳に見つめられ、わたしはごくりと息を呑んだ。人形のように美しい顔立ち。本当にこの世のものではないのかもしれない、とぼんやり思った。
「わ、わたしは、変わりたい」
絞り出した声は、震えていた。わたしはぎゅっと手を握って伝える。今よりずっと小さい手。
「話は難しくてよくわかんないけど、それでも今のままは嫌だから……。どれだけ辛くても、それでもう友達を傷つけなくて済むなら、彩は変わりたいよ。強くなりたいよ」
「…………そう。それなら、私は貴女を応援する。ここからずっと、貴女のことを祈っているわ」
そう言って、少女は部屋の隅へ歩いていった。棚の扉を開け、そこから一本のリボンを手に取る。
「貴女に、このリボンを渡すわ」
戻ってきた少女は、わたしの手にそのリボンを握らせた。青空の色を写し取ったような、綺麗な青色。思わず見惚れてしまう。
「私と貴女を繋ぐもの。このリボンに、私の精いっぱいの想いを込めたわ。大丈夫。貴女はきっと、変わることが出来る。主人公になれるから」
はっ、と目を覚ました。部屋の天井。
懐かしい夢を見ていた気がする。さっきまで居たはずの空間が、話していたはずの相手が、声が、溶けるように記憶から消えていってしまう。残ったのは胸を痛ませる喪失感だけ。
さっきまで見ていた夢は、もう欠片も残さず記憶から消えていた。
目を閉じて息を吐き出したところで、わたしは自分が何かを握っていることに気づいた。右手を持ち上げて、顔の上まで持ってくる。
「リボン……?」
それは、いつもわたしが髪を結んでいるリボンだった。枕元に置いていたから、寝ている間に掴んでいたんだろう。わたしは体を起こす。
そういえば、このリボンは貰い物だったはずだ。昔……小3の頃に、誰かに貰った。その時からこのリボンを手放したことはない。ずっと一緒。
コンコン
「彩ー? もう朝だけど起きてる?」
そこで、ドアがノックされた。ドアの向こうからナオの声が聞こえてくる。わたしは「起きてるよー!」と返事をすると、ベッドから降りた。
今日もこのリボンで、いつもの吉田彩に変身する。
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「うん。手紙、ちゃんと受け取ったぞ。僕が父上に渡しておこう」
城の前。オーガが、わたし達の手紙をひらひらと振った。もう片方の腕では、わたし達が持ってきたお菓子の詰め合わせを抱えている。この前オーガが「庶民の味が知りたい」と言っていたから買ってきたのだ。
わたしはぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございます」
「父上もすまないと言っていたぞ。思っていたより忙しくなってしまったようだ。父上は国王だから、無職のお前たちとは違って自由な時間が少ない」
「わかってますよ。手紙だけでも読んでいただけるのならありがたいです」
ライオネルと直接会えなくなってしまったので、わたし達は手紙を出すことにした。内容は主に三つ。
一つ目は研究所のこと。わたし達が見た限り、研究所はかなりぐちゃぐちゃな状態になっていたけど、もしかしたらクロスに有利なものが隠されているかもしれない。だから、厳重に管理してほしいという要望。
二つ目は、能力者たちのこと。ルーナやミィの話によると、戻ってきた能力者たちに対する風当たりは強いままだという。今はクロスのことで混乱に陥っているし、むやみに関わりたくないという気持ちが働いているからか、ミィはまだ直接的な攻撃を受けてはいないみたいだけど、時間の問題だろう。
もちろん能力者にも普通に生きる権利はあるし、クロスと戦うとき、間違いなくほかの能力者たちの力が必要になる。その時のためにも、能力者たちのフォローをお願いしたいということを書いた。
三つめは、わたし達のこと。人間界を取り戻すためにクロスを倒そうとしていることを書くことにした。獣人界もクロスに狙われているので、もしよければ共闘しませんか、なんて内容だ。詳しいことは直接話そうと思って、手短にまとめてある。
「オーガ様、二人にお渡しするものがありませんでしたか」
今までずっと黙ってわたし達を見ていたオーガの従者が、オーガにそう声をかけた。オーガはハッとした顔をして手を打つ。
「そうだ、お前たちに渡すものがあったんだった。優秀な僕じゃなかったら忘れるところだったな。おい、お前アレを持ってるか?」
「はい。こちらです」
「よし、優秀だ」
差し出された包みを受け取ったオーガは、満足そうに胸を張った。それから、ずいとわたし達の方へ包みを突き出してくる。
「これは?」
「開けてみろ。驚くぞ。絶対に驚くぞー」
なんだろう。オーガが見るからにワクワクしてる。
わたしはナオと顔を見合わせると、包みを開けた。
中にはルービックキューブくらいの大きさの箱が一つ。驚くぞって言われたから金塊とかが入ってるのかと期待したけど、報酬は既に貰ってるし、そもそもそこまでの重さじゃなかったよね。
リアクションに困るわたしの隣で、ナオがあっと声を上げた。
「これ、もしかして通信できる機械ですか? 以前オーガ王子とお話しした」
「正解だ! 父上が、これを渡しておきなさいって。これがあったらいつでもお前たちを呼びつけることが出来るだろう?」
「あー、なるほど……」
確かに言われてみれば、あの機械をぎゅっと小さくした形だ。確かにライオネル王と連絡手段があるのが便利すぎる。魔法使いたちは伝達魔法でどうにかなったりするけど、獣人界だと使えないからなあ。
「ありがとうございます! 大事に使いますね」
「壊したら承知しないからな。それ高いんだからな。あ、それと僕も時々かけるかもしれないから頼むぞ」
「わかりました」
ナオが箱を丁寧に包みに戻し、わたしにリュックの中に入れる。オーガは「こんなものだな」と腕を組むと、わたし達を見た。
「お前たち、これからどうするんだ? 暇なのか?」
「全然暇じゃないですよ。やることは山のようにあります。てっぺんが見えないくらいに」
誇張でもなんでもなく、これは本当のことだ。山積みの課題から、一つずつ切り崩していかないといけない。はあ、とわたしはため息を吐いた。
「ひとまずは魔法界に行きたいと思っています。実は以前、洗脳を解く手がかりを得るために、魔法界に行っていたんです。出来れば魔法界の人の協力も得たいので」
「魔法界か。僕はそんな恐ろしいところ怖くていけないな。わけのわからない力で溢れている世界なんて、想像もつかない」
オーガが両腕を抱えてぶるりと身震いした。その様子は、能力を恐れている大勢の人と変わらない。
わたしはずっと不思議に思っていたことを口にした。
「わたし達のことは、怖くないですか?」
従者が隣で睨みを利かせていても、オーガの態度はまったく変わらない。オーガはわたしの質問に「ん?」と首を傾げたのち、何ともなさそうに答えた。
「お菓子を持ってくるしもべを、どうして恐れないといけないんだ?」
そして、オーガは躊躇いなくクッキーの包装紙を破いて口の中に放り込んだ。