4-6 魔王と迷走の着地点
僕は、ジョヴァンニ先生の言っていたことや、院長先生の言っていたことを思い出して考えた。
奥さんがママに体を貸すってことは、奥さんは自分の時間も失うってことだ。奥さんは院長先生の奥さんで、自分の生活もあるのに、それでいいのかな。
疑問に思ったから、僕はそれを院長先生に尋ねた。
「奥さんは、それはいいの?」
「俺もそれはどうかと言ったけど、あいつはそれがいいって」
「奥さんがいいなら、僕は嬉しいけど、院長先生はいいの?」
「よくはねぇけど、打開策は一応考えてる」
「打開策?」
「ロバートの能力が発達すれば、恐らくミナの分身を作れる。もしかしたら、ロバートの能力だけでエリスを取り戻せるかもしれない。ロバートの能力は本当に万能なんだよ。ただ、ロバートの努力次第ってことになるけどな。ロバートが能力を発達させるまで、待てないだろ。お前もロバートも」
「うん……」
そっか。僕らのために、奥さんが頑張ってくれるんだ。僕とパパが未熟だから。うぅ、本当に申し訳ないやら有難いやら、僕は小さく縮こまった。
「それにしても、ママのために体を貸してあげるって、奥さんは寛大だね」
「既に北都がいるからな、本人は慣れてんだろ。それにあいつは天性の偽善者なんだよ」
ジョヴァンニ先生が口を挟んだ。
「確かになぁ、ミナっていい子ちゃんだよな。だから、あの≪・・≫伯爵でさえ父性に目覚めたし、アンジェロも昔に比べたら相当丸くなった」
「……俺はともかく、伯爵は予想外だった。あの、ゲーム感覚で人殺しする化け物の中の化け物が、弟子溺愛してんだからな。お陰で俺は何度殺されそうになったか……」
「あはは、あの頃のアンジェロは完全にヘタレてたね。あはは」
「伯爵って?」
「ミナのボスだよ。ヴィンセント・ドラクレスティ」
「そんなに怖い人なの?」
「怖いなんてもんじゃねぇよ」
「ホント、俺は初めて会った瞬間、コレ死ぬわって死を覚悟したもん」
「500年位前の文献にも載ってるんだ、伯爵がどんだけヤベェ男なのか」
串刺しの森にて
この時我々は布陣を終えて、オスマントルコ軍を迎え撃っていた。剣劇と馬蹄の音にまみれながら、私は馬上から指揮を執っていた。突然、おびただしい数の蝙蝠が、戦乱の真っただ中に乱入した。我々は闘いをそっちのけにして、蝙蝠から逃げ惑った。そうしてできた輪の中には、一人の男が佇んでいた。
その男は、赤い外套に身を包み、黒髪を熱風に靡かせていた。緑眼が赤く輝き、おぞましいほどの美しさをしたその顔が、愉悦に歪んだのが見えた。
我々は驚嘆して、その男を見ていた。おもむろに、その男が地面に手をつくと、地面から突然石の槍が突出した。石の槍に突き上げられた、私の兵、敵の兵。上空まで突き上げられて、槍から逃れようとのたうつ者、既に絶命しているもの、びくびくと痙攣する者。全ての者が槍に貫かれ、槍を赤く染めた血液が地面に流れ落ちる。
広い平原を兵たちが埋め尽くしていた、その景色を男は一瞬で串刺しの森に変えてしまったのだ。
槍から逃れた私だったが、馬が恐れて暴れだし、私は落馬した。幾人か私のように免れた者もいたが、その全てが恐怖で足がすくんでいた。
私はこの時、20年前に処刑されたはずの、ある亡国の王を思い浮かべていた。串刺し王と呼ばれた、狂気の王。龍の名を冠していたこともあり、魔王とも呼ばれていた。
だが、あの王は既に死んでいる。それに、この男の所業は、もはや人間のそれではない。絶え間ない微笑。この男には、目的などない。本来、殺人や戦争というのは、目的を達成するための手段だ。だというのに、この男の目的が、殺人そのものなのだ。ただ、殺しを愉しんでいる。
その男は、一本の槍に近づくと、ニヤニヤと薄気味悪い笑いを浮かべながら、槍を伝う血液に、舌を這わせた。槍を伝う血液を、その男は実に美味そうに舐めとるのだ。
私は恐怖のあまり、指揮官という立場を忘れて、一目散にその場から逃げ出した。岩場に隠れて様子を見守っていると、その男は槍を免れた人間たちを、捕まえては食い千切っていた。それはそれは、愉快そうに笑って。それはまさに、阿鼻叫喚の地獄。
恐怖で心臓が早鐘を撃っていた。喉が乾いて、体中が水分を求めているのに、冷や汗がとめどなく流れた。
ついに動いている人間はいなくなった。私の軍勢が2万、オスマントルコ軍が5万もの兵を用意していたというのに、その全てが死亡したのだ。
地面にたまった血だまりが、男に向かって集まり、男の体を這いあがって、赤い外套ををより一層赤く染め、男に吸収されていた。
気づくと、戦場に男の姿はなかった。私は安堵のあまり失禁して、わぁわぁと泣き喚いてその場に座り込んでいた。
だが、私の頭上から声が聞こえた。その声は、戦場には似つかわしくないほど、オペラ歌手のような美声をしていた。
「お前は生かしてやろう。泣きわめいて尿を垂れるとは、豚のように哀れなやつ。その無様な姿で生きろ」
そうして、男は蝙蝠とともに消えた。豚のような私は、突然現れた災厄、いや、あの魔王に、なすすべもなかった。
残されたのは、唯一生き残り、豚のように震える私と、串刺しの森だけだった。
僕はこの話を聞いて、背筋がぞっとして両腕が粟立った。ブルブル震える僕に、院長先生がピラピラと手を振った。
「つっても、今は旅行中でいないし、伯爵は基本的に他人に関心がないから、妙な事しなきゃ殺されはしない。伯爵が帰ってきたら、ミナに媚を売るのを忘れるなよ。ミナに可愛がられてるうちは、伯爵に殺されることはねぇから」
「経験者は語る」
「うるせぇ」
とりあえず怖い人がいないということで、僕は一先ず安心した。ていうか、そんな怖い人が奥さんを可愛がっているなんて、ちょっとよくわかんない。そんな怖い人が可愛がるくらい、奥さんがいい人ってことなら、よくわかるけどね。
奥さんがいいというなら、僕には是非もない。素直に甘えさせてもらおう。だけど、パパと院長先生が奥さんを取り合うのは、多分パパが遠慮するべきだよね。これだけお世話になるんだもん。
「パパには僕からも言っておくよ。修行頑張って、自分でなんとかしてって。奥さんがママを食べた後の事なんて、その時に考えればいいんだよ。今はそれよりも、ママをどうやって取り戻すかが大事だもん」
僕がそう言うと院長先生は少し苦笑して、僕の頭を撫でた。
「お前、俺らよりしっかりしてるな。そうだな。先ずはエリスを取り戻すことを最優先に考えよう」
「うん」
先のことを考えて、色々心配事がでてきちゃうのが大人みたいだけど、僕はまだ子どもだから、そんなに先のことは考えられない。
今は、ママを取り戻すのが一番大事。次の会議はまた明日ということになって、僕もママをどうやって取り戻そうか、考えながらベッドに潜った。




