2-3 僕の学校生活 3時間目
僕たちは次の授業に移る。今度は音楽の授業。マチルダも合唱クラブに入ったし、最近アビーもやってきた事で学校全体の音楽熱が高まっているけれども、僕はかかわりのないことで、普通に音楽室に入る。
いつものように窓際の席に腰かけて授業開始のベルを待っていると、予想に反してピンポンパンポーンと鳴った。
「全校の皆さんにお知らせします。只今より、理事長先生の視察を開始します」
そのアナウンスが聞こえた瞬間、主に僕達孤児院の子ども達の背筋に悪寒が走って、ピシャリと背筋を伸ばす。
理事長先生というのは、院長先生のこと。一応院長先生の名誉のために言っておくけれど、彼は決して悪い先生じゃない。むしろ、すごく善良な先生だと思う。僕だけじゃなくて、この孤児院で生活する子ども達は、先生を恐れてもいるけれど、それ以上に敬愛している。彼を恐れているのは恐怖ではなく、畏敬の念なんだ。
でも、僕らがこれほど畏れるのは、院長先生が教育に関しては全く厳しい人だからだ。クラリスが言っていたんだけど、前回の視察の時にクラリスは3階のベランダでスカイダイブしていて、たまたまそれを院長先生に見つかってしまい、激おこされた上に多量の反省文を書かされたとのこと。
うん、一応わかってる。学校のベランダでスカイダイビング決め込むクラリスの方がおかしい事はわかってる。
でも院長先生のよくやる「反省文の刑」は、子供心にも中々クルものがある。よーく考えたら、自分がどれだけバカをやったか思い知る羽目になるからだ。まぁこの辺は院長先生の狙い通りなんだろうけどね。
そんなわけで僕らは戦々恐々としていたわけなんだけど、僕らと同等か、それ以上に緊張している女の子がいた。ピアノの前で深呼吸を繰り返して、何度も譜面を見直している。
彼女は英才コースの生徒で12歳の女の子でローズマリー・コスタ。院外の子で、ピアノの天才的な実力を買われてウチの学校にやってきた技能派天才の子だ。
彼女はその技能のために音楽の授業の時は時々伴奏で来てくれて、今日もその予定だったんだけど、まさか院長先生が視察に来るとは思わなかったらしい。何度も深呼吸を繰り返している。僕は彼女のそばに寄った。
「ローズマリー、大丈夫?」
「あ、ジョニーだっけ。うん、大丈夫」
「本当? 無理してない?」
「ええ、本当に大丈夫よ」
ローズマリーはそう言って笑うけど、その笑顔は引き攣っているし、顔色も青白い。僕は一抹の不安を抱えながら、とうとう先生がやってきて授業が始まった。
先生の指揮棒に合わせてローズマリーが伴奏を始める。素人の僕の耳にもわかるほど、ローズマリーのピアノの技能は卓越している。
旋律、音符の一つ一つが、まるでオーロラのように空間に広がるんだ。目に見えるわけじゃないけど、彼女の奏でる鍵盤の音に、僕たちは吸い寄せられる。
透視のできるカストが言っていた。彼女は音楽の魔術師だと。彼女の旋律は、音響だけでなく求心的な芳香と色彩を伴っていて、聞く人の心を虜にしてしまう魔力があると。
はっきりとはわからないけれど、カストの言葉の意味は分かる。ローズマリーの弾くピアノの音は、僕たちの心を宇宙へと誘う。
そう、ちょうど今弾いている、きらきら星変奏曲のように、軽やかに、まばゆい星へ。
「素晴らしい」
パチパチと拍手の音とともに、勝算が送られる。僕たちが振り向くと、ちょうど音楽室の入り口に院長先生が立っていて、ローズマリーのピアノへ拍手を送っていた。
ローズマリーはその瞬間委縮してしまって、ピタリとピアノを弾く指を止めてしまった。それに院長先生は苦笑して、壁にもたれかかって頷く。
「続けてくれ。君の旋律はまさしく天才的だ。天才的な耳を持つ俺が言うんだ、間違いない。さぁ、続けて」
院長先生の言葉にローズマリーは小さくうなずいて、再びきらきら星変奏曲を奏でる。だけどその音はどこか緊張をはらんでいて、つられて僕らの歌も固くなる。
「固いな。もしかして、俺のせいか?」
言うまでもなく院長先生のせいだけども、誰もそんなことは言えないので黙り込む。少しの間院長先生は腕組みをして考え込んで、少しすると電話をかけ始めた。そして5秒もしないうちに奥さんがひょっこりと顔を出した。
「やっほー! 理事長先生の奥さんだよー」
奥さんはそんな呑気なことを言って、クルクルとターンを決めて登場した。そして、奥さんは学院では結構なレアキャラだ。だから院長先生の奥さんに初対面の人の方が多い。それはローズマリーもそうだった。
奥さんは奥さんと言っても、見た目は僕には15歳くらいにしか見えない、超ロリ顔の東洋人で、しかもいつもニコニコしてちょっと天然なので、余計に幼く見える。「んぎゃっ」と言いつつ早速楽器にぶつかりながらやってきた奥さんに、ローズマリーの緊張は少し溶けたようだった。
「ローズちゃんのピアノ、私にも聞かせてほしいな。私、きらきら星変奏曲大好きなの!」
奥さんが笑顔でそう言って、それにつられたようにはにかむローズマリーは、すぐに鍵盤に指を置く。先ほどよりも肩の力は抜けて、リラックスした指が、軽やかに鍵盤の上を滑り始めた。彼女のピアノに合わせて、僕たちも歌い始める。
きらきら光る、お空の星よ。
瞬きしては、みんなを見てる。
きらきら光る、お空の星よ。
歌い切った僕たちに、院長先生と奥さんは割れんばかりの拍手。
「素敵! なんか、感動して、涙が……」
「なにも泣くことねぇだろ」
と言いつつ院長先生はポケットからハンカチをだして、奥さんの涙をぬぐう。それを見て僕たちはあてられてしまって、クスクスと笑いがこぼれた。
それに気づいた奥さんが、「すっごく素敵なコンサートだったよ。また聞かせてね!」と言って、院長先生と一緒に出ていった。
僕達はホッと息を吐いて、続きの授業を再開した。授業が終わった後、ローズマリーが心配になって傍に行った。
「緊張した?」
「うん、すっごく緊張した!」
「だよねぇ」
「うん。でもね」
続いた言葉にローズマリーを見ると、彼女は嬉しそうに微笑んでいた。
「奥さんみたいに純粋に喜んでくれると、私、本当にうれしい。もっと頑張って、世界一のピアニストにならなきゃ。それで奥さんにまた聞いてほしいな」
「いいね。僕も応援してるよ」
「ありがとう!」
そういって笑ったローズマリーは気合十分といった感じで、彼女が世界一と称されるのもそう遠くない未来のような気がした。
うーん、しかし院長先生のあの緊張感を一掃できるとは、さすが奥さん。只者じゃない。




