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――思えばマグリを見守る神は、いつだって、彼女に恩寵を与えようとはしないのだった。
無関心を装えば、その人を不幸にはしないだろうと考えていた。しかしひどく単純な所で、マグリは見落としていた。この世と言う物は常に一定の誰かが不利益を食うような仕組みになっていて、不幸は、その日常風景であった事を。
紫煙がくゆり、鼻腔を突く花薄荷の匂いが室内に立ち込めていた。南の砦で起きた領民の蜂起を自ら平定し、帰還から一夜明けたその日。その戦の為に賜った預言が戦勝を導いとして、ギギルドはマグリを呼びつけていた。彼は平生通りに台座に腰を据え、水煙草を嗜みながら剣の手入れをしていた。
「褒賞には水晶の首飾りを用意した」
侍従に差し出された象嵌の小箱には、大粒の首飾りが収められている。一瞥しただけで表情も変えず、深々と頭を垂れれば、ギギルドは声を低めて囁いた。
「お前には世話になっているものだが、与えた物は身に付けようとしないな。何故だ」
ゆるりと頭をもたげると、マグリは身を包む駱駝の皮衣を撫でた。二年前から出仕の際には必ず身に付けている品ではあるが、毛並みに衰えは無い。
「私にはこれがあれば十分。身に付けるよりは、大切に仕舞いこんで愛でたいというものですから」
正面からふうと煙を吹きかけられ、目を眇める。淡々と言い放ちはしたがギギルドは元よりその問いかけには関心が無かったようで、そうか、と答えただけだった。そして磨き抜いた剣を様々な角度から眺め、表面に映った己の顔を見つめてにやりと微笑む。その眼差しが再度向けられた時には、戦場での高揚でも思い出しでもしたのか、黄金の眸には鷹のように獰猛な光が爛々と点っていた。
「昨夜、不埒者が私の寝床に忍び入った。その場でひっ捕らえたが、其処でひとつ愉快なことが判明した」
びくりと肩を揺らし、マグリは顔を伏せる事も忘れまじまじとギギルドに見入った。世間話の一環のようではあったが、マグリは表面上平静を取り繕いながらも、内心は穏やかで無い。
(……きっと、ファイグだ)
神を裏切れるのならば、俺の元に来い。――その申し出に、ついぞ従う事は無かった。誰かに肩入れをすればその者を不幸にしてしまうマグリにとっては、最早孤独の預言者という立場だけが、安寧を保てる唯一だった。
だから、安心していた。ファイグは事を起こすと言っていたのに、自分が関わりさえしなければ安全であろうと信じ込んでいた。それが愚かな勘違いである事を一瞬にして思い知らされ、背に氷塊を落とされたようだ。眩暈がして、今すぐにでもその話を追求したかったが、懸命に唇を引き結んでその衝動を堪える。
「愚かな侵入者は、私の腹違いの弟だった。どうやってかは知らんが、四年前の動乱をうまく生き延びたようだな。その場でこの剣の露となって貰っても良かったが、これほど愉快な出来事もそう無いだろう。だから、とりあえずは牢に繋いだ」
乾き切った笑い声を立てるギギルドに、マグリは調子を合わす事も出来ず、ぎこちなく微笑むだけだった。さいわい、ファイグはまだ生きている。その事実を歓び切れないのは、この男の残虐な精神を知り尽くしているからだ。
そして冷たく凍て付いた、春のやわらかな陽の温もりなど一瞬で消し去ってしまう言葉は、続けられたのだった。
「私の治世が安定するために一役買って貰うつもりだ。……他にこのような悪巧みを思いつく者がいないように、見せしめとして。広場で磔にして、皮でも剥ぐか。死体は放って鳥にでも食わせるのがいい」
「……っ、」
零れ落ちかけた悲鳴を、奥歯を噛み締める事で留める。ずきんと痛んだ左胸を押さえて、そうですか、と応えを返す。
だらだらと唾液だけが分泌されて、それを上手に飲み込めなかった。限界まで押し開いた眸で虚空を眺めながら、どう会話を繋げるべきか、マグリは必死に頭を巡らせた。賛同してギギルドの治世の繁栄を祈れば良いのか。これが顔も知らぬ赤の他人であったならば、きっと、そうしていたはずだ。
(どうして…………)
ファイグはギギルドを暗殺する心算だったのだ。その無鉄砲な行いは、最初から彼が死を希っていたように思われた。
返し損ねた衣装はまだ洞窟に眠っていて、イルハマの衣装の横に掛けられている。それが視界の端をちらつく度に、自ら手放したよすがを思って、心はちくちくと棘で刺されたように痛んだ。
(どうにかして、助けられないのか)
こんな自分に接そうとする訳の分からない人間ではあったけれども、おそらくはそんなに悪い者では無くて。せめて、この都から逃がしてやるくらいの事は出来ないだろうか。そう、無意識に算段を練り始めた所で―。
(蜂、が)
ぶうううううん、と耳障りな翅音が、響いた。
光を薄く乱反射させながら、無数の透明な翅が視界を埋め尽くす。蜜蜂は止め処なく数を増やしながら、網の目のようにマグリの周囲を覆っていく。まるで昆虫によって篭がひとつ綾なされてゆくように。あるいはそれは、マグリを何処にも行かせぬ檻のように。
目に見えぬ何かが、どろどろとマグリの精神を押し退け、その小さな器の中に沈み込んでゆく。肉体の主導権を失い、只それを甘受するしかない状況の中で、マグリはひたすらに自分の行いを悔いた。――ただ、彼を救いたいと考えただけなのに。
マグリを見守る神は酷薄だった。少女の頭には決して恩寵を垂れず、それが異能を得た代償であるように振る舞い、血と争いばかりを好む。
(また、繰り返してしまうのか)
ゆらりと上体が持ち上がった。
絶望感がどうと胸の奥にまで迫った。マグリの脳裏を、二年前の記憶が繰り返し駆け巡る。
共に逃げようと言った父は処刑され、唯一の友人であったイルハマは失踪し。
(また、不幸にしてしまう)
臓物を食い千切られるような痛みが、骨の髄にまで響く。
(嫌だ。嫌だ、嫌だ……)
懸命に口を閉じようとしても、舌を噛み付けようとしても。『神』は平然として、その喉から声を搾り取る。
(――もうあんな思いは、したくないのに)
祈りは届かず、その眸から、滂沱と涙が流れ出しただけだった。涙は縷々と熱く滴るのに、嗚咽のひとつも零れない。表情筋のひとつも動かない。その心のせめぎ合いを嘲笑うかのように、それは彼女を嫣然と笑わせるだけなのだった。泣きながら、マグリは微笑まされるのだった。
「……ならば明朝、クフ川にその男を沈めよ。王の血を分けた者を大地に捧げれば、そなたの治世はより強固なものとなるだろう」
成程、とギギルドが愉快そうな笑みを深めた。するりと神の気配が遠のいて、マグリはがくりと床上に臥した。
情動がうねりながら込み上げて来る。押さえ付けていた嗚咽が止め処なく溢れ出すが、それを気に留める者は一人としていない。王は周囲の者に指示を出すと早々と台座を去った。喧騒が慌しくあたりを満たすようになっても、マグリは一歩も動けず、その場でひとり泣き続けるのだった。




