(3)
✵3
「お前、踊りは踊れるのか」
数日後、かの闖入者は何食わぬ顔をして、再びマグリの前に姿を現した。埃だらけの風が巌窟の周囲を吹き荒れるように、その出現はさながら春の嵐だった。ファイグは脇に女物の衣装を抱え、断りも無しに洞穴に足を踏み入れた。
手慰みに刺繍をしていた布から視線を外し、マグリは目を瞠った。声こそは確かにファイグの物であったが、姿はまるで見違えていた。
「……藪から棒に、いったい何の用だ」
動揺を悟られぬよう平然と答えた心算が、上手く取り繕えない。それくらい、男は見事な変貌を遂げていた。
先日は浮浪者同然の姿であったのに。丁寧に洗い梳った黒髪はゆるく波打って、首の後ろで束ねられていた。無精髭を奇麗に剃り身なりを整え、濃紺の長衣の上から稀有な雪豹の毛皮をまとう姿は随分と様になっている。そうすると、見惚れてしまう程の美男子だ。
「もう忘れたのか? 言っただろう、また来ると」
「まさか、私も反逆者の仲間にいれようという心積もりか。そういう勧誘ならはなから願い下げだ、私は忙しいんだ」
「だから。聞いただろう、踊りは踊れるかと」
不機嫌そうに目を眇めると、ファイグはマグリの目先にずいと抱えていた衣装を突き出した。
サフランで染めた見事な黄金の長衣は立派な孔雀の刺繍を施され、添えられた薄手の紗は透き通って見えた。なめした革の赤く艶めく帯に、同じく黄金に染めた靴。祭事の際にしか袖を通さないような上等な衣装を前に、マグリは眉を顰めた。
「そんなに踊りが不得意そうに見えるか。多少は踊れるぞ、多少は。……だから、いったい何の話だ」
「それはいい。今日は聖人祭だろう。それならお前も娘の輪の中で踊るのかと思って、衣装を持ってきた」
「……踊らないぞ。だいたい、こんな高そうな衣装、どこから持ち出してきたんだ。盗んだのか?」
渋い顔をして、マグリは貢物の衣装から顔を背ける。突然やって来たかと思えば妙な贈り物をするのだから、先日自分の命を狙っていた者と同一人物だとは到底思えない。一体どんな下心があるのかと思考を巡らせかけた所で、ファイグがどかりと正面に座り込んだ。
そして癖のある前髪をくしゃりと掻き上げると、彼は白い歯を見せて笑ったのだった。
「ふん。ここまでずっと隊商に付き従っていたからな、金はあるぞ。ちゃんと対価を払って手に入れたものだから安心するといい」
「だから……」
「お前に興味がある。異能を持つ女のくせに、陰気臭くて、権力もあるはずなのに死にたがりだ。そんな奴、見た事がない。あとは単純な暇潰しだ」
言い切るファイグに戸惑い、マグリは口を噤んだ。暫く観察するように男を凝視するが、銅を磨き抜いたような赤褐色の眸に見つめ返されると、すぐに視線を薄闇の蟠ったような虚空に逸らす。
「本当だ。他意は無い。まあ確かにああも馬鹿正直に身元を晒したのだから、お前が警戒するのも分かるが……」
ちらりと一瞬目をやって、今度は顔ごと背ける。そして唇を尖らせると、目も合わさぬままに言い放った。
「厄介事はごめんだ。王位を簒奪しようと考えているのかもしれないが、お前に手など貸さないぞ。こんな事で機嫌を取られても困る」
はぁ、とこれみよがしに大仰な溜息を吐かれると、むっとしてマグリはファイグを睨み据えた。彼は呆れたように肩を竦めると、「何度言えば分かるんだ」と頭を振ったのだった。
「俺に国王業は向かないし、そんな心算もさらさら無い。元より王位が回ってくるとは思わずに育ったし、放蕩が性に合っているからな」
「じゃあ、何で」
「ギギルド個人に恨みがあるからだ。知らぬのか。あの夜の出来事を」
それまでは終始あった陽気さが掻き消えて、ファイグは苦虫を噛み潰したような顔をした。眼差しはあの時のような獣の獰猛さを帯び、雰囲気が一変する。その面差しに刻み付けられていたのは、悔恨と、内側に抱えた苦悩だった。
彼が本当に廃嫡された王子であるならば、ギギルドは仇そのものだ。利害を捨て置いた怨恨に突き動かされた所で、不思議では無い。
そう考えたところで、マグリの、胸のなかで一番柔らかな部分が痛んだ。
「個人的な復讐か」
「そう」
「その為には、国家が転覆してもかまわない?」
「そうだ」
間髪を入れない頷きに、そうか、と乾いた応えを返す。
「お前、子供っぽいな」
「……どういう意味だ」
「だって、そうだろう。自分の復讐のために、他はどうなっても良いと考えてるんだぞ。それは子供の思考だ」
それは衝動のようなもので、複雑に見えて、単純な理屈から成る反抗心では無いのか。真顔で囁きながら、マグリはそう考えた。
自分にも覚えがある、と彼女は思った。今でも時たま夢に見る母の、今際の呪い。それに対する反発心だけで、有り得たかもしれない幸福を金繰り捨てた。ただ、母を見返したい一心で。
けれどもそのような単純さがその人の心を保つのだろう。マグリは今のような末路は想像だにしていなかったけれども、ファイグにはある程度の覚悟があるのか。年下の小娘に指摘された所で怒り狂う様子も無く、彼は沈黙した。
(子供っぽい、か)
ファイグに向けたと言うよりは、自分自身の心を抉る言葉だった。徐々に遣る瀬無さに襲われるうちに、ふとファイグが顔を上げた。彼は黒い睫毛を瞬いて、一言も発さぬままに、地面に落ちた衣服を投げ付けて来た。思わず受け止めたマグリを前に立ち上がって、「外に出るぞ」と簡潔に命令する。
「それに着替えてだ。どうせ暇なんだろう。ギギルドが数日王宮を空けているのは俺も知っているからな」
「……おい、待て。いったいなんで今の会話から、そんな話になるんだ」
「別にいいんだろう。外は良く晴れている。こんな陰気臭いところでぼうっとしているより、日の下で遊んだ方がよっぽど良い」
放たれた言葉は不思議と力強く、マグリはついぞその申し出を跳ね除けられなかった。
仕方無くファイグを巌窟の外に追い出すと、与えられた衣装に腕を通した。洞穴の薄闇、燈明のぼんやりとした光の下でも十二分に輝いて見える黄金は、陽の下では更に際立ってしまう事だろう。そう思うと憂鬱で仕方が無く、男が気を変える事を祈ってのろのろと着替えるしかなかった。
薄手の紗で顔ごと覆うと、遮幕の隙間から外を覗く。外は春の嵐だった。ごうと渦を巻いて轟く風の為に、空気は黄土色に澱んでいる。その為日射しが届きにくくどこかどんよりとした雰囲気を醸し出してはいたが、ファイグの言う通り、空はよく晴れ上がっていた。
背中を丸め、そそくさと巌窟の外に出る。周囲を見回した所で、不意に頭に乗せられた重みに飛び上がった。
「お前、意外とびびりなんだな。ほら、適当に野花で作ったんだが、娘はこういうのを頭につけるんだろう?」
いつの間にか正面に回ったファイグが、頭を叩いてくる。恐る恐る其処に乗せられた物に触れ、それが野花と蔓で編んだ冠である事を確かめる。すると今度は目元を覆う紗を取られそうになって、マグリは慌ててそれを拒否した。
「それくらいいだろう。 誰もお前がお前とは気付かないだろうし、顔を見せないと、余計根暗に見えるぞ」
「私が気にする。……街に下りるのか?」
勿論、と頷くと、ファイグは強引にマグリの腕を引っ張った。
丘の上を生温い風が流れた。空気は変わらず黄色く澱んではいたが、そこから見下ろす街は、いつも通りくすんだばら色をしていた。
(なんなんだ、こいつ。なにを考えてるんだ)
何を思って、こんな自分を祭りなんぞに連れ出すのか。風に激しく煽られる薄絹を手で抑え付けながら、マグリは男の広い背を睨み付け―其処でふわりと脳裏を翻ったのは、いつか、こんな風にイルハマが自分を連れ出した、そんな記憶だった。途端、胸裡に苦い感情が重く凝った。
春秋に執り行われる聖人祭は、ジュヴァリの民が最も大切とする日である。マグリの生まれ故郷でもこの時ばかりは村人も奴隷も仕事の手を止め、娘達は前もって準備をしていた特別な衣装を身に纏った物だ。それはどうやらこの都でも変わらないらしい。それどころか異教徒や流浪の民も広く同じ聖人を祝する為に、いっそう、渾然一体とした雰囲気を醸し出していた。
街に入ると、琵琶や笛の陽気な音が何処からともなく聞こえ始めた。教会の鐘が絶えず鳴り、人通りの耐えない道は華やかな喧騒に満ちる。大通りを抜けた先にある広場の中央では、毎年のように巨大な篝火が焚かれていた。うねり灰燼を撒き散らしながら、赤々と燃え盛る炎の周辺では、煌びやかな衣装を纏い、白い花で髪を飾った少女達が、青年とともにくるくると踊っていた。広場の隅を陣取った楽師達が太鼓を叩く度に、色とりどりの長衣の裾は翻る。淡赤色の石畳に、ぱっ、ぱっ、と花が鮮烈に咲き誇って行くようであった。
「どうだ、踊るか」
耳朶に唇を寄せて、ファイグが囁いた。マグリは髪色の透けてしまう薄い紗が心もとなく、そればかりを心配していたので、男の接近に気付いていなかった。びくりと肩を揺らすとまじまじとその目を見返し、ぶんぶんと頭を左右に振った。その横でまた一人と少女が群集を飛び出し、炎を拝んで踊りの輪に加わる。
「まさか。そもそも、お前はこんな人前に出て平気なのか? 仮にもここを逃げ出した身なんだろう」
「この人出だ、誰もいちいち通りすがりの顔など気にしないだろう。それに、覚えている人間はそもそもこの世にいない」
マグリはきゅっと眉根を寄せ、すまない、と掠れ声で謝罪した。
「ギギルドやその側近ならあるいは覚えているかもしれないな。だが、あれは今南の平定に出かけていて、ここにはいないだろう。当面は安全と言う訳だ」
それよりも、と腕を引かれた。あっと思った時にはもう、マグリは人ごみから外に飛び出していた。布靴の底が石畳を叩き、太鼓の軽快な音に合わせて、くるりと小柄な体が回った。ひらりと黄金色の布地が翻り、薄手の紗が風に膨らむ。
ファイグによって半ば強引に踊らされる形になって、マグリは抗う訳にも行かず、渋々とそれに従った。雪豹の毛皮をひらひらと揺らし、彼は巧みにマグリの身体を操る。間近で感じる炎の熱は暖かく、頬を撫でる風には煙の匂いが混じっている。少女達の笑い声が耳朶のなかでこだました。
(あ……)
ただ踊っているだけなのに、胸の奥がじわりと熱くなった。
悪意の無い他者に触れる事が、どれだけ久し振りの経験なのか、マグリはふと思いを馳せる。外部との繋がりを極力断っていた彼女にはもう、そんな事も思い出せないのだった。そして知らず知らずのうちに、マグリは喜んでいた。この二年の孤独がほんの一瞬でも癒されてしまったような気がして。
(だめだ)
(このままじゃ、だめだ)
関われば、心を開いてしまう。そうすればまた不幸にする。あんなに苦しい思いをまた味わう事になる。
切れ味の悪い刃物を無理やり心の隙間に捻じ込まれたような痛みがあった。衝動のままにファイグの身体を突き飛ばして、長衣の裾をさっと絡げてその場を駆け出す。雑踏のなかに飛び込んでしまえば、呼び声も喧騒に吸い込まれて消えてしまう。
行き交う人々の胴や肩にぶつかり、足を縺れさせながらも、マグリはひた走る。いつの間にか髪を覆う薄絹が取れ、野花も潰れてしまった。照り付ける太陽の光が痛くてたまらなくて、端々でちらつく人々の歓びに満ちた顔が忌まわしく。最早自分が何処にいるのか、何処に向かっているのか、そしてその存在すらも有耶無耶になってしまう気がしてならなくて、それでも手足を動かしながら、マグリは声の伴わない慟哭を上げるしか無いのだった。
(私は、誰と関わってもいけない)
ただひとり、巌窟の奥で息を潜めていなければいけない。請われれば預言を下すだけの、王に淡々と奉仕するだけの存在でなければいけない。それだけがマグリの存在意義だ。幸福にもなれず、誰かを幸福にすることも出来ず……たとえそのような生に意義は無くとも。父やイルハマを失ったあの出来事の為に、マグリはもう一歩も、身動きが出来なくなっていた。
母が死んだ日に抱いた、幼稚な衝動に突き動かされてしまったがゆえに――。
下草に足を滑らせ、マグリは勢い良く草原に倒れ込んだ。ぜいぜいと荒い息を吐き出し、肺や脇腹の痛みに耐えながらも何とか顔だけは上げる。網膜を突いた太陽の白茶けた光で、一瞬、視界が眩く弾けた。目に飛び込んで来たのは見慣れた丘の風景で、風に攫われた野草がさあっと音を立てながら薙ぎ倒される。
虚脱感に促されるまま再び倒れ伏そうとしたマグリを、背後から響いた足音が引き止めた。
「……もう、私のところには来ないでくれ」
振り向き、殆ど呂律の回らぬ口を動かして懸命に訴える。逆光の為に男の表情は判別が付かなかったが、無言だった。何かを考え込んでいるようでもあった。
「私は人と関わってはいけない。異能というものは、そういうものだ。興味本位でも、私を引っ掻き回さないでほしい」
上手に他人を拒絶する方法など知らない少女には、そう伝えるのが精一杯だった。
こめかみを流れた汗が、睫毛に弾かれる。熱に潤んだ視界の中で、男は微動だにもしなかった。
―もう誰かを不幸にしたくはない。
―こんなに苦しい思いを、したくない。
きゅっと唇を引き結び、それきり、マグリは沈黙を貫いた。心臓が痛い程に脈打っている。このまま罵声を浴びせられるかもしれない。それともこの男であったら、更に踏み込んで来るのだろうか。そのどちらも、恐ろしかった。
「……柘榴の木が、」
ファイグが囁いた。その語調の穏やかさに驚いて、マグリは彼を仰ぎ見た。
「柘榴の木が三本、生えた通りがある。そこに一軒だけ、長屋があるのを知っているか。中に入って、孔雀の染織をかけた扉が、俺の部屋だ」
淡々と抑揚も無く、語りかける。ファイグは横髪を耳にかけると、温度の宿らない眸で、じっと、マグリの顔を凝視した。
「お前にどう言われようとも、俺は本気であの兄を憎んでいる。四日後にあの男が帰還したとき、俺もまた行動を起こす。そしてもし、お前がお前の神を裏切れると言うのならば、そこに来るといい。それだけだ」
ばさりと外套を翻し、ファイグが背を向けた。呆気に取られてその背を見つめていると、彼は何かを思い出したようにマグリを振り返った。
「言い忘れていた。その衣装、よく似合っているぞ。髪色と合っている」
白い歯を見せて、男は屈託も無く笑って見せた。しかしすぐに踵を返すと、早足で丘を下って行く。束ねた後ろ髪が風に縺れ合うのを見つめながら、呆然と、マグリは青年が陽光に吸い込まれるのを見送るしか無かった。




