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破戒  作者: 八束
第四章 破壊しに、と彼女は言う
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(2)

✵2

 

 巌窟に戻ると、マグリは奥に敷いた絨毯の上にごろりと寝転がり、燈明の光にその小瓶を(かざ)した。

 試しに蓋を取って匂いを嗅いでみるが、無臭だ。老婆の口振りからこれが毒薬であることが窺えたが、それを確かめる勇気は無かった。迷った末にそれを聖像画(イコン)の後ろに隠すと、傍にあった毛皮を引き寄せてはおり、再び寝転んだ。

 この洞穴には二年間住み続けている。王宮の一室を与えるという話も何度かあったが、マグリはそれを断り続けていた。あの華やかな世界で生きていけるとも思わなかったし、それ以上に、此処の陰湿な雰囲気が身に馴染んだ。当初は殺風景だった穴の中も、今は褒賞として与えられた毛皮や絨毯、衣服、宝飾品の類で埋め尽くされ、しかしその目の眩むような品々を避けて、マグリの視線を縫いとめるものは常に、壁に掛けた男物の装束であるのだった。

 いつか褒美の品を問われたときに、マグリはイルハマの衣装を望んだ。それはもう居ない少女の、抜け殻に等しかった。

 それを見つめれば、自然と、マグリの心は戒められた。不幸にしない為にも、二度は大切な者を作らない、と。

 心が擦り切れそうな時は、二年前に思いを馳せた。巌窟に住み続ける理由の一つには、此処にイルハマやダヴィトとの思い出が染み付いている事があった。二年経った今でも、彼らとの交流の記憶は鮮烈に思い返す事が出来る。無論、この岩穴に住むのに不都合が無い訳では無かったが―。

 たとえば、今のように。

 響いた物音に、マグリは胡乱げに上体を持ち上げた。洞穴の出入り口を仕切る色褪せた幕の向こうに、人の気配が在った。巌窟を訪れる者と言えば王の遣いや何処からか噂を聞きつけた民がもっぱらであったが、同時に、この岩穴に若い娘が住み着いているのを嗅ぎ取った輩の場合もあった。

「誰だ」

 問いかけるが、応えは戻らなかった。

 腰帯に挟んだ短剣を力強く握り締めた時、どうと風が吹き荒れた。激しく揺れ動く遮幕を潜り抜け、その者は侵入して来る。まるで一陣の風のようでもあった。瞠目したマグリが咄嗟に反応出来ないでいるうちに、闖入者は眼前にまで迫っていた。間を置かず、ぴたりと首筋に押し当てられた金属の冷たさに身震いする。

「っ…………、わ、わたしは、王の奴隷だ。不埒な真似をしようものなら、」

 呂律の回らぬ舌を必死に動かし、マグリは気丈を装った。しかし神の声を聞く以外には、彼女は只の脆弱な娘だった。がたがたと震える体を隠し通す事は出来ず、視界に飛び込んだ男の眼光の鋭さについには言葉を失う。

(だめだ、犯されて殺される)

 あかがね。その眸の色は、獣の血液を思わせた。眼差しはきつく獰猛で、マグリ一人を震え上がらせるには十分だった。傍に据えた燈明の光を浴びて、その眸はまさに金属のような耀きを放っていた。

「お前がマグリだな」

 しかし男の割れた唇から放たれたのは、暴漢のそれとは思えない、落ち着いた声音だった。反射的に頷き返せば、その首筋に当てられた半月刀(シャムシール)にぐっと力が篭められた。

(……反逆者か?)

 刃は今にも薄皮を暴いて、血潮をぶちまけそうに思えた。心臓が痛い程強く速く鼓動を打ち、全身の毛穴がぶわりと開いて汗が滴る。それでも何とか理性を保とうと必死に思考の糸を手繰り寄せる。恐ろしく日焼けをしているが、声や顔立ちから、男は存外若そうな事を察せられた。装いは浮浪者同然だが、突き付けられている剣には立派な金装飾が施されている。

「神の声を聞き、兄弟殺しのギギルド王に加担する預言者。お前自身に恨みは無いが、ここで死んでもらうぞ」

 しかし次いで発せられた言葉に、マグリの思考は呆気無く霧散した。

(死ぬ?)

 先程手の平の中で転がした小瓶が思い浮かんだ。今ここで、自分は殺されると言う。

(私は、死ぬのか)

 首の薄皮を僅かに剣が裂いた。ぽたぽたと鮮血がこぼれ落ちて、冷たい地面を湿らせる。外気に晒された傷口がひりつくように痛み、耳裏で血潮がどうと勢いよく流れ出した。このまま刃は首の中に食い込んで、そして、この命を摘み取ってくれるのか。

 ――眩暈がした。

(そうか、死のうと思えば、こんなにも容易く、死ねるというのか)

 突如差し出された、死という絶対的で覆す事の出来ない運命。それが途轍(とてつ)も無く、甘美に思えた。

 死の選択は、この二年、罪悪感で苦しみ続けた自分を唯一解放してくれる存在ではないのか。何故ならば、もう二度と、この力で誰かを不幸にするかもしれないという恐怖に怯えずに済むからだ。

「殺して……くれるのか」

 喉奥からひり出された声は、掠れてはいたものの、はっきりと闖入者(ちんにゅうしゃ)の耳朶を打った。

「……懺悔か?」

「殺してくれるのか、お前が、私を。お前は私の罪を見透かして、天から遣わされでもしたのか」

 何を言っている? と男は怪訝そうに眉を顰めた。マグリは瞼を落とした。

(もっと早く、この選択に気付いていればよかった)

 不思議と全身を覆う震えが引いて行く。心は春の湖のように穏やかだった。祈りを捧げるよう手を組むと、後は只、断罪の時を待った。

 静寂があった。いつまでも刃の動く気配が無い事に気付いて、マグリは胡乱げに顔を上げた。その拍子にほろりと一粒だけ涙が滴る。

「何で……」

 何故、殺してはくれなかったのか。理不尽な思いを抱きながらも、内心、微かに安堵している自分がいた。そして灰がかった翠の眸が見据えたのは、男の、唖然とした表情だった。

「……お前、」

 何故か苦虫を噛み潰したような顔をして、男は剣を下ろした。不思議そうにその挙動を見守るマグリを前に、肩を竦める。

「お前、神を、裏切れるか」

 そして何の前触れも無く、そう言い放ったのだった。マグリは目を瞬き、地面に下ろされた剣が鈍く照るのを見つめる。そしてゆらりと頭をもたげ、再度、男の表情を見やった。男は冗談を言っている様子は無く、しごく真面目な目つきをしていた。

「無抵抗の娘を殺すのは俺の流儀には反する。それが異能の持ち主であってもだ。……それで、お前。お前は神を裏切れるのか?」

「……何の話を、しているんだ」

「お前に声を聞かせる神を裏切れるかと、言っているんだ」

 外で風が唸り、叫びを上げていた。その騒々しさの中で、男の張り上げた声は巌窟の隅々にまで反響して行く。

 男はどうやらマグリの持つ預言の力について言っているようだった。それを捨てろとも、あるいは何か道ならぬ使い方をしろ、とでも言うように聞こえる。どちらにしろ受け入れ難い事であると感じられたので、彼女が首肯することは無かった。

「私には、これしかない。それを奪おうと言うのなら……殺してくれたほうがいい」

 よろよろと頭を左右に振るが、男は黙って半月刀を鞘に仕舞うだけだった。溜息を漏らすと、癖の強い前髪をくしゃりと掴んで掻き上げる。

「ならば、また来よう。お前が神を裏切れるならば、いつでも俺とともに来るがいい」

「……お前、何者だ?」

「俺の名はファイグ。廃嫡された王子にして、異教徒(ムスリム)に身を窶し、流浪の身となっていた。そして今日、俺はあの憎き兄王に復讐するために、この地に舞い戻ってきた」

 澱みの無い語調でそう言い放ち、ファイグは埃に塗れた外套の裾を翻した。

(元、王子?)

 聞いた事がある、とマグリは思った。四年程前の事だ。先王の葬儀が有った夜、私兵を引き連れたギギルドが一夜にして周囲の継承者を掃討し、本来ならば座す事の無かった王位を手に入れた。継承権を巡る王族の兄弟殺しの慣習はこのジュヴァリにも存在したが、それも今は昔の話。今でこそ神の祝福を賜る光輝王と讃えられる身ではあるが、市井では未だ、その血腥い経歴で恐れられている。

 動乱を落ち延びた者が居たとしても、決して不思議では無いだろう。ゆえに、残虐な手段を用いたギギルドは、その者達に深く恨まれているはずだ。

 けれどもマグリの思考に引っ掛かったのは、それが理由では無かった。ファイグが本当に廃嫡された王子だと言うのならば、彼は―。

「その様子であれば、お前も何か王に対して……あるいは自分に、何か思う所があるようだ。意識しているか無意識であるかは別にして、な」

「あ、あの」

 潔く踵を返そうとしたファイグを見送りかけ、マグリは慌てて声をかけた。胡乱げに振り返った男の眼光に怯えつつも、何とか己を奮い立たせる。

「もしかして、イルハマを知っているんじゃないか」

「イルハマ? 弟にそんな名の者がひとりいた。知り合いか」

「友達だ。今はもう、居なくなってしまったけれども……」

 もしかして、彼女の事を何か知っているのでは無いか。淡い期待を抱いたが、ファイグは首を捻って、「親しくは無かった」と素っ気の無い返事をしただけだった。マグリはがくりと項垂れると、そうか、と乾いた声で返す。

 ファイグはそんな彼女をじっと見つめたが、長居するつもりは無かったのだろう。また来る、と再度言い置き、宵闇に消える。マグリは脱力して地面に座り込むと、傷ついた首筋に触れた。

 緊張感から解放されて、体中にどっと疲労が染み渡る。ひりりと痛む傷口を指の腹で押さえながら、何だったのだろう、と闖入者に思いを馳せた。

 王に恨みを持っているのならば、何故、自分を殺さずに生かしたのか。そして、あの発言の真意は――。

(何か、思うところがある?)

 王を特別恨んでいる訳では無い。けれども反逆者の存在を目の当たりにした所で、それを密告しようとも思わない。あるいはそんなマグリの態度を、男に見抜かれたと言うのか。

(…………預言者になど、ならなければよかった、と言う本音を?)


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