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その日の深夜。王の居室では、蜜蝋の光が甘く揺らめいていた。
明かりは寝台を覆う薄絹からほんのりと滲み出し、横たわる男の屈強な肉体に影を添えた。イルハマは暫くぼんやりとして、男のくゆらす紫煙が天蓋に伸びてゆくのを眺めていたが、突然腕を引っ張られて上体を起こした。ギギルドはその透明な金の眸で、彼女を凝視していた。
「そういえばあの娘、昨晩にまた預言を賜ったそうだ」
ギギルドの発言に目を瞠り、息を呑む。
昨日今日と、ことごとくマグリとはすれ違い、顔を合わす事が出来ていなかった。そんな日もあるだろう、と楽観的に構えていたものだが―まさかギギルドが自分を通さず彼女を呼び付けていたとは思わなかった。王宮に参っていたならば、何故、マグリはその後でも自分を尋ねなかったのだろうか。
嫌な予感がして拳を握った時、ギギルドはふいに、「お前と親しい男がいたな」と話題を変えてきた。戸惑いつつも頷けば、男はその薄い唇に甘く蜜の滴るような笑みを描く。不気味なものを感じ、イルハマの背は強張った。
「ここ数年、カラスタンとの国境近い領土では飢饉が続いているだろう。ついに現地の貴族が嘆願に来て、まあそいつが気に食わない奴だったからな。相手にする気にもならんかったが、面白いからとあの小娘に占わせた。するとどうだ、残虐なのが神なのかあの娘なのかは知らんが―」
ふう、と煙を顔に吹き付けられて、イルハマは目を細めた。煙が浸みたが、顔は背けない。
「一度田畑を焼き払い、そこに青い目をした男を埋めろということだ。さすれば豊作となるだろう、とな。どうだ、青い目というもの、この国では中々珍しいとは思わないか」
「っ…………、」
全身から血の気が引いて、頭の中が真っ白に弾けた。掌に爪を立て理性を保つと、イルハマは深く息を吸う。そして低く唸るような声で、男に問いかける。
「それは…………神への供物に、ダヴィトを捧げよ、ということですか」
脳裏に翻ったのは、昼間に会ったばかりの青年の笑みだった。自由になって欲しい、とあれ程までに自分に真剣に言い放った彼だった。
「さてな?」
「ダヴィトで無くともかまわないではありませんか。青い目の男など、国中を探せばいくらでいるでしょう」
極限まで感情を押し殺し、抑揚無く喋る。しかし身の内で湧き出た情動が、それを微かに震わせた。
神に背いた自分ならまだしも、何故―何故、何の否もないダヴィトが犠牲にならねばならないのか。イルハマは一度身震いをすると、愉快そうにこちらを観察する男に向かって身を乗り出し、声を張り上げた。
「いっそのこと、トキアの捕虜を使えばいいでしょう。あの国ならいくらでも青い目がいるし、生き埋めにすれば見せしめにもなる。陛下がお望みとあれば私が牢に行って、一人ひとりその目を検めて、」
「―だがな、イルハマ」
ぐい、と硬い手のひらで唇を塞がれる。イルハマを覗き込んだのは、獣の本質を露わにした金の目だった。
「あれは喜んでその身を捧げると言ったぞ。ただしお前に女の服を着せるようにと嘆願した。末期の願いにしては、あまりに哀れで、純真そのものではないか?」
「っ………!」
「残念だったな、イルハマ? あれは犠牲の子羊になるのだ。お前のために」
その瞬間、イルハマの身のうちで、どうと激しい熱の奔流が溢れ、うねった。目の前が真っ白に弾け、ちかちかと明滅する。どうして、と掠れた囁きが落ちた。
「どうして……」
ああ、だからダヴィトは、今日あんなに優しい顔をしていたのだ。がくりと項垂れ、イルハマははっきりと理解をした。あの時にはもう、彼は自分の末路を知っていたのだ。たかだか十四年を傍で過ごしたからと言って、こんな自分の為に命を捨てようと言うのだ。
「あ……ああ……」
膨れ上がった熱が、涙となって滂沱と頬を伝う。はらわたを食い千切られるような痛みと、悲しみと、悔しさが、業火となってイルハマの中を焼き尽くす。激情だった。それはイルハマが生まれて初めて味わうような、はげしく、身を引き裂かれそうなくらい、苦しい思いだった。
きっとギギルドの顔を睨み付ける。舌を噛んで嗚咽を堪えると男の手を振り払い、寝台の外に転がり落ちた。床に散らばった衣服を手で引き寄せ、その中から剥き身のそれを手に握りしめる。鮮血が滴ったが、理性を失った頭には些細な痛みだった。
もう、どうなってもいい。――そう思った。
「あなたのせいでっ……あなたのせいで、私たちは!」
薄絹を刃の切っ先で振り払い、男に向かって振りかざす。案の定それは空を切って軽くいなされるが、何度もむやみに突き上げるうちに、それはざくりとギギルドの頬を切り裂いた。ぱっと赤い血が散ってイルハマの首筋に飛ぶ。
それまで余裕綽々とした態度を見せていたギギルドは、まさか彼女が本気で自分に反抗出来るとは思っていなかったのだろう。頬を裂かれるなり、彼はいきり立って血相を変えた。硬い拳に小剣を薙ぎ払われ、太い五指がイルハマの首を掴んだ。
「っ……、」
ぎゅうと容赦なく気道を締め付けられる。いやいやと頭を左右に振り、身を捩って抵抗する。此処で死ぬ訳にはいかない―今までの生への執着の薄さがまるで嘘のように、イルハマはそう思ったのだ。
――生き延びて、ダヴィトを助けなくてはいけない。
ギギルドの手を掴んで渾身の力で振り払い、弾かれたようにその場を飛び出す。駆け出したイルハマの背後で、男が壁に立てかけた剣を手に取った。高らかな声が響く。「逃げられるものならば、逃げてみろ!」それは夜の静寂を打ち破る、獣の咆哮のようでもあった。
「俺はお前を捕まえて、その身にもう一度――隷属を教え込ませてやる!」
がむしゃらに走り続けた。裸足で石畳を蹴りつけ、夜の闇を掻き分けて。
取り返しのつかないことをしてしまった。あの男は今度こそ自分を殺すだろう。そしてダヴィトを生贄に捧げるだろう。
ならば―その前に、自分は出来ることをしなくてはいけない。ダヴィトを救わなくてはいけない。自分を蹂躙し尽くし、その人生を一変させてしまったギギルドに対し、最期の最期まで抵抗し尽くさなければいけない。たとえ自由になれずとも。たとえ、この先に暗澹たる未来が待ち受けるだけとしても。
「……っ、ダヴィト!」
納屋の隅で眠っているはずであろう青年に対し、声を張り上げる。すると干し草の向こうで、人の起き上がる気配がした。イルハマは疲労にふらつく両足を叱咤して、彼に近寄ろうとする。
風は凪いで、あたりには無音が広がっていた。
闇に馴れないままの目は何も捉えることが出来ず、イルハマはふらふらと納屋の周囲を彷徨う。ダヴィトからの返事は無く、それが何よりも心細かった。
「イルハマ……?」
けれども、声は返ってきた。安堵に膝から力が抜け、イルハマは柔らかな土の上に崩れ落ちた。その先にいるはずのダヴィトに向かって手を伸ばす。
ひどく、しずかだった。穏やかな星影の下に、ぼんやりと青年の骨格が浮かび上がった。その夜のように青い眸が見え、数秒、沈黙のうちに見つめあった。愛おしさで、胸の奥がぎゅうっと搾り取られたように痛かった。
「イルハマ。待ってくれ、君に渡すものがあるんだ」
そう答えられて、イルハマに焦燥が募る。逃げて、とそれだけを伝えに来たのだから。けれども―。
「……イルハマっ、」
その時だった。突然、イルハマの伸ばした腕をすり抜けて、ダヴィトが走り出した。
咄嗟に振り向いた彼女の目に飛び込んで来たのは、剣を掲げた男。そしてその白く滑らかな刃が描く軌跡、それは――。
「――イルハマ、逃げるんだ。逃げて、君は、」
掠れ、ほとんど吐息に近いような声だったのに、それははっきりとイルハマの耳に届いた。
(それを言うはずなのは、私なのに)
広く大きな背が闇夜に浮かび上がった。ダヴィトの腹のあたりからぬっと突き出た刃が、鮮血を迸らせる。男の低い笑い声に混ざって、血はぱたぱたと雨のように滴りながらイルハマの顔に降りかかる。血はとても、暖かかった。
「イルハマ、はやく、」
その声にまるで操られたように、イルハマは立ち上がった。干し草の上に、女物の服があった。背後ではダヴィトが呻き声を上げながら、ギギルドの剣に縋り付いている。再び堰を切ったように涙は溢れたのに、その時の彼女の頭は不思議な程に冷え切っていた。
服を抱え、弾かれたようにその場から駆け出す。
立ち止まるべきだと思うのに、ダヴィトを見棄てるべきでないと思うのに。それでもダヴィトが逃げてくれと言うのならば。胸に抱えた服をぎゅうと抱き締め、イルハマはきつく唇を噛み締めた。自由になって欲しいと願ったならば。
――それを裏切る訳にはいかない、と思ってしまったのだ。
王宮を飛び出したイルハマは、無我夢中で街中をひた走った。足は自然と通い慣れた巌窟への道のりを辿る。頭上の空は嘘のように晴れ上がって、星がさめざめと冷たい光を放っていた。こんなに美しい星夜なのに、どうして自分がこんなにも泣いているのか、何故こんなにも悲しいのか、イルハマは一瞬、分からなくなった。
それでも何とか巌窟に辿り着くと、無言で遮幕を除けて中に押し入った。マグリは丁度燈明の火を吹き消そうと言うところで、驚いたように彼女を見やり――その惨めな有様を見て、くしゃりと顔を歪めたのだった。
「……イルハマ。私は、やっぱり」
お前を不幸にしてしまったのか、と問われた。
イルハマは答えず、燈明の下で抱えていた服を広げた。それは見た事もない海の色をしていると思った。滑らかな手触りを確かめているうちに、またはらはらと涙が落ちた。泣きながらそれに着替えると、無言で靴が差し出される。それを履いて、所在無く立ち尽くすマグリを見つめた。
まるで叱られる事を待つ子供のようだ、と、イルハマはふと思った。
「…………いいんです」
しずかに答え、頭から厚手の紗を被る。目元以外をすっかり覆い尽くすと、イルハマはそこで知らず詰めていた息を吐き出した。脱力するとがくりと項垂れ、ちょうど足元にあった絨毯に縫い込まれた模様を見つめる。それは孔雀だった。
「もう、いいんです。不幸とか、そんなことはもう関係が無くて」
ぽつりぽつりと囁き、力の抜けた腰を叱咤して立ち上がる。
「でも、ごめんなさい。私はもう、貴女とは一緒にいられない」
びくりとマグリの頼りない体が揺れた。縋るような目を向けられたが、断腸の思いでそこから顔を背けた。
視線を向けた先、燈明の向こうで、煤けた聖像画の女が無機質に微笑んでいた。ぱちぱちと火が爆ぜる音がする。イルハマは一度祈るように瞑目すると、瞼裏に、闇の中でギギルドに立ち向かった青年の姿を思い浮かべた。
――あるいは、本当の意味で、マグリにかけられた呪いはイルハマを不幸にしたのかもしれない。
けれども同時に、それはイルハマを解き放った。イルハマを雁字搦めにする、鎖の重い拘束から。
「――私は生きようとしなければいけない。そして、自由にならなくてはいけないから」
だからさようなら、と、言い放った。マグリは自分の名を呼んだが、微笑みかけることも出来ず、イルハマは洞穴の外に出た。
彼女の持ち物から失敬した短剣の柄を、そっと握り締める。唇を噛み締めてあばらの肉を薄くそぎ落としながら、こぼれ落ちそうになる大粒の涙を、必死に堪えた。その折に吹いた風が、イルハマのまとう装束を揺らす。夜空はさめざめと澄んだ光を放ち、何処までも、何処までも―続いていくようだった。
✵
まんじりともせず、マグリはその夜を明かした。
洞穴の隅で毛織物に身を包み、燈明の光が揺らめくのを眺め続けた。やがて蝋が尽き果て日が尽きると、太陽が昇り、出入り口を塞ぐ紗幕の隙間から朝日が漏れ出した。痛いほどの眩さに瞑目し、マグリは膝の間に顔を埋めた。
瑞々しい風が吹き抜ける。それは巌窟の奥にまで届くと、あたりに積んだ布の裾を揺らし、またどこかへと消えていく。
心の中にぽっかりと穴が空いたような心地だった。
喪失感というものはどれほど経験しようと慣れない存在であると、そのとき、マグリは初めて知ったのだった。
(母さんの呪いは本当だった)
胸の奥に巣食った虚無が、暗い影となって、じわじわと指先までをも侵食していく。マグリはゆらりと頭をもたげると、遮幕の間から糸を引いてこぼれ落ちる光を見つめた。砂埃がそれを乱反射して、ちらちらと輝いていた。
(父さんは死に、イルハマはここを去った)
そして独りぼっちになった。はじめてこの地にやって来たときと同じように。
この数ヶ月間の記憶が目まぐるしく頭の中を駆け巡る。頭から被った紗をきゅうっと握りしめて、マグリは下唇を噛み締めた。きっとイルハマにはもう二度と会えないだろう。会わないほうが、彼女は幸せになれるだろう。
せめてイルハマが辿り着いた地でさいわいであることを、祈るしかない。彼女は最後までマグリを責めようとせず、友達でいてくれたのだから。
「……ごめん、イルハマ」
風が巌窟のあちこちに散らばった獣皮紙を巻き上げた。かさかさと紙が落ちる音に混ざって、その時、マグリの耳朶に蘇るものがあった。
……パンドラが甕を開けると、そこからたくさんの災いが溢れ出した。
……そして甕の底を覗きみた彼女は、未来を視る力を得てしまった。その力の為に、人類は虚無と絶望を抱えて生きていくことになった。
時が経ち、同じ力を受け継いだパンドラの子孫である女占術師は、その力とかけられた呪いのために、孤独に死んでいくしかなかった。
それと同じ事だ、とマグリは思った。皮肉にも、父はマグリの未来を言い当ててしまったのだ。
誰も不幸にする事がないように、大切な人はもう二度と作らない。誰とも関わらず、息をひそめて生きて、そして、死ぬ。
きゅっと拳を握り締め、マグリは強く誓った。
イルハマのように、自分のせいで悲しい思いをする人がいないように。父のようにもう誰も死なないように、と。




