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イルハマにとって数多いる兄の一人が、ギギルドだった。イルハマもまた、彼にとっては腹違いの『弟』だった。
ギギルドは先王と女奴隷の間に産まれた子であり、その継承権は世襲貴族の血を継ぐ自分の方が高かった。イルハマの母は生来の美貌に加えて強い野心を抱えた女であり、高齢の王の崩御を見越しては彼女を次なる王位に据えようと画策を重ねていた。しかしきょうだい間の血腥い争いをつぶさに見つめて育つと、イルハマはそのような母を避け、心優しい乳母やその息子であったダヴィトと共に居る事を好んだ。自身に王位が渡るとはこれっぽっちも思ってはおらず、現にその器に適した者は他にごまんと居たのだから。
王が死に、しかるべき者がその座に就けば、女に戻ってしずかに暮らせるだろう。イルハマはそう信じていた。実際に、そうなるはずであった。
――運命のあの夜を迎えるまでは。
記憶の糸を手繰り寄せずとも、悪夢は夜毎にイルハマを苦しめる。
間もなく雪融けも始まろうという冬の終わり、イルハマは十二歳だった。晩秋に倒れ、春を待たずして王が死んだ。王の葬儀は盛大に、しかししめやかに行われた。その時、王位は順当に正妃の息子が継ぐ事になっていた。
しかし葬儀を終えた真夜中、王宮のあちこちで火が放たれた。一晩にして高位継承者達が惨殺され、その首謀者はイルハマの寝室にも押し入った。そしてその夜着を剥ぐと、その性を赤裸々に暴いて見せたのだった。
当時の事を思い返すだけで、イルハマは身の内から湧き出た恐怖から、まるで身動きが出来なくなってしまう。遠くで炎の爆ぜる音がけたたましく鳴り、悲鳴も、逃げ惑う人々の呻き声もすべて押し潰される。やがて恐ろしいほどの静寂があたりに満ちると、あの男は現れた。
剣先を突き付け、イルハマの衣服を破ると、月影にその未成熟な性を晒した男。
「命だけは助けてやろう」
やがて遠くの炎が押し寄せてくると、窓から差すその光のもとで、男は酷薄に笑った。ざらついた指の腹が頬を撫で、顎を掴み、首筋を、その下にある薄い皮膚を撫で回す。長いあいだ抑圧されていた、イルハマの中に眠る血潮をゆっくりと目覚めさせるように。
「生かしてやる代わりに、お前は女には戻れぬ。男として生き、その惨めな生き様を俺の前に晒すがよい」
――それが、長い背徳の始まりであった。
一晩の内に、男はイルハマを陵辱し尽くした。彼女の尊厳を蹂躙すると、骨の髄にまで隷属を教え込ませた。
王宮の情勢は一夜にして一変し、後に光輝王とも兄弟殺しとも呼ばれる事になるギギルドはその最も輝かしき、そして尊き座を簒奪した。何食わぬ顔でそこに収まると後宮の女どもを一掃し、抗う者は全て処刑し尽した。その中にはイルハマの母の姿もあった。
乳母は心労で倒れるとみるみる弱り果て、数ヶ月もしないうちに息を引き取った。ダヴィトもまた王宮の隅に追いやられた。
イルハマは奴隷として、同時に無二の『弟』としてギギルドに仕える事を余儀なくされた。後宮の女として侍る事も許されない。ただ兄との忌まわしき情交を繰り返し、歪な存在として生き伸びることを強いられた。寝台で組み伏せられる度、イルハマは己の罪を自覚せざるを得ない。神に背いたその行いを、抗うことも出来ず享受する自分の愚かしさを、その罪深さを―。
イルハマはマグリほど信心深く無い。けれど神に裁かれたいという思いは、あるいはあの日からずっと心の中に存在していたのかもしれない。
だからマグリから呪いの告白を受けたとき、イルハマは心の底で歓喜した。これでようやく、地獄のような日々から解放される、と―。
◇
春が過ぎて、陽射しは以前より随分と柔らかくなった。太陽の下で王宮じゅうの建物を形づくる無骨な石材は澄んだ光を乱反射させ、初夏の風は瑞々しくあたりを駆け抜ける。納屋裏に積んだ干し草の束がざわめき、小鳥は囀っては何処へともなく飛び立つ。木洩れ日がまだらに影を落とす井戸で皿を洗う少女たちは、今日もまた、引っ切り無しに笑い声を立てていた。
「イルハマ、珍しいね。こんなところで日向ぼっこかい?」
古びた樹木の幹に寄りかかり、ぼんやりとその光景を眺めていたイルハマは、聞き慣れた青年の声に顔を上げた。
「……ダヴィト」
「横、座っていい?」
こくりと頷きを返せば、ダヴィトはにこりと笑ってイルハマの横に腰を落とした。
朝の仕事終わりだろうか、干し草の匂いに混ざり、ふわりと濃い汗の匂いがした。赤銅色に焼けた首筋に光る汗の粒。こうして日の下で見るダヴィトは、二年前には存在したあどけなさも削ぎ落とされ、すっかり精悍な青年へと成長していた。
「最近はどう? 何か変わったことはあった?」
「いつも通りですよ。マグリも元気そう。ああ、そういえば、そのマグリが……」
くすりと微笑んで、最近の出来事を語り始める。どんなに他愛のない話でもダヴィトは嫌な顔一つせず耳を傾けてくれる。それが心地良くて、普段は聞き役に徹するイルハマもその時ばかりは饒舌になるのだった。
しかしその日、ダヴィトが不自然なくらい自分を凝視している事に気が付いて、イルハマは首を傾げた。話がつまらなかったのかと眉根を寄せた彼女に、ダヴィトはほがらかに笑いかけた。
「すごいな、イルハマ。前よりも随分と明るくなった気がする」
「……そうですか?」
思ってもいなかったダヴィトの発言に瞑目して、「そんなに変な顔をしていましたか?」と首を傾げる。
「いや、違うよ。前よりも笑い方に影が無くなった、というか。やっぱりマグリが友達になったお陰かな。ここ二年、ずっと憂鬱そうに笑っていたのに」
「……意識していなかったので、分からないです。でも、言われてみれば……」
胸元に手を当てると、そうかもしれない、とイルハマは囁いた。マグリとの交流は変わらず心の安らぐものであったし、何よりも彼女がもたらすはずの呪いが、先の見えなかった未来をほの暗くも照らしてくれた。現状は変わらずとも、死期の近付いた老婆の如き心のしずけさが、今の彼女には根付いていた。
ダヴィトとの認識の差異はあれども、あえてそれを口にしようとは思わない。イルハマが微笑むだけに留めると、彼は何故か怖いくらいに真剣な顔をして、ぎゅうっと両手を掴んできたのだった。
「本当に、よかった」
喜びを、噛み締めるように。その声はイルハマの心を打ち震わす程に、優しさに満ちていた。
「僕は君のことをずっと傍で見てきたけれども……君の心や体はいつだって、誰かの支配の下にあった。それから完全に解き放たれないにしても、イルハマ、少しでも君が前を向いて生きられるならば、僕はそれが本当に嬉しい」
「……ダヴィト」
深い海のような眸を見つめ返し、イルハマは息を呑む。
「イルハマ。僕はいつだって……君が自由になれることを願っている。自由になって、そして、生きてほしい」
ダヴィトは懐から引きずり出した鎖の先にある葡萄十字に、そっと口付ける。
その光景が、どれくらい眩しかった事か。優しく、穏やかに笑うダヴィトの存在そのものに、心の奥底にある、真綿のように柔らかな部分がぎゅっと締め付けられた。体の中でうねりを上げる情動を堪えたいばかりに、イルハマは言葉を失うしかなかった。
震える瞼を落として、はい、と頷いた。背徳に塗れた自分を、何故、彼はこんなにも気遣ってくれるのだろう。そしてその思いを踏み躙ろうとする自分がいる事を、彼が知ったならば―。
願わくは彼が幸いであることを。その時、イルハマはそう祈るしかなかった。
けれど、神が一度もイルハマの頭に恩寵を垂らしたことが無かったように。
運命というものは皮肉で、苛烈な結末を彼女にもたらすのだった。




