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破戒  作者: 八束
第三章 みつばちの囁き
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「イルハマ、イルハマ……」

 宴も終わりを迎え、しめやかな静寂に包まれた深夜。その静謐を掻き乱すように、マグリは扉を叩いていた。

「マグリ? どうしたんですか、こんな夜更けに」

 間を置かず部屋の主であるイルハマに出迎えられ、マグリはぎこちなく口元を綻ばせる。瞠目した少女に「ちょっと話があるんだ」と懇願すれば、彼女はすぐに平生通り人好きのする笑みを浮かべた。

 促されて部屋の中に足を踏み入れる。さいわいイルハマは寝ていなかったらしく、枕元で獣脂の明かりが柔らかげに点っていた。寝台にふたり並んで座り、それで? とイルハマは小首を傾げた。澄んだ灰燼に凝視され、膝上に置いた拳を握る。何から言い出すべきかを迷い、逡巡を重ねる。そして再び顔を上げたとき、マグリはイルハマの、常に潤んだような艶を帯びた眸をゆっくりと見据えた。

「その、今日は突然部屋を飛び出してしまって……すまなかった。あの後、大丈夫だったろうか」

「心配はいりませんよ。皆さん酔っておられましたし、陛下も気にしていらっしゃらないでしょう。マグリの方こそ、びっくりしたのでは?」

「それは……色々と」

 ほっと胸を撫で下ろし、マグリは薄らと笑った。

「あの人は、どうやら本当に私の父親らしい。そんな偶然があるものか、と思ったが……」

「巡り会わせとは奇妙なものです。……でも、マグリも寂しくなりますね。せっかく再会したのに、あの方は明日にも発たれてしまうのでしょう?」

 気遣うように、膝上の手に手が重ねられる。室内に蟠る寒さを吹き飛ばす程に、彼女の手は暖かかった。光に照らされたイルハマの柔らかそうな髪に目を留め、そして視線を彷徨わせる。彼女の質問に答えねばならないと思うのに、どうしても、口が重かった。

 でも、きっと彼女ならば受け容れてくれる――そのことなんだが、と殆ど吐息に近い声量で切り出して、マグリはその一声を投じた。

「一緒に行かないかと言われたんだ」

「……え?」

 生え揃う睫毛がすうっと上がり、眸が驚きを帯びる。こくりと頷きを返せば、ああ、と嘆息を吐き出して、イルハマは暫く言葉を失い―そして次の瞬間、きゅっと強い力を篭めて、マグリの手を握り締めた。

「まさか……ついていくつもりですか、マグリ?」

 真っ直ぐにこちらを見つめる目は、恐ろしい程に澄んでいた。冷えた、抑揚のない声音でそっと囁きかけられながら、マグリは息を呑み込む。しかし目を逸らす事なく頷きを返した。

「そんな……。何を言い出すのですか、マグリ。お願いですから、もう一度考え直してください。あなたの将来と、その幸福を祈っての言葉です。どうして陛下を裏切ってまで、貴女がついて行かねばならないのですか!?」

 鬼気迫った様子で矢継ぎ早に畳み掛けられ、マグリは身じろいだ。咄嗟に彼女から距離を取ろうとしたが、手首にその細い指が食い込むだけだった。それどころかずいと距離を詰められる。薄絹越しにもはっきりと見て取れる程、イルハマの顔には焦燥があった。

 彼女ならば、祝福してくれるかもしれない―それが敢えない期待であった事を、マグリはしかと思い知らされた。

「わ、分かってくれないか、イルハマ!」

 片手でイルハマの胸を突くと、マグリは震える声で必死に訴えかけた。

「あの人は、私をただのマグリとして見てくれたんだ。父親としてやり直したいと、そう言ったんだ……!」

「それの何処が信じられると言うのですか。マグリ、冷静にもなってみてください。そんなことを言ったって、あの人はずうっとマグリを放っておいたのでしょう? あなたは今、見せかけだけの言葉に浮かれているだけです!」

 イルハマらしからぬ、批難を篭めた強い言葉の連なり。マグリはぐっと唇を引き結んで、どんな応えも返せぬ自分がいる事に愕然とした。けれどもここで大人しく引き下がる訳にはいかない。頭の中が火の棒で掻き乱されたように、まともな思考が出来なくなっていた。

 だからと言って、必ずしも信頼に値しない訳ではないだろう。夕暮れの中で、父の顔は、どこまでも真剣だったのだから……。

 たとえそれがマグリ自身の独りよがりであったもしても。母に裏切られた自分を、父ならば愛してくれるかもしれない、という霞がかった期待があった。一度根幹から揺らがされ、剥き出しになってしまったマグリの心は―母の裏切りで刻み付けられた傷を埋め合わせてくれる何かを、渇望していた。

「でも、だからと言って……だからと言って、ここにいたところで、」

 鼻にかかるような涙声が忌まわしかった。ゆらりと(つら)を上げ、視界を覆う薄絹を剥ぎ取る。そしてイルハマの真っ白な顔を見つめると、きつく奥歯を噛み締めた。

 口の裏にまでせり上がってきた感情が、今にも暴発しそうだった。決して言うまいと思っていたものが、今はどうしても内側に留めてはおけなかった。マグリはイルハマの、そのしずかな眸を見つめ、そして、震える唇を開いた。

「ここにいたところで、私の価値は預言者でしかなくて、」

 体の中がざわざわと、うるさかった。

「イルハマだって、そうとしか……私を見ていないじゃないか」

 ほとりと蝋の落ちる音がして、炎が掻き消えた。夜の青褪めた静寂のうちで、イルハマの顔から一切の表情が抜け落ちてゆく。それを見た瞬間、マグリはひどい苦味を押し潰したような後悔を覚えた。

 ―自ら、か細いよすがを手放してしまったのだと、そう理解した。

「っ…………、」

 火の棒で掻き乱されるようであった全身から、すうっと血の気が引いて行く。何か言わなければいけないと思うのに、罪悪感ばかりが先立って、言葉は形にならなかった。マグリは長衣の裾をぎゅっと掴むと、弾かれたようにその場を立った。

「……そう、ですよね……」

 見下ろした先で、イルハマがゆるりと頭を垂れた。窓からおぼろげに射す月影のなかで、彼女の頬はさめざめと青かった。

「私がこんなこと言う権利なんて、無い、ですよね。マグリは私と違って……幸せになれるんだから」

 抑揚のない、今にも静寂に吸い込まれそうな声だった。

 イルハマは顔を上げ、いつも通りの微笑をそこに浮かべた。それによって、マグリの心はずたずたに引き裂かれてゆく。取り返しのつかない事をしてしまった後悔で、指先が小刻みに震えた。けれどもイルハマの眸に拒絶を見て取るのが恐ろしく、マグリは無言でその場から逃げ出したのだった。






 その夜、マグリは罪悪感を持て余したまま寝床に着いた。

 そして夢を見たのだ。夢の中で、マグリは冷たい夜の都を歩いていた。寝衣の裾を風にそよがせて、見慣れぬ道を歩いて王宮に忍び込んでいく。頬を打つ風の冷たさも、星の冴えた光も、あたりに満ちる闇のしずけさも、不思議な程に現実感を伴った、奇妙夢だった。

 マグリは土に汚れた足で、何者かの寝所に入った。月明かりの下で剣を磨いていた男を前に、ゆっくりと膝を折る。とたん、視界で蜜蜂の群れが溢れ返った。ぶうううん、と翅の小刻みに揺れる音のなか、マグリは微笑んだ。何が愉快なのかも分からずに。今自分の心は、ただ悲しみに支配されていると言うのに。

 そして理解した。これは夢では無く、現実である事に。

 自分がこの先で待ち構えた、決して望みやしない未来を告げようとしている事に。

 ―――そして、マグリは口を開いた。


「吟遊詩人、シャイフを処刑せよ。あれは破滅をもたらす、異教徒の間諜である」


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