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破戒  作者: 八束
第三章 みつばちの囁き
14/24

(3)

✵3


 陽が中天に差し掛かる頃、マグリは王宮に姿を現した。

 赤金色の長衣に駱駝の毛皮を重ね、髪はいつも通りに紗で覆い隠した。マグリが欠かさず自分の贈り物を身につけているのを見て、出迎えに来たイルハマは嬉しそうに微笑む。そして、彼女がかちこちに緊張しているのを見ると、革帯から吊り下げた小袋を手に取った。

「緊張しているだろうと思って、持って来たんです。……嫌いじゃないですよね?」

 差し出された袋の中に入っていたのは、皺だらけの獣皮紙に包まれた飴玉チュルチヘラだった。ジュヴァリでは代表的な保存食で、マグリも聖人祭(ギオルゴバ)の振る舞いなどで口にしたことがある。胡桃(くるみ)榛実(はしばみ)を糸で繋げて棒状にしたものを、葡萄果汁で煮て天日干しにした菓子だ。イルハマが差し出したのは出来上がったそれを砕いたもので、柱廊に射す光を浴びてはしばみ色につやつやと耀いていた。

 促されてそのひとつに手を伸ばし、口の中に放り込む。ふわりと葡萄の甘酸っぱい匂いが広がり、胡桃を覆う小麦粉の皮がとろりと舌上で溶けた。思えば甘い物を食べるのも随分と久しぶりの事だ。飴をころころと転がして、その控えめな甘みを噛み締めるうちに、マグリの緊張もすこし和らいだようだった。

「私、甘い物が大好きで。昔からよく厨房で貰っては、盗み食いしていたんです」

 自身もひとつ摘まんで、イルハマは幸せそうに口元をほころばせた。

 王宮ともなれば砂糖のような甘味料もぜいたくに使えるのだろうか。マグリの生まれ故郷ではそれらは貴重品であり、滅多に出回らない品だ。しかし菓子を日常的に食べられるとは羨ましいことだな、と考えるばかりで然程疑問にも思わない。

「マグリ、どうか安心してください。何かとてつもない厄介事があって、今日貴女が呼ばれたわけではありませんから。もちろん、陛下の御前ともなれば緊張して然るべきなのでしょうが……」

「厄介事で無いとすれば、なぜ私が?」

「余興、というか。ちょうど、陛下のお気に召された吟遊詩人様がいらっしゃっていて。明日には都を発つらしく、旅路の安全を占って欲しいそうです」

 そうか、とマグリは頷いた。余興扱いは癪であったが、イルハマの返答に胸を撫で下ろしたのも事実。マグリとてそう頻繁に生贄を捧げるような預言を賜りたくはない。確かにギギルドの御前に出ることは不安の種だが、以前とは異なり、今回は事前に心構えが出来る分には気楽だ。

 導かれるまま、王宮の最奥部にある王の間にまで辿り着く。マグリの背丈を軽々と越える程に大仰な扉を、軽装の兵士が護っていた。彼らはイルハマの姿を見て取るなり、無言で覆いである色褪せた虎の毛皮を(から)げた。

 入室すると、毛足の長い絨毯を引いた先に、一段高く(しつら)えられた台座が有った。その上に虎の毛皮に身を包んだギギルドが在って、左右には後宮の女達が座している。それと兵を除けば、御前にある人影はひとつだ。イルハマと別れその痩せぎすな男の背後に回ると、マグリは膝を落としてゆるりと頭を垂れた。

「良くぞ参った、預言者の娘よ。よい、よい。顔を上げよ」

 低く、重圧の篭もった声に促されて顔を上げる。目元を覆う薄絹越しに、ギギルドの双眸を捉えた。その眼差しは獣のように獰猛な光を湛え、真夏の太陽のように黄金色に耀いている。しかし今この時、その眸には、この少女預言者を賞賛しようという色が純然と有った。

「預言は真であった。ジュヴァリ使徒教会の聖地たるアラン山を、我々は取り戻したのだ。聖地は異教徒どもの血で穢れはしたが、何よりも我らが精神的支柱が手の内に戻った事は賞賛すべきだ。王国はこれからもお前を重用するであろう」

 ―隣国トキアは、今世紀になってから版図拡大を始めた西の異教徒勢力だ。長年、東方の遊牧民勢力によるゆるやかな支配に屈する一方で、ジュヴァリは先王の代には神を同じくするこの異教民に聖地を奪われていた。かの地を取り戻した事は、宗教上の問題だけではない、王自身の威厳を高める面においても功を奏したのである。しごく満足げなギギルドにマグリがぎこちなく笑い返すと、前に座る男が振り返った。

「ほう、これが件の預言者ですか。仰る通り、ほんとうに若い。そこらの娘と変わらぬ年代に見えますな」

 溌溂とした声こそ若々しかったが、その(つら)にはマグリの想像した以上の年月が刻み込まれていた。二回りは軽く年が離れているように見えるが、それ以上に目を引くのは男の容姿だ。澄み切った翠の眸、そして日に灼けて色褪せてなお―見事な、金の髪。

(なんだ……?)

 その時、左胸が唐突に痛みを覚えた。ぎりぎりと切れ味の悪い刃が食い込むような痛みだった。胸中が何かに巣食われたように掻き乱され、焦燥がじりじりと全身を這いずり回る。マグリは不安になった。何故ならば、一度、彼女はこの感覚を経験していたからだった。

 しかしマグリがその不安を明確にするよりも先に、男が膝に置いた琵琶を手に取った。三本の弦が指先に弾かれると、ぽろろん、と透明な音が響く。男は暫く弦を弄ると顔を上げ、そして、低く甘みのある声を張り上げた。

「ならば、陛下、ここで一つ楽を献上させてください。少女預言者という世にも稀な存在に巡り会えた奇跡を祝して、そう……ジュヴァリの古い女占術師の話でも、ひとつ」

 まあ、と王の傍に控えた女達が色めき立つ。

 ぽろろん、ぽろろん、と間を置いて響く音が、徐々に間隔を狭めた。激しさを増してもなお琵琶の旋律は切なげで、重く圧し掛かるような室内の雰囲気を絡め取り、その独特で、ひどく甘い官能の世界へと引きずり込んで行く。果たして男の歌声は、その地声にも含まれていた甘やかさが一層引き立つようで、聞く者の耳朶に不思議な余韻を残すものであった。

 むかし、英雄アミランが人類に火を齎すと、神は怒り狂い彼を極寒の山に繋いだ。その怒りは人類にも及ぶと、災いの詰まった(かめ)を抱えた女パンドラが送り込まれる。甕から災いが飛び出すと、最後には甕の底に『兆し』が残された。兆し―パンドラが未来を視る力を得た事で、人々は己らの覆せない辛い運命を知るはめとなり、虚無と絶望を抱えて生きていかざるを得なくなったという。そして時は経ち、パンドラの子孫となった女占術師もまた、その異能を持っていた。彼女は恋人を作るが、すぐに男が自分のもとから離れてゆく未来を視てしまい、男を拒絶する。その事を恨んだ男に「お前の予言は誰にも信じられない」という呪いをかけられる。女占術師はその呪いの為に苦しみ、また幾度となく叶わぬ恋を繰り返した。そして晩年を孤独に過ごすと、死んでいく―荒野を吹き抜ける風がわずかに甘い香りを含んでいるような、寂しく、情緒的な歌でもって語られる物語に、マグリは微動だにもせず、男の首元で蠢く喉仏を見つめた。そして、ぽろろん、と弦がひとつ弾かれたのを最後に、無音が戻る。

 そして唐突に、実が弾けたようにその場が女達の賞賛で満たされる。我に返ったマグリは慌てて顔を上げるが、何を言うべきかも分からずに、強張った微笑を向けるのがせいぜいだった。

「おや。貴女のような年代であれば、悲劇の恋というものに一度は惹かれるものかと思いましたが。御気には召さなかったようで」

「いえ……、」

 素敵でした、とマグリは取って付けたように答える。男の楽は確かに哀愁に満ちて切ないものであったが、恋のひとつも知らぬマグリの心をくすぐりはしなかった。

「では、もう一つ。今度は西の国の王の喜劇でも」

 男は再び琵琶を手に取ると、打って変わって陽気な調子の旋律を奏で始めた。先程の陰鬱な空気とは対照的に、喩えるならば雑踏を駆け抜ける空っ風のような軽やかさのある歌だ。今度は肩肘張って聞く必要もないな、とマグリはぼんやりと思うと、自分の役目が早々終わる事を祈ってその音に耳を傾けるのだった。

 しかし中々呼ばれぬままに、室内は時が経つにつれて人の多さを増していった。純白の薄絹をまとう女たちや高官達が各々に騒ぎ立て、あたりは徐々に宴の様相を醸し出して行く。そのうちに蒸留酒(コニャック)が持ち込まれてそのきつい匂いが立ち込めるようになると、いよいよマグリは眩暈のする光景を見せ付けられる事に耐えがたくなってきた。居心地の悪さが頂点に達したとき、彼女はようやく王に指名され、その場を立ったのだった。

(早く済ませて帰りたい)

 一転して、あたりは水を打ったような静寂に包まれた。顔をほろ赤く染めた吟遊詩人の正面に立つと、顔を覆う紗を除けて耳にかけ、目元を露わにする。そして男の骨ばった肩に手を置いたとき、彼女は異変に気が付いたのだった。

 紗から一房、こぼれ落ちたマグリの髪。それを見て取った男の目に驚きが宿ったのだ。彼は何も隠し立てるものが無く晒された少女の顔を凝視すると、突然その手を振り払い、いきり立ったようにその場で立ち上がった。

 びくりと揺れたマグリの肩を掴み、ああ、と深い嘆息が落ちた。男は一度形の無い煩悶に苦しむかのように瞑目すると、何事かと見守る周囲を余所に、低く囁きかけてきたのだった。

「少女預言者殿。つかぬことを聞くが、貴女の母親の名は?」

「……えっ?」

 マグリは素っ頓狂な声をこぼして、呆然と男を仰ぎ見た。そして彼女からズルフィヤの名を引き出すなり、彼はやはり、やはりか! と甲高く声を張り上げ、琵琶を掲げその喜びを露わにした。

「ズルフィヤ……、ズルフィヤ! 覚えているぞ、その名を忘れるものか。まさかこんなところで巡り会うことが出来ようか――女預言者ズルフィヤの娘! 君はまさに」

 ―私の娘だ、と喜色ばんだ声が続いた。

「十四余年もの昔、私は故郷を旅立ち吟遊詩人となった。それが私の役目だったからだ。ズルフィヤ……それは私が故郷に置いてきた恋人の名だ。おお、おお、我が娘よ。ズルフィヤは息災か」

「は、母は……もう、死にました」

 混乱で頭が真っ白になる。マグリは何とかそう(いら)えを返し、自分を抱き締めようとする男の腕を振り払った。後ずさり、胸を抱いて正面の男を見据える。

(母さんの恋人?)

 訳が分からない、とマグリは頭を振った。ギギルドが静寂を打ち破って、奇妙な巡り会わせがあったものよ、と愉快そうに笑い声を立てる。その渦中にあって、マグリは何も考える事が出来なかった。

(私の……父親?)

 ふらり、と一歩、二歩と後退する。すると突然、マグリは弾かれたようにその場を飛び出した。

 走って走って、足が縺れて転倒する。背後から足音が続くのを聞くやいなや、地面に両手を突いて無理やりに身を起こした。男の呼び声に一切振り向きもせず、マグリはがむしゃらに走ることを再開する。

 しかし最近の不摂生が祟ったのか、柱廊の一本道を走り切らぬうちに息が切れ始めた。思うように両足を動かすことも出来ず、つんのめりかけたところを何とか踏み止まる。肺と脇腹がちくちくと針で刺されたように痛く、一度立ち止まってしまうと、もうこれ以上は走れないような深い虚脱があった。目の前の太い柱に縋り付くと、マグリは肩を上下させながら短い呼気を繰り返す。

 乾いた風が吹きつけ、マグリの汗にまみれた体を撫でた。

 色濃い光を叩き付ける斜陽が、淡赤色の床に縞模様の影を綾なしていた。ごうと砂埃が宙に舞い、空気を薄っすらとけぶらせる。あたりは黄昏時の、火酒のような赤に満ち満ちて、まるで燃え盛る炎のさなかだ。耳の痛くなるような静寂に響くのはマグリの呼吸音だけで、彼女はあの琵琶を携えた男が追っては来ないものかと、視線をせわしなく動かしていた。

(あの吟遊詩人が……私の父親?)

 男の髪や眸の色は、確かにマグリのものと良く似ていたけれども――まさか、本当にこんな偶然があるものだろうか。そしてそれが真実だったとしても、それを喜ぶべきか、あるいは悲しむべきか、マグリには判然としなかった。

 たったひとつ、定かであることは、たとえそれが事実であったとしても――知りたくは無かった、という悔恨に似た思いが有ることだった。死んだはずの父親が生きている可能性など考えたくもなかった、と言う、ひどく苦い気持ちだった。

「っ……!」

 唐突に、背後から何者かに肩を掴まれた。飛び出しかけた悲鳴を堪えると、マグリは恐る恐る背後を振り返る。すると案の定、琵琶こそ持っていないものの、あの吟遊詩人の姿があった。

「やっ、やめ……、」

 無言で両肩をぐいと引っ張られ、面と向かって男と顔を突き合わす羽目になる。きゅっと堅く目を瞑り、その相貌を視界から逃がす。あれが酒に酔ったための虚言であったならば―きつく何度もそう心中で念じていると、男の、あの柔らかで甘い声が降りかかった。

「本当に、良く似ている。君はズルフィヤの生き写しだ」

「っ……、」

 ぐっと唇を引き結んで、マグリは瞼を押し開いた。嘘であったなら、というマグリの願いはその瞬間に敢え無く砕け散る。何故ならば、目の前に有った男の表情は恐ろしい程に真剣で、一切の冗談の余地も許しはしなかったからだ。

 それでも何かしらの否定材料を探したく、両の拳を握り締めると、マグリは腹の底に力を入れて必死に声を絞り出した。

「ち、父は……死んだと聞きました。私が生まれる前にっ」

「そう言うほか無かったのだろう。私は世襲貴族(ナハラル)の奴隷だった。しかし奴隷身分を捨て、故郷を飛び出したんだ。ズルフィヤをあの地に置いて。―身ごもっていたとは、知らなかった」

 男の硬い掌が、ゆっくりとマグリの両腕を撫で下ろし、そして離れた。ほとんど白に近く色褪せた髪を掻き上げると、彼は嘆息をこぼす。その内に抱える苦悩を、わざと見せ付けるように。

「母を捨てたのでしょう」

 その態度に苛立って、マグリは追求するように声を荒立てた。しかし睨み据えた先で、男は頭を振る。

「違う。戻るつもりだった」

「でも、戻らなかった。十四年間。私は今の今まで、父親の存在を知らなかった」

「あの時、私はズルフィヤに共に来ないかと聞いた。けれども、ズルフィヤは来なかった。だから私は一人であそこを飛び出したんだ。最初は戻るつもりだった。けれども、叶わなかった。私はひとところに落ち着く事のできない性質なんだ」

 あまりに身勝手な言い分だとは思いながらも――同時に、マグリは胸に抱えた母への強い反発から、その発言を否定し切れなかった。口を(つぐ)むとそれきり押し黙って、がっくりと項垂れてしまう。

 ―何故に今更、この男は姿を現してしまったのか。この男さえ現れなければ、新たな悩みなど抱えずに済んだだろうに。

 虚空に泳ぎ出した男の骨ばった指先が、一瞬の躊躇いの後、マグリの肩に添えられる。いったい沈黙をどう受け取ったのか、仰ぎ見たその顔は微笑んですらいた。

「ズルフィヤは厳しい母親だっただろう」

 そして落とされた囁きに、瞠目する。二人の間に横たわる溝を埋めるように―マグリの心のささくれを見透かしたように、男は優しく、そして労わるように語りかけてきたのだった。

「あれは昔から、弱みを見せない女だった。きっと君にも辛く当たったに違いない」

 淡々と落ちた囁きに、マグリは肩を揺らした。

 ―母は厳しかった。残酷ですらあった。その今際で、ただ一人の娘に呪いをかけたのだから。その仕打ちのために愛情を信じられなくなって―それは何か、自分には縁遠いものであると感じるようになって。

 マグリの心にある未だ生乾きの傷に、どうして男は気が付けたのだろう。あるいはマグリの事を本当に、心から気にかけているからだろうか。そう思えば途端に心臓がきつく締め付けられて、マグリは一切の言葉を失ってしまうのだった。

「一人で預言者の役目を負うのも大変だっただろう。それどころか、王都に一人でやって来て。辛いこともたくさんあったはずだ」

 下唇を噛み締めたまま、頷く事も否定する事も出来ない。マグリはその時、胸の内で込み上げようとする情動に耐えようと必死だった。どうして今更、こんな風に自分を労わろうとする存在が現れてしまったのだろう。まるで預言者では無いマグリそのものを見据えているように―理不尽とも言える思いが、胸裡で際限無く渦を巻く。

 それは今まで孤独に戦うしかなかったマグリの存在を―根幹から揺らがしてしまうような、出逢いだった。

「どうして……どうして、今更」

 頭をもたげ、マグリは男を見据えた。目元が熱く、鼻にかかったように甘えた声が、忌まわしかった。

「確かに私はズルフィヤを捨てたかもしれない。しかし、それを後悔してもいる。だからこそ、今君が目の前に現れたと言うことは、ただの偶然ではあるまい。私はやり直したいのだ。ズルフィヤはもういないが、君がここにいる。そうだろう」

 だから、と、男のざらついた手のひらがマグリの頬を包む。温もりに満ちた眼差しを向けられる。一心に注がれようとするそれに、マグリははらわたを食い千切られるような痛みを覚えた。苦しくて仕方の無い痛みだった。

「私と共に来ないか。十分な生活はさせてやれないかもしれないが、それでも私は、君に出来るだけの事をしてやりたい。この十四年を埋めて―君の父親として」

 思えば、それは生まれて初めて、ただのマグリが必要とされた瞬間だった。

 預言者としてでは無く、マグリという存在そのものに価値を見出された、初めての経験だった。

(―今更、行けるものか)

 この地で母を凌駕すると心に誓った。それは父親の存在如きで揺らいではいけない決意だった。

(今更、この私が平凡な娘に戻れるはずがない)

 預言者としての道を突き進まなくてはいけない。どんなに険しい茨の道であっても、それだけが唯一母を越える方法なのだから。 

(それなのにどうして、どうして私は、こんなに)

 喉の奥から熱いものが込み上げる。張り裂けそうな胸に手を当て、マグリは堪えるように奥歯を噛んだ。耐えねばならないと思うのに、認めてはならぬと知っているはずなのに、どうしても抑え切れない何かがあった。それは心にじわりと滲み出す。そしてかすかな高揚となって、マグリを追い立てる。

(ただのマグリを必要とされた、それだけのことが)

 母に裏切られて空いた胸の(うろ)を、預言者として地位を高める事で埋め続けた日々。その寂しさを、この男が拭い去ってくれるのか。

(どうしてこんなに―――嬉しい、のだろう)

 男の澄んだ眸に優しく微笑まれ、マグリはぶるりと一度身震いする。もう耐えられない、そう思った。頭の中で、なにかが決壊してしまう。

 ぱたぱたと、透明な滴が頬を伝った。少女の頑なであったはずの虚勢が、あっけなく剥がれ落ちた瞬間だった。


 ――ぽろろん、と。奏でてもいない琵琶が、何処かで切なく音を立てた。


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