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破戒  作者: 八束
第二章 山並みに光るもの
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✵5


 鐘が鳴る。

 日の残照が僅かながらに闇の帳にこびり付く以外、あたりは押し寄せる夜の気配に充ちていた。ばら色の街は幾重もの薄絹に覆われると、しっとりと濡れた黒へとその姿を変えてゆく。その静謐を震わせながら鐘は鳴り、都を貫くクフ川の水面に微かな波紋を広げ、どこまでも鳴り響く。鐘の音は、闇の訪れとともに人の子に安息を知らせる物であった。

 壁の窪みに据えた蝋の光が、火影をぐらりと大きく広げた。びゅうと吹き付けた風が窓枠を揺らす。ばたばたと煽られる薄手の遮幕の隙間からこぼれ落ちる夕餉の香ばしい匂い、そして鼻先を摘みたくなるような獣脂の焼ける悪臭。記憶のどこか深い場所を刺激するような環境で、マグリは目を覚ました。薄い瞼が持ち上がると灰がかった翠の目が現れ、焦点も定まらぬままに煤けた天井を見つめる。遠くから鳴り響く鐘の音の余韻だけが、ずうっと、耳の奥で蟠るのを感じながら。

 ふと、隣に人の気配を感じて頭だけを動かす。さらりと頬に垂れた金の一房が、燈明に淡く染まった。

「マグリ。よかった、目を覚ましたんですね」

「…………イルハマ?」

 マグリの横たわる寝台の脇に椅子を寄せ、イルハマが座っていた。安堵したように目尻を和らげる少女をきっかけに、マグリの頭には怒涛の勢いで記憶が戻った。ぶるりと震えた手を、イルハマの冷たい指先がそっと掴む。

(そうだ、私は。王と対面して……)

 乾いた唇から、どうしよう、と声が漏れた。弾かれたように上体を跳ね起こし、少女の頼りない肩を揺さぶる。

「どうしよう、私。あんな粗相をしてしまって……!」

 思い返せば今でも息の詰まるような重圧感。それに耐えかねて、まさか胃の中身を戻してしまうとは―今まで王にそのような不敬を働いた者がいただろうか。必死に要領を得ない言葉で訴えれば、目を(すが)めたイルハマにやや強引に寝台へと戻された。

 重たげに揺れる睫毛が上がり、薄い灰色の眸がじい、とこちらを凝視する。その穏やかな水面のような眼差しに取り乱していたマグリも冷静さを取り戻し、すとん、と堅い寝台に腰を落とした。

 そんな彼女ににこりと笑いかけ、イルハマは言葉を紡ぐ。

「大丈夫。決して王は貴方のその行いを咎めようとは考えてはおりません。あの方とて、将来的に重用するかもしれない人材を失いたくはありませんから。それよりも……」

 響く言葉はそっと心を撫で付けるような優しさがある。

 そこで強張った精神がほぐれるのを感じ、マグリはほっと両肩を落とした。目線を膝に落として初めて、自分の体が清められ、また衣装も寝衣に変わっていることに気付く。慌てて礼を言おうと顔を上げた少女の目に飛び込んで来たのは―しかし、いつに無く厳しい顔つきをしたイルハマだった。

「イルハマ、」

「それよりも重要であるのは、貴女は宣託を口にしたと言う事。王はその通りに兵を動かし、生贄を捧げるでしょう。マグリ、貴女が覚悟すべきは、それによって王に何か不利益がもたらされた時―あるいはそれが信用に足りぬと判断された時。どのような処罰を受けるかは、私にも分かりません」

 宣託、と耳に入るや否や、マグリはびくりと怯え、肩を震わせた。ぎゅうと寝衣の裾を掴むと顔を伏せ、唇をきつく噛み締める。    

――礎となる場所にうら若き娘を埋め、神への供物とせよ。

 ――――勝利を望むのであれば山の麓に十の生贄を埋める。子供がよい。全員、青い目をした子供だ。

 耳朶の中で、ぶううん、と蜂の羽ばたきが蘇った。あの時網の目のように視界を覆い尽くし、霧散していった黄金色の煌き。燈明を赤く透かす翅が揺らぐ様―――そして。

 (ああ)、と音にならない溜息をこぼし、マグリはくしゃりと自分の髪を掴んだ。あの時の感覚がまざまざと体の中に蘇る。意識ははっきりとそこにあるのに、どこからか忍び込んできた暗い影が自分を動かし、まるで自分のように振舞う。そしてそれが、託宣となった。

「……分からない。一度やった時とは、まったく別の感覚だったんだ。私が私でなくなるような、あるいは、もう一人の私が、どこからか湧いてやってきたような…………」

 ぼそぼそと乾いた声で喋り、身の底から押し寄せる恐怖にぶるりと震える。マグリは縋るようにイルハマを見上げ、あれが何だったのか分からない、と囁いた。

 あるいはあれこそが、神の本当の姿だったのか。

 マグリが預言を授かった経験は、実はそう多く無い。母の元で何度か天候や赤子の性別を視た事があったくらいで、その時にはあのような異変は経験しなかった。逆に言えば、今回で初めて大きな物の兆しを視たのだ。

 だからこそ、あれが今まで声しか知らなかった神秘の正体では無いのか。マグリという器を用いて人の王にその宣託を伝える。たったそれだけの事であったとも解釈できる。

「では、マグリ。あの託宣は信頼できないと?」

「……信頼はできると思う。その確信は、どうしてか分からないが、あるんだ」

 そうですか、とイルハマが答える。差し伸べた手のひらでマグリの両頬を包み、顔を上げさせると、怯えるように目を細めた少女を覗きこむ。薄く赤く色づいた唇が、優しく弧を描いた。

「確かにあの時のマグリはまったくの別人に豹変したようでしたが、今のマグリはいつものマグリです。だから、大丈夫。貴方はちゃんとここにいますよ。―――お疲れ様、マグリ。大変でしたね」

 真摯な声は出来たてのスープのようにすうっと心の中を広がり、優しく浸み込んでゆく。マグリはくしゃりと顔を歪めると、言葉を詰まらせてこくこくと何度も頷いた。そう、あの存在が得体の知れない何かであっても―自分はやってのけたのだ。

 あの時泣きながら許しを請わなくて良かった。惨めな思いをしてでも、やり遂げることができた。

 母に呪われたこの力であっても、居場所を作ることができる。嗚咽をこぼす自分を優しく宥めるイルハマを前に、マグリは確かにそう思ったのだ。この先に待ち構える運命がどんな物であるか、一切気付きもしないまま。



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