タンデムシートと星空の夜(作:鈴木りん)
ようやく、街の雪も融けた。
吹く風も、そして彼の気持ちも、北向きから南向きに変わりつつある。
――キャンパスの中の、学生寮。
大学二年生になったばかりの雄史が三階の自室の窓から見渡したその世界は、肩身を狭くした雪が標高1000mほどの手稲山の頂にほんの少し残るだけで、眼下の森のそこかしこに新緑の息吹――真新しい何かのはじまり――が満ち溢れていた。
南国育ちの彼にとって、今まで経験したこともない北国の長く厳しい冬。
当初、雪の舞い散る姿を見てウキウキと浮かれていた彼の気持ちは、世界が日に日に雪に閉ざされていくようになると、あっという間に急降下した。深い谷底に突き落とされたかのような、そんなどんよりと暗い気持ちへと変化していったのだ。
(だって、冬はバイクに乗れないんだもん)
ガラリ、窓を開けた雄史。
沈んだ彼の気分を高揚させるかのように、ほんのりと湿り気を含んだ温かい風が、彼の頬を撫でてゆく。
すると突然、彼は朝のりんとした空気の中で悠然と聳え立つ山に向かい、吠えたのだ。
「なあ、教えてくれ! 俺にもし運命の人がいるのなら、その人は今、一体どこで何してるんだ?」
当然ながら、手稲山からの返事はない。
近くを歩く数人の学生が、少し怯えたような眼つき彼の方に振り返っただけだった。
「フン! イチイチ、こっち見てんじゃねぇよ」
足早にそこから立ち去ろうとする人々に紛れ、そのときの彼の眼に映ったのは、白く波打つ金属板の屋根の、寮の駐輪場だった。
「そういえばアイツ、どうなってるかな……」
アイツ――
それは、一年生だった去年の夏に彼が購入した、250ccのバイクのことだった。
大学に入った途端に、車には目もくれず、バイクの免許を取りに教習所に通いだした雄史。子どもの頃からの夢、「北海道一周、バイク一人旅」の実現のためだ。
けれど結局、一年生の時は、あまり遠出ができなかった。
それは、貧乏学生が新品のバイクをローンを組んでまで手に入れたためにバイトばかりして時間が無くなったのと、ガソリン代を思うように捻出できなかったからに相違ない。
(ほんっと、俺ってアホだな。そういうのを、本末転倒っていうんだぜ)
だが彼にとって、去年は悪いことばかりの一年でもなかった。
ピカピカのバイクで出かけた、最寄りの海水浴場。そこで出会った同い年の女の子を、『彼女』にできたのだ。たった四か月の間ではあったけれど。
チクリ。
彼女のことを思い出す度、目には見えない何か――妖精なのか、はたまた悪魔なのか――が現れては、彼の胸を尖った小さな針のようなもので、つんと刺していく。
窓を閉め、深くため息をついた彼は、小さなクローゼットから安物の黒い皮ジャケットを取り出し、ぱさりと羽織った。そして、金属の鍵の付いたキーホルダーをじゃらりと音をさせながらジャケットのポケットにしまうと、六畳ほどの小さな部屋のドアを開け、共同玄関のある一階へと、降りて行った。
下駄箱置き場を抜け、外玄関に抜ける。
何段かの階段を下りたところにある駐輪場には、相棒のバイクが停めてあった。
数か月ぶりに合う相棒は、まるで氷のように冷たく、そして埃まみれだった。
春の陽射を反射してヘッドライトから飛び出した一筋の眩しい光が、彼の網膜に突き刺さる。それはまるで、冬の間、ひとりぼっちで置き去りにされた相棒からの抗議の言葉のように、彼には思えてならなかった。
少しすまなそうな表情をした彼が、バイクのイグニッションにキーを差し込み、右に廻した。が、一冬を越したバッテリはその威力をすっかり失っており、スターターセルは、うんともすんとも、云わなかった。
「……仕方ねぇな」
バッテリーを取り外して充電をする。その間に、冬のばいじんで薄汚れた部品を布キレできゅっきゅと磨く。
バイク全体が綺麗になり、その単気筒のエンジンがぽんぽんと蒸気船のような小気味良い音を出すようになったのは、結局、夕方になってのことだった。
つまりは、一日が「おじゃん」になったのだ。当然、講義はすべてサボったことになる。
「まあ、いいじゃん。長い人生、一日くらい学校行かなくたって、どうってことねぇよ」
そう云って、自分に都合のいいように理解した、雄史。
やっと動きだしたバイクのタンデム(二人乗り)シートには、うっすら埃を被ったタンデム用の赤いヘルメットがひとつ、鍵でつなぎ止められるようにして、ぶらさがっていた。
これだけ朝から作業をしていたのに、雄史は、まるで今その存在を知ったかのような、そんな素振りをした。顔をしかめて、目を伏せる。
――それには理由があった。
去年の夏の、あの彼女のことだった。
真新しいタンデムシートに喜んで座るバイク好きの彼女のために、頑張ってバイトして、ヘルメットを買った雄史。
バイクに乗って、ちょこちょことと二人で近場を巡った日々。
けれど、別れは秋の終わりに、突然やって来たのだ。別れを告げてきたのは、彼女の方。
アンタと一緒にいてもつまらない……云々かんぬん。
雄史は、冬の訪れとともに、彼女のために買った赤いヘルメットを車体につなげたまま、いわば、駐輪場にバイクを閉じ込めたのだ。
冬の間は、雪がヘルメットとバイクを隠してくれた。その方が気が楽だった。
雪が融け去った今、そうも云ってはいられないのだが……
雄史は結局、そのヘルメットには手を触れることはなかった。
白地に青いラインの入ったフルフェイスのヘルメットを被りバイクに跨ると、ブンブンと数回アクセルを吹かし、赤いヘルメットをぶら下げたまま、彼は路上へと躍り出た。
(海を見たい)
行く宛も無いまま飛び出した彼の脳裏に浮かんだのは、あの、海だった。
こんな春先に行ったところで誰もいないであろう海水浴場は、前の彼女との辛い思い出の地だ。行きたくはない。行きたくはないが、勝手に足が向く。
ギアをトップに突っこみ、スピードを上げる。
しかし、五分ほど走ったところで、雄史は早くも後悔をし始めた。
もの凄く寒い! まだ、バイクで走るには早すぎたのか……
皮グローブの中の指が、ジンジンと疼きだした。
――男たるもの、このくらいの寒さに負けてどうする。
そんなことを考えて国道を走っているうちに1時間ほどが経過し、体中が凍りつく一歩手前で、海水浴場に到着できた。
この星の北緯43度、東経141度の辺りの海岸。そこは既に、相当暗くなってきていた。バイクのヘッドライトと去年の記憶を頼りに、浜辺の方に進む。
(これ以上進んだら、バイクが砂に埋まる)
雄史は、その辺りでバイクのエンジンを止めた。
エンジン音の無い世界は、まさに静寂の世界だった。耳の奥の方がジーンとなって、ズキズキと痛む。ただ遠くに、微かな波の音らしき音波だけが存在していた。
ジャケットのチャックを開け、シャツの胸ポケットから煙草を一本と銀のジッポのオイルライターを取り出した。
ジッポが、彼の心の奥底を、再びチクリとやる。
それが彼女からの誕生日プレゼントだったことを不意に思い出した彼は、未だにそれを手放せない自分に、少し腹を立てた。
シュボッ……
時折海から吹き付ける春の強く冷たい風をものともせずに、ライターはその役目を果たした。雄史の鼻をくすぐる、草が燃える香り。
ふと空を見上げた雄史。
思わず口が開き、煙草を落としそうになる。
見たこともない数の星々が、天一面に瞬いていたからだ。
「これが……本物?」
今まで彼が見たことのある、いや、見た気になっていた星空は、全くの偽物だった。
まさに、ミルキー・ウエイ。
真の暗闇の中、まるで牛乳を霧吹きで吹いたかのような細かく白い点の集合体が、夜空に帯状に広がっていた。
「アチッ」
気がつくと、煙草の火がフィルターの先まで届いていた。
人差指の先が炙られ、ひりひりとする……それほど長い時間、口を開けて空を眺めていたという訳だ。
煙草の火が消えると、辺りは、再び真っ暗になった。
寂しく感傷的な気持ちになっていた自分が、何だか馬鹿らしく思えてくる。
(……帰ろ)
と、そのとき雄史の耳に微かに届いた、すすり泣き声。
しく……しく……
(お、お化けは、夏に出るものだよな?)
しく……しく……しく……
雄史が、恐る恐る、声のする方に顔を向ける。
けれど、真っ暗闇の中、その声の主の姿は見当たらない。
しく……しく……しく……しく
どのくらい、その状態で過ごしただろう。
やっと暗闇に慣れた雄史の目に、一人の若い女性の姿がぼんやりと映り始めた。それはまるで、亡霊のようだった。ぼんやりと抽象的な世界の中、砂浜と駐車場の境目に丸まるように体育座りをして、重ね合わせた膝の隙間に、顔を沈めている。
「わ! 何時からそこに居たんだよ?」
「……は? ずっといたわよ。アナタがここに来る、ずいぶん前から」
彼女が、顔を上げずにそう答えた。
「そ、そうなんだ。ああ、そう……」
雄史はドキドキと弾む胸を鎮めようと、ポケットの煙草とライターを取り出した。
シュッ、シュッ……、シュボッ!
暗闇の中、うっすらと煙草の明かりに照らされた煙が、天の川に向かって立ち昇る。
「で、そこで何をしてるわけ?」
「アナタには、関係ないことだわ」
俯いたままの彼女が放った、冷めた言葉。
「もう、いいからほっといてよ!」
顔を上げ、すぐさま立ち上がった彼女。
見た目は、雄史と同い歳くらいの女子大生という感じだった。
ジーンズ、そして暖かそうな毛がふわりと付いたジャケットを、身に着けている。
煙草の炎に浮き上がった彼女の顔――涙でぐしょぐしょの顔――の中にかなりの存在感を持って配置された二つの瞳が、再び雄史の胸をどきりと鼓動させた。
「失恋……したのか?」
「……」
失恋という言葉は、まるで魔法の呪文のようだった。
急に力が抜けたように、その場にぺたんと、彼女はまた座り込んでしまった。
「良かったら、聴かせてよ」
「……」
「楽になれるかもよ」
自分のことは棚に上げ、説得する雄史。
「うん……実はね……」
ぽつりぽつり、彼女が語り始める。
涙の原因は、やはり失恋だった。
一年ほど付き合った、ある男とのすれちがい。
云ってはいけない言葉の応酬。そして、別れ。
そんな出来事の後、彼女はどこに行くのかも分からないバスにふらふらと乗りこみ、気づけば終着のこの場所にやって来ていた――ということらしい。
彼女の話を聴く間、立て続けに吸った、五本の煙草。
雄史は、最後の煙草の火を消すと、声が少し明るくなった彼女に向かい、タンデムシートのヘルメットを手渡した。
「乗れよ。送ってく」
「……」
「だってもう、最終のバスもないだろうしさ」
「……」
ヘルメットを被り、グローブをはめる。
「さあ、早く乗って!」
こくり、ついに頷いた彼女。
赤のヘルメットを身に着けた彼女は、エンジンがスタートしたバイクの後ろの席――タンデムシート――に、ちょっともたつきながら跨った。
「行くよ。しっかり掴まって!」
彼女の細い腕が、雄史の腹の周りに、すらりと巻かれた。
スピードが増すにつれ、その掴まる力がぐいぐいと強まっていくのを、雄史は感じた。
しばらく、車通りの少ない、暗い国道を進んでいく。
「行き先はこっちでいいんだよね?」
エンジン音でかき消されないよう、雄史が大声を張り上げる。
彼女はそれには何も答えずに、ただ自分のヘルメットを雄史のヘルメットにこつん、と合わせ、「そうだ」と返した。
猶も国道を突き進むと、ぽつりぽつり、少しづつ街明かりが増えていく。
とそのとき、雄史が叫んだ。
「もしよかったら、このタンデム席とそのヘルメット、君にあげるけど――どう?」
「……」
「意味わかる、よね?」
「…………」
聞こえてないのか、聞こえないフリなのか、彼女は黙ったままだった。今度は、ヘルメットのこつん、の合図もない。
(ああ……やっちまったな。傷心の彼女の心の隙を突くなんて、最低な野郎だ)
名も知らぬ女性に軽口をした自分が、嫌になる。
暗く重い気持ちでスロットルを握り直し、バイクを走らせる。
と、彼女が突然、口を開いた。
「ここで降ろして」
ヘルメットの中のくぐもった声で彼女が指定したのは、この街の北の端にある地下鉄の駅の入り口だった。バイクを停めると、彼女は、雄史の背後でごそごそと手間取りながらヘルメットを取り外し、雄史に渡した。
「ここからは一人で帰ります。今日は、ありがとう。少し気持ちが、すっきりした」
名前も告げずに、地下のホームへと消えて行く、彼女。
急に彼の方に振り返って手を振ると、こう云った。
「縁があれば、またね」
「……」
(あーあ、また、フラれてらぁ!)
ちらちらと左右に振った右手を収めるタイミングを逸した雄史は、そのままの恰好で、都会の夜空を見上げた。
その星空には、天の川がなかった。
心につけ込むなんて、最低な奴――
雄史が、彼女から受け取ったヘルメットを見遣る。そこにあったのは、彼女の名前と電話番号らしき文字が書かれた、小さなメモ用紙だった。
手袋を取り外した雄史は、胸ポケットから煙草を取り出し、銀のジッポで火を点けようとした。が、すぐにそれを思いとどまった彼は、通いの喫茶店のマッチを、違うポケットから取り出した。
ジッポを道端に投げ捨て、マッチで煙草に火を点ける。
カランカランと金属が跳ねる音が、いくつかの建物の壁を伝って、反響した。
「天の川――織姫と彦星が会う場所、か」
彼の口から吹き出された白い煙は、その身をくねくねとくねらせながら、ビルの谷間の暗い夜空へと昇って行った。
(Fin)
挿絵は樹里様。鈴木さんがいただいたイラストを作者の了解を得て使わせていただいております。