花の宴~初恋~(作:marron)
八幡宮から学校までの道には、両側に桜が植えられていた。
桜の木々は春になると一斉に花をつけ、その通りはさくら横ちょうと呼ばれている。
学校帰りの子どもたちが歓声をあげて駆け抜けていく。
学校の校庭のような騒がしさと、街の大人が行きかう陽気さを併せ持った、不思議な空間。
桜並木に守られて、そこは閉じられた花の世界。
子どもの帰る夕暮れをとうに過ぎ、八幡様も灯が入る。
横ちょうの店や家々には明かりがともり、春だけの淡い色の屋根が紺色の空にぼんやりと浮かび上がる。
春の宵、花の宴。
あたたかな夕餉の香りが漂う、そのさくら横ちょうを眺める少年がいた。
桜の天井を仰ぎながら現れて、玄関脇の桜の木の陰から、静かに首を傾げて行きかう人々を眺めている。
くっきりと、霞んで見せる花ざかり。
子どもはもう、とうに帰った時間。
横ちょうを歩く大人たちの中に、1人だけ少女が歩いてくるのが見える。
少年はその少女を見つけると、静かに息を吸い込んだ。
木の陰からそっと淡い視線で見つめる。
桜の中、少女は三味線を抱えて歩く。
三味線の赤い花模様の長袋と、少女の唇の赤さが、淡い桜にピリと引き立つ。
ピンと背中を伸ばしたその姿は、凛と美しい。白足袋の足元、草履が静かに花びらを踏みしめる。
昼間に見る、その少女の姿とは違う、夕暮れ時の姿を見られるのは、さくら横ちょうの木の陰から見ている少年だけ。
少年は少女を目で追う。
そのピリとした紅い美しさを眼の中に映しこむように、閉じ込めるように、声もかけず静かに。
学校の帰り道とは違う色の、さくら横ちょう。
彼女はいつも友だちに囲まれて、華やかな着物で装って、まるで女王のよう。
美しく。
気品と自信に満ち溢れた女王のよう。微笑んで歩く、たくさんの友たちの中で。
しかし、今は一人で三味線を抱えて歩く。さざめき笑う大人の中に紛れて、ともすれば見逃してしまうほどに、まだほんの子どもで。
半時ほどを待てば、少女はまた同じ道を戻る。
あの気高い女王が、時折悔しそうに涙を流して歩く。
肩で切りそろえた揺れる黒髪に、キリりとした泣き顔。
少年は恋い慕う。
胸の辺りが熱くなる。あまりの女王の美しさに目が離せないほどに。
その美しい姿を知るのは、少年だけ。
さくら横ちょうに住む、少年だけ。
春の宵。
あの日を思い出して、青年は桜の天井を見上げる。
もう会うこともないだろう。
美しい、気高い女王はどこへ嫁いで行ったか。座敷にもその姿を見なくなった。
もう会うこともないだろう。
キリりと泣きながら、前を見つめて歩いていた、あの美しい女王に。
春の宵、花の宴。
時は移ろい、少女は大人になる。少年の夢のふるさとに微笑む女王は、もういない。
今日もさくら横ちょうには、淡い涙が散る。
はらはらり、はらり、と。
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参考:加藤周一「羊の歌」
マチネポエティックもしくは薔薇譜「さくら横ちょう」に寄せて。




