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ELEMENT 2016春号  作者: ELEMENTメンバー
リレー小説
16/17

愛しい記憶喪失・第4話 (作:長谷川)

 ハロー、4月15日の私。

 気分はどう? 混乱してる? 無理もないか。

 でも安心して。これは全部想定内だから。

 まずはゆっくり深呼吸をして、冷静になって。

 この手紙を書いているのは、4月14日のあなた。

 だけど今のあなたにはこんな手紙を書いた記憶はない。

 そこまでは合ってる?

 何故記憶がないのか、どうしてこんな手紙を書いたのか。

 それは二枚目で説明するわ。

 だけどそれを読む前に、まずやってほしいことがあるの。

 いい?


 今すぐその家のリビングへ行って。

 そこで祥吾と会ってきて。


 そしてどうか確かめて下さい。


 あなたの愛を。







挿絵(By みてみん)







「結婚おめでとう、優子」


 式本番を間近に控えた、真っ白なブライズルーム。薄いレースカーテンに覆われた窓から注ぐ陽射しが眩しい。

 つい先程までメイクさんたちがバタバタと走り回っていたその部屋も、今は遥か天上のような静謐の中。部屋の中央に設けられた大きな鏡の前ですべての支度を終え、アンティーク調の椅子に腰かけてじっとそのとき・・・・を待っていた私は、突然背後から聞こえた声に瞼を上げた。


「――姉さん」


 目の前の鏡に映っているのは、何だか落ち着かないくらい真っ白なウェディングドレスに身を包んだ私。

 そしてその後ろにはいつの間にか、私の姉――高岡紀子が佇んでいた。

 姉は鏡の中の私と目が合うと儚げに微笑んで見せる。一時は彼女が姉であることを呪わしく思ったほど、わたしとは似つかぬ顔立ち。それがこうして綻ぶと、世の男どもはおろか同性でさえ見惚れてしまうくらい、姉は容姿に恵まれている。

 それが長いこと私のコンプレックスだったのだけど、今、その姉と共に鏡に映る私は負けないくらい綺麗だ、と胸を張れた。


 生まれて初めて克服できた劣等感。それは敏腕メイクさんたちの力添えあってのことだけど、それでも私はたまらなく嬉しくて、ルージュが引かれた唇で緩やかな三日月を描く。

 溢れ出る優越感に、胸が弾んだ。けれどもしその感情に色があるのなら、きっとこの美しい部屋やドレスを汚してしまうに違いない。


 だから私はしっかりと感情の小箱に蓋をして、ご丁寧に鍵までかけた。

 姉さんに対する罪悪感が、まったくないと言えば嘘になる。だって私はこれから、姉さんが何年も前から共に愛を育んでいた男性ひと――朝野祥吾さんと結ばれるのだ。


 だからその罪悪感が、私に残された最後の鍵。

 私は胸の中で小箱がカチャリと音を立てるのを聞いてから立ち上がり、羽衣のようなドレスの裾を翻す。


「来てくれたんだ、姉さん」

「ええ。あなたを担当してくれたメイクさんが、準備ができましたって教えに来てくれたから」

「ああ、そうだったんだ。このドレス……どう?」

「似合ってるわよ、とても。まるでおとぎの国のお姫様みたい」


 微笑みながらそんな台詞を吐く姉に、私も照れて笑い返す。姉さんは昔から、こういう歯の浮くような台詞を平気な顔で吐くのが得意だった。

 姉さんは一見凛とした大和撫子風なのに、中身は掴みどころのない、ふわふわの綿飴みたいなところがある。

 私は内心、それを「〝電波さん〟みたい」と白い目で見ていたのだけれど、祥吾さんは「紀子はロマンチストだね」と――。


 ……。


 祥吾さんは……あの人は姉さんのそんなところを愛したのだろうか?


 そんな思考がふと頭をよぎり、私はふるふると頭を振る。

 もうすぐ幸せな式が始まるというのに、余計な雑念を呼び込んで心を曇らせてはいけない。姉さんと祥吾さんの過去がどうであろうと、あの人と結ばれるのは私なのだから。


「あのね、姉さん」

「なぁに、優子?」

「今まで本当にありがとう。二年前に父さんと母さんが亡くなったときは目の前が真っ暗になって、もう明日なんて来ないんじゃないかって思ってたけど……でも、私には姉さんがいてくれた。そのおかげで今日まで頑張れたの。だから、ありがとう」

「いいのよ、そんな。だって、私たちはたった二人の姉妹なんだもの。支え合うのは当然でしょう?」


 そう言ってふんわりと笑う姉さんと、私は目を合わせられない。私の言葉はあまりに空疎な偽善と欺瞞。

 だけどそれなら姉の言葉はどうなのだろう? そう考えると、少し怖い。


 姉は、祥吾さんの記憶を失った。


 けれど毎日毎日、祥吾さんに恋をした。


 そんな姉の記憶喪失のループは今も続いている。きっと今朝だって姉さんは祥吾さんに恋をした。

 だけどその祥吾さんはもう私のもの。姉はそんな私たちをどんな思いで見ているのだろう?

 本当に心から祝福してくれている?

 それとも笑顔の裏では……。


 姉さんの表情からは本音が読めない。

 おしゃべりなのは陽射しを受けてキラキラと輝く彼女のパーティードレスだけ。


「だけど、姉さん。それならやっぱり、姉さんだってあの家で一緒に暮らせばいいんじゃない? あの家を相続したのは姉さんなんだし……」

「いいのよ。だっていくら姉妹だからって、新婚さんのお邪魔はできないじゃない? それに引っ越し先だってもう押さえちゃったし」

「だからって、何も沖縄に引っ越さなくても……」

「ごめんなさいね。だけど私、前から海の見える家でゆったり暮らすのが夢だったの。それも海外のリゾート地にあるような、広いテラスつきの家で」


 姉さんはどこか遠くを見るような、うっとりした眼差しで言う。その目には既に遠い沖縄の海が見えているかのようで、彼女はそのまま束の間目を閉じた。


「――波音が聞こえるわ」


 ……聞こえるわけない。

 ここは東京のド内陸だ。


「海が私を呼んでいるの。だから、ごめんなさい」


 奇跡みたいに長い睫毛を持ち上げて、姉さんは笑った。


 ――本当はそんな家に、祥吾さんと二人で住みたかったんじゃない?


 私はそう尋ねたいのをぐっと堪えて、微かに頷く。


「それじゃあ、そろそろ祥吾さんが迎えに来るでしょうから。私は会場に戻るわね」

「うん」

「緊張してるのかもしれないけど、大丈夫よ。今日の優子は本当に綺麗だわ」

「うん……ありがと。あの――あのね、姉さん」

「ん?」


 背中を向けかけていた姉が立ち止まり、無邪気な視線を投げかけてくる。その、まるでこれから青春を謳歌する少女のような眼差しの前で、私は開きかけた口を閉じた。


「……ううん。やっぱり何でもない」

「そう?」

「うん。本当にありがとう」

「頑張ってね」


 姉さんはそう言ってにっこり笑うと、花柄の絨毯が敷かれたブライズルームを出ていった。その後ろ姿が白いドアの向こうへ消えたのを見送って、私は力なく椅子に座り込む。


 ……何でだろう。

 どうせなら恨み言の一つくらい言ってほしかった。そしたら私は遠慮なく、ほんのちょっとの罪悪感と大いなる優越感に浸れたのに。

 これじゃあ私があまりに惨めだ。

 私だけが――。


「――やあ。これから人生で一番幸せなイベントを迎えるってのに、浮かない顔だね」


 そのとき突然響き渡った男の声に、私はびくりと跳び上がった。

 驚いて顔を上げれば、鏡に映った私の後ろ――そこに壁へ身をもたせて腕組みをした、奇妙な白黒髪の男がいる。


「T!」

「こんにちは。お別れの前に、一言お祝いを言いに来たよ」

「……ここ、新婦の親族とメイクさん以外立ち入り禁止なんだけど」

「連れないなぁ。言わばボクは君と祥吾の仲人だよ? 感謝歓迎されるいわれはあっても、そんな風にすげなくされる覚えはないなぁ」


 組んでいたはずの両腕を広げ、まるで深夜のテレビショッピングに出てくるアメリカ人みたいなリアクションをするその男を、鏡越しに私は睨んだ。

 まったく、この男は本当に神出鬼没……。さすがは人の記憶を喰らう人外様といったところか。

 あるいはこの男は、文字どおりの意味で悪魔なのかもしれない。そうだとすれば彼に頼んで姉から祥吾さんの記憶を、祥吾さんから姉の記憶を奪ってもらった私は、悪魔に魂を売った魔女ということになるのだろうけど。


「結婚おめでとう。そのドレス、似合ってるじゃない。この国ではそういうの、〝馬子にも衣装〟って言うんだっけ?」

「それ、褒め言葉じゃないから。ていうか馬鹿にしてる?」

「あれ? これは失敬、ボクの記憶違いだったかな? 最近色んな人の記憶を食べたから、ボク自身の記憶が混乱しててね」


 ……まったくいけしゃあしゃあと、この悪魔は本当に口が減らない。

 彼――Tにはあれからしばらく祥吾さんの心に棲みついて、あの人の心を私へ向けてもらった恩がある。けれど結局最後まで、彼には完全に心を許せないままだった。


「もうすぐ式が始まるね」

「……うん」

「分かってるなら、いつまでもそんなふてくされた顔してるなよ。せっかくボクが祥吾の親や友達の記憶を食べてお祝いムードを作ってあげたんだからさ」


 言い方が恩着せがましいのが気になるものの、そう言われると私も反論の余地がない。私が祥吾さんと確実に結ばれるよう、お膳立てしてくれたのは確かにこのTだからだ。

 何せ祥吾さんと姉さんは互いの両親公認の婚約者同士だったから、その祥吾さんが姉さんを忘れたからといって、その妹である私に手を出したと知ると彼の両親はいい顔をしなかった。

 それは姉と祥吾さんの関係を応援してくれていた二人の友達も同じ。だから私はTに頼んで、彼らの記憶から〝姉さんと祥吾さんが付き合っていた事実〟だけを食べてもらった。


 おかげで一度は広まりかけた祥吾さんの悪評も落ち着き、今は誰もが私たちの結婚を祝福してくれている。

 祥吾さん自身も心が私に傾き始めてからは姉さんに恋することはなくなったようで、今は私だけを愛してくれていた。


 私はそれが本当に嬉しい。長年の望みが叶った達成感と充足感。

 なのにその喜びの陰で、いつも誰かがそっと囁く――卑怯者、と。


 でも、でも……祥吾さんに私を見てもらう方法は、これしかなかった。

 私の方が姉さんよりも祥吾さんを愛してた。

 だから私は……。


「――さっきまでここに君のお姉さんが来てただろ」

「……!」

「ずっと君の前途をかげらせてきた姉を出し抜いた気分はどうだい? 痛快だろ?」

「それは……」

「それに良かったじゃないか、邪魔者が自分からあの家を出ていくと言ってくれてさ。これでもう君を悩ませるものは何もない。順風満帆、幸せな人生の幕開けだ」

「……」


 今度はまるで舞台上の男性俳優みたいに両手を広げてTは言う。私はそんなTを鏡越しにじっと見つめて、


「……そうかな」


 と呟いた。

 するとTは即答する。


「そうだよ」


 と。


 それから彼は洗練された動きでこちらへ歩み寄り、座っている私の耳元へ妖しく弧を描いた口を寄せる。


「君は自分で自分の幸福を選び取ったんだ。人間なら誰もがそうする。そこにチャンスが転がっていればね」

「……」

「それが人間の本能ってものだよ。君はその本能に従っただけさ。だからほら――顔を上げて」


 後ろからTの手が回されて、私の顎を持ち上げた。

 再び見つめた鏡には、今にも泣き出しそうな顔をした情けない花嫁が映っている。


「ボクの役目はここまでだ。あとはすべて君次第」

「うん……――うん。そうだね」

「君との取引はなかなかに面白かったよ。末長くお幸せに」


 Tの言葉に頷き、一度閉じた瞼を開けた頃。

 そこにはもうTの姿はなかった。

 正面の鏡に映っているのは、微かに目を赤くした私だけ。


「――優子」


 やがて背にしたドアの向こうから甘く愛しい声がして、私はぱっと立ち上がった。

 そうして体ごと振り向いた先。

 そこから真っ白なタキシードに身を包んだ祥吾さんがやってくる。


「時間だ。迎えに来たよ」

「祥吾さん……」


 私の両親は二年前に交通事故で他界している。だから私はウェディングプランナーさんの強い勧めで、亡き父の代わりに新郎である祥吾さんとバージンロードを歩くことになっていた。

 迎えにやってきた祥吾さんは、まっすぐに私を見つめて歩み寄ってくる。その後ろにここまで彼を案内してきたと思しいプランナーさんの姿があったけれど、私は祥吾さんの熱い視線から目を逸らせない。


 やがて祥吾さんが目の前までやってくると、私たちはしばらくの間、お互い何も言わずに見つめ合った。

 直前まで色々な感情が湧き上がっていたせいだろうか? 私を捉えた祥吾さんの熱っぽい眼差しを見ていると、何だか私まで熱いものが込み上げてくる。


「優子。綺麗だ」

「祥吾さん……」

「こんな月並みな言葉しか言えなくてごめん。だけど綺麗だ、本当に――優子。俺のお嫁さんになってくれてありがとう」


 ああ……ああ――ダメだ。

 今泣いたらお化粧が崩れちゃう。


 そう思って必死にこらえようとしたけれど、結局一粒だけ我慢できずに、左目から涙が零れてしまった。

 そんな私に微笑みかけて、祥吾さんはそっと涙を拭ってくれる。まるで小さくて頼りない雛の羽でも撫でるみたいに。


「優子。今、幸せ?」

「うん……うん。すごく幸せ。祥吾さんは?」

「俺も、すっごい幸せ」


 そう言って祥吾さんは屈託なく笑う。私が初めて彼に心奪われた頃と変わらぬ笑顔で。


「だけど、これからもっと幸せにする」

「うん」

「もっともっと、二人で幸せになろう」

「うん……!」


 私は感極まって祥吾さんの胸に飛び込んだ。そんな私を、祥吾さんも強く抱き返してくれる。

 直前までの私の胸を覆っていた靄は晴れていた。ああ、何を惨めに感じる必要があるのだろう。

 祥吾さんは今、こんなにも私を愛してくれてるじゃない。こんなにも!


 たとえそれが人ならざる者の力を借りた結果だとしても、祥吾さんが私を選んでくれたという事実に変わりはない。

 それなら私はこの幸せを受け入れよう。胸の中のどんな痛みも苦しみも甘く溶かしてくれるこの幸せを。


「行こう、優子」

「うん!」


 微笑みながら差し出された祥吾さんの手を掴む。そうして互いに笑い合い、私たちは初めの一歩を踏み出した。


 そう、これは私が祥吾さんと一緒に歩き出す初めの一歩。

 

 私は今日から『朝野優子』になるんだ――。



               *  *  *



 私たちの結婚式は、たくさんの人たちに祝福されて盛大に執り行われた。

 健やかなるときも病めるときも互いを愛し、敬い、助け合うことを神の前で認め合い、私たちは誓いのキスをした。

 沸き立つような拍手と祝福の鐘。

 晴れ渡る青空の下、私は舞い散る花びらの中で高く高くブーケを投げながら、これ以上ないほどの幸せに酔いしれた。


 姉さんが家を出て行ったのは、それから五日後のこと。

 私たちは空港まで姉さんを見送りに行き、そして別れた。

 「落ち着いたら二人で遊びに来てちょうだい」と微笑む姉さんに、私は頷いてみせたけど。

 姉さんがあの家を出て行くことになって、正直私はホッとしていた。


 姉さんを乗せた飛行機が飛び立っていくのを見送りながら、祥吾さんが「寂しくない?」と心配してくれる。

 私はそんな祥吾さんの肩に軽く頭を預けながら、「うん、少し」とうそぶいた。

 そんな私をそっと抱き寄せ、祥吾さんは優しく微笑む。

 「ならこれからは、紀子の分まで傍にいるよ」と。

 私は祥吾さんが記憶を失った今も姉を〝紀子〟と呼んでいることに少しだけ引っかかりながら、それでも「うん」と頷いた。

 だって、そんな瑣末なことなんかどうでもよくなるくらい幸せな気持ちだったから。


 そんな幸せな日々が、これからずっと続いていくのだと思った。

 事実、来る日も来る日も私は幸せだった。

 だけど、私たちの結婚から一ヶ月余りが過ぎた頃。

 私は日々の暮らしの中で、ある違和感に襲われるようになっていた。


 たとえば朝、遅れて起き出してきた祥吾に「おはよう」と声をかけたとき。

 祥吾に「なあ」と呼ばれて「なぁに?」と返事をしたとき。

 そして夜の営みの中で、ふと祥吾と目が合ったとき。


 その度に祥吾が、「あれ?」という顔をする。

 まるでまったく知らない人を、親しい人と間違えて呼び止めたときみたいに。


 私はそんな祥吾の顔を見る度に不安になって、「祥吾?」と呼びかける。

 すると祥吾はハッとした顔をして、「ああ、優子」と確かめるように私の名前を呼ぶ。


 何かがおかしい、と思った。

 けれど私はその違和感について、深く考えることをしなかった。

 だって、答えを求めて深く深く潜ったら、その先の暗闇で何か恐ろしいものが待ち構えているような気がしたから。

 だから私は何も気づかないふりをして、祥吾との幸せな日々を過ごした。

 その代償があんなに高くつくとも知らずに。


 それは、私と祥吾が結婚してちょうど三ヶ月が過ぎた頃。

 ある夏の日の、七時二十分。

 いつものように起き出してきた祥吾が、キッチンから声をかけた私を見てこう言った。



「――君は誰だ?」



 と。



               *  *  *



「心因性系統的健忘依存症ですね」


 と、診察室の真ん中で一人、抜け殻みたいに座り込んだ私へ医者は言った。


「心因性……?」

「まあ、平たく言えば不安障害と解離性健忘の合併症のようなものです。近年ようやく認知されてきた病気で、まだ世界的にも数十件しか症例がありません。そのため医者の間でもあまり知られておらず、私も実際に患者を診るのはこれが初めてです」


 東京中にある大きな病院を何件も回り、ようやく辿り着いたとある総合病院。その一階にある精神科で、私は医者の口から淡々と語られる事実を半ば茫然と聞いていた。

 ようやく祥吾を襲った謎の病気の正体が分かったのに、頭がぼんやりしていまいち話が入ってこない。祥吾の病名をずばり言い当てた医者は六十近いベテランの精神科医で、四角い眼鏡の奥にある眼差しは厳しく、話している間もあまり表情の変わらない人だった。


「不安障害と解離性健忘についてはご存知ですか?」

「はい……ああ、いえ、ほんの聞きかじりの知識だけで、詳しくは……」

「ではご説明しますが、まず不安障害というのは、患者がある物事に対して過剰な不安を覚え、日常生活に支障をきたす障害のことです。たとえば〝明日、東京で大きな地震が発生するのではないか〟。こういう不安が慢性的に、精神に異常をきたすほど強く患者を襲う障害で、悪化すると身体にも影響を及ぼします」

「はあ……」

「解離性健忘というのは、まあ、俗に言う〝記憶喪失〟というやつですね。ですがこの記憶喪失にもいくつか種類がありまして、今回旦那さんに見られるのは系統的健忘という種類のものです。これはある特定の物事や人物に関する記憶のみを失うもので、今回旦那さんはあなた――朝野優子さんにまつわる記憶のみを失っている。検査の結果、それ以外の記憶はどれも正確に残っているようですから、この種の健忘症でまず間違いないでしょう」


 祥吾のカルテをペラペラと眺めながら、医者は抑揚もなく事実だけを告げる。私はそんな医者の話をやはりぼんやりと、どこか上の空で聞いていた。

 だってそれがたった今自分たちの身に降りかかっている現実だなんて、とても受け入れられなかったから。


 愛する人の記憶だけを失う病――。


 まさかそんなものが、本当に存在していたなんて。


「この心因性系統的健忘依存症のメカニズムは、たった今お話した不安障害と同じです。たとえばあなたのようなパートナーのいる患者ならば、〝明日、自分はこのパートナーを失ってしまうのではないか〟という強い不安が患者の精神に作用する。患者は常時思考を支配するその不安に耐えられず、やがて自らの精神を守るためその不安のもとを絶とうとするのです。すなわち――自分が恐れていることにまつわる記憶を封印する」

「……」

「今お話した例で言うならば、患者はパートナーの記憶を自ら封印する、ということですね。そうしてパートナーの存在を忘れてしまえば、患者は〝相手を失うかもしれない〟という不安から解放される。心因性系統的健忘依存症の患者はこのようにして精神の均衡を守るのです。そしてそのまま不安の原因を忘れている状態に依存してしまうことから、この病気は〝健忘依存症〟と呼ばれるわけですが……」

「……」

「この病気の治療法は、他の解離性健忘同様確立されておりません。薬物療法によって患者の不安衝動をやわらげることはできますが、根本的な問題の解決には健忘の原因となっている〝不安〟の正体を突き止める必要があります」

「……」

「奥さん。旦那さんはあなたの記憶だけを綺麗に失っている。これについて、何か思い当たる節はありませんか? たとえばあなた自身、重い病気を患っておられるとか……」

「いえ……特には、何も……」

「そうですか」


 辛うじて私がそう答えると、医者はギッと椅子の背もたれを鳴らしてため息をついた。

 そのため息に〝使えない女だ〟と言われたような気がして、私は肩身が狭くなる。毎日ずっと一緒に生活していながら、夫の異変にも気づけなかった馬鹿女――医者はそんな風に思っているかもしれない。


「ではご相談なのですが、旦那さんの入院を一週間ほど延長なさいませんか?」

「え……延長、ですか……?」

「そうです。旦那さんは現在神経内科の預かりで検査入院ということになっていますが、これを精神科ウチで引き取ります。この病院には専属のカウンセラーがおりますから、そのカウンセラーを通じて一週間、精神療法を試してみてはいかがかと」

「そ、それで旦那は良くなるんですか?」

「こればかりは試してみないと何とも言えません。何せ私も初めて診る症例ですから」

「そ、そうですか……そうですよね……」


 私は出所の分からない不安と焦りと惨めさで、うつむいたまま膝の上の両手を握り締めた。

 効果があるかどうかも分からない精神療法。そのために祥吾を更に一週間入院させる……。

 そんなことをして果たして意味があるのかどうか、私は疑問で仕方なかったけれど、他に選択肢がないことも事実だった。

 だってこの病院以外では、祥吾の病名さえはっきりとは分からなかったのだ。祥吾が現在神経内科なんかに入院しているのがその左証で、最初にかかった医者が「これは脳の病気かもしれない」なんて言うものだから、私たちは今日までありとあらゆる病院の神経内科や脳外科を転々としてきた。


 そうして盥回たらいまわしにされてきたこれまでの病院に比べたら、ここはまだ見込みがある……。

 そう結論づけた私は、祥吾の入院を延ばすという医者の提案に合意した。医者はそれを受けて「分かりました」と頷くと、カルテに新たな記述を加えながら言う。


「では早速そのように手配しましょう。ところで、旦那さんのご両親はご健在ですか?」

「え? あ、はい、義父ちち義母ははも元気ですが……?」

「では、そのご両親に旦那さんの記憶障害の件は相談を?」

「い、いえ、それが……旦那が自分の症状について、確かなことが分かるまで親に心配をかけたくないと言いまして……」

「ということは、まだお話されていない?」

「は、はい」

「ではすぐにご両親と連絡を取って、一度当院までご足労いただきたいとお伝え願えませんか。旦那さんの入院中のことについて、色々とお願いしたいことがありますので」

「……? それなら私が伺いますが……?」

「ああ、いえ、申し訳ありませんが、奥さんは旦那さんが入院されている間は一切面会にいらっしゃらないで下さい。旦那さんの症状の原因が奥さんにある可能性が高い以上、まずはその原因を遠ざけるところから始めなければならないんです」


 ――それは、事実上の面会謝絶。


 医者の放った言葉は巨大な氷の塊となって私の頭に落下し、更に砕けた破片がグサグサと容赦なく胸に突き刺さった。

 もちろんそれが祥吾の治療のために必要な措置なのだということは分かる。分かるけど……。


 祥吾の記憶喪失の原因が私?

 祥吾はそれだけ私を愛してくれてたってこと?

 だけど原因は本当にそれだけ……?


 もしかして、私が過去に祥吾の記憶をいじくり回したことが関わってるんじゃないの――?


 そんな考えが脳裏をよぎると、私は恐ろしくてたまらなくなった。体が真冬の雨にでも濡れたみたいにぶるぶる震え出し、自分の腕を掻き寄せる。

 それを見た医者から「どうかされましたか?」と尋ねられ、私は何とか「いいえ……」と返事を絞り出した。けれど、歯が鳴るほどの震えは止まらない。


「奥さん。大丈夫ですか?」

「だ……大丈夫です……旦那のご両親には、すぐに連絡を入れますので……」

「それは助かりますが、気を確かに持って下さい。今回の措置はあくまで旦那さんの不安の原因を探るためのものですから。あなたがすべて悪いのだと責めているわけではありませんよ」

「はい……はい……分かってます……」


 自分の腕を抱いたままうつむき、私は弱々しく返事をする。それ以上はどうすることもできなくて、ひとまず診察室をあとにすると、私は祥吾に事情を説明し、入院延長にかかる手続きを済ませて自宅へ戻った。

 入院生活に必要なものは最初の検査入院の段階である程度揃えてあるけれど、そこから更に一週間となると他にも細々としたものが必要になるかもしれない。

 だから私はすぐさま義母に連絡をして事情を話した。話を聞いた義母はしばらく絶句していたものの、情けなくも電話口で涙声になってしまった私に慌てたのか、すぐにこちらへ来てくれるという。


 祥吾のご両親は隣の神奈川県に住んでいて、こちらまでは電車を乗り継いでくる。私はそれを最寄り駅まで迎えに行き、義母と二人で再び病院へ舞い戻った。

 病室にお義母さんが姿を見せると、祥吾はすごくホッとしたみたいだ。無理もない。何せ彼は記憶障害の症状が出始めてから今日まで私と――見知らぬ女・・・・・と夫婦として過ごさなければならなかったのだから。


 それでも祥吾はお義母さんの顔を見ると、開口一番に「母さん、心配かけてごめん」と謝った。お義母さんはそんな祥吾を慈しむように「大丈夫よ」と手を摩り、私はその後ろで一人、赤の他人・・・・としての疎外感に唇を噛み締めた。


 どうしてこんなことになったんだろう……。


 答えの見えない疑問がずっと脳裏でループしてる。


 どうしてこんなことに。

 どうして。

 どうして……。


「優子ちゃん、大丈夫よ。こんなのはきっと一時的なものだから。祥吾だってすぐに優子ちゃんが恋しくなって思い出すわ。だからちょっとだけ待っててあげてね」


 その日の、病院からの帰り道。

 車の助手席に乗ったお義母さんからそう言われ、私は何も答えられずに頷いた。

 お義母さんはそのまま一度神奈川へ帰り、明日から一週間うちに泊まり込むことになっている。私はお義母さんを駅まで送り届けたあと、今度は漠然とした不安だけを助手席に乗せて帰路へ就いた。


 それから一週間。

 祥吾はお義母さんに付き添われながら病院での診療とカウンセリングを受けたけれど。


 結果から言えば、祥吾が私を思い出すことはなかった。

 医者もカウンセラーも一体何が祥吾の記憶を抑え込んでいるのか、その根本的な原因を突き止めることができなかったという。


 その後も週一回のペースで病院に通い続けたけれど、治療の効果は表れず。

 祥吾の中の私に関する記憶は相変わらず一日しか持たなかった。

 そうして次の朝を迎えると、祥吾は私を忘れている。

 対策としていつも祥吾の枕元に日記帳を置いておき、朝起きたらまずそれを読むという習慣を設けてみたのだけれど、それでも記憶は戻らない。ただ祥吾がリビングへ下りて来る度に、私を見て驚くことがなくなっただけだ。


「えっと……君が朝野優子さん?」


 毎朝七時二十分。

 恐る恐るリビングへやってくると、祥吾はためらいがちにそう口にする。


 そんな日々が、次第に私の精神を摩耗させた。

 祥吾が毎朝私と会う度に見せる怯えた表情が、私をひどくイラつかせた。


 だって――だって、あまりに違いすぎる。

 以前は記憶を失う度に、姉さんに恋していたくせに。


 なのに私に見せるのは怯えた顔。

 毎朝毎朝、記憶を失う度に。

 そこには私へ向かう恋慕や焦燥なんて微塵もない。


 どうして?


 どうして私には恋してくれないの?


 あんなに〝愛してる〟って言ったくせに。

 〝幸せにする〟って言ったくせに――。


 嘘つき。


 嘘つき、嘘つき、嘘つき!!


 そんな怒りと惨めさが、毎日毎日私を襲う。


 私たちはもう終わりだ、と、そんな予感がした。私はすっかりノイローゼになって、毎日ヒステリーに祥吾を責め立てるようになっていたから。

 祥吾はそんな私にただひたすら「ごめん」と言う。

 「全部俺のせいだ。君を思い出せない俺が悪い」、と。


 分かってる。

 本当は祥吾にそんなことを言わせたいわけじゃない。祥吾は何も悪くない。


 分かってる。

 分かってるけど――。


 それでも祥吾を責めて怒鳴りつけてしまうのは、どうして?

 私は彼が自分を愛していないと責める。

 だけど本当にそうなの?



 愛してないのは、私の方なんじゃないの?



 その事実に気がついたとき、私は冷たい恐怖に呑まれて震え上がった。

 そんなはずはない。そんなことない。私は祥吾を愛してる。

 だから奪った。自分のものにした。あんなに幸せだった。

 なのに愛してないなんて。そんなはずない。絶対に違う。

 私は必死で自分の愛の証拠を探した。

 ――けれど。


 思い出せない。

 思い出せないの。

 どうして私は祥吾を好きになったんだっけ?


 私は彼のどこに惹かれたの?

 あんなに強く手に入れたいと願ったのは何故?


 私は一度、祥吾の記憶を全部Tにあげてしまった。

 だから思い出せない。祥吾を好きになった理由。なんにも思い出せない。

 それなら私はどうしてあのとき姉から祥吾を奪ったの?

 分からない。自分で自分が分からない。


 私は、もしかしたら。


 初めから祥吾を愛してなんかなかったの――?



               *  *  *





 ――ピンポーン。


 遠い意識の向こうから、インターホンの音が聞こえた。


 ――ピンポーン。


 二回目のチャイムが鳴って、私はようやくのろのろと体を起こす。


 そこは自宅二階にある私の部屋。時計を見ると時刻は午前十一時過ぎ。けれども部屋の中は薄暗い。すべての窓のカーテンを閉め切っているせいだ。

 そう広くもない部屋に広がる、大袈裟なほどガランとした空気。私はズキズキと二日酔いであることを主張する頭を押さえて、どうにかベッドから這い出した。


 今日は土曜日で、会社は休み。祥吾はお義母さんに連れられて病院へ行っているはずだ。

 一方の私は最近よく眠れないストレスから酒を過ごしてこの有り様。ぐらぐらする頭に手を添えながら立ち上がり、直後、鏡台に映った自分を見やって失笑する。


 ――ひどい顔。


 いわゆる〝プリン〟状態になりつつある髪は何かの実験に失敗したみたいにボサボサで、飲みすぎたせいだろう、顔もすっかりむくんでる。

 目も半分以上開いてないし、化粧もしていないから、まるで山から下りてきた山姥やまんばみたい。これで手になたでも持ってたら完璧だ。


 ――ピンポーン。


 私がそんな自虐に耽っている間にもチャイムは鳴る。私は「はぁい」と生返事をしながら手櫛で髪を整えて、やっとのことで部屋を出た。

 今日は来客の予定なんて特にないけど……何か宅配を頼んでたっけ?

 訪問販売や新聞の勧誘なら即刻断ってやる。この顔なら「今、体調が悪いので……」とでも言えば信憑性バツグンだろう。


 そんなことを考えながら階段を下り、玄関のドアを開けたところで、私は驚きに目を見開いた。


「――姉さん?」


 私にそう呼ばれた彼女は、庭の木と同じ色に染まった秋色の帽子を押さえながら。


「優子、久しぶり。遊びに来ちゃった」


 そう言って、半年前と少しも変わらない顔で、笑った。



               *  *  *



「も~、急に来るからびっくりしたよ~」


 と言いながら、私は慌ててテーブルの上のグラスを片づける。今朝一度起きたときに飲んだレモン水の飲みさしだ。

 更にキッチンは昨日飲んだお酒の缶と瓶だらけ。祥吾に「自分で片づける」と言っておいて、すっかりそのままだったのを今になって思い出した。

 ひとまずそれらはまとめて適当なビニール袋へ。ガチャガチャと騒がしい音を立てて私が慌てているのを見ると、リビングの入り口に佇んだ姉さんは帽子を胸に当てて「ふふっ」と笑う。


「別にそんなに慌てなくてもいいわよ、優子。連絡しなかった私も悪いんだし、ここは半年前まで私も暮らしてた家だもの。多少汚れてたって気にならないわ」

「ご、ごめん……いつもはもうちょっと片づいてるんだけど、昨日は寝るのが遅くて……」

「祥吾さんと飲んでたの?」

「へ?」

「お酒の匂い。だけど祥吾さんって、確かお酒が弱いんじゃなかったかしら?」

「う、うん……まあ、そんなことより座ってよ。今、コーヒー淹れるからさ」


 気まずさをまぎらわすように言って、私は姉さんにリビングテーブルの椅子を勧めた。姉さんは相変わらず雲のようにふわりと笑い、礼を言いながらテーブルの手前、右端の椅子に腰かける。


 そこは姉さんが子供の頃からずっと変わらない、彼女の指定席。


 そして今は、私の指定席。


 だって祥吾はいつもその向かいの席に腰かけるから。

 それは姉さんがこの家にいた頃からの習慣で、祥吾は姉さんの記憶を失ってからもいつもそこに座り続けた。

 だから私は姉さんが沖縄へ去ってから、素知らぬ顔でその席を奪ったのだけれど。


 その、私の大事な特等席は、あっさりと元の持ち主に奪い返された。


 コーヒーメーカーに水を注ぐ手元が少し狂う。

 おかげでシンクの上が水浸しになり、私は姉には聞こえぬように舌打ちした。


「だけど、どうしたの? 連絡もなしに突然来るなんて」

「実は明日、大学時代の友達の結婚式があってね。それで昨日から東京に来ていたの」

「昨日から? なら、なおさら連絡くれれば良かったのに。わざわざホテルに泊まったの?」

「まさか。昨日は一緒に式に行く友達の家に泊まったのよ。本当は、今日はその子とドレスを見に行く予定だったんだけど、途中で向こうに急用が入っちゃってね。それで夕方まで時間が空いてしまったから」

「ああ……なるほど。それで時間潰しに来たんだ」

「ふふ、ごめんなさい。私も今回は時間がないから立ち寄れないだろうと思っていたのだけど、偶然体が空いたから、ちょっとびっくりさせようかと思って」


 そういうとっさの思いつきで行動するあたりも、私の知る姉のままだ。私はそれを再確認してホッとしたような、何となく忌々しいような、そんな複雑な心境になって口を閉ざした。

 何しろ姉さんとは、彼女が沖縄へ飛び立ってから連絡も途絶えがちになっていたから。姉さんはお盆や大型連休も何かと理由をつけて帰ってこず、私はそれを〝避けられているのかも〟と思っていた。

 だからこちらから連絡を入れるのは何だか気まずかったし、何よりその状況は私にとって好都合だった。私は姉さんとの距離が開けば開くほど心のどこかで安心していたのだ。


 ――どうせならこのまま帰ってこなければいい。


 いっそそんな風に思っていたなんて知ったら、さすがの姉さんも私を薄情者と罵るだろうか?


「――祥吾さんは?」

「……え?」


 コーヒーメーカーに注いだ水がぐつぐつと煮え始める音。

 その微かな音の中に思考を抱いて沈んでいた私は、姉の声にハッと顔を上げた。


「あ……しょ、祥吾が何?」

「祥吾さんは、今日は出かけているの? せっかくだからあの人にも挨拶をと思ったのだけれど」


 途端に嫌な汗が額に滲む。私はデカンタの把手を握った手に思わずぎゅっと力を込めた。


 ――祥吾の記憶障害の件。

 それを姉に打ち明けるべきか、否か。


 私は口内が急速に渇いていくのを感じながら、キッチンタイマーと一体化した立て置き式のデジタル時計に目をやった。

 時刻はもうすぐお昼。二日酔いのせいで記憶があやふやだけど、確か祥吾は今日、病院のあとお義母さんの買い物に少し付き合うと言っていたはずだ。

 その〝少し〟と言うのが問題だけれど、上手くすれば姉と祥吾が鉢合わせする事態は避けられるかもしれない。それなら姉に祥吾のことを話す必要性はなくなる……。


 私は何となく、祥吾が私の記憶を綺麗サッパリ失っていることを姉に教えたくなかった。

 あの複雑な病気についてイチから説明しなきゃならないのは億劫だったし、その病気の原因が私かもしれないなんて、姉の前では口が裂けても言いたくなかった。

 ましてやその病気のせいで、祥吾との関係が悪化しているなんて――。


 私は自分の中のちっぽけなプライドに担がれて、ぎゅっと唇を引き結ぶ。


 そうだ。姉さんにはこのまま何も知らずに帰ってもらった方がいい。


 このまま。このまま――。


「優子?」

「……。今日ね、神奈川から祥吾のお義母さんが来てるの」

「まあ、そうなの?」

「うん。お義母さん、浅草に買い物に行きたいって。だから祥吾は朝から親孝行中。たぶん夕方まで帰ってこないと思う」

「そう……それは残念ね。せっかく久しぶりに来たのだし、祥吾さんの口から優子の新妻ぶりを聞きたかったのだけど」

「何それ。そう言う姉さんこそ、沖縄で恋人の一人くらい見つけたの?」

「ええ、見つけたわ。自分でも怖くなるくらい離れがたい相手が」

「えっ、うそ! どんな人!?」

「――海よ。沖縄の海」


 まるで絵本でも読んでいるみたいにゆったりと、穏やかに微笑んで姉さんは言った。その答えを聞いた私は一瞬固まり、それから「なぁんだ……」と肩を落とす。


 こういう〝電波〟なところも相変わらず。

 だけど姉さんはどこまで本気で言ってるのだろう?


 祥吾の記憶を失ってからというもの、姉は私の知る限り一度も恋をしてない。

 祥吾以外の誰かとは、一度も。


 それは姉さんの理想の人がなかなか現れようとしないから?

 それとも――。


「――ねえ、姉さん。それなら私たちも久しぶりに姉妹二人で出かけない?」


 と、私が姉さんにそう持ちかけたのは、お互いに近況を話し終え、手元のコーヒーカップも空になった頃だった。

 時計を見れば、二本の針は既に十二時半を回っている。ちょうどお昼どきだし、ランチも兼ねて出かけてしまえば、姉さんと祥吾が鉢合わせる可能性を更に減らせるという魂胆だ。

 姉さんは私が明らかに二日酔いの顔色をしているのを見て無理はしなくていいと言ってくれたけど、私は「体調ならもう大丈夫だから」と嘯いて、彼女をこの家から遠ざけることにした。


 自分でもやることがいちいち姑息だとは思うけど、ずっと気分転換したかったしちょうどいい。今日くらいはパーッと散財して、夏から溜まりに溜まった憂さを発散しよう。


 そうすれば今夜は少しくらい祥吾に優しくなれるかもしれない。

 そこからもう一度やり直すの。


 そうよ。


 私たちの恋を、もう一度――。


「――優子、先に出てるわよ」

「うん、すぐ行く!」


 一階から投げかけられた声に、私は慌てて声を返す。着替えを済ませ、髪も軽く整えて、用済みになった化粧道具は乱暴にポーチへ詰め込んだ。

 外では三十分ほど前に呼びつけたタクシーが待っている。自家用車は祥吾が乗っていってしまったので、二日酔いのままふらふら歩くことを避けるための苦肉の策だ。

 そのままベッドの上に放ってあったショルダーバッグをひったくり、私は自室を飛び出した。先程改めて飲み直した二日酔いの薬が効いてきたのか、頭のぐらぐらはだいぶ治まっている。


 うん、これなら大丈夫だ。

 あとは今日一日姉さんと買い物を楽しんで、帰りに祥吾の好きなビターチョコのケーキを買って、たぶん明日には忘れられてしまうのだろうけど、今日までのことを一度きちんと謝って、それから、それから――


「――あ」


 ――それから、祥吾ともう一度恋をするの。


 L字型の階段を駆け下りて、最後の一段にそんな決意を込めたところで、私の足はぴたりと止まった。


 秋の匂いがする。


 玄関から肌寒い風と共に吹き込んでくる、乾いた匂いが。


「…………祥吾、」


 やっとのことで絞り出したその声は、名前の持ち主に届かなかった。


 陽射しが斜めに注ぐ玄関先で、帰宅した祥吾と姉が見つめ合って固まっている。


「……紀子?」


 茫然と立ち尽くした祥吾が姉の名を呼び、姉はその声に朦朧もうろうと頷いた。



 その日、祥吾ともう一度恋に落ちたのは、私じゃなかった。



               *  *  *



 祥吾はそれからも私を思い出すことはなかった。

 けれど姉のことは忘れなかった。

 祥吾の見舞いと称して、姉が毎週帰ってくるようになっても。


 二人は恋に落ちていた。

 燃えるような恋に落ちていた。


 なのに祥吾は姉のことを忘れない。

 それはつまり、祥吾の病が〝最も愛する人を忘れる病〟ではなかったということ。


 私は二人が強く惹かれ合う様を、為す術もなく見ていることしかできなかった。


 毎朝毎朝、愛する人に忘れられながら。



               *  *  *



「――やあ、こんばんは」


 ふわりと窓から迷い込んだ夜風が、春の匂いを運んでくる。

 少しだけ肌寒い、それでいてどことなく優しい風。

 その風が、自室のベッドに身を投げ出した私の肌をそっと撫でる。お客さんだよ、とでも教えるように。


 祥吾との結婚から、丸一年の夜。私はベッドサイドのランプが一つだけ灯った暗い部屋で、ぼんやりと窓辺に視線を送った。

 そこに一人の男が立っている。

 月明かりに濡れた窓辺に、悠然と背中を預けた白と黒の髪の男。


「久しぶりだね、優子」

「……T」


 私は辛うじて居残っていた自我を掻き集め、既にいくつもの記憶に埋もれつつあった男の名を掘り出した。

 まるで今日、このときに掘り出すことを決めていたタイムカプセルみたいに。


「どうしたの? しばらく見ない間にずいぶんやつれたね」

「……」

「今頃は祥吾と幸せいっぱいの生活を送ってるだろうと様子を見に来てみたんだけど、どうやらその予想は外れたようだね?」

「……」

「せっかく美味しい記憶のおこぼれに与ろうと思って来たのに、空振りかぁ。ついてないや」

「……」

「ねえ、優子。ボク、お腹が空いてるんだけど」


 男はそう言って、月明かりの青とランプの灯の橙の狭間で、ぺろりと妖しく唇を舐めた。

 ああ、私は知っている。それは〝ごちそうを食べさせてくれ〟という彼の合図。


「ボクには見えるよ、君の記憶が。中にはごちそうも混じってるみたいだけど、新鮮なのはどれもまずそうなのばかりだね? ねえ、また一年前みたいに取引するかい?」


 Tはこの一年の間に起きた出来事、そのすべてを理解しているような口振りだった。あるいはこの男は初めから私たちの姿を傍観していて、再びこうして取引を持ちかける頃合いを窺っていたのではないかとさえ思う。

 だけど私にはもうTの思惑も真相もどうでも良かった。

 ただ鉛を飲んだように重い体をどうにか重力から引き剥がし、胡乱な目でTを見据えながら、言う。


「いいよ、T。取引しよう。あなたに食べてほしい記憶があるの」

「御安い御用で。で、今度は誰の記憶を食べればいい? 祥吾? 紀子?」

「いいえ。あなたが食べるのは――私の記憶」


 低い声で答えれば、Tはわずかばかり意表を衝かれたように目を丸くした。

 いつも飄々としていたこの男を少しでも驚かすことができたなら満足だ。そう思った私は口の端に虚ろな笑みを滲ませる。


「君の記憶を食べるって、ボクは別に構わないけど、それじゃあ君は祥吾のことを諦めるのかい? あんなに焦がれてようやく手に入れたってのに、どうでもよくなっちゃった?」

「違うわ。どうでもよくないから忘れるの」

「というと?」


 まったく意味が分からないと言いたげに、Tは窓辺で首を傾げた。人外でさえなければ今頃テレビや雑誌で引っ張りだこになっていそうなほど整った顔立ちが、今は世間を知らない子供のようにきょとんとしている。

 私はそんなTに微笑みだけを返して、ベッドを下りた。

 そうして入り口の脇に置かれた机に向かう。確かその引き出しに、ずいぶん前に買ったきり使っていない便箋があったはずだ。


「優子?」

「ちょっと待ってて。今、手紙を書くから」

「手紙? 誰に?」

「――明日の私に」


 「はあ?」とまた、後ろから気の抜けたような声。けれども私は取り合わず、ゆっくりと机に腰かけた。

 そうして引き出しから市販の便箋を取り出す。特に何の装飾もない、ただ薄い色で罫線が引かれただけの真っ白な便箋だ。

 私はそこに自分宛てのふみをしたためる。

 理由は簡単だ。

 明日、私はすべてを忘れているからだ。

 祥吾のことを、すべて。



------------------------------------


 ハロー、4月15日の私。

 気分はどう? 混乱してる?


------------------------------------



 手紙はそんな書き出しで始まる。私は再びTが目の前に現れた瞬間から、もうこれしかないと思い定めていた。

 私と祥吾がもう一度やり直すための、最後の賭け。

 勝つか負けるかは、明日の私次第。



------------------------------------


 何故記憶がないのか、どうしてこんな手紙を書いたのか。

 それは二枚目で説明するわ。

 だけどそれを読む前に、まずやってほしいことがあるの。

 いい?


 今すぐその家のリビングへ行って。

 そこで祥吾と会ってきて。


 そしてどうか確かめて下さい。


 あなたの愛を。


------------------------------------



 そこまで一気に書き切ってから、私は一度ペンを置き、ふーっと天井を仰いで息をついた。


 そう。私は試すのだ。

 自分が本当に祥吾を愛しているのかどうか。


 もし私が本当に祥吾を愛していたのなら、明日の朝、必ず彼を好きになる。

 もう一度、彼に恋をする。

 それを自分自身への証明として、確かめたかった。

 そうして再び彼を愛したなら、今度こそ絶対に離さないと、決めた。


 そのまま二枚目も一挙に書き上げ、封筒にしまう。

 たぶん一時間くらいTを待たせてしまっただろうか? すべての準備を終えて振り向くと、Tは依然窓辺で腕を組み、退屈そうにこちらへ視線を投げている。


 もしかしたら私が背中を向けているうちにどこかへ行ってしまったかも、と思っていただけに、私は彼が待っていてくれたことが少しだけ嬉しかった。

 悪魔との取引に胸躍らせるなんて、私は本当にとんだ魔女だ。

 だけどこのまま魔女でい続けるかどうか――。

 それもすべて、明日の自分に託す。


「もういいの?」

「うん。いいよ」


 私は覚悟を決めてTの前に立った。

 私より――バスケの選手だった祥吾よりも背の高い彼は、高みから少しだけ鼻白んだように私を見下ろしてきたけど、それだけだ。

 私を止めもしなければ、拒みもしない。

 だって彼は腹ペコの悪魔。

 どんな顔をしてたって、本当は人間だれかの記憶を食べたくて仕方ないのだ。


「本当にいいんだね?」

「くどいなぁ。いいって言ってるでしょ」

「じゃあ遠慮なくいただくけど、これで取引終了じゃつまんないから、ボクに関する記憶は食べないでおいてあげるよ。代わりに君の中の祥吾の記憶は全部もらう」

「どうぞ、召し上がれ」


 ――もう何も怖くない。

 私は自分でも不思議なくらい静かな気持ちで、そっと両の瞼を閉じた。

 春の風が吹く。どこかで咲く花の匂いをほのかに乗せた、微かな風が。


 その風に乗って、何かやわらかいものが私の額に押し当てられた。


 それが冷たかったのか暖かかったのか、今はもう覚えていない。



               *  *  *



 四月十五日、金曜日。

 午前七時二十分。

 私は実家のリビングで、朝野祥吾という人と出会った。


 相手も私のことを知らなくて、お互いに初対面で。

 だけど朝野祥吾さんは、私のことを「俺の妻らしい」と言った。


 らしい、ということは、きっと確かなことではないのだ。

 私も彼が自分の夫だなんて、少しも信じられなかった。



 そう、信じられなかった。



 それが答えだ。



               *  *  *



 手紙の二枚目には、名前入りの離婚届が挟まっていた。



               *  *  *



 私は少し緊張して、目の前の扉と向き合っていた。

 先程まで身を浸していた会場の喧騒は既に遠い。あたりは何となく神聖さを感じさせる静寂に満ちていて、私はふーっと一つ息をつく。

 それから意を決して、薄い革張りの扉を開けた。

 その先に待っていたのは、真っ白なブライズルーム。

 何だろう。少し懐かしい。

 けれど私がその感覚を不思議に思うより早く、視界には白い部屋に溶け込むような後ろ姿が飛び込んでくる。


「――姉さん」


 部屋の真ん中に設けられた鏡の前で、ウェディングドレスの裾が翻った。

 そうしてこちらを振り返った姉さんは、少し驚いた顔をしている。けれどもその表情はすぐに春色の微笑みに染まった。


「優子。来てくれたの」

「うん。姉さんを担当してたメイクさんが、準備ができましたって教えに来てくれたから」

「ああ、そうだったの。ところでこのドレス……どう?」

「似合ってるよ、すごく。まるでおとぎ話のお姫様みたい」


 そう言って私が笑えば、姉さんもどこかほっとしたように笑い返してくる。その結い上げられた黒髪の上で、ダイヤの煌めきをまとったティアラがキラキラと瞬いた。

 おとぎ話のお姫様、なんて、まるで私らしからぬ譬えだけど、窓から射し込む光に祝福された姉さんの姿はそんな形容がピッタリで。


 敵わないな、と、私は思った。

 私は、やっぱり姉さんには敵わない。

 姉さんはいつだって綺麗で優しくて――ちょっと電波だし、言動も予測できないところがあるけれど、とびきりのロマンチストだ。


 そんな姉さんには、こんな素敵なドレスがよく似合う。


 二年前の今日、私もここで同じドレスをまとっていたと聞いたけど、そんな実感は姉さんの姿を見ても結局湧いてこなかった。


「あのね、優子」

「何、姉さん?」

「祥吾さんとの結婚のこと、祝福してくれてありがとう。この一年、ずっと私たちのことを応援してくれて心強かったわ。だけどいくらあなたまで祥吾さんの記憶を失くしたとは言え、私が祥吾さんを奪うような形になったこと、本当は恨んでいるんじゃない?」


 と、ときに突然そんな話題を振られて、今度は私が目を丸くする。

 まばゆいほどの光の中にいるのに、そう尋ねてきた姉の表情は暗くて、どこか不安げに私を見つめていた。


 ああ、だけどまさか姉さんがそんなことを気にしていたなんて。

 確かに私と朝野祥吾さんは、一年前まで夫婦関係だった。そして姉さんはこれからその朝野祥吾さんと結ばれる。


 だけど私は知っているのだ。姉さんと祥吾さんは元々こうなるはずだった。

 今の私にはもう、祥吾さんの記憶は何一つ残っていないけど。

 すべての真相は一年前の昨日、じぶんからの手紙で知った。


 だから姉さんが心配するようなことは何もない。

 私は心から二人を祝福している。

 それが卑怯な手段で姉さんから祥吾さんを奪った償いになると知っているから。

 それに私はもう、祥吾さんの一挙手一投足に胸をときめかせることはない。


 私はあの日祥吾さんの記憶と共に、彼を好きだった気持ちまでTにあげてしまったみたいだった。

 いや、もしかしたら初めから祥吾さんのことなんて好きじゃなかったのかもしれない。

 どちらにしても、真相はTの腹の中。


 だから、これでいいんだ。今はそう思っている。

 自分は祥吾さんを愛してなかった。その事実が少し寂しいだけ。

 けれど今はその寂しさを笑顔で覆い隠し、私はきっぱりと言う。


「姉さん。確かに私はいつも姉さんに憧れて、羨んで、妬んできたけど、今回はそうじゃない。祥吾さんとのことは、本当にもう気にしてないの。ていうか、気にしたくてもしようがないわ。だってあの人のことを好きだった頃の記憶が一つもないんだもの」

「優子……」

「今はそんな自分に少しガッカリしてるだけ。だけどそれは姉さんが気に病むことじゃないわ。ある意味私の自業自得だから。だから、これで良かったんだよ」


 私がそう言っても、姉さんの表情が晴れることはなかった。たぶん姉さんは私と祥吾さんが夫婦だった頃のことを知っているから、罪悪感が拭えないのだろう。……こんなことなら、姉さんの記憶もTに食べてもらえば良かったかな。


「だけどそれなら、やっぱり私たちと一緒に沖縄で暮らさない? あの家は売ってしまったっていいのだし」

「ううん、いいの。いくら姉妹だからって、新婚さんのお邪魔しちゃったら悪いし……それに、父さんと母さんの思い出があるあの家を離れるのは寂しいから」

「そう……」


 姉さんは短くそう言って、少し残念そうに肩を落とす。姉さんと祥吾さんの二人はこの式が終わったら、ほどなく姉さんが沖縄で買った海沿いの家へ引っ越すことになっていた。

 私はそんな二人を見送って、東京に残る。ここは人が多くてゴミゴミした街だけど、でも、これまで私を育ててくれたすべてがある。

 それさえも記憶の彼方に失ってしまうのは悲しいから、私はこれからもこの街で生きてゆくんだ。


「あ、ていうかそろそろ時間。それじゃ私、もう行くね」

「ええ」

「緊張しなくても大丈夫だからね。今日の姉さん、ほんとに綺麗」

「ええ、ありがとう」


 場の空気をほぐそうと軽く姉さんの肩を叩けば、彼女はようやくふわりと微笑む。――良かった。いつもの姉さんだ。これでもう大丈夫。

 そう確信した私は一度暇を告げて、花嫁のための白い部屋をあとにした。


 もう少しで式が始まる。私も早く会場に戻って姉さんたちを見守らなきゃ。

 ドレスに合わせた華奢な腕時計から顔を上げ、私は足を速めようとする。

 けれどもそこで歩みを止めた。

 何故なら廊下の向こうから、祥吾さんがやってくるのが見えたから。


「優子ちゃん」


 その白いタキシード姿にはっと息を飲んだ私を呼んで、祥吾さんはひょいと手を挙げた。――彼の記憶障害は、私と離婚したあとに治っている。失ってしまった記憶は二度と戻らなかったけど、朝起きる度に私を忘れてしまうことはなくなった。

 彼のすぐ前を歩いている小柄な女性は、今回の式を取り仕切ってくれているウェディングプランナーさん。たぶん、花婿を花嫁のところへ案内しているところなのだろう。何しろ私たちの両親は四年前に事故で他界しているから、姉さんはバージンロードを新郎である祥吾さんと歩く予定になっている。


「紀子の顔を見てきてくれたのかい?」

「はい。何だか少し緊張してるみたいだったから、話し相手をしてきました」

「そっか。ありがとう」

「いえ、このくらい。家族ですから」

「いや、そうじゃなくて……俺たちの式に来てくれて、さ」


 そう言って祥吾さんは少し照れくさそうに、そしてばつが悪そうに頭を掻く。そんなことをしたらせっかくバッチリ決まった髪型が崩れてしまいかねないのに、そうせずにはいられないといった様子で。


「なんていうか……こんなこと言うと、失礼だけどさ。未だに信じられないんだ。俺と優子ちゃんが、一年間夫婦として一緒に暮らしてたなんて……」

「ふふ、大丈夫。私もです。……ビックリですよね。夫婦揃ってお互いのことを綺麗に忘れちゃうなんて」

「うん……そのことは、本当にごめん。きっと優子ちゃんが俺の記憶を失ったのは、俺が君にたくさん苦労をかけたから……そのせいで俺と同じ病気になってしまったんだと思う。その償いもできていないのに……」


 ――なのに自分は紀子あねと結ばれる。

 たぶん、祥吾さんはそう続けたかったのだろうと私は思った。

 けれど彼がそこで言葉を切ったのは、私が首を振ったから。

 祥吾さんは誤解してるんだ。私が彼の記憶を失った理由を。


「そのことはもういいって、何度も言いましたよね。祥吾さんが私の記憶を失くしたのだって、原因は私だった可能性が高いんだし」

「だけど……」

「私に申し訳ないと思う気持ちがあるのなら、その分姉さんを幸せにして下さい。それが何よりの償いです。私、今は心から二人の幸せを願ってますから」

「優子ちゃん……」


 ――ああ、やだな。

 そう思って、私は祥吾さんから目を逸らした。

 だってこれじゃあ私、すごくいい人みたいじゃない? 姉さんも祥吾さんも事情を知らないとは言え、二人を苦しめたのは他ならぬこの私なのに。

 なのに〝二人の幸せを願ってます〟なんて、どの口が言うのだろう。

 かと言って今更真実を話しても信じてもらえるかどうか怪しいし、そもそも私もところどころ大事な記憶が抜けているから、ちゃんと説明できる自信がないし――。


「――優子」


 けれどもそのとき、そんな私の躊躇と自己嫌悪を遮って。

 鼓膜と心臓を同時に震わせる声が、私を呼ぶ。

 私の記憶にない呼び方で。


「俺は君のことを忘れてしまった。君ももう俺のことを何とも思ってないかもしれない。だけど俺たちは確かに一年間、夫婦として一緒に過ごしたんだ。その記憶は生憎残っていないけど、当時撮った写真や動画を見れば分かるよ。――たぶん、俺たちは本当に愛し合ってた」

「祥吾さん――」

「だから、君に言っておきたいんだ。たった一年っていう、短い間だったけど――優子。俺のお嫁さんでいてくれて、ありがとう」



 ――ああ。



 ああ、何故だろう?



 私にはもう、彼と共に過ごした一年の記憶はない。

 それはどんなに思い出そうとしても、二度と甦ることはない。



 だけど、これは。



 たった今、私の胸に湧き起こるこの気持ちは――。



「――朝野さん、そろそろ……」

「ああ、お待たせしてすみません。それじゃあ、優子ちゃん。またあとで」


 二人分の足音が、やわらかいカーペットを踏み締めながら通り過ぎていく。私はそれを立ち尽くしたまま、じっと聞いていることしかできない。

 嗚咽が零れないように、必死で口元を押さえながら。


 ああ……ああ――バカね、私。

 今頃思い出したの?

 祥吾さんを好きだったこと。


 だけど今更恋に落ちたってもう遅いわ。

 あの日、私は賭けに負けたのだから。


 だから、理由も分からず溢れるこの気持ちには蓋をして。


 とめどなく流れる涙を拭って――。


「――また食べてあげようか?」


 祝福の鐘が鳴っている。

 キリスト教の教会を模した式場前、そこで花嫁の幸運にあやかろうと群がる人々から少し離れたところで、私はそんな声を聞いた。

 ふと我に返って振り向けば、私が背中を預けた白い柱の後ろにTがいる。惜しみなく降り注ぐ春の陽射しを避けるように、全身を影に浸らせながら。


「今ならまだ間に合うよ。もう一度ボクが二人の記憶を食べてしまえば、君たちはやり直せる。何ならまたしばらく祥吾の心に棲んであげてもいいけど?」

「……それはもういいって」

「でも、まだ祥吾に未練があるんだろ?」

「――あのね、T」


 Tとは逆に、屋根の下へ出た私には春の陽射しが当たっている。それが眩しくて、あまりにも眩しくて容赦なく胸に突き刺さるけど、私は小さく笑ってみせる。


「私、一年前のあの日までに彼からもらったもの全部、丸ごとあなたにあげちゃったわ。中には絶対に失いたくない宝物だってあったはずなのに、それまで景気良く放り出しちゃった」

「ああ、アレはおいしかったよ」


 ぺろりと唇を舐めながら、私が知らない記憶の味をTは語る。私はそんな彼の言葉にまた笑った。


「だけど今日もう一度、彼から宝物をもらったの。今の私に残された、最初で最後の宝物。だからこれだけは、一生大事に抱えていくわ。もう絶対に手放したりしない」

「でもその宝物は、持ってると君を苦しめるよ?」

「それでもいいの。大好きな人からもらったものだから。だから、もう失くさない。ここにはもう、あなたにあげられるものは何もないわ、T」


 降り注ぐ白い花。私がそれを見上げながらそう言えば、「ちぇっ」とTの舌打ちが聞こえた。


「別に、君が〝食べてくれ〟と言わないのならいらないよ。だって君のその宝物、すごく酸っぱそうだし」

「そうねー。たぶんサクランボみたいな味がするんでしょうね」

「ま、だけど君のおかげでしばらくは食べるものに困らなかったし、退屈もしないで済んだよ。次の餌場を探すのは面倒だけど、それもまた一興かな。何せ人間は面白いからね」

「面白い?」

「ああ、そうさ。――中でも、優子。君は特別面白かったよ」


 ……それってどういう意味?

 そう尋ねようとして振り向いたとき、そこにはもうTの姿はなかった。

 鐘の音が沁み渡る空を白鳩が飛んでいく。

 その羽音を見上げた私の耳に、花嫁の呼ぶ声がする。


「――優子!」


 振り向くと、教会の前で姉さんが手を振っていた。

 隣には幸せそうに笑う祥吾さん。


 途端にチクリと胸が痛んで、その笑顔が少し霞んだ。

 けれど構わず笑みを浮かべ、私は二人へ向かって歩き出す。


 だってこれからは、この痛みと共に生きると決めたから。


 もう離さないわ。


 私の愛しい記憶喪失。










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