春に咲く雪(作:Veilchen)
この国では春先にも野山が白く染まる。新緑が芽吹くその前に、長く厳しい冬の間のように。けれどもちろん、いつまでも雪が溶けないということではない。
世界を覆う白――それは、春に咲く雪と呼ばれる花の群れ。
冬が終わる頃、赤や黄色の鮮やかな花に先駆けて咲き、春の訪れを告げる白い花。茎も葉も雪の色をしているから、まるで雪がまた積もったように見える花。けれど、冷たい雪とこの花とは、全く違った性質を持っている。春に咲く雪の花は、蕾が開くその時に、わずかに熱を放つのだ。
小さな蕾のひとつひとつならば、暖をとるにも足りないほどの些細な熱。でも、野を覆う花が一斉に咲いたなら、季節を進めるきっかけとなる。田畑の近くで咲かせたならば、芽吹きを促し豊かな実りを予感させる吉兆になる。
だから、この国の者は誰もがこの白い花を愛し、満開を迎える時を祭りとして祝うのだ。
季節の巡りに従って花は咲くもの。とはいえ自然の営みに委せていては満開の時期が揃うことは望めない。だから人々は春の女神に祈って歌を歌う。春を寿ぎ蕾が開くのを促す歌を。詞も旋律も、誰もが知るものではあるけれど、取り分け春を呼ぶのに相応しいのは若い娘たちの高く澄んだ歌声だ。
母に教わり、姉や妹、友人たちと唱和する娘たちの声が響くと、白い花が粉雪のように花びらを舞わせ、季節を少し――けれど確かに進める。最初は家の周囲、そして畑の近く、牧場の草に混ざって。暖かい雪は歌声と共に降り積もり、祭りの時期が近づくのを人々に教える。
「春の女神よ 美しい方、優しいお方 私の願いを叶えてください――」
とある森の木陰でも、少女が春を呼ぶ歌を口ずさんでいた。彼女の足元には白い葉と茎と、そして蕾。春に咲く雪を花開かせるための旋律だった。
でも――
「どうして……?」
最後の一音を歌いきっても、蕾はぴくりともしなかった。ただ、白い葉がそよ風になびいて動くだけ。もう一度、と最初から通して歌ってみても、結果は同じ。彼女の歌で春を呼ぶことはできなかった。
「ちゃんと歌えたはずなのに……」
少女は悔しげに唇を噛む。
歌で春を咲かせるのは、ある程度の年齢の女ならば当たり前にできること。
母が手本を聞かせてくれた冬の名残の寒さの日、娘たちよりもやや低く柔らかい歌声は、溶け残りの雪を消し去った。水を汲みに、あるいは羊を追う道々で、姉が口ずさんだ歌は道端の蕾を次々と花開かせた。友人たちも。彼女より歳下の、子供のような娘たちでさえ歌で花を咲かせることができるというのに。
「祭りは、もうすぐなのに」
春の雪を咲かせることのできない娘など聞いたことがない。祭りの時は、若い娘が列を作って歌いながら練り歩くから、彼女の声に力がないのは露見しないかもしれない。じきに――そう、来年には少女もまともな歌を歌えるようになっているかもしれない。
でも、ずっとこのままだったらどうしよう。姉たちは一度に咲かせる花の数を競う遊びをすることもある。それに加わることができないのは、恥ずかしい。何より、娘が生まれた時に教えることもできないなんて。
母や姉は、何と言っていただろうか。でも、歌は教えてくれても、コツのようなものは教えてくれなかった。彼女たちは時が来れば自然にできるものよ、と意味ありげに笑っていただけ。あとは、心を込めて歌うこと、と言っていたような。少女は正しい音で、確かに心を込めて歌っているというのに、せっかくの指導も役に立たなかった。娘や妹がこんなに不出来だなんて、彼女たちは想像もしていなかったに違いない。
焦りと不安に苛まれながら、少女は詞と旋律を必死になぞる。声量が足りないのかもと思って――母も姉も鼻歌を口ずさむだけで花を咲かせていたから、きっとそんなことはないのだろうけど――初春の冴えた空気を胸いっぱいに吸い込んで。
「春の女神よ 美しい方、優しいお方 私の願いを叶えてください
私の胸に宿った灯りを 白く清らに咲かせてください
叶えてくださる引き換えに 歌と祈りを捧げます
この手が生み出す全てのものも
夜明けに熾す竈の火 朝餉の膳の白い粥
川の流れで清水を汲んで 山に入って薪拾い
昼に紡いだ五色の糸を月の灯りで織りましょう」
でも、声を張り上げることができたのも最初だけ。やはりぴくりともしない硬い蕾に、少女の声はやがて弱々しく立ち消えた。不安のあまりに涙がこみ上げ、大きな目から溢れそうになった、その時――少女の背後から、草を踏む音が聞こえた。
「だ、誰!?」
歌の失敗の一部始終を、見られていたか聞かれていたかもしれない。その恐れに少女の心臓は跳ね、慌てて涙を手の甲で拭う。誰であっても、泣いているところなど見られたいものではないから。友人たちの誰かが、姿の見えない少女を探しに来たのか。それとも怠けているのを咎めようという大人だろうか。
「――お前、歌、上手かったんだな……!」
しかし、振り返ってみると少女の予想はいずれも外れていた。目を輝かせ――少女とは裏腹な――満面の笑みでそこに佇んでいたのは、同じ村の少年だった。当然のように顔見知りではあるけれど、友人というほどでもなく。大人のいないところで会う今の状況は、気まずさしか感じさせない。
「なんでこんなところで?」
「……練習。祭りの」
短い受け答えで歓迎していないと伝えようとしたのに、相手には通じなかったらしい。少年はふうん、と呟くと無遠慮に少女へ近づいてきた。
「必要ないじゃん」
「関係ない」
少女は無愛想に少年から顔を背けた。厭な相手だと、怒って立ち去ってくれれば良い。春を呼ぶ歌を歌っていたのに、足元の花は蕾のままだ。それは、決して気付かれてはならないのだ。
「もう終わりなのか? もう一度、聞かせてくれよ」
「なんで。やだ」
「綺麗だったから」
「嘘」
「ほんとだって」
白い蕾から離れるように、自分の失敗を隠すように。少女は逃げる。少年は追う。少年がしつこく諦めないことに、そして足を向けた先にもあの春を待つ蕾が見えて、少女はまた泣きたい気持ちになった。
「なんでついてくるの……!」
「なんで逃げるんだよ!」
少女の弱々しい声に対して、少年の声は苛立ちを帯び始めている。
「上手かったって、綺麗な声だから聞かせてくれって言ってるのに!」
けれど、彼はただ怒っているだけではなくて――何か、少女には理解できない熱意が込められていて少女を戸惑わせる。
「下手だもん」
「絶対笑ったりしないから。お前の声、良かったよ?」
「何言ってるの……」
首を振って見せながら、ああそうか、と少女は気付く。彼女は愛されて育まれてはいるが、褒められるのは仕事ぶりについてのことばかり、容姿や――声など、彼女自身を褒められることはほとんどなかった。村の暮らしに余裕はないし、彼女もまだ幼すぎるから。もっと可愛らしい顔かたちの子なら、また話は違ったかもしれないけれど。
これほど熱心に好意を見せられるのは初めてのことで――戸惑いの中に、ほんの少しの喜びもあるのに、少女は気付いた。ただ、その気付きによって泣きたいような困惑は深まる。
声も音程も、この歌に関しては問題ではないから。ただ春を呼ぶ花を咲かせるためだけの歌。そして彼女にそれができないからには、彼女の歌は役に立たない、意味のないものでしかないのだ。
少女の沈黙を、少年は何か前向きなように捉えたようだった。期待に輝く彼の目は熱く、それこそ花が季節を進めて夏の太陽を呼んだかのよう。彼女の胸にも応えたいという思いが生まれ――同時に、失望させることへの恐れに心臓を掴まれる。彼女の歌で、彼が喜んでくれるなら。
「じゃあ、ちょっとだけ……」
少女はとうとう頷いた。たったそれだけ、小さな声で渋々と言っただけで、少年がこの上なく嬉しそうに破顔するのを、眩しく――そして悲しく思う。歌の意味は老若男女を問わず誰もが知るもの。女ならば苦もなく花を咲かせて春を呼ぶのだと、誰もが疑うことなく信じているもの。なのに違うと分かってしまったら、少年の顔はどのように歪むのだろう。
その瞬間を見たくなくて。少女は目を閉じて歌い始めた。
「春の女神よ 美しい方、優しいお方 私の願いを叶えてください――」
不安に震える少女の歌は、先ほどと比べても更にか細い声だった。少女の高い声ゆえに、空に透るものではあったけれど。目を開くまでもなく失敗は明らかだと思えたので、少女は目蓋に力を込めて涙をこらえようとした。
すると、頬に暖かい風を感じた。夕暮れ時に、一日の仕事を終えた後で母に労われる時の、手の温もりのような。山野を友人と駆けた時に早まった血の流れがもたらすような。心地良い、熱。
不思議に思って目を開けると、辺りは一面の白。固く閉じていた花の蕾が弾けるように次々と開いている。蕾は小さな火種のようなもの。花開くと同時にうちに秘めていた熱を放つ。空からふたりを見下ろす太陽は、まだ初春の控えめな光を投げてきているに過ぎないけれど、無数の花が開いたことで、夏のような――暑いと感じるほどの熱が辺りに満ちる。
「月の、灯りで――っ!?」
驚きのあまりに、少女は音を外して悲鳴のような声を上げてしまう。その外れた音さえも新たに幾つかの蕾を開かせる。
「すげえ……!」
花の眩い白さによって、少年の笑顔は一層輝いて見えた。声を褒めてくれた時よりもずっと嬉しそうな顔なのに、なぜか、彼女の胸は痛んだけれど。ただ、悲しみによる痛みではなくて――何かもっと違う理由、彼女が名付けることのできない感情によって。
「今年の祭りも成功しそうだな」
「うん……」
「お前の声、探すよ。絶対分かるから」
「うん……ありがと」
白い花びらを散らし、暖かい風を起こしながら近づいてくる少年の顔を、だから彼女はまともに見ることはできなかった。瞳の煌きを、興奮によってか花の熱によってか紅潮した頬を、弾む息を。間近に見ると、もっと痛くなってしまいそうだったから。
「練習、まだやるの?」
「ううん……うん」
花を咲かせることができたのだから、もう練習は必要ないはずだった。けれど少女は嘘をついた。そうすれば、少年が立ち去ってくれるだろうと思ったから。
「そっか。邪魔してごめんな」
「ううん」
少年の後ろ姿を見送って、心の底から安堵しながら――少女は胸の痛みが消えないのに気付く。彼が遠ざかるということもまた、苦しくてならなかった。
「春の女神よ 私の願いを叶えてください――」
胸を刺す痛みを紛らわすかのように、再び春の歌を口ずさむと、残っていた幾つかの蕾がふわりと開いて春の気配を辺りに撒いた。あれほど思い悩んでいたのが嘘のように、彼女の歌声は突然力を宿したようだった。ささやくように小さな声で、半ば鼻歌のように旋律をなぞっただけだというのに。
「どうして……」
思わず呟いた疑問の意味は、先ほどとは真逆になった。なぜ花が咲かないのか、ではなくなぜ咲いてくれたのか。
「心を込めて歌う……?」
母や姉たちの助言を思い返しても、当てはまるとは思えない。彼女は少年の目を気にしていつものように女神への祈りを込めることができなかった。上の空での歌の方が聞き届けてもらえたなんて。
後は何と言われていただろうか、と必死になって記憶を探る。
歌詞には意味があるということ。言葉通りに春の女神へ捧げものをするのだということ。……これも、今までもしてきたことのように思う。彼女は働き者だったから、歌詞にあるような水汲みも炊事も、心を込めて歌ってきたつもりだった。日夜働く全てのことを、春を呼ぶために捧げるという意味ではなかったのだろうか。
「心って……?」
彼女は何を捧げたのだろう。春の女神は何を受け取ってくれたのだろう。少女は、まだ少年の笑顔の輝きによって不思議な痛みを訴える胸を抑えた。心は、そこにあるように思っていたから。いつもと違うことといえば、少年がいたことくらい。春の女神が困惑や戸惑いを好むとも思えないのだけれど。
謎が深まるばかり、と思った瞬間、誰かの声が少女の耳に蘇った。誰だったか、花を咲かせるコツを聞き出そうとした歳上の娘のひとりの声。意味ありげな微笑みは、不出来な歌を見透かされているようで。彼女は少々ムッとしたのだったか。
『春の女神は春だけを司る方ではないわ』
そんなことは知っていた。季節を司る神々は、その季節にまつわる諸々のことをも統べるもの。春の女神なら、花。種子、卵――実りと始まりを思わせるもの。結婚。恋人たち。
「あ」
そこまで考えて、少女の頬が熱くなった。あの少年と同じように、きっと真っ赤に染まっていることだろう。
煮炊きは、愛する夫のためにするもの。水汲みも薪拾いも、苦にならないのは家族のためだから。何より、月灯りの下で織り上げる色鮮やかな衣装。それは、花嫁が纏うものではないのだろうか。
「うわ……!」
少女は頬を抑えてしゃがみこむと、白い花の心地良い暖かさに埋もれた。
彼女の胸に、今初めて春の女神に捧げる思いが生まれたのだ。彼女の歌が花を咲かせることができなかったのは、今まで捧げるべき思いを持っていなかったから。女神が花を咲かせてくれたのは、少年に彼女の思いを見せるためだった。
意味ありげな微笑も当然のこと。恋を知った娘たちには、少女など幼い子供にしか見えなかっただろう。
「うわ、うわ……!」
納得がいった。しかし、同時にとてつもなく恥ずかしい。歳上の女たちは歌の意味も捧げものの意味も知っているのだろうけれど――男の子たちはどうなのだろう。あの少年は、とても無邪気でそんなことは知らないような風情だったけれど。
「私の胸に宿った灯りを 白く清らに咲かせてください……」
恥ずかしさのあまりに叫ぶように歌うと、少女の祈りはまた聞き届けられた。灯り。そうだ、白く咲いた花が放つのよりも、この胸の想いは暖かくて、確かな熱を持っている。彼女の道を照らす光だ。この白く清らかな花は、女神が彼女の想い、彼女の灯火に目を留めてくれたという証。
恥ずかしさと誇らしさ、嬉しさ。それらが混ざり合った、言葉にならないもどかしさ。それを少女は歌に乗せた。彼女の歌声の届くところ、白い花が次々と咲き誇る。彼女の想いが咲いていく。
少女たちの恋心は、今年も春をもたらすだろう。




