第九話
職場から追い出された自分は、夜の飲み屋で閉店時間になっても帰ろうとしない泥酔客のように汚らしく、「排除せねばならない者」という認識を一身に集めていた。そんな惨めな自分を背負い、ふらつきながら駅へと向かい、電車に乗り、家に帰った。玄関で靴を脱ごうと屈んだ瞬間に、身体がバランスを崩し、ビルが崩壊するかのように転倒した。靴箱の角で胸を強打し、痛みで動く力が奪われる。
「うう……」
呻き声が口から漏れ、玄関の空間を漂っていく。自分の口から出たものだとは思えないほど苦に満ちており、空気を重苦しいものへと変えた。身体に力が入らず、起き上がれない。強打した胸が痛み、哀れな呻き声が出るばかりだ。動けずに、床に僅かに積もる埃を見ていると、急に涙腺が涙を垂れ流し始めた。更に、股間に不快な生温かさを感じる。失禁していた。
「ああ……あああ……」
「葵?」
母の声とスリッパが床を擦る慌てた音が聞こえた。
「葵! どうしたの!」
人品の欠片もない娘の姿に驚き慌てながらも、母は私を抱き起し、靴を脱がせてくれた。自分が無力な赤ん坊に戻ったような気がして殊更に惨めだった。
「酷い顔じゃない。立てる?」
覗き込む母の顔。私を心底心配してくれる人の顔。こんな私のことを、自分のことのように気にかけてくれる人の顔。
「お母さん……、私、もうだめだ……」
「とにかくお風呂入りなさい! すぐ沸かすから!」
私をリビングのソファに運び、風呂場に急ぐ母。私はどんな顔をしているのだろう。きっと人生そのものに敗れた負け犬の顔だろう。この上なく無様だろう。私の人生などこんなものか。小さな笑いが口から漏れる。私はただ格好悪く、惨めにしか生きられないのか。頑張っても何も報われず、己の無力にもがき苦しみ、不条理に打ちのめされる人生しか送ることができないのか。
母が戻って来て、私を風呂場に連れて行ってくれた。
「ごめんね……」
「いいからまずお風呂!」
脱衣所の鏡を見ないようにして服を脱ぎ、浴室に入る。温かいシャワーを全身に浴び、身体を洗うと湯船に崩れ落ちるように入った。湯の温かさが心地良く、そして苦しかった。犯人扱いされている事実を受け止めきれずに心が痛んでいるのに、身体が緩んだ快楽を享受していることが許せなかった。湯に頭を沈めた。水中の静寂の中で、このまま死ぬことができたらと思った。だがほんの僅かの苦にも耐えられず、頭はおめおめと浮上し空気を貪る。そんな頭が許せなかった。
風呂から上がると、母が温かいココアを用意してくれていた。両手でマグカップを持ち、一口啜ったが、驚くほど味を感じなかった。
「少しは落ち着いた?」
落ち着いてなどいないが、力なく頷く。
「何があったの? 全部話して」
隠しておこうと思っていた。母を心配させたくなかったし、社会人になってまだ一年も経っていないのに、もう潰れかけている自分など晒したくなかった。あまりに弱すぎる自分を隠していたかった。
「ごめん。言いたくない。たいしたことじゃないから」
「何言ってるの! こんなにぼろぼろになって! 何で隠そうとするの!」
必死に叫んでいる。こんな母は今まで見たことがない。母の言葉が痛い。私を心配してくれている。その愛情が嬉しく、そして途轍もなく痛い。同時に、内に抱えるものが外に出たがって私の心を食い荒らす。その激痛にも耐えられない。結局、悩んだ挙句、私は職場で受けた仕打ちを洗いざらい母に打ち明けてしまった。攻撃の混じる指導、陰湿な陰口、監視しながらのただ働き、金銭横領のあらぬ疑い。すべてを話してしまった。母はただ黙って聴いていたが、その顔は私の話が進むにつれ怒りの色が濃くなっていった。
「酷い話……」
母の口から出た言葉は震えていた。いつも明るい笑顔を浮かべる顔がただならぬ怒りに強張っている。二十年以上一緒に生活しているが、これほど怒りを露わにする母は初めて見た。圧倒されそうなほど、空気が張り詰めていた。しばらく何も言わず、テーブルの上のマグカップを見詰めていた母が、凍った空気を溶かすような優しい声を発した。
「ごめんね。そんなに苦しかったのに、気付いてあげられなくて。どんどん元気がなくなるあなたを見て、何かおかしいとは思っていたんだけど。まさかこんなことが起こっていたなんて」
頬が震え、声がいつもの落ち着きを失っている。努めて冷静に話そうとしているが、心を痛めているのが手に取るように感じられる。私は母の言葉を受け入れられなかった。
「何でお母さんが謝るの? 私の問題だもの。全部、私が自力で解決しないといけないことだから。社会人なら、こういう厳しいことも当たり前なんでしょ?」
そう、私の人生の問題なのだ。母には一切関係ないことだ。自分の人生には自分で責任を負わなくてはならない年齢だ。母に謝られると首を締め付けられる思いがする。優しい言葉を掛けたり謝ったりなどしないで欲しい。気にかけてくれることは確かに嬉しいが、大人になりきれていない自分を突き付けられているように思えてしまうのだ。だが母は、私にとっては残酷なまでの優しさで私を包み込もうとする。
「当たり前なわけない! 明らかにおかしいわよ! 本当にあなたの力だけで解決できると思ってるの? 犯罪に巻き込まれてるのよ? そもそも店長は何をやってるのよ! お店の責任者は店長でしょう? それを新入社員のあなた一人に責任を負わせて、休憩にも行かずに見張れなんて。しかも残業扱いにもしないなんて。挙句に、誤差の記録だけ見て犯人扱いですって? 酷すぎるわよ! すぐに本社に相談するべきだわ。もしそれで解決しなければ、そんな仕事なんて辞めたほうがいい!」
小柄で痩身の身体からは想像できないほどの大声を上げる母は、普段の彼女が絶対に持ち得ない深刻さに満ちていた。私を守ろうと我を見失っているのが分かる。ああ、どうしてだ。何故あなたはそこまで純粋な愛に満ちているのだ。店長の冷酷さとは異なるが、同じくらい大きな痛みが私を襲う。この苦しみは私に必要なことなのに、私を可哀想な人間と見なさないで欲しい。私を被害者として扱わないで欲しい。私はこの苦境を、忍耐をもって乗り越えねばならないのだから。
「本社になんて言えないし、仕事も辞められないよ」
「どうして!」
「店長が怖いの。本社に言って、それが店長の耳に入ったら、何されるか分からない……」
「何されるか分からないって……。何もされないわよ! 暴力でも振るわれるの? そんなこと店長ができるわけないでしょう! 何を言ってるのよ、葵」
「お母さんはあの店長を見たことないからそんなことが言えるんだよ……」
そうだ。母はあの凶悪犯のような、獣性と暴虐で形作られた男を知らないから、そんな提案ができるのだ。本社に相談などしたら本当に殺されかねない。
「それに、まだ入ったばっかりだから、せめて、三年は続けないと」
「そんな環境で三年ももつわけないじゃない!」
その通りだ。私自身、こんな環境に自分が三年も耐えられるとは思えない。母の言葉に甘えたい気持ちが止め処なく噴き出し、揺るぎそうになる矮小な自己が見える。だが、それでも辞められない。逃げ出しても、次の仕事が見付からない。仮に運よく見付かったとしても、きっと同じことを繰り返す。何より、ここで逃げ出せば、私は永遠に弱者のままだ。
「逃げたくないの。中途半端に逃げるのは嫌なの。ここで逃げたらもっと弱い人間になっちゃう。そんなの嫌なの」
もう本音も分からない。すべてを放り出し、逃げ出してしまいたいと思う。だがここで逃げては、すぐに逃げ出す癖がついてしまうように思えてならず、逃げてはならないと叫ぶ自分もいる。
「それは真っ当な環境でこそよ! あなたがいる場所は明らかに不当なのよ? 普通の人間が耐えられる環境じゃないわ! このままだと本当に潰れてしまうわよ!」
そんなことはない。母は私に甘いのだ。普通の人なら問題ない環境だろう。私が弱いから辛く感じてしまうだけだ。
「違うよ。私が弱いだけ。もっと辛い環境で頑張ってる人はたくさんいるから」
「葵……」
「お母さん、ありがとう。でも、どうしても今辞めるわけにはいかないの」
私はそう言い切った。自分の本音かどうかなど分からないが、それでも言うしかなかった。確かに、今の職場に身を置き続けるのは嫌だが、負け犬への転落への恐怖が、より熱く火を放っていた。母の顔は、これまで見てきたどの顔よりも悲しそうだった。マグカップを片付けると、私は部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。家を出る前より、時計の音がうるさかった。階下からは何の物音もしない。
その日の夜、帰宅した父がベッドで死人のように横たわる私をリビングに呼んだ。母が私の境遇を父に話したことは、リビングを満たす空気ですぐに分かった。父はスーツから部屋着に着替えてすらいない。余程取り乱しているのだろう。
「お父さん、お帰りなさい」
「葵。母さんから聞いたよ。金を盗んだ濡れ衣を着せられてるんだってな。証拠もないのに新入社員を疑うなんてとんでもない話だ。本社に相談して、配属を変えてもらえ。それで駄目ならそんな仕事、すぐ辞めたほうがいい」
怒りに震えるあまり、挨拶を返すことさえ忘れている。普段の父からは考えられないことだ。それほどまで私のことを心配してくれているのか。泣き崩れそうになる。父の優しさもとても痛い。
「お父さんまで……。変えてもらっちゃだめだよ。辞められるわけもない。だって、ここで頑張って苦しいことに耐えないと、逃げ癖がついちゃって、何処に行っても耐えられないでしょ?」
「それは確かにその通りだけど、でもそれは……」
「まともな環境の話だって言いたいんでしょ? さっきお母さんからも聞いたよ。まともとか、まともじゃないとか関係ないよ! 苦しいことを環境のせいにして逃げちゃいけないんだよ! どんな場所でだって頑張れないとだめなんだよ!」
途中から声に涙の色が混じっていた。この言葉が本心の叫びなのか、それともただ、人生の逃走者になることへの恐怖に駆られた叫びなのかは分からなかった。だがそれでも、私は力の限り叫んでいた。仕事で削り取られ、弱った力すべてを振り絞って叫んでいた。父は言葉を失い、私を困惑した目で見詰めるばかりだった。
「ごめんなさい。明日早いし、もう寝るね。お休みなさい」
私はそう言って、急いで自室に引き上げた。両親の心配を、愛情を踏みにじったような罪悪感と、仕事を続けることを表明してしまったことへの後悔が、重くのしかかっていた。
「これでいいんだ。私は間違ってない。耐えなきゃ」
布団を被ると、暗闇の中でそう呟いた。今は辛くても、ここで耐えることが私を後々助けることになるはずだ。