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母娘の牢獄  作者: 関黒一基
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第七話

 翌日、朝七時四十分頃に出勤した。販売スタッフはまだ誰も来ていなかった。着替えを済ませ厨房に行くと、店長と副店長が開店時に並べる商品を作っていた(今日は店長が揚げ物を、副店長が煮物を作っていた)。一般家庭用のものとは比較にならないほど巨大な業務用の鍋が七つ、猛火を放つガスコンロの上にのせられていた。中では煮物が地獄風呂のように沸騰していた。その隣では、業務用の巨大なフライヤーが狂ったように油を躍らせながら商品を作っていた。

「おはようございます」

「おう」

「ん」

 店長、副店長の気乗りしない、疲れた返事が厨房に響いた。悲しかった。

タイムカードを財布から取り出し(この会社のタイムカードはプラスチック製で、銀行のキャッシュカードのような大きさのものだ)、厨房の入り口の横に設置されているタイムレコーダーにスキャンしようとした。

「おい、ちょっと待て。お前何やってんだ」

 作業をしていた店長が言った。挨拶の返事とは違い、尖った力がこもっていた。

「あの、タイムカードを……」

「お前、シフトは午後からだろ」

「でも、昨日……」

「確かに、朝から見張れとは言った。でもそれは仕事じゃねえ。自分のミスにけじめつけるだけだ。だから午前中はカード切らずにやれ。お前の仕事は一時からだ。昼になってから切りに来い」

 カードを取り落としそうになった。これは労働基準法に抵触しているだろう。こんな扱いを受けるのは当然のことなのか。自分のミスにけじめをつけるだけ。店長はそう言ったが、上司からの命令なら、これも業務に該当しないのか。納得がいかない。

 包丁で野菜を切る店長をじっと見詰めた。私の視線に気付いたのか、顔を上げる。

「何だ? 文句でもあんのか?」

 目が凶暴な光を放つ。有無を言わせない迫力。

「いえ……何でもありません……」

「ならとっとと行け!」

 店長が作業台を蹴った。大きな音が厨房を震わせた。副店長がちらりと店長と私に視線を投げたが、すぐに知らん顔で鍋を掻き混ぜ始めた。

私は身体から力がなくなり、ふらつきながら厨房を後にした。店長への恐怖が一気に膨れ上がる。その恐怖が、反発心や不満を圧倒的な力で踏みにじる。そうだ、元はと言えば自分の不注意のせいで多額の誤差を出してしまったのだ。このくらい当然だ。

 その日は幸い、何事もなく終わった。金額の誤差はプラス三百十四円。安心はしたが、その分疲れすぎた。ただでさえ休憩なしでの長時間労働だったのに、そのうち四時間はただ働きとは、あまりに酷だと思ってしまう。だが、これも金額の誤差を出してしまった自分の責任と考えると、何も文句は言えない。それに何より、すぐに逆上し汚い言葉を吐く店長が怖かった。明日から毎日これが続くのか。重い曇に覆われ、星の見えない夜空に溜息を吐いた。

 次の日も疲労で重くなった身体を引き摺り、昨日と同じ時間に出勤した。挨拶するためだけに厨房へ行くのが嫌だった。まだ誰もいない売り場で開店の準備を始める。二階にある事務所へ行き、金庫からお金を取り出し、紛失しないよう注意深くレジに入れる。厨房から商品を受け取り、消毒した鍋や大皿に盛り付けて売り場に並べ、入念に消毒したトングやお玉杓子をセットする。そうこうするうちに、早番の吉田と沼田が出勤してきた。

「おはようございます」

「おはよ。あんた大変だね。朝から見張るんでしょ? しかもただ働き」

 吉田が悪魔のような喜色満面の笑みで言う。他人の苦労がそんなにおもしろいか。

「まあ、社員ならそのくらい当然だよ。売り場はお前の責任なんだから」

 沼田が横から口を挟む。またいつものように、沸き起こった怒りは萎んで消えていった。

 全身ががちがちに固まり、呼吸すらままならない。冷水が血液の代わりに全身を駆け巡っているかのように寒い。身体の内も外も冷え切っている。胃が重く、黒色の鈍痛に締め付けられている。今夜も誤差が出ないだろうか。そんなしこりを心に抱えたまま仕事をするのは苦し過ぎた。今までよりも更に重い負荷を感じる。平日であることがせめてもの救いだろうか。これが客入りの多い土日や祝日なら……。考えたくもない。客も商品の量も多く慌ただしい中で、スタッフ全員を見張り盗難を防ぐなど私にできるだろうか。

「考えちゃだめ。今は目の前のことと向き合わないと」

 小声でそう言い、無理矢理気持ちを切り替える。とにかく、今日は今日の誤差を出さず、ミスをしないことに注力しなくては。常連客の人の良い老婆が私を呼んでいる。私は精一杯の笑顔で、彼女のもとへ歩み寄った。一時、気持ちが少し柔らかくなった。

 しかし、その日は何かにとりつかれたかのように間違いばかり犯してしまった。客に渡す弁当に箸を付け忘れ、去り行く客を慌てて追いかけたり、レジの金額を打ち間違え、沼田にしわがれた怒声を浴びせられたりした。見張り役に集中するあまり私がミスを犯しては意味がない。なのに、午前中だけで三回もミスをした(どれも途中で気付いて修正し、クレームに至らなかったのは幸いだが)。

「お前やる気あるわけ? 集中しろよ!」

 沼田が抉るように言葉を突き刺した。

「見張るためにいるんだろ? お前がミスしまくって、皆の仕事増やしてどうすんだよ! 意味ないだろ!」

「すみません……」

「すみませんじゃないよ。いっつもそうやって謝るけど、改善できてないだろ! 慌てると注意したことすぐ頭から抜けるだろ。皆迷惑してんだよ!」

 午後一時になり、ようやくタイムカードをスキャンしたときは、私は既に一日分の労働を終えた後のように疲れ切っていた。ようやく正当な労働時間に入る。休憩もないままに。この後夜十時までの九時間、乗り切れるのだろうか。肩を落としていると、休憩から戻って来た店長が私を冷たい目で見て言った。

「さっさと売り場に戻れ。こうしている間に誰かが盗んでるかもしれねえだろ」

 私は何も言えずに売り場に走った。自分だけ休憩する店長を恨めしく思ったが、その後すぐに頭の中で思い直し、恨みを飲み込んだ。自分が悪いのに、他人を恨めしく思ってはいけない。

「ごめんなさい」

 邪念を消し去るため、慌ててそう言った。

 その日の昼過ぎだった。会計の後、客(いかにも強欲そうな、脂ぎった顔の中年女性だった)にポイントカードを手渡したはずなのに、その客が戻って来て「あんたに渡した後、返してもらってない」と怒鳴った。大慌てで店内を探し回ったが発見できなかった。彼女は「本社に電話をする」と怒り、唾を飛ばしながら私の文句を言い始めた。「暗い」「愛想がない」「包むのが遅い」「こんないい加減な人を何故雇っているのか」。耳を塞ぎたかった。私には確かにカードを返した記憶があるのだが。

「あの、申し訳ありませんが、もう一度お客様のお財布やバッグの中を確認してはいただけませんでしょうか」

「はあ? あんた私を疑ってるの? 私の勘違いだって言いたいの?」

「いえ、滅相もございません。ただ、こちらで発見できなかったので、その、念のため……」

「あんたのミスでしょ? 何様のつもり? 散々探して見付からなかったから戻って来てるんだよ! 探すのはあんたでしょうが!」

 甲高い声が上がり続ける。周りの客からの無遠慮な興味が剥き出しの視線を感じる。見ないでと叫びたかった。自分が責められて弱い立場にいると、関係のない者に腹立たしさを覚えてしまう。

「申し訳ありません。もう一度探します」

 頭を下げたとき、女性客の持つ透明なビニール傘が目に留まった。傘の内側に、見覚えのある茶色いカードが挟まっている。

「あの、お客様。傘に入っているそちらのカードは、違いますか?」

 恐る恐る訊いた。傘の中身を確認した途端、彼女が目を見開いた。

「あ、あら。あったわ……」

 胸に詰まっていた空気が抜け、身体が少し軽くなった。良かった。やはり私の渡し忘れではなかった。もし本当に渡し忘れで本社にクレームが行ったら、その情報はすべての店舗にメールで共有され、晒し者にされてしまうところだった。だが安堵したのも束の間、その後の女性客の言葉は私を怒りの泥沼に突き落とした。

「まあでも、あんたがちゃんと確認して渡さないからいけないのよ。ちゃんと声に出して確認すれば、私もここまで戻って来る必要なかったじゃない。時間返して欲しいわ。だいたい、さっきも言ったけど、あんた暗いのよ。声小さ過ぎ。もうちょっと元気よく仕事できないの?」

 てっきり謝罪の言葉が聞けると思っていた私にはとんでもない不意打ちに思えたが、すぐに思い直した。確かに彼女の言う通りだ。「カードをお返し致します」の一言を、ただはっきり言うだけ。それを怠った私が悪い。

「失礼致しました……」

 彼女はひとしきり文句を言うと帰って行った。いつの間にいたのか、すぐ横に来ていた沼田が盛大に溜息を吐いた。

 やっと閉店時間となった。私はぼろぼろだった。それなのに、よりによって私がレジ締め担当。「頼むから何も起きないで」と祈りながらお金を数えた。レジの金額を記録用のシートに記入し、記録を印刷し、慎重に照合する。結果はマイナス一万八百三十二円。目の前が真っ暗になり、身体が地の底へと落下していくようだった。何処かに計算ミスがないか、胸に閊える重さに耐えながら目を凝らした。電卓を打つ指が震え、心許なかった。しかし何度やり直しても計算ミスは発見できなかった。今度は紙幣、硬貨、商品券を数え直す。重なった紙幣を一枚と誤って数えてはいないか、指が痛くなるほど力を入れて調べた。数え間違いはなかった。普段ならよくミスをするのに、こんなときに限って何も間違えていないことが恨めしい。店長に報告しなくては。電話をかけると二コールで出た。

「またか?」

「あの……はい……」

「いくらだ」

「マイナス一万八百三十二円です」

 そこまで言ったとき、引きちぎられるように電話が切られた。怒りや呆れなど通り越した重々しい男の声の残響と、無機質で軽々しい電子音が私を食らった。私は殺されるかもしれない。大袈裟でなくそう思った。


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