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母娘の牢獄  作者: 関黒一基
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第六話

 決意をしても、途端にそれが挫かれるようなことが起こるのは何故だろうか。まるで目に見えない何者かが取り計らってでもいるかのようだ。

 ある日の閉店後の出来事だった。私は掃除を担当していた。今日も散々怒られた。沼田が私のミスを指摘し、それを皮切りにいたぶってきたため、暗い気持ちで店舗内を掃除していた。床にこぼれ、固まった惣菜の煮汁を雑巾で拭きとりながら(モップがあるのだが、他のスタッフが先に使用するため、私はいつも雑巾を使っている)、重く溜まった疲れを吐き出した。そのとき、レジ締めをしていた若林が突然慌てた声を上げた。

「沼田さん! マイナス一万二百十一円、誤差が出ました!」

「は? マイナス一万?」

 床を拭いていた沼田は、モップを放り出すとレジに駆け寄った。

「ちゃんと計算した? もう一回やってみな」

「三回、計算し直しました」

「私がやる! 若林さんは掃除してて!」

 沼田はそう叫ぶと、金を数え始めた。いつになく深刻な様子に思わず手を止めている私に、沼田が一喝した。

「さっさと掃除しろ!」

「はい。すみません」

 嫌な予感がした。何故かは分からないが、暗雲が晴天に広がり、太陽を覆い隠していくような感覚に囚われた。

 レジにはその日の売り上げがすべて記録されており、レジ締め後はレシートに印刷して保管する決まりになっている。会計の時間帯も、現金払いかクレジットカード払いかも、すべて分かるようになっている。現金で支払われた記録と、レジの中に入っている金額(客にお釣りを支払うため、開店前にレジに入れておいた分は当然差し引くが)が同じにならなければならないのだ。誤差は毎日店長に報告するが、マイナス五百円以下、またはプラス五百円以上の場合は店長が本社に報告することになっている。金額の絶対値が五百円未満であれば誤差の範疇として店舗内で処理される(私にはそれも疑問ではあったが)。

 私が働き始めてから、一万円以上誤差が出ることはなかった。マイナスということは、お金が少ないということだ。販売スタッフ全員で必死になって店舗内を探し回った。結局お金は出て来ず、沼田が既に帰宅した店長に電話で報告した。電話口から離れていても分かるほど、彼は激昂した。暗い顔でレジを締め、その日は全員帰宅した。

 次の日、仕事に行くと店長は朝から不機嫌だった。当然だろうと思う。一万円の誤差。それも損失だ。前日の夜、店長が全員に昨日起こったことを一斉送信のメールで知らせたため、皆が知る事実となった。誰もが、きっと何かの間違いだろうと思っており、店長ほど事態を深刻に捉えていなかった。副店長でさえ、自分には関係ないと思い込んでいるように、私には見えた。

 その日の閉店後は私がレジを締めた。昨日のようなことは起こらないで欲しいと祈りながらお金を数えた。その日は、誤差はマイナス四百三十四円だった。安堵の溜息が漏れた。良かった。やはり、昨日の誤差は偶然起こってしまったミスなのだ。

 それから数日は何事もなかった。肉体も精神も緊張に絡めとられながら毎日閉店時間を迎えた。病的なまでに怯え、疲れていた。誤差が許容の範囲内だと分かった瞬間はいつも身体の力が抜け、水揚げされた蛸のようにへたり込んだ。取り越し苦労が続いた。しかし、もういい加減大丈夫だろうと安心し始めていたとき、またしても誤差が生じた。その日は私がレジを締めていた。マイナス七千十二円。血が凍る思いだった。どうして、もう起こらないと思っていたのに。慌てて沼田に告げると、彼女の顔色がたちまち変わった。恐怖や焦りが混じり、彼女の顔をべっとりと覆った。

「もう一回お金数えろ!」

 沼田は吠えるように言うと、私の手から電卓をひったくり、私の計算が正しいか確認し始めた。私は泣きだしたい気持ちを抑え付けながらお金を数えた。その横で沼田が歯を食い縛りながら計算する。焦りと動揺が売り場に充満していた。

 計算は間違ってはおらず、全員で売り場全体を探し回った。誤って捨ててしまった可能性も鑑み、ごみ袋もすべて漁った。しかし、お金と名の付くものは何も見付からなかった。

「店長に報告して」

 疲れた声で沼田が言う。私は携帯電話を取り出し、震えながら店長に電話を掛けた。

「成瀬か。どうした」

 耳元で店長の不機嫌な声が響く。消え入りそうな声で、私は言った。

「店長……すみません……。また誤差が出ました……。マイナス七千円です……」

 一言一言が重く、私の喉元で膨張し、発することを躊躇わせた。

「はあ? またかよ!」

「申し訳ありません」

「計算し直したか?」

「はい」

「売り場全部探したか? ごみの中は?」

「全部探しました」

 電話の向こうで息を吐く音が聞こえた。凄まじい怒りが混じっているのが分かる。

「あの……店長……」

「もう今日は締めて帰れ」

「はい、分かりました。お疲れ様です」

 電話が荒々しく切られ、繋がっていないことを知らせる電子音が嘲笑うように耳を打つ。重い身体を引き摺って家に帰った。

 次の日の昼、私は店長に呼び出された。休憩室に併設されている喫煙所に呼ばれ、軋みながら不安げに揺れるテーブルを挟み、向かい合って座った。店長は煙草に火を点け、煙を力任せに吐き出した。漂う煙を見詰めながら、私は身体が内側に固く縮こまっていくのを感じていた。

「何やってんだ、お前」

 突然店長が唸った。

「え? あの……」

「あのなあ、金の件、誰のせいだと思ってんだ?」

「誰って……」

「お前のせいだろ! 分かんねえのか!」

 店長は怒鳴るとテーブルを浅黒くごつごつした拳で叩いた。アルミの灰皿が跳ね、からからと笑うような軽薄な音を立てた。

「金の管理は社員の責任だ。売り場で起こっていることは売り場の社員の責任だ。いつも売り場にいる社員は誰だ? お前だろ! 俺も森田(副店長)も売り場に出ねえんだから、お前が責任持って売り場見ろ! 新入社員だから自分には責任ないとか思ってんじゃねえ!」

 自分に責任がないなどとは思っていない。だが何も言えなかった。

「お前の気が緩んでるから、売り場全体のミスが起きるんだよ! 最終的に責任とるのは俺なんだぞ? 俺のミスじゃねえのに、俺が上から怒られるんだぞ? 気引き締めろ!  ミスすんな! 他の奴らがミスしねえように見張っとけ! 誤差が出なくなるまで休憩にも行くな!」

 休憩なしで見張れ? なんという無茶を言うのだろう。一方的に怒鳴り散らされた私は逃げるように喫煙所から転がり出た。仕事などできる精神状態ではなかったが、店長が怖いので売り場に戻った。溢れそうになる涙を懸命に堪えながら、無理に笑顔を作ろうとしたが、笑えるはずもなかった。

 その日から、私は休憩をとらずに従業員を監視した。接客や掃除をしながら、誰かがお金を扱うと、注意をそこへ注いだ。馬鹿げていると思われるかもしれないが、恐怖に支配された私には、そうせざるを得なかったのだ。昼食をとれず、空腹に耐えるのが辛かったが、店長に激しく恫喝された恐怖が私を突き動かしており、その恐怖は空腹の辛さなど容易に上回っていた。必死だった。深刻だった。責任という言葉が私の胸を貫き、がっちりと噛り付いていた。その鋭利な刃は柔らかな肉を容赦なく破壊し、体内に溶け、巡る。細胞すべてに染み入り、私を操る。

 複数の紙幣の授受の際、きちんと紙幣を声に出し、客に見えるように数えて確認しているか。お金の数え間違いはないか。必死になって従業員を見続けた。無論、私自身についてもだ。今までも張り詰めていた緊張が、更にきつくなった。だが、社員でない他のスタッフたちは自分には関係ないと言わんばかりに、無表情で業務に当たっている。私一人が勝手に慌てていた。

 ミスを犯さずに販売スタッフ全員の動きを見張り続けるなどできる訳がない。ただでさえミスが多いのに、そこに更なる重圧が加わった私が、どうして平常心でいられるだろうか。他者の手元を注視するあまり、店舗全体への意識が欠如し、いつもの二倍叱責を食らった。私の努力は報われなかった。注意を向けているのに、お金の誤差は次々と発生する。段々と誤差が生じる頻度が高くなっていく。毎日の閉店時間が恐ろしくて堪らなかった。誤差が許容範囲であったときの、涙が出そうになるほどの安堵感。高額の誤差が生じたときの、圧死しそうなほどの力をもって私に絡み付く絶望感。私は常に自分の感情の波に翻弄され、疲弊していた。

 その後も誤差は出続ける一方だった。向けられる限りの意識を向けているのに、事態は一向に収束に向かう気配がない。しかも、信じられないことに誤差はほぼすべてマイナス。レジの中のお金が少なくなっているのだ。プラスの誤差が発生するときも、極まれだがある。だがそのときは、誤差は必ず許容される範囲でしか起こらない。

 事態を重く見た店長が、お金の誤差が発生する様々な可能性を鑑み、対策マニュアルを作成した。お釣りで複数の紙幣を客に手渡す際、必ず声に出して、一枚ずつ枚数を確認すること。開店前、店内奥にある金庫からお釣り用の現金を取り出し、レジに入れる際、金額に間違いがないか最低三回は確かめること。五千円以上の高額紙幣を客から受け取った場合、必ず他のスタッフに見せてから会計すること。マイナスの誤差が出た場合、誤ってお金を破棄してしまうことのないよう、閉店後はごみ袋の中身をすべてチェックすること(一日のごみの量は売り場だけで九十リットルのごみ袋が三~四袋程度出るため、すべてを確認するのは骨が折れる)。

 が、対策マニュアルは何の意味も成さず、その後も誤差は出続ける一方だった。それも、私が出勤する日はほぼ必ずと言っていいほど出た。ここまで注意しても防げないなら、販売スタッフのミスという線は消える。盗難。一番考えたくなかったことだが、もはやそれ以外に原因を見付けることは不可能に思われた。

最初の誤差から一か月弱が経過した、ある日の昼、再び店長に呼ばれ、私は怯えながら喫煙所のテーブルに着いていた。彼はまたいつものように、不必要に力を込めて、乱暴に煙草の煙を吐いた。

「成瀬。お前ちゃんと見張ってんのか? 問題を解決しようとしてるか?」

「は、はい……」

「じゃあ何で誤差がなくならねえんだよ! ちゃんと見張ってねえんだろ!」

 しわがれた声が喫煙所内に響き渡り、電気を流したように空気を尖らせた。血走った目が射抜くように私を睨む。重い衝撃が、身体の内側から鳩尾を殴打した。

「お前、今は殆ど昼の一時からラストまでのシフトに入ってるよな」

「はい」

「明日から、開店からレジ締めまで見張れ」

「え……?」

「お前も気付いてるだろうがな、これだけ注意していてなくならねえってことは、誰かが盗んでるってことだ。お前が責任持って見張れ。朝一番早く来て、開店作業しながら監視するんだ。夜も必ず最後まで残れ。これ以上誤差出すんじゃねえぞ。新入社員だからって甘えんな。これはお前の責任だ」

 心臓が破裂しそうなほど速く、大きく鼓動し始めた。何も悪事を働いていないのに、罪人にでもなったかのような心持ちだった。開店から閉店まで? 昼休憩もとらずに見張っているのに、更に監視時間が増えるのか。

 この店の営業時間は朝九時から夜九時まで。午前のシフトが朝八時から夕方五時までで、休憩が一時間。午後のシフトが昼一時から夜十時までで、休憩が一時間。この二つのシフトは、長時間働ける正社員や派遣社員にあてがわれるものだ。更に、全員が休憩を取るために、午後四時から十時までのシフトがあり、そこには主に学生のアルバイトなど、あまり勤務に時間を割けない者が入る。平日だと午前のシフトは二人で、午後のシフトが三人。四時から十時までのシフトは一人か二人。土日、祝日は午前、午後のシフトが一人ずつ多くなる。すべての従業員の動向を見張るためには、少なくとも朝八時から夜十時まで売り場にいなくてはならない。昼休憩をとることはできないので拘束時間が実質労働時間となる。拘束時間はなんと十四時間だ。考えるだけで疲労感が生まれ、泥のように纏わり付いてくる。


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