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母娘の牢獄  作者: 関黒一基
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第四話

「本当に成瀬って使えないよね」

 出勤し更衣室に入ろうとした私の耳に、そんな言葉が飛び込んできた。吉田の声だった。更衣室の中で誰かと話している。ドアノブに伸びていた手が止まる。周囲が暗くなり、私を包み込む空気が一気に重くなった。胃が急速に落ち込み、脈打つように激しく痛み始める。

「分かります。もう入って十か月経つのに全然周り見えてないし、作業も遅いし。いくら新卒だからって、あれで社員ってどうなんですかね」

 アルバイトの若林の声。大学生で年下の彼女にこんな言い方をされているとは。

「あいつのせいで仕事進まないし、マジいるだけ無駄。鈍くさいよね。あれで私らより給料高いとかふざけんなよって思う」

「福利厚生しっかりしてるし、ボーナスも貰えるんですよね。マジムカつく。働いてる自分が馬鹿馬鹿しくなりますよね。こっちは学費やら生活費やら稼ぐために必死だっつうのに」

「一つのことに集中し過ぎだし。ちょっと顔上げて周り見るくらい誰でもできるだろ」

「本当にそうですよね。あんなに不器用な人初めて見ましたよ。いっつも慌ててばっかだし。何であんな簡単なこともできないんだろ? さっさと辞めろって感じ」

「あいつ、本当に大学出てんの? 要領悪すぎ」

「あれじゃあ何のために大学出たんだって思いますよね。金の無駄だろ。ああ、マジで早く辞めてくれないかなあ。いらいらするんですよね、あいつ見てると」

「そう! 超いらいらする。沼田さんも引っ叩いてやりたいって言ってたよ」

「別のパートかバイトでも雇ったほうが絶対効率上がりますよね」

「まあ、あんな奴は何処行ってもだめだろうけどね」

 更衣室から二人の無遠慮な笑い声が響く。ドアの外で私が聞いているなど、夢にも思っていないだろう。だからこそ躊躇いもなく吐き出される本音。涙が滲み出、頬を滑り落ちた。慌てて更衣室の横の従業員用トイレに駆け込み、個室に入ると鍵を閉めた。自分が他のスタッフの役に立てていないと分かってはいたが、こうした言葉を突き付けられる衝撃は想像を遥かに超えていた。涙が止め処なく溢れ、膝が狂ったように震えていた。

 店全体の状況を見ることができない。作業が遅い。その通りだ。いつも指摘されていることだ。自分でもよく分かっている。もう何度同じことを言われた? どうしていつまでたっても改善できない? これでは給料泥棒と言われても仕方がない。胃の痛みが一気に大きくなり、未消化物が胃液と共に逆流した。便器に屈み、すべて吐き出した。口に酸の味が広がる。

 トイレの横を吉田と若林の笑い声と足音が通り過ぎて行った。口元を拭い、ふらつきながらトイレから出、泥棒のようにこそこそと更衣室に入った。自分のロッカーを開けドアの裏にある小さな鏡を見ると、青白い顔の自分が映っており、余計に気が滅入った。どこまでも沈んで行きそうだった。

「今日も頑張ろう」

 自分を奮い立たせようとしたのに、かすれた小さな声が出て来ただけだった。更衣室の中が深い闇に沈んでいく。

「もう嫌だ……。あんなこと言われて頑張れない……」

 泣き言が漏れてきた。私の気力を搾り取る。頭を振った。何を言っている。自分が原因だろう。自分がいつまでも成長しないからいけないのだろう。それなのに頑張れないなんて、どこまで自分に甘いのだ。こんなことだから駄目なのだ。甘えた自分が嫌になる。そうだ、甘えてはいけない。言われたからこそ、もっともっと頑張らなくては。

 毎回同じことを言われているのは分かっている。同じ失敗は繰り返さないよう努めている。失敗したことや指摘されたことをメモし、帰宅後別のノートに書き写して熟読する。出勤前に必ず読み返し、頭に作業工程を叩き込み、何度もシミュレーションを重ねる。作業を覚えたり、細かいミスの再犯を防いだりといったことはそれで何とかなった。だが、作業スピードはどうしても短縮されない。全体の状況を見ることもできるようにならない。

 自分が何故遅いのか、何故俯瞰的な視野を持てないのか、何故一つのことに没頭してしまうのか。分析を試み、あらゆる工夫を凝らした。作業の順番を変えてみたり、他の従業員のやり方を真似てみたりした。そういったことを繰り返すうちに、少しずつだが進歩しているようには感じる。だが、私の進歩など周囲からすれば蝸牛のようなもので、戦力にならない程度の進歩など進歩と呼べるものではないのだ。

 それでも、落ち着いて作業に当たっているときはまだいい。比較的人の少ない平日の昼間などは、それほど焦らずに対処できる。問題は来客数が急増する平日夕方と土日、祝日。普段は主に主婦が客のメインだが、これらのときは男性客が急に増える。カウンターの前に壁のように集まる客にいつも慌ててしまう。無秩序に注文や文句を言われると、平常心での対応ができなくなってしまう。怒りをぶつけられたときも、落ち着きなど一瞬で壊れてしまう。そうなってしまうともう全体を見るどころではない。速く捌かなければ、もうミスをしてはならないという気持ちに頭が支配され、かえって身体の動きが鈍くなる。普段より余計なミスを連発し、気付けば客を待たせている。そんな私に対し、他のスタッフの苛立ちは肥大化していくばかりだった。

 私は時間ぎりぎりまで暗い更衣室に佇んでいた。


 大学を卒業するまで、ここまで致命的な欠点が自分にあることに気付かなかった。自分がまさかここまで仕事ができないとは思わなかった。何故もっと早く知ることができなかったのだろうと、今更だが悔んでばかりいる。社会に出る前に自分の弱点を把握していれば、あるいは克服できたかもしれないのに。大学時代、もっとたくさんのことに挑戦し、苦労する経験を積んでおけばよかった。自分がどういう人間なのか、何ができて何ができないのかを知るための尽力をしておくべきだった。今、楽しかった頃の記憶が塗り替えられ、違う色を帯び始めている。幸せの明色ではなく、後悔の暗色にじわじわと染まり始めている。

 大学生の頃、私は間違いなく人生で一番幸せだった。幼い頃から絵を描くことが大好きで、中学、高校と美術部に所属していた私は、大学で「FREE PAINTING」という美術サークルに所属していた。サークル名の通り、絵であれば何を描いても自由で、上下関係も厳しくなく、和気藹々とした緩いサークルだった。年に一度の大学祭に作品展を出展する以外は取り立てて公式な活動はなく、ただ好きな絵を描いたり、旅行や飲み会のようなレクリエーションをしたりするだけだったが、居心地が良かった。絵を描いていると時間の経過も空腹も疲労も何もかも忘れた。友達も多くでき、彼らと絵を見せ合って技術的に切磋琢磨するのも楽しかった。休日にはサークルでできた友達とよく遊びに繰り出した。カラオケボックスで朝から歌ったり、ファミリーレストランで夜通し語り合ったりした。長期休みにはしょっちゅう旅行に出かけた。平日の夜に彼らと大学付近の居酒屋に飲みに行って両親を呆れさせることもしばしばだった。好きなだけ絵を描いて、好きなだけ遊び、その合間に少しだけ試験勉強やらレポート課題やらをこなす。そんな能天気な毎日だった。

 しかし、重厚さを欠いた生ぬるい日々はあっという間に溶けてしまい、三年生になり就職活動の時期を迎えてしまった。穏やかな温度の水がゆったりと流れていただけの日常。それが痛みを感じるほどの冷水の急流となった。水の流れは獰猛なまでの速さを誇り、私を落下する滝へと押し流していった。

 どうしよう。何もやりたいことがない。やりたいことが分からない。いや、やりたいことはある。絵を描き続けたい。だがそれは仕事ではない。それでは身を立てていけない。食べていくための仕事を見付けなくてはならない。どうしたらいい?

 自室に閉じこもり自己分析を試みていたとき、何かが内側から音を立てて込み上げてきた。自己分析のシートを見詰めながら頭を抱えていたら、急に湧き上がってきたもの。極端に熱いようで冷たいようで。何が何だか分からないが、快いものでは決してなく、度を越して不快なものだった。内側から吹き出すそれは、心臓に潜り込み、血液を介して全身に届けられ、暴れた。体内組織を内側から破壊されているような、圧縮された苦痛があった。耐えきれなくなり、大声で悲鳴を上げた。机から立ち上がると、ベッドに飛び込みのたうち回った。両親が不在なのをいいことに、狂人のように混乱を吐き続けた。吐き出し続けるうちにその感情は後悔だと分かった。絵を描くことや遊ぶことばかりに夢中にならなければよかった。自分の将来にきちんと向き合っていればよかった。だがそんな後悔など何の意味もない。時間は取り戻せない。

 結局、食品の会社に的を絞り(食品は生活必需品だから安定しているだろうという安易な動機だ)、商品開発をしたいという志望動機を無理矢理こしらえた。材料は嘘と、とりあえず内定が欲しいという欲だ。そんな付け焼刃の準備で上手く運ぶはずもなく、就職活動は難航した。重い身体を引き摺って説明会を渡り歩き、OB訪問を行い、文字数や文字の大きさなどの基準が判然としないエントリーシートを書く。エントリーシートを送った会社は百二十にも上った。大半の企業が書類選考落ち。何が悪くて落とされたのかよく分からない。マニュアル本の通りに書いたのに。何とか書類が通った企業も、殆ど面接で敗退。圧迫面接などされようものなら、たちまち泣いてしまう。グループディスカッションや集団面接も、ただ周囲の学生に圧倒されているだけ。優秀な他大学の学生たちと比較することで、もともと強固と言い難い自尊心がばらばらに破壊されていく。

 敗北に敗北を重ね、ぼろぼろになっていた大学四年生の秋。卒業論文を書きながらの就職活動。疲れ果てていた。もうこのままフリーターかと絶望していたとき、今の会社に内定を貰った。食品会社というだけでろくに調べもせず受けた会社だった。そこで働いている自分などまったく想像できなかったが、正社員の仕事であればもう何でもよかった。ようやく私の就職活動は終わりを告げたのだった。

 夕食の席で、喜びと安堵に包まれながら両親に報告した。嬉しそうな顔で「おめでとう」と言った父の隣で、母は笑みのない顔で静かに言った。

「本当にその会社でいいの? その仕事があなたのやりたいことなの?」

「……うん」

 自信を持って答えられるわけがなかった。だがそれでいいことにした。

 あのとき、母の言葉をもっと真摯に受け止めていれば、安易に進路を決めていなければ、今とは違う自分を生きることができていたのだろうか。これほど緊張した毎日を過ごさなくてもよかったのだろうか。思い浮かべても何の意味もない、架空の人生の妄想に囚われている。


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