第二十一話
突拍子もなく、身体の内側に入り込みうねうねと動き回るような怒声が耳を鷲掴みにした。別の囚人房から鳴り響いている。一体何だろう。這うように鉄格子に近付き、外を覗いた。やかましく騒ぎ立てていたブロックたちも静かになり、無音と化していた労働場。そこに囚人の怒りの涙に彩られた叫び声が反響している。若い男性の声だ。
「何で俺がこんな目に! ふざけんな! 自殺したことの何が悪いんだよ! くそったれが! あんなろくでもねえ人生なんか捨てて何が悪いんだ! 救いのねえ人生押し付けんじゃねえよ!」
何処の部屋なのかは分からない。自分の部屋から遠いのか近いのか、それすらはっきりとしない。だがその声は私の魂を直に掴み、信じられないほどの怪力で締め上げた。鉄格子から離れて部屋の奥に蹲り、両手で耳を覆った。数日前の私と同じだ。投げ込まれた状況を受け入れられず、何処にいるとも(その存在すらも)分からない創造主を呪っていた私とまるで同じだ。やめて、もう叫ばないで。あなたの顔も名前も知らないけれど、苦しみや怒りは伝わるから。あなたの叫びは、ここにいる全員の魂の苦しみを浮き彫りにするの。お願いだから叫ぶのをやめて。
「お願い……もう叫ばないで……」
耳の穴に強く指を差し込む。だが、声は私の指を突き抜けて鼓膜を容赦なく震わせる。聞きたくないと思えば思うほど、声は大きく響き、心を揺さぶる。
「叫ばないでよ……」
ああ、この前の私もそうだった。皆の苦しみを照らし出していたのだ。胸が後悔と罪悪感で内側から破裂しそうなほど膨張する。これはあのときの私への報いなのだ。
その男性の声に混じって、甲高い女性の声が響いてきた。大声で何か喚いているが、泣き声で覆われているため言葉は聞き取れない。ときどき「どうして」や「助けて」のように意味を持った言葉が聞き取れるが、殆ど何を言っているのか分からなかった。だがそれでも、まるで頭脳が接合しているかのように、彼女の荒れ狂う感情が私に伝わった。彼女の悲痛が、後悔が、不条理に対する怒りが流れ込む。そして私の中を這い回り、内側から私を食っていく。
その男女に応えるように声が増え始めた。囚人たちの嘆きが一つ、また一つと増えていき、牢獄中を揺るがせた。もう意味のある言葉など何一つ聞こえてこない。それなのに、嘆きには剥き出しになった感情が溢れ、それが濁流となって私の房に押し寄せる。鉄格子を通り抜け、房を満たす。私は房の中で感情の海に溺れた。息が苦しい。自分が周りに放ったものが、何十倍にもなって私の元に帰ってきたのだ。私は奥の壁にできる限り身体を寄せ、耳を塞いで蹲っていた。自分の声は殆ど聞こえなかったが、「止めて」と何度も叫び続けた。
そんな状況でも何処か冷静な自分がいた。発狂がないこの世界ではそれがとても苦しかった。私が泣き喚いていたとき、すぐに看守がやって来て私を折檻した。私は「うるさい」と罵られた。それがどうして、今日は一人もやって来ないのか。これほど大騒ぎしていたら気付かないはずがない。それに、囚人たちが喚き始めてからもうどのくらい時間が経ったのか。何故、悪夢をもたらすあの毒々しい色の粉を吹き掛けに来ないのだ。どうして、私が苦しんでいる時間はこんなにも長いのだ。阿鼻叫喚の声に身を捩りながら、心中で疑問を繰り返していると、
「苦しいだろ?」
囚人の声が織り成す不協和音の中から、野太くも鮮明な声が響いた。顔を上げると、鉄格子の向こうに看守が立っていた。いつの間にか流れ出ていた涙で視界が歪んでいたが、看守の喜色満面の笑みはくっきりと浮かび上がっていた。いつの間に現れたのだ。そして、何故牢獄中を揺り動かす囚人たちを黙らせないのだ。
「これがあの晩、お前が他の囚人どもにまき散らした苦しみだ」
涙を拭い、看守の下卑た笑みを睨み付けた。
「そんな顔したところで何にもならんぞ。もうとっくに気付いているだろ? ここではお前は苦しみを受け、溜め込むことしかできない。何処かに吐き出そうとすれば、更にでかい苦しみに襲われるだけだ。お前は死ねない。発狂もできない。無限に苦しみを溜め込み続けるしかないんだ。永遠にな」
永遠という言葉が不自然に強く響く。絶望とともに、やはりそうだったのかという気持ちが生まれる。ここからは永遠に抜け出せないことを知っていたような気がした。看守が例の粉を何処からともなく取り出した。巨大な赤土色の掌の上で毒気のある光りを放つ粉末。毎晩目にしているが、思わず息を呑んで見惚れるほど艶やかだ。
「さあ寝る時間だ。僥倖だな。今夜は仲間たちがお前に子守唄を歌ってくれているぞ」
そう言って低く笑うと、掌の粉を私に吹きかけた。たちまち意識が薄れる。囚人たちの叫び声は、眠りに就いてもしつこく耳にこびり付いていた。
その日の夜から、私は感情を外に放出することを一切止めた。止めざるを得なかった。僅か一度や二度、囚人房で叫んだことがあれほど大きなものとなって返ってきては、もうただ黙って耐え、精神的外傷を内に溜め込み続ける方が利口だと嫌でも分かる。おかしなものだ。我慢せず解放する方が耐え忍ぶより苦しみが大きいなど。だがそれでも、叫び暴れたくなる衝動は頻繁に私の中で立ち上がり、薄っぺらい心の内壁を激しく打ち叩いた。看守に鞭を浴びせられるとき、金属が擦れ合うような甲高い声でブロックに嘲笑をぶつけられるとき、他の囚人が悶え苦しむのを目の当たりにするとき……。四六時中何かしらの辛苦に責め立てられているため、己の内なる感情の暴発を抑圧することは大変難儀だった。何度激情を放出しそうになったことか。何度叫びを上げそうになったことか。何度人面ブロックを殴打しそうになったことか。だが、感情のエネルギーを少しでも解き放ってしまえば、たちまちそれはこの牢獄という場において共有され、渦巻き、囚人たちの激情を吸収して肥大化し、私のもとへ押し寄せてしまうのだ。ただ、黙して耐え忍ぶ。私にはそれしかない。初めからそれしかなかったのに、ここまで気付かなかったとは愚かだった。
私が耐え忍ぶことを選んでから、心の防波堤を破壊しようという外部の動きがやたらと目に付くようになった。皮肉なものだ。吐き出さないことを決めた途端にこうなるとは。だが、何処かで分かっていたことのような気もする。不思議で不快な感覚だった。
私が吐き出した苦しみはどれほど大きかったのか。あれからというもの、就寝時間が訪れる度に囚人たちは泣き喚いた。それは十日以上も続いた。たった一度で、それが十日も続くとは。そして、何十倍などという程度の言葉では表現し尽くせない苦しみが私を貪る。そのときの時間は何十時間も経過しているのではと錯覚するほど長い。看守が姿を現すのがあまりに遅すぎる。私は鉄格子に貼り付き、看守が出入りする黒い巨大な扉を凝視し続ける。扉が開いた瞬間は、看守たちの醜悪な容姿でさえ私を安堵させるのだった。それほど囚人たちの叫びは私を磨耗する力を持っていた。
鞭の痛みが温度を高める。身体を真っ二つに裂かれるような痛みを伴う傷ができるようになった。私も他の囚人も、幾度となく例の地獄風呂に放り込まれたが、そのときの焼けるような痛みも温度を格段に高めた。囚人たちの雰囲気はますます黒く重いものへと変わっていく。彼らも考えていることは同じだろう。ただ耐えるしかない。ただこの日々を続けていくしかない。自分の境遇の意味など完全に失われたように感じた。自殺を選んでしまった自分への罰。そんな事実すら薄れ、遥か遠くの出来事のように感じられた。生きている頃がどれほど幸せだったのか、ようやく分かった気がした。
両親が自分に辛く当たったことにも、安アパートの部屋で自分の価値が分からずに絶望しながら横たわることにも、終わりがある。いつかは終わるときが来る。だが、この地獄の労働は終わらない。いつまでも続く。いつまでも苦しみから逃れられない。
死ななければよかった。どれほど苦しくても人生を放り出さなければよかった。この牢獄に囚われ、拷問と無意味な労働を課せられる理由は相変わらずさっぱり理解できなかったが、生きていた頃の苦しみなど、この牢獄に比べると蚊に血を吸われたときの痒みくらい取るに足らないものだったと理解した。
牢獄が暗くなったような気がする。光が弱くなったような気がするのだ。更にブロックが重くなり、彼らの顔がますます醜くなった。顔の皺が増え、目は更に切れ長になり、瞳孔が縮小した。彼らの目に宿る、囚人を嘲る浅ましい光が濃くなった。そして、それは看守の目にもより色濃く宿るようになり、凍り付くような冷気を伴い囚人に突き刺さった。
この牢獄に来てから、いくつブロックを運んだのだろう。もう何度、自分の積み上げたブロックが溶けるように消え失せ、何事もなかったかのようにすまして元の位置に立っているのを見てきたのだろう。成し遂げる経験はたくさん積んだが、達成感や充実感は得られない。意味が見出せないからだろうか。苦しみ、悲しみ、怒り、怯え……。汚らしい色を持ち、私を消耗させるだけの感情ばかり溢れ、正の感情など、初めから持ち合わせていなかったような気さえし始めていた。
後ろから首を掴まれ、身体が宙に浮いた。またか。いつ手を止めてしまったのかも分からないが、罰を受けるようだ。看守は剛腕で私を投げ飛ばし、私はブロックの山に腹から叩き付けられた。起き上がろうとすると、胸に痛みが走る。肋骨が折れたらしい。山から転がり落ち、だらしなく仰向けに地面に転がった。天井を呆然と眺めていると、視界に単眼が飛び込んできた。そして、巨大な赤土色の歪な足の裏も現れた。声を発する間もなく、それが迫り、顔に落ちた。爆音が顔の中で鳴る。何度も振り下ろされ、私のすべてを、紙細工のように破壊した。腕も、脚も、胴も、頭も、すべて潰された。その日は笛が鳴るまで踏まれ続けた。




