第十九話
多量の出血と和らぐことのない痛みを抱えながらブロックを運ぶ。生きている人間であれば、こんな激痛と出血では意識を失うはずだが、それもない。意識はどこにあるのか。きっと頭が切り取られても意識は存在し続けるだろう。首に猛烈な痛みを感じながら。
生きていた頃には考えもしなかったことを、ここに来て考えるようになった。人間の意識とは、存在とは、感覚とは、何処に存在するものだろうか。いや、そもそも存在するものだろうか。実は何も存在するものなどなく、幻覚のようなものが映し出されているだけなのではないか。今まで体験したことのない、強大で永続的な苦痛から逃れたいが故の妄想に過ぎないことだとは分かっていた。だから、考えても答えなど出るはずもないことも。しかし、どこか意識や感覚といったものが作り物めいて感じられるようになっていた。
流れる血が左目を刺激し、私を現実へと無理矢理引き戻す。割れた左頭部にうねるような痛みが喰らいつく。呼吸が乱れ、肺が燃えているかのように吐く空気が熱い。唾液の粘度が増し、舌が上顎の肉に貼り付く。この日、牢獄内は灼熱に支配されていた。水を浴びたように汗が流れ、身体は強烈に水分を欲した。ブロックを運び続ける手の皮にも肉刺ができ血が垂れている。運ぶブロックにも血がこびりつく。
「痛そうだねえ」
手元から響いた声を見ると、運んでいるブロックに顔が現れていた。下卑た笑みを浮かべている。無視して目線を逸らし、運ぼうとすると、左手に生温かくざらりとした柔らかい物が触れた。反射的に視線を戻すと、ブロックの口から異様に長い真っ赤な舌が這い出し、私の左手を舐めていた。手から出た血を舐め回している。一瞬で悪寒が身体を走り抜け、全身の皮膚が粟立った。私は思わずブロックを落とし、手を引っ込めた。手にはブロックの唾液がべっとりと付着していた。
「いきなり落とすなんて酷いじゃねえか」
床の上でブロックが言う。酷いのはどちらだ。
「女のくせにあんまいい血じゃねえなあ。コクが足りねえ。六十五点てとこかな」
目を細め、顔をくしゃくしゃにして笑っていた。燃え上がる怒りを必死に抑え、左手の唾液を拭った後、ブロックに手を掛け直した。運び終えると、乱暴に他のブロックの上に落してやった。
「おいおい、もっと大事に扱えよ。まったく、可愛くねえなあ。そんなんじゃモテねえぞ。死んでるけど」
背を向ける私の後ろから声が響いた。怒りで全身がどくどくと脈打つ。左頭部の痛みが増し、血の流出が激化したように感じられた。次のブロックに手を掛けると、左の掌が痛んだ。見ると皮膚が喪失し、赤い肉が露出している。
「俺らの唾は皮膚を溶かすんだ」
ブロックちょろちょろと舌を出しながらが笑いかけてきた。
「気を付けろよ。舐められないようにな」
手指を動かす度にびりびりとした痛みが手に生まれる。今日は散々だ。これもまたおかしなことだが、痛みで他の箇所の痛みが紛れるということがない。頭の左半分が痛くて堪らないが、左手も、腕も、脚も、何処も彼処も痛みが声を上げる。「俺は此処にいる」と言わんばかりに。生きている人間の脳とは実にうまくできていたようだ。生前の痛みを思い返してみれば、複数の痛みを同時に、同等に感じる経験が無かったような気がする。同時に二箇所以上負傷しても、一番痛む所にばかり気を取られ、他は意識の外へ締め出されていたように思える。そういう「設定」だったのだろう。だがこの世界では脳はそういう設定ではないらしい。痛覚という情報は惜しまれることなく脳へ届けられ、きっちりと受け止められる。生きていた頃は、脳が自ら極度のストレスによる崩壊を避け、すべてのものを受け取らないようにしていたのだろう。この世界では崩壊などないのだから、何をどれだけ受け取っても問題ないというわけだ。命ある頃はそうした有限な設定に常に守られていたのだと実感した。設定が書き換えられた世界に来て初めて、その意味の大きさを知った。親元を離れて初めて親の有難さがわかる子供のように。
自殺するまでは思ってもみなかったが、人生とは実に安全なゲームだったようだ。今行っているのはいわば単なる「拷問ゲーム」。苦しむためのゲームだ。安全など知ったことではないということか。
最後の一つのブロックを運び終えたとき、あの笛が鳴り響いた。巨大な舌に背中をべろりと舐められたような不快感が走った。この金切り声のような音にも、いつまでも耳は慣れない。「慣れ」というものもない設定なのだろう。だが何にせよやっと労働が終わった。眠りに就くまでの僅かの間、平穏でいられる。
首に枷が嵌められ、囚人房に押し戻された。鎖が壁に繋がれた。岩の床に座り込む。燃え上がる傷の痛みに堪えながら、昨晩と同じように思考の渦へと飛び込んでいく。何度問うたか分からない問いを繰り返し唱える。どうして自分はこのような境遇に置かれているのか。納得できないため、納得できる理由を見付けようと躍起になっていた。自殺とは、それほど何かに背く行為なのだろうか。では何故、自殺という行為が用意されているのだろう。人類の歴史を振り返ってみれば、自殺により命を落とした者は大勢いる。その者たちも皆私のような罰を受けたのだろうか。
思考が次々と変な所に飛び始めた。整然とした論理が組み立てられず、混沌としていくばかりだ。有機的な繋がりなど欠片もない、老廃物のような考えが溢れては消える。昨日も考えたことをまた考えている。だが、自身を納得させるものは何一つ見えてこない。自分がここにいる理由は相変わらず分からないままだ。人間の理解力の限界などとうに超えてしまっている。ここに来て唯一分かったことと言えば、世界はどうやら人智を遥かに超えた何かによって形作られ、動かされているらしいということだけだ。それ故に、その何かの都合のいいように「設定」は作り変えられる。昨日まで安全な世界に居たと思えば、苦しみばかりで癒しも意味もない不条理な世界に放り込まれることもある。私は上を向き、もう何度頭の中で唱えたか分からない呪詛の言葉を、この世界を作り、動かしている何かに向かって吐き出そうとした。途端に、怒りや悲しみ、その他すべての否定的な感情が混じり合って流れ出した。自らの感情を制御できず、私は叫びを上げてしまった。
「私にどうしろって言うのよ!」
生きていた頃には絶対にしなかったことをしている自分がいた。壁を拳で叩き、大声で泣き喚いた。生前から抑圧され続けたものが一気に吹き出てきたかのように、狂ったように暴れていた。
「自殺したからって何なのよ! 元はと言えばあんたがあんな苦しみを与えるからでしょ! 私は悪くない!」
冷たい涙が流れる。「あんた」とは誰なのだと怒鳴りながらも考えている自分がいた。そんな客観性が居座っているせいか、感情を吐いても吐いても吐き出し尽くせず、胸に残るべったりとした不快感が不細工に笑う。それが余計に吐き出したい衝動を駆り立てた。
「いつまでこんな所にいなきゃいけないのよ! いつまでこんな訳の分かんないことしなきゃいけないのよ!」
手は血だらけになり、歪な形に変形していた。痛くて堪らないが、叩くことを止められなかった。何度も壁を殴り続けた。壁は殆ど振動せず、感情を出す私に何も返してくれない。
「やかましい」
低く気怠そうな野太い声が背後で響いた。後ろを振り返る前に、右の脇腹に重い打撃を受け、私の身体は宙を飛んだ。壁に叩き付けられ、無様に床に崩れ落ちる。咳き込みながら見上げると、看守が凄味のある顔で私を見下ろしていた。巨大な単眼を爛々と光らせている。後ろの鉄格子が開いていた。何の音も聞こえなかった。暴れていた勢いは一瞬で姿を消した。
「何をしている」
看守は足音を立てながら歩み寄ってきた。
「ぎゃーぎゃー喚きやがって。うるさくてかなわん」
巨大な腕が伸び、私の首を掴んだ。怪力で締め上げられ、身体が宙に浮かぶ。呼吸が堰き止められる。何とか外に出ようとする呼気が暴れ、吐き気となって込み上げてきた。顔に溜まった血液が頭を内側から圧迫する。視界に僅かな闇が差した。
「まだ分からないか? お前が悪いんだ。この状況を作り出したのはお前なんだ。自殺なんかしなけりゃ、お前はこんな所に来なかった。こんな意味のない労働なんかしていなかった。誰のせいでもない。この状況を招いたのはお前自身だ」
そう言うと、看守は私を反対側の壁に投げ付けた。またもや壁に叩き付けられ、私はぐったりと床に貼り付き、動けなくなった。
「次にまた喚いたら、喉を潰して二度と声が出せないようにしてやる」
そう言うと看守は例の粉を取り出し、私に吹き掛けた。途端に意識が薄れていく。
「もうこんな真似しないことだな」
太い声が遠くに聞こえる。不明瞭になっていく視界の中で、看守が踵を返して部屋から出ていくのが見えた。鉄格子の扉の閉まる音がした。
「お前が悪いんだ」
目の前が真っ暗になったとき、看守の声が頭の中で反響する。
「私が……悪いの……?」
その問い掛けは誰かの耳に届くことはなく、闇の中に消えた。言葉と同時に、私の意識も闇に溶けていった。