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母娘の牢獄  作者: 関黒一基
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第十八話

 目が覚めて、岩でできた囚人部屋に寝ている自分に気付いた。硬い床で寝ていたために痛む身体。私はゆっくりと起き上がった。背中が軋む。長い夢だった。長すぎる夢だった。そして、眠る間ずっと見るには辛すぎた。目の周りと頬が乾いて痛い。喉も枯れて痛む。どうやら眠りながら泣き喚いていたらしい。目を覚まして、一日目の苦しみが終わったことをようやく実感した。労働を終えても、苦しみは終わりではなかった。夢を見ることで己の人生を再体験し、過去に感じた辛い出来事に再び身を投じなくてはならない。無論、自殺経験も含めて。そして、己の選択の誤りを見詰め、後悔の炎に包まれなくてはならない。

「命を投げ出した報いはでかいぞ」

 看守の声が頭に浮かび、弾けた。その言葉の意味が、重みが、そのときようやく理解できた。

 例の笛が鳴った。私はびくりと身体を振るわせ、鈍い音を立てながらゆっくりと開く鉄格子の扉を見詰めた。そうだ。一日目が終わるということは、二日目が始まるということだ。安らぎの時間などありはしない。絶望に重くなっていく身体を無理矢理動かし、私は再び無意味な労働に身を投じた。

 ここに来てから、どのくらい時間が経過したのだろう。もう何度も労働と睡眠を繰り返している。しかし何一つ慣れることがない。人面ブロックの重さや嘲笑にも、看守の折檻にも、人生を映す夢にも。何度体験しても、いつも初めての体験のように重く、痛く、辛く、悲しい。もう何年も経過したように感じる。初めのうちは何度眠ったかを数えていたが、日々の辛苦で心が埋め尽くされ、いつしか数えることを止めた。ただ、一日一日をやり過ごすことだけを考えるようになった。この服役に終わりは来るのか、来るとすればそれがいつなのか、分からない。看守は刑期(と呼んでいいものか)については何も口にしてはいなかった。最初はいつか終わりが来ることを信じ、希望を持っていたが、ブロックを運び、眠りに就く回数を重ねる度に、希望は光を弱めていった。いつしか、永遠に続くのではという恐怖と、きっと終わりは来ないという半ば確信めいた諦めのような気持ちが、私の中に巣食っていた。

 ある日、私の右隣りの持ち場の男性がブロックの重さによろめき、転倒した。待っていたと言わんばかりに看守が毒々しい桃色に光る舌を垂らしながら男性に近づき、背中を鞭で打った。響き渡る音は拳銃の発砲音のように大きく、空気を激しく震わせる。男性は地面の上で痩せた身体を引き攣らせ、小刻みに震えた。背中の血が襤褸切れを赤く染める。

「立て」

 無慈悲な声を響かせる看守。男性は立つどころか、呼吸もままならないようだ。当然だと思った。鞭の痛みはよく知っている。毎日打たれているのだから。同じ痛みを共有しているのだから、他人の痛みも私の痛みだ。皮肉なことに、この牢獄に来て、生まれて初めて、他人の痛みを理解できるという経験をした。

 助けに行きたかった。もう何度も、その男性が折檻されるのを見てきた。生きていた頃には考えられもしなかったほどの痛みで、叫びすらあげられず、のたうち回ることもできずに、痙攣しながら痛みが和らぐのを待つことしかできない姿。見るに堪えなかった。それでも私には、ただ黙って、気付かぬふりをして、自分の労働に従事するしかなかった。

 初めて彼が折檻されたとき、私は自分の持ち場を放り出し、彼のもとに駆け寄った。頭で考えての行動ではない。少し考えれば、自分の仕事を放り出せばどうなるか分かるはずだった。そして、駆け寄ったところで自分には何もできないことも。だが、咄嗟に身体は動いていた。

「大丈夫ですか」

 男性は私に気付かないのか、血走った目を見開いたままだ。口を開け、必死に呼吸を掴もうとしていた。それほどにまで痛く、衝撃が大きいのだ。私は彼の背中をさすろうと、片手を背中に乗せた。その瞬間、男性は電流が走ったかのように跳ね上がった。喉から潰れた恐ろしいうめき声を漏らす。私ができたばかり背中の傷口に触れてしまい、激痛が走ったのだ。

「ごめんなさい」

 彼が震えながらゆっくりと首を回し、慌てる私の顔を見た。近くで見ても、彼の顔はやはり若干灰色がかっていた。口を動かしているが、呻き声が漏れるだけで、何を言っているのかは分からない。

「は……や……も……ど……」

「え?」

 必死に何か言おうとする男性の口に耳を近づけたとき、唐突に私の腹を打撃が襲い、身体が宙を舞った。床に叩き付けられ、腹の鈍痛に悶えながら床を転がる。息が止まった。食事など一切していないはずなのに、強い吐き気に見舞われた。咳き込みながら顔を上げると、私を監視していた看守が足を振り上げて立っていた。蹴られたらしい。

「優しいねえ。何もできないのに駆け寄るなんて。無意味だけど。美しいねえ。無意味だけど」

 猫撫で声で呟く看守。全身の体温が一瞬で奪われるかのような凄味があった。

「でもお……、持ち場を離れちゃ駄目だよねえ!」

 牢獄中を振るわせる怒鳴り声だった。高い天井から砂がいくらか落下し、小さく床を鳴らした。私も男性も、その場に固められたように動けなくなった。看守は巨大な手で私の髪の毛を掴み、持ち場へと引き摺って行った。髪が悲鳴を上げ、頭皮が剥がれそうな音で軋んだ。持ち場に戻ると、私は放り投げられ、運んでいる途中だったブロックの山に激突した。背中を無数のブロックの角に叩き付けられ、呼吸が握り潰されるように止まった。看守がゆっくりと、威嚇する足音を立てて近付いてくる。

「ああ、やっちゃったねえ、お嬢ちゃん」

「やばいよ。勝手にどっか行っちゃあ」

「まだ笛鳴ってないのに」

「看守怒ってるぞお。怖い怖い」

「隣の奴庇おうとするなんてなあ」

「優しいねえ。惚れちゃいそう」

「単に休みたかっただけじゃねえの?」

 背後でブロック達が口々に勝手なことを囁いている。看守は目の前で立ち止まり、遥か上から私を見下ろした。一つしかない眼が狂ったように光を放つ。私はブロックの山で竦み上がった。看守は手近にあったブロックを掴み、言い放った。

「いつもこの小娘が運んでいる重さになれ」

「はい」

 素直にブロックが応じる。看守は左手で私の髪の毛を掴み、右手で軽々とブロックを頭上に持ち上げた。私が全身を使って、やっとの思いで毎日運んでいるブロックを。

「や、やめ……」

 口から言葉が出終わらないうちに、左耳が風を切る音を捉え、直後、顔全体が潰れんばかりの打撃を受けた。歯と顎が砕け、頬の肉が削られ、鼻が潰された。口内に血の味が広がる。たった一撃で、生きている人間だと修復不能なほど、顔が壊れてしまったことを悟った。看守はその後も何度もブロックで私を殴打し続けた。顔中の肉という肉が、骨という骨が破壊され、折れた歯が口の中でからからと踊った。形容できない痛みが顔面を襲い、気付けば喉から悲鳴を上げていた。看守は私の喉にブロックを叩き付け、潰した。瞬間、声を失った。痛くても叫ぶことができない。顔は無残に壊され、ただの肉塊になった。瞼が動かせなくなるほど負傷され、左の眼球が無残に潰された。下を向いた時、顔の左側から潰された眼球が落ちて転がった。かろうじて形を保っている黒い瞳が、私を見据えていた。つい今まで自分の身体の一部だったものを客体視し、同時にそれから客体視されるのは気味が悪かった。左の眼球がなくなったにも関わらず、何故か視界は狭まっていない。両目が揃っているときと同様の視界を保っている。この視界は何が創り出しているのか。身体の臓器や感覚器官に意味はないのか。猛烈な痛みの中で、自分という存在がよく分からなくなった。

 何にせよ、持ち場を勝手に離れた罰の重みを、私はこのとき感覚で知った。鏡がないため自分の顔を見ることはできなかったが、破壊され怪物のようになっているであろうことは容易に想像できた。

「もう二度と途中で持ち場を離れるな。分かったな?」

 看守が低い声で唸るように釘を刺す。必死に首を縦に振る。口が破壊されているため、喋ることができないのだ。首を振る度に血が胸に垂れ、顔からくちゃくちゃというグロテスクな音が鳴った。剥き出しの肉に振動が伝わり、刺すような痛みが生まれ、うねる。

 その後は、一日顔に纏わり付く激痛と戦いながらブロック運びに従事した。僅かに残った顔の筋肉を少し動かすだけで痛みが走るため、できる限り顔に余計な力を入れずに運ばねばならなかった。しかし、重いブロックを運ぶ際、どうしても歯(殆ど残っていないが)を食い縛ってしまうため、労働は困難を極めた。発汗も問題だった。顔の至るところにできた傷に汗が染み、その激痛で叫び声を上げそうになった。痛みのせいで気持ちは最低まで落ち込み、涙が出、それによりまた傷が痛んだ。何をしても傷が痛む。当然、仕事は普段より遅く、いつもの倍以上鞭で打たれた。

 それ以来、私は他者が折檻される現場を見ても庇おうとしなくなった。できなくなっていた。自分と同じ苦しみを味わう者をただ黙って見ていることしかできないのは苦しかったが、庇えば自分はそれ以上の苦しみを焼き付けられることになる。たった一度の罰でも、恐怖を植え付けて行動を制限する力は絶大だった。一晩眠った後、傷は治癒し、痛みと共に跡形もなく消え去っていたが、ブロックで幾度も殴打された恐怖による内面の傷は癒えることはなく、いつまでも爛れ、血を流し続けた。

 その男性だけではない。この牢獄には、毎日折檻されて泣き叫び、苦しむ者たちが溢れている。近くの者だけではなく、遠くにいる者でも、生前には体験し得なかった痛みに叫びを上げているのがはっきりと聞こえる。彼らの表情は見えないし、言葉を交わすこともない。だが言葉や視覚によって表面的に繋がることはなくても、私たちはどこかで繋がっているのだ。そして、それはおそらく、激痛や恐怖、絶望といった負の絆による繋がりなのだろう。誰もが自分たちの感情が発する負のエネルギーに囚われ、憔悴し切っていた。そして、そうした負のエネルギーは牢獄内に充満し、私たちの希望の芽を猛スピードで食らい尽してしまった。ここから抜け出すことができると確信している者は誰もいない。

 半分ほどのブロックを運び終えたときだった。ブロックを山の下のほうからばかり運んだため、山が不安定になり、地震のような轟音を立てて崩れてきた。慌てて身を引いたが遅く、私は数個のブロックに襲われた。足の甲に一つ落ち、骨を粉々に砕き、肉を潰した。肘を打ち、外側の関節が破壊された。頭の左側にも一つ落ち、頭蓋骨の左半分を粉砕。脳の一部が血と共に床に飛び散った。凄まじい痛みに苦しみながら、死んでいるのに脳があるのかと不思議に思った(案の定、脳の一部が破損しても活動には何の影響もなかった)。顔の左半分を血が覆い、左目がちかちかと痛かった。

「何やってんだよ、もう」

「下から取ってばっかいたら崩れることくらい猿でも分かるだろ」

「ぎゃははは! おもしれえ! 馬鹿だこいつ!」

 お決まりのようにブロック達が騒ぎ出す。

 そして――。

 落下するブロックよりも強い衝撃を背中に与える鞭。痛みに次ぐ痛みが走る。ブロックが崩れたのは事故であって私が故意で起こしたものではない。しかし、労働を中断したという点で休んでいるのと同じと見なされてしまう。怪我を負っているのに。またやってしまったと思った。何度か同じ失敗を繰り返している。普通は誰でも分かることだ。それなのに何故、時々忘れてブロックを崩してしまうのだろう。時々、労働中に頭に霞がかかったようにぼんやりとしてしまい、あり得ない行動を取ってしまうことがある。今のように後先を考えずにブロックを動かしてしまったり、呆然と立ち尽くしたり……。その度に鞭打ちを食らう。気付いた時にはもう背中に焼けるような痛みが刻み付けられ、地面に倒れ込んでいる。危険な場所にいると分かっているのに、気を緩めてはならないと分かっているのに、それでも気付けば気が緩む。そして、その頻度は段々と高くなってきているように感じる。


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