第十七話
二年生になり、成人を迎えても私は変わらなかった。単位のために大学へ行き、帰宅後は読書に没頭する。空白の時間を恐れ、先人たちの残した物語を追体験する。時間は凄まじいスピードで溶けていく。日々は幻想で形作られているかのように、手に触れた瞬間煙のように消え去ってしまう。そしてすぐに次の幻想が顔を見せる。私は両腕を前に突き出し、この幻想の流れを止めようと躍起になるが、止まることなどあろうはずもない。両手はただ虚空を感じるだけ。中身がないと自分が認識している一日はのったりとしていて苛立ちを覚えるほど長いのに、纏まった数か月という時間は日々が抜き取られたのではと思うほど早く通り抜けていく。怖れ故だろうか。止まってくれ、日々よ、時間よ、どうか。私の時を止めてほしい。永遠に「今」に縛り付けたまま凍らせてほしい。そう呟き続けた。
どのくらいの間隔を空けてかは定かではないが、またあの巨大な獣が襲ってきた。夜だった。私の不健康な、芯の通らない肉体に舌鼓を打つ毛むくじゃらで真っ黒な獣。狭い部屋は黄色い机上の蛍光灯だけが灯り、影の割合が大半を占める。ぐちゃぐちゃという生々しい音が部屋を埋める。涙が流れる。私は弱いのだ。社会で生きることができないほど身が、心が細いのだ。それなのに、人間として生を与えられた。こんな残酷な仕打ちはよして欲しい。社会から外れて生きることなど無論できない。社会に適応して生きることもできると思えない。布団の上で丸くなり、ただ獣に食われていく私。突き立てられる鋭利な牙。無へ帰りたい。生を遂行したくない。何もできず夥しい傷を付けられ、弱り果てるのは目に見えているから。生きる力がないのに生命として世に放たれたこの境遇が不条理に思えてならなかった。
時が経つにつれ、獣はより大きく、醜く、異臭を放つようになり、やって来る周期が短くなった。私を食う時間は長くなった。牙が肉を食い破るときの痛みは鋭さを増した。終には真っ昼間の学校でも襲われるようになった。授業中、教授の声が突如遠くなり、獣の唸り声が耳に飛び込むのだ。身体と心に痛みがびりびりと走る。授業中なのに涙が止まらなくなってしまい、机に突っ伏し嗚咽を堪えるのだ。突っ伏して泣き続け、獣が私の残骸を残して去ったとき、顔を上げると別の授業が始まっている。周囲の人間が奇人を見る目で私を見ていることに気付き、大慌てで荷物をまとめ、教室から逃げ去る。そんなことが幾日も続いた。
大学に通えなくなるのに時間はかからなかった。徐々に出席する授業数が減っていき、すぐになくなった。この頃になると、読書をしていても怯えが立ち上がり、視界を覆うようになった。集中力がなくなり、逃げ場を完全に失った。一日中布団に横たわり、空白の時間と獣に食われる時間を通るだけの毎日。無気力と恐怖が交互に襲ってくるだけの毎日。
狂気の足音が聞こえた。それは部屋の周りを、円を描きながら響き、日を追うごとにその円を小さくしていった。私を取り囲むその足音は、一日一日と私に近付き、脳にがんがんと響いた。そしてある日を境に、ついに狂気は私の中に足を踏み入れたのだった。
「死にたい」
その日、ぽつりと出た小さな言葉。一粒の水滴のように小さい。その言葉の粒がぽとりと床に落ち、広がっていく。床と壁を隙間なく染め上げ、空間を侵食しにかかる。すぐに部屋は埋め尽くされ、私の肉体を圧迫した。
「死にたい」
口から発せられると、言葉はすぐに空間に溶け、濃度を高める。肉体には更なる圧力がかかる。不安が押し寄せると「死にたい」と言い、圧迫され、逃れたくてまた「死にたい」を吐き出す。悪循環だった。その言葉を発する度に、私は岩だらけの坂道をぽっかりと口を開けた闇に向かって転がり落ちていくのだった。落ちれば落ちるほどぼろぼろに傷付いていく。傷付きながら、奈落の底に到達することを怖れた。だが底は姿を見せない。落ちる速度はどんどん増していくのに、行けども行けども闇が広がるばかりで、底は一向に見えてこないのだ。もう限界だった。
どうせ私は社会に出ても何もできない。他人の役に立つことなどできるはずがない。子供の頃からあんなに怒られ、誰かを失望させてばかりだった。任されること、期待されることは何一つ満足にできない。それなら私が生まれる意味などなかったのだ。
もう何日も敷きっ放しにしていた布団からゆっくりと立ち上がり、吸い寄せられるように狭い台所へと歩いていく。シンクの下の戸棚を開け、包丁を取り出した。一人暮らしを始めた当初は自炊のため頻繁に使用していたが、最近では、食事はスーパーマーケットの弁当で済ませてしまうのでめっきり使わなくなっていた。「ようやく出番がきたか」とでも言いたげに、包丁がぎらりと鋭く光る。その光は持ち主に悪意を抱いているかのように残忍で、直に最高の仕事を与えられる喜びと興奮に満ちていた。そんな残忍な包丁を見ていると、心が安らいだ。これがあればいつでも死ねる。死は近くにあるのだ。口元が緩んでいる自分に気付いた。もう何年も味わっていなかったこの胸の軽さ。笑いさえ込み上げてきそうだった。
それから数日、枕元に包丁を置いて眠った。血を欲して光る鋭利な刃を見ると、不安は断ち切られた。いつでも死ぬことができる。いつでも楽になれる。その思いで生き長らえていた。私の肉を求める獣も、包丁の光で何処かへ逃げ出す。束の間の安堵。読書よりも即効性のある精神安定剤だった。手首を切ろうか、腹に突き刺そうか、それとも首を切り付けるのがいいだろうか。死ぬ間際を想像し悦に入る。時には何時間も包丁の刃を指で撫でながら、死という闇に逃げ込める甘美な未来を妄想することもあった。妄想の中の死は光を強め、美しさを限りなく増していく。すぐに楽になれるのだ。感覚も感情も記憶も何もかも消滅し、永遠に闇と同化することができるのだ。
八月になり、ぷっつりと通わなくなった大学が私にとっては無意味な夏季休業に入ったある日、電話があった。こんなに騒々しい音だったかと耳を疑うほど呼び出し音がやかましい。死の妄想にどっぷりと浸かる私と現実の世界を繋ぐ唯一の音。鳴り響いた瞬間、全身を覆う妄想の膜が弾け飛び、私は現実の空気に触れた。私に電話をかけてくる人物など一人しか思い浮かばない。怖かった。恐怖が蟻の大群のように足元から這い上がり、私を覆っていく。冷や汗が一気に吹き出す。震える手を伸ばし、受話器を取った。
「もしもし……?」
自分の掠れた声に驚く。もう長いこと会話から離れていたため錆び付いた声。
「もしもし、由美子?」
母の声だ。相変わらずの濁声。
「お母さん?」
「まったく、全然連絡よこさないで。元気にしてるの? 大学はどうなの? ちゃんと勉強してるの? ちゃんとしたご飯食べてるの?」
突然電話してきたと思ったら質問攻めか。尋問でもされているかのような気分だ。母の無意識の言葉は無数の槍となり、私を激しく突いた。
「何で黙ってるの? もう夏休みでしょ? 帰って来ないの?」
「帰るのは……無理かな……」
「どうしてよ?」
「その、バイトがあるから」
咄嗟に嘘を吐いた。少しでもまともに暮らしているように見せたかった。
「バイト? あんた辞めたんじゃなかったの? スーパーのやつ」
「また始めたの。別のスーパーで」
「へえ。いつからやってるの」
「えっと、先月から」
嘘を吐くと不自然なほど言葉に力が宿らず、たどたどしく響く。何故か冷や汗が止まらず、心臓がどくどくと落ち着かない音を立てていた。
「ふうん。今度はちゃんと続けるんでしょうね? 前のバイトたった三ヶ月で辞めたって聞いたときはびっくりしちゃったわよ。あまりに根性がなさすぎるわ」
ぐさりと私を抉る言葉。これは親に嘘を吐いたことへの罰か? 負い目が刺激され、胸が痛い。
「大丈夫だよ」
震える言葉を何とか吐き出した。不安で下腹部が痛み始めた。
「しっかりしなさいよ? アルバイトも満足に続けられないんじゃ、先が思いやられるわ。あんたたいして綺麗でもないし、取り柄もないんだから、結婚もいつできるか分からないんだし。あんたみたいなのは人一倍頑張らないとだめなのよ?」
それが実の娘にかける言葉か。私を否定するのがそんなに楽しいか。部屋がぐにゃりと歪み、涙が頬を滑り落ちた。
「ちょっと、由美子。聞いてるの?」
答えられず鼻をすすった。
「由美子? あんた泣いてるの?」
何も言わず、受話器を落とすように電話を切った。もう母の言葉など聞きたくなかった。また否定された。いつもそうだ。希望を与えてくれるような、温かい言葉はいつだってかけてもらえない。孤独感と無力感がいたずらに刺激され大きくなった。この世界に私の味方はいない。心底そう思った。寝床に戻り、布団を頭から乱暴に被った。布団の中で狂ったように呻き、泣いた。私は苦しむために生まれたのか。否定されるために生きているのか。罰せられなくてはならない人間なのか。
布団の隙間から、銀色のものが見えた。布団から這い出し、涙に濡れた目でそれを見詰めた。包丁だった。ぼやけた視界でも何故か鮮明に見え、私を取り囲むものの中で唯一優しい顔をして見えた。引き寄せられるように包丁を掴み、バスルームへと歩いていく。
「もう終わりにしよう」
バスルームの天井の黄色い光はいつもより明るく、悦楽の色を帯びていた。小さな鏡には水垢がこびり付き、床はざらついていた。長い間掃除を怠った結果だ。
バスタブに栓をし、シャワーから勢いよく水を出す。シャワーフックに固定されたシャワーの水は雨の様にバスタブの底を打っていたが、しばらくすると水が底を覆い、水が水を打ち始めた。左手首を右手の親指で触り、慎重に脈打つところを探す。見付けた。指を皮膚越しに押し上げるように脈打っている。その脈打ちは主の決意など知ったことかとでも言いたげに、図々しく単調な仕事に勤しんでいる。愚か者め。ここがお前の終着点だということを教えてやろう。
上から落ちてくる流水を左手首に当て、探し当てた箇所に包丁の切っ先を当てる。暴発しそうなほどに胸が高鳴り、息が細く絞られていく。一度息を深く吸い込むと、歯を食い縛り包丁を持つ手に力を込めた。ぷつりという小さな感触の後、激痛が生まれ、じわりじわりとその存在を大きくしていく。
「うぐ……」
幼い頃刃物で怪我をしたときの記憶が蘇った。想像を遥かに超える痛みだ。溢れ出る血には、生に背くなという非難の色が見えた。だがここで止めてはならない。過去二十年と向こう何十年の苦痛を凝縮すれば、こんな痛みなど限りなく無痛に近いはずだ。今がどれほど痛くてもすぐに永遠の平穏が手に入る。その思いだけで手首に包丁を突き立て続けた。歯がぎちぎちと鳴り、隙間から息が漏れた。包丁が肉に食い込み、赤い血は焦燥を煽るかのように激しく流れていた。
逆手に包丁を持つ右手が笑うように不自然に震え、力を分散させた。次いで駆け上るように上へ上へと激しく押し上げられる息。呼吸をまともにさせまいとすべての臓器が結託しているかのようだ。私に抵抗する気か。主は死を望んでいるというのに、隷属するお前たちは生を望むというのか。邪魔をするな。
「邪魔をするな!」
重荷が床に投げ落とされるように発せられた声には、女らしさは欠片もなかった。獣の唸りのように、生きようともがく肉体の意志を押しのける響きがあり、汚らしく潰れていた。そして、それが放たれた瞬間、右手の震えがぴたりと止まった。鋭い激痛が緩和され、手首がじわりと温かくなった。そして何かが下腹部で膨らみ、弾けた。それは失神しそうなほど高密度に凝縮された快感だった。私が生きる予定だった人生のすべての快感がその一瞬に詰め込まれたかのようだった。それは肉体の芯を貫き、身体中を暴れまわった。食い縛っていた歯と歯が離れ、舌が犬の様にだらりと垂れた。はっはっと息を押し出すように吐き出すと、それに伴い涎が零れ糸を引いた。生命の道理から外れることの背徳感。もう苦しみを感じなくてもいいのだという安堵感。それらが何故かすべての神経を鷲掴みにするような快感を呼び起こし、苦痛と恐怖を覆い尽くした。
くだらない過去や未来を憂慮する必要など何処にもない。役に立てないことも、責任と叱責に震え続け、溝鼠のように萎縮し卑屈に振る舞わねばならないことも、誰にも愛されず孤独に生きねばならないことも、何も怖れなくていい。生きていれば怖れざるを得ないだろうが、私には関係ない。もう死ぬのだから。
「なんだ、簡単なことじゃない」
腕を伝いバスタブに落ちる血を見ながら思わず漏れた言葉。そうだ。時間を「今」に縛り付け凍らせて欲しいと願ったが、願う必要すらないことだった。初めからこうすればよかったのだ。生きるに値しない人生など早々と捨て去ってしまえばよかったのだ。何と容易いことだろうか。こんなことにも気付かなかったとは愚かだ。そう思った途端、狂おしいまでの愉快さが笑いを喉元まで押し上げてきた。
「く、はははははははははは! あははははははははははははは!」
笑いが止まらない。狭いバスルームは愚かな女の笑い声を受けびりびりと鳴った。むず痒い。全身がむず痒いほどの快楽に震えている。ちっぽけな檻の格子を引きちぎるように破壊し、外に飛び出すことなど簡単だった。先ほどまで弱々しく泣いていた自分が馬鹿に思えた。私にしか得られない快楽がここにある。今まで惨めで肯定できない人生を歩み、これからもそんな無価値な自分しか生きられない私だから、その生を投げ捨てられることに無上の悦楽を感じられるのだ。これほどまで愉快だったことがあったか。存在のすべてを震わせて笑ったことがあったか。この瞬間、ほんの一瞬だけ、私は人生の勝利者になった。最後の最後で人生に勝ったのだ。
「あははははははははははははははははははははははははははは!」
大口を開け醜く笑いながら、私は包丁を握る手に更に力を込めた。みしみしと音を立てずぶずぶと華奢な手首に食い込む包丁。刃は動脈を破り、深く潜り込んだ。血は飛び散るように溢れ出ていた。勢いよく噴出する血液に見惚れ、うっとりとしてしまった。眩いほどの鮮紅で、透き通っており美しい。上質なワインのようだ。もっと血が見たくて、手首を縦に切り裂いた。鮮血が更に溢れ出す。綺麗だ。激しく脈打つような快感に悶えながら堪能する最期。苦役を手放すことのできるこの快感はどんなものも及ばないだろう。バスタブの水に血の赤が混じっていく。もっと赤く染めたい。その一心でバスタブの水に手首を浸した。もっと流れ出ろ、私の血よ。私の忌々しい人生と共に流れ出てゆけ。
父と母の顔がぼんやりと浮かぶ。にたりと亡霊のように気色の悪い笑みが自分の顔に貼り付いたのが分かった。
「お父さん、お母さん、ありがとう。あなたたちのお陰で、今最高に幸せだわ。私の死体を目に焼き付けて、一生トラウマを抱えて生きていってね」
意識が闇に溶けていき、蝋燭の火が吹き消されるように、小さく消えた。こうして私は人生を捨てた。それは一瞬だけ掴んだ、歪んだ幸せだった。
こうして夢で客体視して振り返ってみると、自分の人生が如何にくだらないかが見えすぎるほど見えてしまう。自分の記憶に刃物を何度も突き刺し、ずたずたに切り刻んで残虐に葬り去ってやりたくなる。何とちっぽけなことで深刻に悩み苦しんでいたのだろう。人類の歴史の中で、おそらく幾度となく繰り返されてきたであろう、あまりにもありふれた痛み。それも針の刺し傷程度の小さな小さな痛み。それを本気で苦しいと感じていた私。私よりも遥かに高純度で破壊的な苦痛を押し付けられた人間の数など、名を書き連ねれば紙が地球を何周も回ってしまうほど膨大だろう。なのに、私はこんな小さな馬鹿馬鹿しいことで涙を流し、人生の放棄に至った。私はどこまで弱いのだ。どこまで甘えた生き物なのだ。くだらない。本当にくだらない。羞恥に身が焼き尽くされる思いだ。