第十五話
扉の先は、円形の広場だった。一辺四十センチほどのブロックが積み上がって山を成しており、その山が幾つも広場に立っていた。それぞれのブロックの山から十メートルほど離れた地面に、直径十メートルほどの円が描かれている。
「さて、早速始めるか」
横にいた怪物がさらに近づき、私の首に手を伸ばした。とっさに腕を身体の前に構えたが、蠅でも振り払うように易々と弾かれてしまった。化け物の手が首の鎖の枷を掴み、一気に毟り取った。首が千切れると思い、反射的に目を瞑ったが、驚いたことに、私の首には痛みはおろか衝撃の一つも伝わってこなかった。枷だけ溶けてしまったように思えた。唖然としていると、突然腹に衝撃と鈍痛を感じ、私は後ろに吹っ飛んだ。化け物が足を上げ、笑いながら私を見下していた。蹴られたのだと理解するのに少し時間を要した。
「ここがお前の持ち場だ」
後ろを見るとブロックの山が私を脅すように聳え立っていた。まっすぐなはずなのにこちらに傾いて見えた。
「ここのブロックをあの円の中まで移動させろ。全部だ」
こんなにも大きく重そうなものを運ぶのか。非力な私にそんなことができるのか。見れば見るほどブロックは重く、床に強い意志でへばり付いているように見えた。
「何ぼけっとしてるんだ! とっとと始めろ!」
臓器を抉り取られそうなほど重い声が響き、私は反射的に立ち上がった。死んでいるはずなのに、胃が縮み上がり、心臓が暴れ狂うように鼓動するのがはっきりと感じられた。慌てて山へ駆け寄り、手近な一つに手を掛け、腕に力を込めた。が、ブロックはぴくりとも動かず、セメントか何かで接着してあるかのように頑固にその場に居座っていた。
「そのブロックは頭が良くてな。お前の出せる力を把握し、持ち上げられる限界ぎりぎりの重さになる。僅かでも力を抜くと持ち上がらなくなるぞ。持ち上げることだけに全神経を集中しろ」
化け物が口を横に細長く広げて笑った。
「言い忘れたが、俺たちはこの監獄の看守だ。お前ら囚人がちゃんと仕事しているか監督し、必要であれば罰する義務がある。もっとも、義務感なんざ何も感じていないがな」
そう言うと化け物は腰に手を回し、括り付けられていた鞭を取った(ここに来るまでは鞭など持っていなかったのに、いつの間にか腰に付いていた)。「罰」の意味が分かり、ぞっとした。
「こいつでな、囚人どもを叩くのが俺たちの何よりの娯楽なんだ。傷だらけの囚人どもが痛みに耐えかね泣き喚く姿は垂涎ものよ」
残酷に笑い、床を鞭で激しく打った。
「まだ一つも運んでないぞ! ぼけっとするな!」
見ると鞭で叩かれた床に裂け目が入っていた。弾けるように身体が動いた。ブロックに両手を添え、先ほどよりも強く力を込めた。しかし相変わらず図々しく座り込んだままだった。その場に留まろうとするブロックのどす黒く歪んだ意志がひしひしと感じられた。
「まだだ。もっと力を入れろ」
甲高く、赤い声が手元から聞こえた。びくっとして手元を見ると、ブロックに気味の悪い人面が浮かび上がっていた。口が裂けたように大きいのに、唇は不釣り合いに薄い。興奮しているのか、異様に尖った高い鼻をしきりにひくつかせている。蛇のように切れ長の目からは、嘲笑の光が溢れていた。
「体力の心配なんざしてる限り、一生持ち上がらねえぞ。あ、もう死んでるんだっけか。一生ってのは間違いだな」
金属が擦れ合うような耳障りな声でブロックが笑う。醜い。なんという醜さだ。嫌悪が大蛇のように頭を擡げ、私の中をのたうち回った。私はグロテスクなブロックから思わず手を離し、睨み付けた。
「お? 何だ?」
「この――」
私はブロックを殴打しようと拳を振り上げた。
「おい、言っとくが手を止めたら――」
ブロックが言い終える前に、背後で何かが風を切る短い音が聞こえ、直後、牢獄中を揺るがすのではと思うほどの凄まじい轟音と、真っ赤に焼けた鉄の棒を押し付けられたような激痛が背中に貼り付き、私の身体を激しく揺さぶった。私は吹き飛ばされ、ブロックの山に倒れ込み、咳き込んだ。すべての臓器が痛みの波動により打ち震えた。電流を流されたように身体が小刻みに震え、麻酔をかけられたかのように、思うように動けない。身体が激しい痛みに捩れ、そのまま固まってしまった。目が見開かれ、瞼を閉じられない。痙攣しながらやっとの思いで後ろを振り返ると、看守が鞭を構えて立っていた。
「――鞭が飛んで来るぜ。て、もう遅かったか」
ブロックが笑う。呼吸さえままならない。高温の痛みに喉が締め付けられる。この痛みが現実世界で受ける鞭打ちの痛みと比べ、どれほどのものなのかは分からないが、私が過去に味わったどの痛みよりも大きく、深く身体の中へ食い込む痛みだった。
「早く仕事に戻れ。もう一発食らいたいか?」
看守の声が無慈悲に響き、できたばかりの傷を舐めた。身体の震えが止まらず、汗が大量に吹き出ていた。私はふらつきながら、先ほど掴んでいたブロックに再び手を掛けた。
「すまんな。警告が遅れちまって」
ブロックに浮かび上がったおぞましい顔が嬉しそうに笑い、くしゃくしゃに歪んだ。歪んだ顔が一層不気味だった。人面ブロックへの嫌悪感は、鞭打ちと看守への恐怖ですっかり姿が見えなくなってしまった。私は歯を食い縛り全身に力を込めた。背中の傷がみしみしと痛んだが、恐ろしさの方が勝り痛みに耐えて力を込め続けた。ようやくブロックが僅かに持ち上がり、私はそれを抱え、ふらつきながら歩き始めた。足取りは重く、僅か十メートル程度の距離が信じられないほど長く感じられた。まるで、気付かぬうちに自分の身体が縮小し小人になってしまったかのように思われた。悪意に満ちた重みと戦っていると、何故自分がこんな境遇に立たされているのかという思いが、汗と共に私を形作る細胞ひとつひとつから吹き出てきた。
腕が軋み、掌に激しい痛みを感じ始めた頃、ようやくブロックを一つ、山から円へと運び終えた。たった一つで息がかなり乱れていた。
「ようやく一つ目か」
呆れたように看守が言う。限界の重さのものを運ばされているのに、ようやく一つ目かとは何という言い草だ。しかし、口にする勇気は無論ない。たった一発の鞭が、私の反抗心を易々と粉砕してしまった。幾分和らいだものの、燃えるような痛みは依然として背中にしがみついている。まるで母の背にすがる無邪気な赤子のようだ。
私は二つ目に手を掛けた。するとまた人面が現れ、ぎらぎらと光る目で私を睨み付けた。口が三日月のように大きく横に開き、真っ赤な舌をちょろちょろと出した。
「頑張って運ぶんだぜ、お嬢ちゃん」
ブロックひとつひとつに固有の人格があるのかは分からないが、こいつも先ほどの奴同様、薄気味悪く言葉や表情が逐一私の感情を逆撫でした。気分が悪い。できる限り端を持ち、忌々しい顔に手が触れないようにして運んだ。
その後、四個ブロックを運んだ。身体が溶けだしたのかと思うほど大量の汗が流れ、地面に染みを作った。早くも掌に肉刺ができ、腕は軋み、腰は鉛を詰め込まれたかのように重く、鈍く痛んだ。生きていた頃から体力があるほうではなかったが、それでもまさかここまで自分が動けないとは思わなかった。一向に小さくなる気配のないブロックの山から、子供のように無邪気で、それでいて分別のない大人のように冷たい笑いが響き渡った。ここには私の味方になってくれるものは何もないのだと、そのとき悟った。もう、誰も助けてくれない。自分は誰も手を差し伸べてくれない地獄に来てしまったのだ。孤独感と絶望感からか、自然と涙が溢れ出していた。運びながら泣いた。信じられない量の涙が頬を伝い、床に虚しく落下した。しかし、それは生きていた頃に流した涙とは違い、ぞっとするほど冷たかった。感情が極限に達した際の人間らしい熱さがその涙には微塵もなかった。涙は私の心を洗ってはくれず、泣いた分だけ余計に惨めになった。
その後も、私は何度も鞭と嘲笑の雨を浴び、涙と血と汗を垂れ流しながらブロックを運び続けた。どのくらい時間が経過しただろう。身体が激痛の絶叫を上げ、泣きすぎて顔がひりひりと痛んだ。口の中が渇き、唾液が粘つく。舌が口内の肉に貼り付いてしまいそうだ。それほど水分は失われているのに、身体には何の異常もきたさない。生きていれば脱水症状で死んでしまっていても不思議ではないと思えるほどの汗の量なのに、何も起こらない。肉体はエネルギーを放出し続け、電流が流れるように痛みを発し続けているのに、手足が活動を停止しない。あり得ないことが起こっている。しかし、ここではそれが現実なのだと受け止めるしかない。実際に起こっているのだから。そんな状況に身を置いていると、心の中に暗雲が音もなく忍び寄り、気付けば光を完全に遮っていた。
ふと足元を見ると、自分の血と汗が床に広がり、黒々とした染みを作っていた。その染みが、自分の身体から出たものと分かるのに時間を要した。血と汗は点滴のように身体から絶えず滴り落ちている。
鬱々としながらその後もブロックを運び続けた。運んでいる間、何度も看守の鞭が飛来し、私の身体に地獄の痛みを刻み付けた。私は涙を流し、血を流し、痛みに悶えた。痛みは肌に刻み付けられ、和らがないうちに、また刻まれた。それを気の遠くなるほど繰り返した頃、私はようやく、最後のブロックを指定の場所に運び終えた。身体中の肉に裂け目ができており、動く度に痛んだ。何発もの鞭で背中が爛れているのが見なくても分かった。ようやく運び終えた。ほっとしたとき、円の中に山になったブロックが蝿の大群が立てる羽音のようにやかましく騒ぎ立てはじめた。
「やっと終わったか。お疲れさん」
「何発鞭喰らった? 誰か数えてたか?」
「そんなもん数えられねえよ。こいつ喰らいすぎ」
「とろくせえ奴。今までで一番だな」
一瞬にして、僅かに芽生えていた達成感が摘み取られた。
そして、次の瞬間、ブロックが溶けるように消え去り、綺麗に元の場所に戻った。運ぶ前とまったく変わらない山が、そこに立っていた。
「え……」
何故元に戻っているのだ。幻覚を見ているのか。痺れるような疲労に覆われた手で、目を擦る。馬鹿みたいに、一度目を閉じ、また開けて見る。目の前には、やはり運ばれる前のブロックの山。
「よし。もう一度運べ」
背後で看守が悦楽に震えながら囁いた。狂人のように興奮しているのが見なくても分かる。また同じことをするのか。あんなに苦労して運んだのに。鞭で打たれながら、身体に纏わり付く痛みに耐えながら運んだのに。膝が折れ、地面に力なく打ち付けられた。力が入らない。背後から風を切る音がした。しまったと思ったときにはもう遅かった。背中が燃えた。痛みと言えないほど大きな衝撃が背中を捕え、私は吹き飛ばされ、倒れた。
「さっさと取り掛かれ」
やはりこうなるのか。どこかで分かっていたはずだった。絶望が大きすぎて見えなくなっていた。水の入った瓶に墨が混ざり水を黒く染めていくように、恐怖が私を再び支配する。人間の感情とはこうも移ろいやすいものだったのか。もう殆ど残っていないはずの体力を振り絞り、私はブロックの山に向かった。運ぶ前とまったく同じ位置にある一つに手を掛ける。
「頑張れ、頑張れ」
ブロックに浮かぶ顔が、甲高い笑い声を上げる。これも、運ぶ前と同じ。同じことを無意味に繰り返していることへの虚しさ。違うことと言えば、度重なる鞭打ちとブロック運びにより、全身の痛みや疲れが増していること。泣き叫びたかった。実際、涙は何度も流した。しかし、涙は冷たく、解放感や浄化は何も感じられない。流せば流すほど虚しくなるだけだった。こんな無駄な機能を残していることが憎く、誰とも知れない創造主を私は呪った。
消えたいと思った。暗い心にその思いが一筋、ぽつりと浮かんだ。と、その瞬間、黒々と濁った幾筋もの感情が、土石流のように流れ出した。意味のないことを何故しているのか。これほどまで完璧に作られた理不尽が他にあろうか。意味のないことをただやり続けなければならない理由は何だ。どうしてこんなことになった。私が私としてここに存在する理由は何だ。私の肉体とは、存在とは、魂とは、一体何のためにあるのだ。誰からも感謝されず、見返りも得られず、当然充足も得られず、ただ疲労と痛みが心身に蓄積されていくだけの、この謎の営為は何だ。この営為の果てに、誰が幸福を得られるのだ。
その後、冷たい血と涙と汗を流しながら、絶望と疲労に幾度となく打ちのめされながら、何個もブロックを運んだ。気の遠くなるような時間が経過したとき、女性の金切り声のような笛が鳴り響き、ようやくその日の労働は終わりを告げた。
私たちは再び鎖を嵌められ、すぐ後ろにある、防空壕のような洞穴へと入れられた。洞穴の入り口は高さ二メートルほど、横幅一・五メートルほどの小さなもので、入り口の横には鉄格子の扉が貼り付いていた。それが囚人房だった。広さはせいぜい四、五畳ほどだろうか。部屋の隅には一本松明があり、弱々しい火が灯されている。その火は私自身を象徴しているかのように弱く、頼りない。私を囚人部屋に入れると、看守は部屋の壁に鎖を巨大な金属の杭を素手で打ち付けて固定した。拳がハンマーの役割を果たし、僅か三発で杭が壁に埋まってしまった。恐ろしさで全身が冷たくなるほどの怪力だ。その怪力ぶりを見て、この化け物からは逃げられないし、逆らってはいけないのだという思いに頭が完全に支配された。逃げようなどしたら、杭を打つように私の頭は真上から叩き潰されるだろう。もっとも、ここに逃げ道など用意されているとは思えないのだが。
「一日目終了だ。疲れただろう? ゆっくり眠るといい」
そう言うと看守は、外に出ると鉄格子の扉に手を掛けた。地震のような振動を生み出しながら、鉄格子が閉まった。
「いい寝室だろ? よく眠れるぞ」
看守は私に笑いかけると、黒い扉に向かって歩き出した。大勢の看守たちがそこに集まっており、黒い扉から外へ出て行った。静寂が訪れた。私は屈み、岩の床に手を触れた。冷たく、堅い。こんなところで眠れというのか。腰を下ろし、部屋を見渡した。見事と言っていいほど、何もない。松明の火が揺れているだけで、とてつもなく空虚だった。ああ、私と同じだ。この部屋は私なのだ。何もかも投げ捨てて、すべてを失った私の心なのだ。喜びも目的も、何もない。これから何がここを満たすのだろう。
扉が乱暴に開かれる轟音が鳴った。大勢の足音も響く。看守たちが戻ってきたのだ。私に付いていた看守(もっとも、他の看守と見分けなどつかないのだが)が鉄格子の前に来て、私を楽しそうに見た。手には茶色い布袋が握られている。何をするつもりだ。怖くなり、奥の壁に貼り付いた。
「さすがに何もないと眠れないだろう?」
そう言うと、布袋に手を突っ込む。抜き出した手には、薄桃色の粉が一掴み握られていた。手をゆっくりと開くと、粉がさらさらと零れ落ち、松明の光を受けて明るく照らし出された。散り行く桜の花びらを想起させ、儚くも妖艶な美しさがあった。思わず粉に見惚れていると、看守が掌の粉に息を吹きかけた。粉は宙を舞い、私の全身を包み込んだ。その瞬間、強烈な眠気に襲われ、私は固い岩の床に仰向けに倒れた。倒れた衝撃は感じたが、痛みはなかった。薄れ行く意識の中で、看守が再び黒い扉のへ歩いていく足音が聞こえた。足音を聞いているうちに、私は眠りに吸い込まれていった。眠りに落ちても、安らぎは得られなかった。