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母娘の牢獄  作者: 関黒一基
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第十四話

 笛が鳴った。労働開始の合図だ。私は固く冷たい岩の床から起き上がった。ごつごつとした温かみの無い暗い岩の独房。私は鉄格子を見詰めた。鉄格子は冷たく、残忍な光を放っている。囚人の希望を掻き消す光だ。鉄格子が鈍い音を立てて横にスライドし、扉が開いた。私は外に出た。労働場の床が裸足の足に冷たかった。吐く息が白い。今日は凍えてしまいそうなほど寒い。

 牢獄内の温度はいつもランダムに決まる。肌を突き刺すような極寒か、焼き殺されそうなほどの酷暑か、どちらかだ。寒いときは指が悴み、ブロックを運ぶときの痛みが倍増する。床も氷のように冷たくなっており、足の裏は霜焼けに襲われる。熱いときは大量の発汗により容赦なく身体の水分が奪い取られ、激しい渇きに襲われる。看守はどちらの気温であっても平気な顔をして鞭を振るっている。彼らには何の影響もないらしい。実に都合のいい肉体だ。

「持ち場につけ」

 看守が唸るように叫ぶと、皆それぞれ自分のブロックの前に立った。

「始めろ」

 看守は低い声で唸ると、笛を一斉に吹き鳴らした。金属音を耳元で聞かされたような痺れが足から身体を這い上がり、全身を撫でまわす。ぶるりと身震いした。私は重い身体を動かし、目の前のブロックの一つに手を掛けた。持ち上げると、また昨日と同じ重さが蘇ってきた。ああ、始まってしまった。今から看守が再び笛を吹くまで、気の遠くなるほどの時間を、この無意味なブロック運びに費やさなくてはならないのか。

 歯を食い縛り、重いブロックを持ち上げ、約十メートル離れた指定の箇所へとふらつきながら運び始めた。一歩一歩が鉛のように重い。疲労は蓄積され、睡眠をとっても殆どとれてくれない。身体にしつこくしがみついている。その上で毎日の労働に従事するのだから、疲労は日を追うごとに大きくなっていく。やっとの思いでブロックを一つ運び終えた。もう息が上がっている。僅か十メートルがこれほど長いとは。不思議でならない。ここに来てもう随分経つというのに、身体は労働にまったくと言っていいほど慣れていない。ただ痛みと疲労だけが負債のように溜まっていく。私は二つ目のブロックに手を掛けた。

 ブロックを運んでいると、いつも浮かんでくることがある。この牢獄に来たときのことだ。目を閉じれば、自分がまだその瞬間、その空間にいるかのようにはっきりと見えてくる。


 暗闇が突如として晴れ、気が付くと私は薄暗い部屋の中に立っていた。六畳ほどの狭い部屋だ。

「ここ……どこ……?」

 馬鹿みたいにきょろきょろと忙しなく首を動かし、部屋の中を見回した。四方を壁で囲まれ、窓一つない。部屋の四隅に松明がつけられ、大きな火が踊るように燃え盛っている。松明の火は陽気に踊っているように見えたが、同時に錯乱し、狂気を漂わせているようにも感じられた。

 どうやって私はこの部屋の中に入ったのだろう? いや、よく見ると壁と全く同じ色をした扉が、擬態するように壁に貼り付いている。なんだ、あそこから入ったのか。扉に向かって歩こうとしたとき、私は首に触れる冷たさと重さに気付いた。目を遣ると、首には鉄の枷のようなものが嵌められている。手で触ると、じゃらんという無慈悲な音が背後で響き、背中にも冷たさを感じた。枷には鎖がついており、後ろの壁に繋がれていた。

「は……? え……?」

 身に付けているものはいつも着ている洋服ではなく、汚らしい粗末な襤褸切れ。頭の中で混乱が生じ、反響する。何故、首を鎖で繋がれ行動を制限されているのだろう。何故、ここにいるのだろう。そして、ここはどこなのだろう。鎖で捕縛されているということは、私は何か禁忌を犯したということだろうか。この襤褸切れは何だ。人権を奪われたとでも言うのか。しかし、私が何を犯したというのか。何故こんなことになっているのだろう。夢でも見ているのか。

 次から次へと老廃物のような意味のない思考が浮かび、脳内を駆け回った。頭の中は混沌とし、まともな思考は何も浮かんでこなかった。考えても何も分からない。私は記憶を掘り返そうと目を閉じた。思い出せることはないか。両の掌で頭を挟み、ぶんぶんと頭を横に振る。目覚める前、自分はどこで、何をしていただろうか……。

 しばらくすると、急に記憶が姿を現し、あっと叫びを上げた。浮かんでくる記憶の映像。

 私は自宅のバスルームで左手首を切った。震える手に無理矢理力を込めて包丁を握り、抉るように深く手首の血管を切り裂いた。奇妙な高揚感のようなものが脳を支配していたのを覚えている。性的な興奮が何倍にも濃度を高めたかのような、異様な胸の高鳴り。止まらない手の震えは全身に波及し、歯を小刻みに鳴らせた。そうだ、あれは歓喜だった。何の価値もない、くだらない人生を無残に葬ることへの歓喜。私の人生で、唯一にして最大の喜びだった。万に一つも命が助かってしまうことのないよう、シャワーから水を出したままにし、手首に水が大量にかかった状態で切った。思い出される痛みと、大量の血。溢れ出る赤黒い血が妙に美しく思えた。栓をしたバスタブに溜まっていくシャワーの水。その水を赤く染めていく血液。出血は止まることを知らず、私の意識は次第に霞がかかったように薄らいでいった。そして、いつの間にか意識を失った。

 左手首に目を遣ると、包丁で切った傷痕がしっかりと刻まれていた。傷は塞がり、蚯蚓腫れのようになっていたが、「確かに自分で切ったのだ。忘れるな」と声高に主張するように存在していた。そうだ。私は確かに死んだのだ。だとすればここはあの世だろうか。そうか、あの世か。死ねば魂だけになると思っていたのに、肉体があるし、いやに感覚がはっきりとしているものだ。これでは生きていた頃と何も変わらないではないか。死者が肉体を捨てるというのは生ある者の妄想だったのか。

 あまりにも愚鈍な思考を巡らせながら呆然と立ち尽くしていると、突然、部屋の扉が鈍い音を立てて開いた。驚いてドアを見詰めていると、巨大な怪物が窮屈そうに部屋に入ってきた。見たことのないものを見てしまった恐ろしさと困惑で思考が止まり、その場に凍り付いた。あまりのことに言葉が、声が、息が失われた。本城由美子を構成するすべてのものが仕事を忘れてしまったように、動けずに立ち尽くしていた。一つしかない巨大な目玉がぎょろりと動き、私を捕らえ、上から下まで舐め回すように見る。その視線から、絡めとられてしまいそうなほどの粘り気を感じ、身体の芯が冷えた。身の危険を直感が感じ取っているが金縛りにあったように動けない。心音も聞こえず、歯ががちがちと鳴ることもない。完璧な静止だ。

「本城由美子だな」

 地の底から震えるような低い唸り声で、怪物が言った。私の名前を知っていたことにはあまり驚かなかった。こんなものを見せられては、名前くらい知られていても不思議ではない気がした。

「一緒に来てもらおうか」

 化け物は奥の壁まで足音を立てて歩いて行き、私を繋ぐ鎖を壁から引きちぎった。その容姿を裏切らない怪力ぶりに私の恐怖心が膨れ上がった。私は何をされるのだろう。拷問でも受けるのか。あの鎖と同じように、この化け物に身体を引きちぎられてしまうのか。

「逃げようとする奴がいつもいる」

 化け物は鎖の端を持ち、私の目の前で軽く振りながら言った。

「こんなもんで繋がれてたら、逃げる気なんざ失せるだろ?」

 ごぼごぼと下卑た笑いを浮かべる。逃げる? いつも? 私以外にも捕らわれる者がいるのか? 分からないことばかりだ。謎の部屋に、謎の化け物。得体の知れないものや状況に囲まれ、恐怖と混乱が頭を支配する。自分を取り巻くものを少しでも理解したかった。気が狂いそうなほど不安だった。その不安が私に愚行を起こさせた。

「あの……。ここは、何処で――」

 そう口から漏らした瞬間、怪物が動いた。カメラのシャッターを切る一瞬よりも短い時間で、腕が私の視界に現れる。反射的に目を閉じた私の喉に、ざらついた固いものが当たり、巻き付いた。喉仏が鈍痛と共に奥へと押し込まれ、打ち首の如く言葉がかき切られた。目を開けると、化け物が私の首を掴んでいた。息が急速に細る。化け物の手が私のあまりに細い首を締め上げ始めたのだ。めきめきという音を首が発し、空気の流れが断ち切られる。私の華奢な肉体は宙へと浮き、私という人間の惨めなほどの弱さを自身に知らしめた。

「うう……う……え……あ……」

「疑問は吐き出すな」

 太い声で怪物が言う。やけに腹に響く声だ。

「疑問などここでは何の意味もない。答えなど用意されてはいないからだ」

 息をしたい。その本能に、疑問は頭から容易く追い出された。異形の手を掴み外そうと試みるも、力にあまりに差があり過ぎた。私の腕力や握力など、怪物からすれば幼児の如く儚い。死んでしまう。離して。視界に黒い影のようなものが染み入り始める。満たされない本能が、私を壊していく。息を通そうとしたのか、唾液が口から汚らしく飛び出、異形の者の手に触れた。怪物の単眼が嫌悪に染まる。私は投げ飛ばされ、壁に叩き付けられ、だらしなく地面に落ちた。咳が腹の底から何発も飛び出し、唾液がねとりと糸を引く。自分の身体から出た液だが、だらしなく忌々しい。目から涙を流しながら、私は空気を貪った。空気を吸い込む度に壁に殴打された背中が軋んだ。

「忠告しておいてやる」

 腰の布で私の唾液を拭いながら、嫌悪感を剥き出しに私に言い放つ。

「自分の置かれた状況に対し、疑問は持たない方が身のためだ。疑問は強い感情を伴うからな。感情は熟成されると、脆弱な人間には扱えないほど凶暴になる。だが決して外に出してはならん。一度放出すれば、感情は更に凶暴になり、お前を外から食い荒らす。ここでは、それがルールだ」

 ルール? どういうことだ。ぜいぜいと乱れた息をしながら、怪物を見上げる。

「立て」

 力なく、だが急いで立ち上がった。息苦しさなど、怪物への恐怖に比べたら小さなものだ。

「来い」

 怪物が鎖を引くと、重い金属音が響き、首から前につんのめった。首の後ろに冷たい痛みが走る。首がちぎれそうだ。そういえば、首を絞められたとき、枷の首に着いているのを感じなかった。枷があるのに、どうしてこの化け物は私の首を絞められたのだろう。枷ごと握られていたようには感じなかった。また一つ、訳の分からない疑問が生まれてしまったが、飲み込んだ。考えてはならないと、苦痛をもって叩き込まれたばかりだ。怪物はドアから外へ出た。

「さっさと出ろ」

 化け物がまた鎖を勢いよく引いた。私はうつ伏せに固い地面に倒れ込んだ。しこたま顔面を打ったため、目がちかちかし、涙が滲んだ。鼻血が滴り、床に染み込んでいった。

「脆いな、人間は」

 立ち上がると、化け物は私を見下したような薄ら笑いを浮かべながら鎖を引き、私を部屋から連れ出した。部屋を出ると、そこは石造りの薄暗い廊下だった。ホテルか何かのように、他にも部屋が無数に並んでおり、壁に一定の間隔を取って松明が打ち付けられている。廊下には、私と同じように襤褸切れを纏い、首を鎖で繋がれた人間が大勢いた。多すぎて数は分からなかったが、その誰もが私の横にいるものと同じ姿をした怪物に鎖を握られていた。彼らも自殺者だと瞬間的に察した。何故か皆顔が、若干灰色がかっておりよく見えない。通路が薄暗いせいかと思ったが、どうもそうではないらしい。だが、全員が不安や恐怖を抱えていることははっきりと伝わってきた。枷に囚われた首を動かして忙しなくあちこちを見ている。

「仲間がいないとな。一人は淋しいだろう?」

 ぐふぐふと奇妙な音を立て、化け物が笑う。笑った拍子に、粘性の強い涎が巨大な口から溢れ、ぼたりと床を叩いた。この怪物に対する恐怖心も勿論大きく心に居座ってはいたが、次第に嫌悪感も現れ始めていた。先ほどからこいつは何故こんなにも楽しそうなのだろう。これから起こることに底知れない不安と怖れを抱き、気が気ではない私たちの姿を見るのがそんなに嬉しいのだろうか。

 私たちは皆廊下を一列に連れられて歩いた。しばらく歩くと、道が急に終わった。そこには、巨大な黒い扉があった。

先頭の自殺者を連れて歩いていた化け物が後ろを振り返り、私たちと向かい合った。

「ここから先が労働場だ。お前らにはこれからある仕事をしてもらう」

 労働場? 仕事? それを聞いて私はほんの僅かだが安心し、ふっと息を吐いた。どうやら、拷問されるようなことはなさそうだ。

「仕事と聞いて安心したか? 愚かな奴だ。せいぜい、今のうちに安堵しておけ」

 私の表情を読み取り、隣にいた化け物が静かに、しかし確かな強さをもって囁いた。私は顔を伏せ、唇を噛み締めた。意地の悪い怪物だ。先頭にいる化け物が説明を続けた。

「お前らは生きていた頃、労働に従事した経験があるだろう。各々、労働に対し様々な想いがあったことだろう。ここには過酷だと感じてきた奴が多いようだな。だが、ここでの労働は、あっちでの労働なんかとは比べ物にならないほど苦しく、痛みが伴うものだ。楽しみにしておけ」

 そう言い放つと、先頭の化け物は蹴破らんばかりの勢いで扉を押し開けた。


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