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母娘の牢獄  作者: 関黒一基
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第十三話

 生前の私自身について触れておこう。私の名前は本城由美子。兄弟姉妹はなく、父と母との三人家族だった。

 父は公立高校の教師で、数学を教えていた。彼は厳格そのものといった性格で、どんなに些細なことでも、世間一般の倫理から外れることは一切許すことができないという堅物だった。親の強い勧め(脅迫まがいと言っても差支えないほどのものだったらしい)で名のある国立大学の教育学部へと進学し、優秀な成績で卒業した後、母校に数学教師として赴任した。公立故に転勤こそ何度かあったものの、五十六歳までずっと教師を続けてきた。厳格な父は畏怖の対象ではあったが、彼以上に私は母を怖れていた。

 母は専業主婦で、私は幼い頃から四六時中母と過ごす日々を送っていた。それ自体は両親が共働きでない家庭ではごく当たり前のことだったが、私の場合、母との生活は何とも息の詰まるものだった。彼女は外側からの視線に異常なほど敏感で、見栄っ張りな女だった。私が精神的に早熟であることを強く望み、幼い頃から、身嗜み、立ち振る舞い、所有物などにあれこれとうるさく口を出した。食事のマナーや着席する際の姿勢といったことは勿論のこと、言葉自体を十分に理解できていないうちから敬語を徹底して叩き込まれ、人前では意味もよく分からないまま敬語を振り回すよう強要された。筆入れ、鞄、靴、洋服など、持ち物はすべて灰色、黒、もしくは白の単一色のもの。それ以外の、派手で人目を引く色や母が幼稚に感じる色はすべて御法度だった。漫画や玩具などからも断絶されていた。

 辛かったのは、「そうした振る舞いをすべて私自身が望んで行っている」という虚構がいつの間にか母によって作られ、私を取り囲んでいたことだった。押し付けられるままに懸命に大人の真似事をする私を、近隣の人々や学校の先生、友達の親たちは大人っぽいと言って褒め称えた。初めのうちこそそういった賛辞を喜び、誇らしく感じていたものの、すぐに抑圧された幼さが頭を擡げ初め、私の心の壁を内側から打ち叩くようになった。所詮は幼い子供だ。自身の望む振る舞いや嗜好、興味をそういつまでも封じ込めておけるわけがない。

 小学二年生のある日、私はとうとう癇癪を起してしまった。

 当時私は人口五千人程度の田舎町に住んでおり、そこは住民たちの結束が強い地域だった。そこでは頻繁に近隣の住民たちが集まって様々なイベントを開催していた。内容はパークゴルフ大会やバーベキュー、ハイキングといった所謂「お楽しみ会」から、近所の除雪や雑草取り、ごみ拾いといった「奉仕活動」まで、多岐に渡った。そういったイベントがあると異様に熱が入るのが私の母だった。持ち物や立ち振る舞いへの厳しさは普段の五割増しになり、前日の夜は神経質に、何時間もかけて私の服装を選び、「挨拶をきちんとしろ」だの「走り回らず落ち着いた行動を心がけろ」だのと何度も釘を刺した。おかげで私はそういったイベントが大嫌いになった。

 その日は日曜日で、珍しく父も参加し(父は学校で陸上部の顧問をしており、週末も家にいないことが多かった)、家族で地域の清掃活動に参加した。前夜、母はいつもの通り、私を人前に立たせられるよう「仕込み」をした。

「やっぱり、上下を黒いジャージで統一した方がいいわね。真面目にごみ拾いをしに来ているように見えるでしょう。清掃イベント用に一式買い揃えて正解だったわ。髪は後ろで一本に束ねましょう。靴もこの白が基調のスニーカーなら、やる気に見えるでしょ。ああ、軍手も忘れないようにしなきゃ。せっかく家にあったのを捨てて新しいのを買って来たんだから」

 母の言う「真面目にごみ拾いをしに来ているように見える」基準というものが私にはさっぱり分からなかった(分かりたくもなかったが)。今思い返してみれば、本当に馬鹿馬鹿しいことだった。すぐに身体が成長して着られなくなるというのに、わざわざ一式衣服を買い揃えるなど愚かなこと極まりない。今回だけでなく、マラソン大会やハイキングのときに買い揃え、たった一度で日の目を見ることなくクローゼットや靴箱に仕舞われたジャージやスニーカーが山の様に我が家にはあった。自分が物を粗末にしている罪悪感と、そこまでして一時の見栄にしがみ付く母への苛立ち(情けなさと言った方が正確かもしれない)に心をかき乱され、その夜私は疲労困憊していた。

 翌朝、母の金属音のような声で私は目覚めた。なんとも目覚めの悪い目覚まし時計だ。時計を見ると、まだ五時半だった。母は私の部屋のドアを開け、苛立ちの混じった声を浴びせた。

「いつまで寝てるの? 支度するから、早く起きなさい!」

 支度なら、昨日したではないか。瞼が強情に閉じたままでいたがったが、母が癇癪を起すと耐えられないので仕方なくベッドから抜け出し、洗面台へと向かった。顔を洗い、歯を磨きながら鏡の中の自分を見詰めた。不機嫌な、疲れた顔が映っていた。自然と溜息が漏れる。今日は普段より一層気を遣って、母の言う通りに動かなければならない。それが心底面倒で、今日一日を思うだけで気持ちは灰色に染まり、ずっしりと重くなった。いっそのこと、ただの操り人形にでもなったほうがましではないかとすら思えた。

 歯磨きを終えてキッチンへと向かう。ダイニングテーブルにはトースト一枚ずつとサラダが少量、それにコップに入った牛乳が置いてあった。清掃活動の準備に尽力し過ぎたためだろう、随分と手を抜いたメニューだ。これだけしか食べられないことに少なからず落胆したが、母がキッチンに入ってきたため顔には出さずにテーブルに着く。父も揃い、家族全員で食卓を囲んだ。

「いただきます」

 三者三様に挨拶をし、食事に取り掛かる。自分の声の覇気のなさに少し驚いた。ほぼ丸飲みするような勢いで父と母は食事を終えた。ゆっくりと咀嚼する私に母の雷が落ちた。

「早く食べちゃいなさい! 支度できないでしょ!」

 慌てて残りのトーストとサラダを無理矢理口に詰め込み、牛乳で一気に流し込んだ。そこへ洗い物を乱暴に済ませた母がやって来て、落ち着かない口調で言った。

「ほら、早く支度するわよ! パジャマ脱ぎなさい!」

 そして、引きちぎるように私のパジャマと下着を剥ぎ取り、新しい下着と前日のジャージを着せた。新品のジャージ。普通なら新しいものを身に纏うことを喜ぶのだろうが、私はまったく喜べなかった。今日一日でその役目を終えて家の何処かに仕舞われ、忘れ去られてしまう。もしこのジャージに心と呼べるものがあったとしたら、一体何を思うだろう。一日で仕事を終える自分に誇りを持てるだろうか。悲しみと憐れみが混じり合ったような感情が華奢な幼心に押し寄せ、沈んでいた気持ちが更に沈む。そんな私とは無関係に、母は忙しく私の身嗜みを整えている。前日と同じように、ジャージを着用し、髪をゴムで束ねる。その間、様々な角度から眺め、髪を四回も結び直した。髪を何度もいじられるのは実に鬱陶しい。三回目に直されたとき、堪らず「自分でやる」と言ったが「じっとしてなさい!」と一喝された。

 ようやく支度が終わり家を出ると、重々しい灰色の雲が空を覆い尽くしていた。天気にまで見放されたのかと落ち込みながら、重い足取りで集合場所へと向かう。

 その日は地元の自然公園を清掃することになっていた。公園の広さは周囲五キロほど。山を切り開いて造られた公園で、中にキャンプ場が併設されている。公園の周囲を取り囲むようにサイクリングロードも敷かれている。自然の中でキャンプやサイクリングが楽しめるというものだが、過疎化の影響で利用客は年々減少し、今では殆ど使用されていない。キャンプ場とサイクリングロードは手入れがされているが、それ以外は放置され、植物が勝手気ままに生い茂っている。木を切り倒し、雑草を刈っただけのキャンプ場は金網のフェンスで囲まれているが、そのフェンスにも蔦や蜘蛛の巣が絡まっている上に所々錆びていて、触れるのが躊躇われるほど汚らしい。フェンスの外側は大人の腰くらいの高さまで草が伸び、歪な形をした巨木が乱立して暗い森を成している。人の手によって薙ぎ倒され、明るいが痛々しい姿の内側と、自然のままだが陰鬱な姿の外側とのコントラストが不気味だった。こんなところさっさと閉鎖してしまえばいいのに。

「皆さん、今日はお忙しい中お集まりいただきありがとうございます。時間は昼の十二時までです。その後皆でお昼を食べ、解散となります。決して楽な仕事ではありませんが、頑張りましょう。飲み物の差し入れもご用意しておりますので。皆で力を合わせて、この公園を綺麗にしましょう!」

 町長がよく通る声で、張り切って挨拶をした。ぱらぱらと気の抜けた、小雨のように力のない拍手が沸き起こる。町長が無理をして張り切っているように見えてならなかった。貴重な日曜日の半分を潰してまで清掃活動に参加するとは、町長も不憫だと幼心に思った。

 町長が挨拶を終えると、全員に黒いビニール製のゴミ袋が配布され、清掃活動は開始された。ごみ袋は陰鬱な天候を際立たせようとしているかのように黒々としていた。私はなるべく下を向いたまま、黙々とごみを拾った。公園を綺麗にしたいという気持ちなど微塵もなかった。ただ、真面目にやっていないと母にどやされるのが分かっていたからだ。それにできるだけ他人と会話をしたくなかった。言葉遣いの誤りを母が地獄耳で聞くのが怖かったのだ。

 屈んでごみを拾い集めていると、母の甲高い声が耳を貫いた。我が家の隣に住む尾形さんに、何やら捲し立てている。耳障りな笑い声を上げ、相手に話す隙を与えず一方的に言葉を吐き出す母。尾形さんは顔が引き攣り、母から離れたそうにしている。そんな落ち着かない様子に、母は気付いていないようだ。自分がどう見えるかばかり気にして、相手の気持ちに目が行かない母に呆れた。見たくないものから遠ざかろうと、踵を返そうとした途端、私に気付いた母に呼び止められた。

「由美子、こっち来なさい」

 どうして気付くのだ。放っておいて欲しいのに。顔が引き攣ったが無理に笑顔を作り、振り向くと母の元へ駆け寄った。尾形さんは母以外の人間の登場に少しだけ安堵したように見えた。

「ご挨拶しなさい」

 母に小突かれ、怒りに小さな火が灯った。なるべく顔に出さないよう、精一杯の笑顔で言った。

「おはようございます、尾形さん」

「由美子ちゃん、おはよう。土曜日の朝早くから、偉いわね」

「いえ、とんでもないです……」

 間違えた言葉を使ってしまうことが怖く、声が消え入りそうに小さくなる。母が横目で私を鋭く見ていた。

「この子ってば、町のイベントは毎回、とっても楽しみにしているんです。今日も朝五時半に起きちゃって。私なんかまだ眠たいのに。張り切っちゃって……」

 そっちが無理矢理叩き起こしたのだろう。何を言っているのだ。あんなに甲高い声で、朝から喚き散らしていたくせに。怒りに灯った火が大きくなったが、口の中で歯を食い縛り必死に耐えた。もう、ここから離れたい。母は尚も尾形さんが言葉を挟む余地のないほど捲し立てる。

「この子ったら、他の人にみっともない格好は見せられないからって、この日のために新しいジャージ買ってくれってだだをこねちゃって。私は、別にいつも着ているジャージでいいでしょって言ったんですけどねえ、聞かなくって」

 小さい。人間としての器が小さすぎる。何だ、この不自然に未成熟な大人は。火は炎と化し、唸りをあげて燃え盛った。母の金属的な声がいつもの何倍にも煩わしく聞こえた。尾形さんの強張った顔に気付かない彼女。私の中で、ぷつんと音を立て、何かが切れた。

「うるさい」

「は?」

「うるさい! うるさいうるさいうるさい!」

 全身から出た叫び声だった。これほど魂で叫んだことが生まれてからあっただろうか。驚愕し呆然とする尾形さんと母。近くでごみを拾っていた人たちも、何事かと驚いてこちらを見ている。私は構わずに尚も叫んだ。

「私はこんなジャージや靴を買ってなんて一言も言ってない! それにこんなキャンプ場掃除なんかに参加したいなんて思ってない! 全部お母さんが勝手にやって、私に強制したことじゃない! 何でそれを私の気持ちにすり替えるのよ! いっつもそう! あれをやれ、これをやれ! そればっかり! 私は望んでなんかいないのに! 私はお母さんの人形じゃない!」

 溜まった心の澱をすべて吐き出した。ごく短い時間ではあったが、私はそのとき快感を味わった。今まで受け入れ溜め込むばかりで、放出した記憶が殆どなかったのだ。荒く乱れた呼吸は、叫びによる疲労と解放の快感の両方によってもたらされたものだった。

 尾形さんが驚いて私を見詰めていた。目が驚きで見開かれ、白目が大きくなっている。慌てて彼女が口を開きかけたとき、破裂するような音と左頬に衝撃を感じ、私は芝生の上に倒れた。左頬に貼り付き、顔全体を揺さぶる熱さ。涙が出、視界を滲ませた。息を弾ませた母が、覆いかぶさるように私の前に立つ。人目ばかり気にしている彼女が人目を忘れるほど、煮え滾る憤怒に震えている。目が血走り、正気を失っているのが分かる。数秒前に感じていた快感は紙切れのように吹き飛んでしまった。母は無言で私の腕を鷲掴みにして立たせると、尚も平手打ちを浴びせた。両頬に熱い痛みが繰り返し押し付けられた。声をあげて泣くと、母は更に力を強めて私を打った。尾形さんが悲鳴を上げる。それを聞きつけた近くの人が走り寄り、慌てて母を私から引き剥がした。私は両頬が腫れ上がり、鼻血を流していた。そこで正気に戻った母は慌てて真っ青になった父と共に私を引き摺って家に帰った。

 家に帰ると、母は父に私の反逆を語り、両親は二人で私を責め立てた。これまで目にしなかったほど巨大化した彼らの怒り。甲高い女の声と野太い男の声。大人二人の怒声が家を震わせ、私にただならぬ恐怖を焼き付けた。私は静かに、しかし夥しい量の涙を流し、必死に謝罪の言葉を繰り返し吐いたが、聞き届けられなかった。その日は物置に閉じ込められ、食事も与えられなかった。生まれてから最も重い罰により、頭蓋骨を超え、僅かに表出した私の反抗心は、意志は、無残に打ち砕かれてしまった。この一件は、「私は独力では何もできない、両親の従僕である」という絶対的に強固な認識を、血が出るほど深く刻み付けた。柔らかな心に。

 それ以来、私は抵抗を一切止め、ただ両親に従って過ごした。両親の顔色を常に伺い、自分の想いを心の奥底に閉じ込めて生きてきた。両親が言うことは何でも受け入れて生きてきた。己の望みなど無価値で無意味な老廃物でしかなくなった。その生き方が、私をこの牢獄へと導く要因を生み出すことになるとも知らずに。


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