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母娘の牢獄  作者: 関黒一基
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第十一話

 翌日の水曜日の朝。休みだった私は朝食を終えた後、リビングのソファに蹲るように座っていた。朝食後、父は早々と仕事に出掛け、普段は家で仕事をしている母も、朝食の後片付けを済ませると出て行った。資料を探しに国会図書館へ行くつもりらしい。

「悪いけど、お昼は冷蔵庫のもの適当に食べてね」

「うん、分かった」

「葵、絶対に大丈夫だからね。何があっても、お父さんと私があなたを守るから」

「ありがとう」

「辛くなったら、すぐメールちょうだいね。あと、呼び出されても絶対行くんじゃないわよ?」

「うん。分かってる。行ってらっしゃい」

「じゃあ、行ってくるわね」

 ドアが閉まり、急に部屋が静まり返った。やけに大きく響く時計の音。その音を聞いた途端、母が居てくれたときに若干和らいでいた恐怖が一気に濃くなり、私を取り囲んだ。私を罪人に仕立てようとする吉田の悪意が怖い。今まで生きてきて、こんなあからさまな悪意を向けられたことなどなかった。あまりにもショックが大きかった。

 吉田は逃げ切るつもりでいる。そのために、これから何だってするだろう。今にして思えば、吉田が更衣室で若林や沼田に私の陰口を言っていたことも、私を横領犯に仕立てるための裏工作だったのではないか。私を貶めることで疑いを私にしか向けられなくするために。憶測の域を出ないが、あの女のことだ。あり得ない話ではない。急速に、際限なく膨らんでいく吉田への恐怖。

「隠れ蓑には最適だったわけよ」

 彼女の言葉が幾度も蘇る。その言葉が、私の憶測を確信へと変えた。

 怖い。頭を両手で抱え込み、ソファに小さく蹲る。また冷たい涙が溢れた。もう何度目かも分からないその涙は、真冬の湖水のように生命を感じさせない冷たさだ。

 少しでも感情から目を逸らそうと、テレビのスイッチを入れた。何か音が欲しかった。アナウンサーの声が空虚なリビングに響き渡った。だが、言葉は何一つ頭に入らない。感情や思考が邪魔をする。私はテレビに集中しようと躍起になったが、無駄だった。十時過ぎまでテレビに噛り付いていたが、結局勝手に湧き出る感情と思考が視界に躍り込むため、仕方なくスイッチを切った。何かしなくてはと思い、ソファから立ち上がるとキッチンへと向かう。冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出し、意味もなくコップに注いで飲み干した。空のコップをシンクに置き、ペットボトルを冷蔵庫に仕舞うと、私は再びふらふらと歩き始めた。気を紛らわせる何かを求め、忙しなく家の中を歩き回る。何かすることはないか。何でもいい。何かしていないと、無限に生み出される不安と恐怖に押し潰されてしまいそうだった。だが、何も見付からない。

「死にたいよ……」

 何度目か分からないその言葉を涙ながらに呟いたとき、自分が母の仕事部屋の前に立っていることに気付いた。何故ここに来ているのか。一瞬疑問に思ったが、無意識にドアノブに手を掛けていた。ドアを開け、私は引き寄せられるように母の仕事部屋に入った。

 本の匂いが鼻を衝く。作品を書く上での資料となる、様々な種類の書籍が本棚に並び、その本棚が四つの壁すべてにぴったりと寄って立ち並び、書斎の中の空間をぐるりと取り囲んでいる。窓は本棚で隠されているため、電灯が点いていないと昼間でも部屋は暗い。部屋の中央に大きな机が置かれ、原稿用紙や万年筆、パソコンなどが置かれている。

 母はプロットや下書きを一旦白い紙に書き、推敲した上で原稿用紙に書き、更にそれをパソコンで清書するという執筆方法をとっていた。初めからパソコンで打つ方が簡単だし、推敲も楽だろうと私は思うのだが。それに何より、一度書いたものを打ち直すのは二度手間ではないのだろうか。

「キーボードで打つより紙にペンで書くほうが私は好きなのよ。自分の手で一文字一文字ペンを走らせて、文章を仕上げていく感じが好きなの。私の手で作品を創り上げてるあの感じがいいの。それにパソコンの画面はずっと見てると疲れるし。でも、編集さんは手書きの原稿はあまり好まないみたいでね。今はデータ原稿が当たり前だから」

 昔、疑問に思って訊ねると、母は笑いながらそう言った。そんな母をお人好しだと私は思った。それでよく締め切りに間に合うものだ。

 私は母の机に座った。何か考えていたわけではない。本棚に収められたたくさんの本をぼんやりと眺めているうちに、気付いたら腰を下ろしていたのだ。革張りの椅子は柔らかく、座り心地がいい。一瞬感じた心地良さにほっと息を吐く。だがすぐに自分の置かれた状況を思い出す。そうだ、ここで安堵してはいけない。安堵している場合ではない。そんな思いに囚われ、心は沼の底へと沈んでいく。浮上は許されない。

 自分はどうしてしまったのだろうか。何故こんなことになっているのか。私は人間の失敗作なのか。あるいは業の深い人間なのか。社会人になって一年も経たないうちに人生が灰色に染まり、段々と黒くなり始めている。周囲に不利益をもたらすだけの、存在する必要のない人間。誰かの役に立てず、悪事に利用されるだけの惨めな存在。それなのに、何故か存在しなくてはならない不条理。

 ふと、机の上で原稿用紙の束が本に挟まっているのが目に入った。原稿は黒い大きなクリップで留められていた。強い興味をそそられた私は、上の本を持ち上げてそれを手に取った。どうやら小説の原稿のようだ。一番上は原稿用紙と同じ大きさの白い紙で、紙の中央のやや右寄りに「自殺者の牢獄」と書かれている。この原稿のタイトルのようだ。タイトルの左には小さい文字で、母のペンネームである白石優子の名が書かれていた。どういう話だろう。何故かその原稿を読まなくてはならないような気がした。いや、「読まなくてはならない」のではない。「読みたい」のだろう。作家の母を持つ人間だ。これまで母の原稿は何度も目にしている。書店で本が平積みされているのも見慣れている。しかし、今まで母の著作を読みたいと思うことはなかった。もともとあまり読書が好きではないのもあるが、肉親の書いたものを読むというのはどうも気恥ずかしいというのが一番の理由だった。だがその原稿だけは違った。まるで私がその原稿を読むことがあらかじめ決められていたかのような、そんな不思議な感覚に陥った。

 先ほどまで仕事に頭を奪われていた私は姿を消し、代わりに何もかも忘れて原稿に吸い寄せられる私がいた。椅子に深く座り直すと、表紙になっている白い紙を捲り、私は母の達筆な文字によって語られる世界へと飛び込んでいった。


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