第十話
翌朝。圧倒的な恐怖が襲ってきた。昨日の決意が虚偽にさえ思えてしまう。昨日、自室でどうすれば私の疑いを晴らすことができるだろうかと考えた。もっとも、何も浮かんではこず、ただ絶望の中を思考が堂々巡りするだけだったが。無実を主張し続けても、店長は私を犯人と決め込んでいる。疑いを吉田に向けることはほぼないだろう。だがそれでも、冤罪だけは何が何でも避けねばならない。何も思い浮かばなかったが、職場に行き続けなくてはならないということは明らかだった。体調不良など適当な理由を作って休んだら、疑いを更に色濃くしてしまうからだ。私は何も悪いことはしていない。だから堂々としていなくてはならない。いつも着ているスーツを失禁して汚してしまったため、別のスーツを着た。朝食をとりに降りていくと、心配した面持ちの父と母が私を待っていた。
「おはよう」
できる限り明るく挨拶したつもりだったが、空中に浮かんだ声にはあまりに生 気がなく、虚しい。
「葵、おはよう」
「おはよう……」
挨拶を返し、ただ無言になる両親。どう声を掛けたものかと思案しているのが分かる。私を何とか説得して職場から逃がそうと、思考を巡らせている。キッチンを満たす空気が重い。私の身を案じる両親の気持ちが、重い痛みとなって発せられ、充満する。そんな両親に感謝すべきなのに、それができない自分が歪んだ人間に思えてならなかった。何故だ。私は何も間違えていないのに。
黙々と朝食をとる一家。ここまで会話がないことなど、未だかつてなかった。時々家族間で喧嘩し、会話がなくなることもあったが、それでもそこにはどこか、胸に閊えていたものを吐き出し尽した解放感のようなものがあり、仲が修復するのも早かった。溜まった感情を吐き出し尽すと、謝罪の言葉が誰からともなく洩れ、険悪な空気は鳴りを潜める。会話もすぐにいつも通り多くなるのだ。だが今回は違うと肌で分かる。好転する見込みのない状況。苦しいのに今の職場に頑なにしがみつこうとする愚かで不器用な娘に、二人は相当なフラストレーションを感じていることだろう。私が考えを変えない限り、そこに解放感がもたらされることなどあり得ない。
「ごちそうさま」
急いで食事を終えると、私は食器を片付け、キッチンを離れた。仲の良い両親から会話を奪っているのが自分だという痛みに耐えられなかった。身支度を整え、家を出ようとしたとき、母が玄関で私に言った。
「……葵。本当はあなたを行かせたくないけど、あなたが自分で耐えると決めたのなら引き止めないわ。でも、これだけは覚えておいて。お父さんも私も、いつでも、どんなときでも、あなたの味方だからね。本当に苦しかったら逃げるのよ。逃げるのも勇気だからね」
嬉しかった。だが、言わないで欲しかった。決心が揺らいでしまう。顔が崩れそうになるのを抑え、静かな笑顔で振り返った。
「お母さん、ありがとう。私は大丈夫だから。行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
外に出ると、ドアに背中を預けて泣いてしまった。溢れる涙は少しだけ温かかった。
我が家のドアが私を後ろから引き止めようとする。怖い。自分を待ち受ける職場が怖い。本当は家に駆け込み、母に泣きつきたい。そして、今の職場から永遠に離れたい。だがそれでは私の未来を潰すことになってしまう。私は涙を拭うと、歯を食い縛り、一目散に駅へと走った。家への未練を断ち切るため、前だけを見詰めながら走った。風と共に、冷やされた涙が後ろへ流れていく。この涙は良くない。私の甘さが生み出したものだからだ。
駅に到着し電車に乗ってからも、家に帰りたいという思いはなくならない。むしろ職場が近付くにつれ信じられない速さで肥大していく。そして、いつもよりずっとひどい吐き気や脚の震えといった身体の不調となって私に訴えてくる。それは幼い頃に観たホラー映画の怪物のように、しつこく私に迫ってきた。その怪物は、建物の爆発に巻き込まれて上半身と下半身が分離し、炎に包まれながらも、逃げようとする主人公の足を掴んで離さなかった。何が怪物を駆り立てるのかまったく分からなかったが、その凄まじい執念に幼い私は震え上がり、号泣した。そのときの怪物の執念と同じくらい強烈な自らの思いを垣間見、私は自分の心が苦痛によりどれほど爛れていたのかをこのとき理解した。しかし、それでも止まらなかった。私は怪物と戦い、未来を勝ち取らねばならないのだ。
店舗に着くと、そこは昨日に増して重々しい空気が漂っていた。更衣室に入ろうとした瞬間、吉田の声が中から響いた。反射的にドアノブに伸ばしていた手を引っ込め、聞き耳を立てる。
「お金盗んでた犯人、成瀬だったらしいですね」
「決定的な証拠はまだ出てないけど、あいつに間違いないね」
もう一人の声が響く。いつも私をしつこくいびる、重度の喫煙で透明さを失った声。沼田だ。吉田が沼田に応えた。
「何かおかしいとは思ってましたけどね。何であんな簡単な仕事がいつまでたってもできないんだって」
「それでこっちの同情買って、犯罪の隠れ蓑にしようとしてたんでしょ? ほんと性質悪いね」
「ほんとほんと。良心の呵責ってもんはないんですかね。同じ人間として信じられない。不器用で弱々しい演技して……」
「いや、仕事できないのは演技じゃないでしょ」
「ですかね。まあ、あんなとろくさい奴の演技は役者でも無理か。自分の欠点すら利用するなんて、とことん腐ってんな」
「今日あいつ来るのかな。早番でシフト入ってっけど」
「もう来ないんじゃないですか? このままバックレでしょ。まともな神経じゃ来れませんよ。あ、でもあいつ馬鹿だからのこのこ来たりして」
甲高い耳障りな笑いが私の耳から侵入し、脳を掴む。彼女らの声は、脳内で幾重にも反響し、音量を上げていく。金属音を彷彿とさせる、歯の浮くような痛みが脳から全身に広がるのを感じた。いつかと同じように、私はよろめきながら従業員用のトイレの個室に駆け込み、鍵を掛け蹲った。
「うう……ううう……」
食い縛る歯がぎりぎりと鳴る。分かっていたはずではないか。予測の範疇ではないか。自分に何度も言い聞かせたが、全身から吹き出てくる凄まじい動揺と悲哀は消すことができない。覚悟の量を見誤ったようだ。今日一日で、どれほどの非難をこの脆弱な身に集めることになるのだろう。想像しただけで、すべての細胞が凍り付いてしまいそうなほど冷たく青黒い悪寒が身体を通り抜けていく。
二人が更衣室から出ていくのを待ち、トイレから這い出した。廊下が廃屋の中のように暗い。更衣室のドアは重く、身震いしてしまうほど冷たい。着替えを済ませ、厨房へと向かう。いつも思うことだが、何故厨房にタイムレコーダーがあるのだろう。店長と顔を合わせねばならないのが辛い。近付くと、開け放たれた厨房の出入り口から中から真っ黒な空気が流れ出ているように見えてならなかった。入ると身体が毒にでも侵されてしまいそうだ。鍋やフライヤー、電気釜などの作業音に混じり、何やらひそひそと話し声が聞こえる。耳を澄ますと、「お金」「犯人」「まさかあの子が」などと途切れ途切れに聞き取れた。更衣室の前で私を襲った衝撃が再び私を捕らえた。
「おはようございます」
誰も返さない。意を決した挨拶は厨房の灰色の空気に飲み込まれた。私が現れた瞬間、空気が変わった。厨房が無数の研ぎ澄まされた敵意に満ち満ち、それが私の柔らかな肉を突き刺し、切り裂いた。店長から出される敵意が一番強大で、それが副店長や弁当係のパートにまで波及していた。皆が同じ方向を綺麗に向いている。普段はてんでばらばらで、互いに陰口を言い合い、責任を擦り付け合っている人たちが、居心地の悪さを感じるほど不自然に団結している。私という共通の悪が創り出されたためだろう。職場とはこういうものなのか。職員同士を繋げるものはこういうものなのか。その関係性は表面的で、常に揺れ動く。意図的かそうでないかは別として、非難や嫌悪の的を作り出し、それを攻撃することで信頼や友情に似たものを固めていく。歪に練り固められたそれは、内部からの瓦解にはあまりにも脆いが、外部からもたらされる破壊には驚くほど強固だ。
タイムカードを急いでスキャンすると、なるべく平静を装いながら廊下に出た。売り場への通路を歩いていると、後ろから毒をたっぷりと含んだ甘ったるい声がした。
「あーおーいーちゃん」
びくりとして振り返ると、吉田の嗜虐心に満ちた目が暗い通路に浮かんでいた。私のような潔癖で小心な人間とは対極に位置する、おどろおどろしい悪に満ち満ちた人間の目。その目がぎらぎらと獰猛な光を放っていた。
「もう来ないと思ってたよ。よく来られるね。利用されてんのに」
利用されてんのに、という言葉が私にぶつかり、大きな音を立てて揺さぶった。地面に突き刺さる落雷のようだ。
「やっぱり、あなたが、盗んでたの……」
自分の声ではないかのように震え、上手く喋れない。
「そうだよ。あんた仕事できないせいで皆から嫌われてるからさ、隠れ蓑には最適だったわけよ。でもまさかここまで上手く運ぶなんて思ってなかったけどねえ。たっぷり稼がせてくれてありがとね」
切れ長の目が音もなく私に近寄って来る。ねっとりとした悪意が彼女から染み出し、私を舐める。
「もう皆あんたの敵だよ。皆あんたが犯人だと思ってる。まあ、無理もないよね。鈍くさいあんたが悪いんだよ。いい教訓になったでしょ? 鈍くさい奴は嫌われて、利用されるんだよ。それが社会ってもんなの」
煙草のやにで汚れた歯を剥き出し笑う。整った顔立ちだが悪に歪んでおり、目を背けたくなるほど醜い。泥が私に忍び寄る音が聞こえた。それは背後から迫り、殆ど触れそうな距離まで来ていた。その泥を成すものは罪と、それに伴う呵責や葛藤といった感情さえ他者の中に代わりに植え付けてしまおうという矮小な自己保身だった。こんな女に良いように泥を被せられ、罪もない私が潰れるなど、何と惨めな話だろうか。私は厨房を振り返り、叫ぼうとした。だが――。
「無駄だよ。店長にチクったところで、疑いは完全にあんたに向いてるんだから。信じてなんかもらえないよ。むしろ心証悪くして、かえって不利になるかもよ?」
抜け出せない蟻地獄にはまってしまったのだと、このとき理解した。もう、私が何をしても、この疑いは払拭できない。ぐらりと視界が揺れ、回り始める。
「ま、恨むなら自分の鈍くささを恨むんだね」
愉快そうに囁くと、吉田は暗い通路を歩き去って行った。彼女の後ろ姿を見詰めながら、私は震えていた。心音が胸に響き、血管を通りこめかみに達した。それが頭痛となり、吐き気を催させる。しばらく佇んでいたが、暗い通路を売り場へと向かって歩いた。
その日は地獄としか言いようがなかった。誤った認識による嫌悪や非難が、無言の従業員たちから容赦なく放たれる。職場の空気は普段より格段に粘りを増し、重い。ヘドロの中で仕事をしているかのようだ。従業員は誰も私と口を利いてくれず、腫物に触るような扱いを受けた。常に私の後ろに誰かしらが立ち、一挙手一投足を監視していた。盗んでなどいないのに。店の空気を感じ取っているのか、客もいつにも増して不機嫌だった。吉田が言った通り、皆私の敵だった。針の筵だ。無理だ、こんなところに居続けるなど。精神が壊れてしまう。いや、もう壊れ始めているのかもしれない。
「死にたい……」
また出てきた。やはり私は壊れ始めている。