第一話
人生に苦しみが存在する意味は何だろうか。苦しみとは、人生という絵画に彩りを与え、美しく描き上げるために必要不可欠な色だろうか。それに耐えることで、人を大きく強くするものなのだろうか。では、大きすぎる苦しみに耐えかね、精神の崩壊にまで追いやられたり、果ては自ら死を選んだりする人が多くいるのは何故だろうか。
四月一日。
威圧するほどの巨大さを誇る大企業のビルに両脇の空間を奪われ、窮屈そうに立つ四階建ての小さな灰色のビル。両隣に聳える巨塔とは比べ物にならないほど小さいが、私が入社した会社の本社ビルである。その二階の会議室で、実にひっそりとした入社式が催されていた。昼間だというのに、北側の壁に窓がある会議室は薄暗く、埃とコーヒーと人の臭いで満たされていた。どろりとした空気が棘のある厳格さと混じり合い、私は居心地の悪さを感じずにはいられなかった。窓の外はどこまでも穏やかな晴天で、私を嘲っているかのように自由だった。
入社式といっても、窮屈な会議室の中で、社長を筆頭に会社の重役たちが、安っぽいパイプ椅子に腰かけた新入社員を嚇すように眼前に立ち並び、生気の籠らない声で「君たちには期待している」だの「これから頑張りなさい」だの一方的に言うだけのもの。新入社員は自己紹介のときしか口を開く機会は与えられず、蒸し暑い空間に閉じ込められていなくてはならない。私たちは本当に歓迎されているのかと疑ってしまう。そう感じてしまうのは、私が未だに社会人として生きることにどこか消極的だからだろうか。
重役の社員たちの挨拶と自己紹介が済み、新入社員たちも拙い自己紹介と、あまりにも未熟でいつまで持続するかも分からない意気込みを述べた。最後に、革張りの椅子にどっかりと腰を下ろしていた初老の社長がゆっくりと立ち上がり、遥かな高みから言を発した。彼が何を喋ったのかよく覚えていないが、最後の部分は私の心に突き刺さり、今なお痛みを生み出し続けている。
「……最近の若者は根性がないから、会社に入ってもすぐに辞める奴が多い。だが、石の上にも三年と言って、どんなに辛いことがあっても、最低でも三年は我慢して仕事を続けないと何も身に付かない。そんな根性なしは転職してもずっと同じ壁に突き当たって、その度に逃げ続ける。結局同じことを繰り返すだけだ。だからどんなに苦しくても、歯を食い縛って頑張れ。軟弱な奴らと同じになるな。君たちには期待している」
それを耳にしたとき、漆黒に渦巻く不安が足元から這い上り、私をすっぽりと包み込んでしまった。蛍光灯の白い光が虚ろに、小刻みに震えるように瞬く。足元に闇が大口を広げ、そこに吸い込まれていくような感覚を味わった。私に確固たる立場を与えている床が突然なくなり、身体が急降下していくような……。死刑宣告を受けた罪人とはこんな気分なのだろうかと、頭の片隅で考えてしまった。
咄嗟に周囲にいる同期の仲間たちを盗み見た。十一人の新入社員たち。彼らの表情からは何も読み取れない。だが私のように明らかに闇に沈んでいる者はいないようだった。同期たちが一回り大きく見え、相対的に自分が縮んだ。
私は人より繊細で傷付きやすい。小さなことで思い悩み、落ち込んでしまう。そんな私が本当に社会でやっていけるのか。社会人になれば、学生時代とは比べ物にならないほど大きな苦しみが待っているという(私がこれまで接してきた大人たちは、殆ど皆口を揃えてそう言う)。それでも、私は本当に独力で生きていけるのか。苦痛に耐えていくことができるのか。私を包み込んだ不安はぎりぎりと鈍い音を立てて私を締め上げ、入社式の間ずっと気が重かったのを覚えている。
そして、今――。
入社式から十ヶ月。初々しく色鮮やかで、芽吹くものを祝福するかのような優しく温かい季節はとうに過ぎ去り、過酷だが賑やかな熱さと、束の間の色とりどりの涼しさが通り過ぎ、厳格な寒さが叫びを上げながら暴虐の限りを尽くしている。私の心は今や冷え切り、土の中で冬眠する蛙のように躍動を失っている。あの日、入社式で私を捕らえた不安は現実となった。社会人として生きることがこれほど難しく、辛苦に彩られたことだとは思わなかった。
人で賑わう大型ショッピングモールの近くに佇む二階建ての建物。私の勤務する総菜屋である。最寄り駅の北口から徒歩三分という好立地だ。一階が売り場と厨房で、二階が事務所と休憩所、更衣室となっている。売り場は常に脅迫的なまでの清潔さを保っており、白で統一された壁、床、天井は、一切の汚れの付着を許さない潔癖な光を放ち、広い天井に無数に取り付けられた照明は、従業員を監視するように店内を過剰に照らす。そんな自然さを極端に排した落ち着かない空間で、赤みがかった黄色を基調とした制服に身を包み、業務に忙殺される私たち。表情に余裕の色は見られない。
「ねえ、いつまでそれやってんの?」
どろどろに煮詰まった怒りを擦り付けた声が耳をじっとりと撫でる。驚いて凍り付いてしまう私。心臓が急激に鼓動の速度を高め、息を細く絞り上げる。まただ。
「すみません……」
「それくらいもっと早くできないの?」
派遣社員の吉田がいらいらと言う。
「弁当にラベル貼るだけじゃん。今日平日だよ? 土日や祝日じゃないんだよ? 数多くないじゃん。何とろとろしてんの!」
売り場の隅で午後から出す弁当八十個に値段や原材料、添加物などが記載されたシールを貼り付けていたのだが、時間をかけ過ぎてしまい、そこに堪忍袋の緒が切れた吉田が怒鳴ってきた。この作業を彼女に命じられてから、気付けば四十分も経過していた。今日こそ遅いと言われないうちに貼り終えなければと急いでいたのに、もうそんなに時間が経ってしまったのか。「素早く貼ることも大切だが、お客様にお出しするものであるため綺麗に貼ることも大切」。そんな考えが頭の中で声高に叫び、もたついて結局遅くなってしまった。
「四十分もかけることじゃないよね? もう何回も言ってんのに。何で早くならないの? ねえ、やる気あんの?」
ぐさりと食い込む非難の色を帯びた疑問符。何度も刺激された傷が、塞がりきらないうちにまた刺され、破れる。
「すみません、すぐ終わらせます」
「もういいよ。いつまで経っても終わんない。私がやる」
私の手からシールを強引に奪い取った。
「ほら、あっちでお客様がお待ちだから、あんた行って」
吉田が顎をしゃくる方を見ると、従業員から「爆弾」と呼ばれている常連客の老翁が、不機嫌な顔でカウンターの前に立っていた。何かと理由を付けて怒りを爆発させることの多い客だ。憂鬱な気分を無理な笑顔で覆い隠し、彼に近寄った。
「い、いらっしゃいませ……」
かすれた声。一体何処から出ているのか自分でも分からない。本当に私の声だろうか。私が近寄ってくるのを見ると、彼の皺だらけのしかめ面に更に皺が寄り、私の胃はずっしりと落ち込んだ。吉田でなく私だからといってそんな顔はしないで欲しい。
この人は吉田のファンだ。吉田は切れ長の目と細面が特徴的な美人だ。三十代前半の既婚者で小さい子供もいるのだが、そんなことこの客が知る由もない(食品を扱うため、結婚指輪を含めた一切の装飾品は御法度だ)。この老人は彼女目当てに店に通っている。爆弾と化すのは決まって彼女と話すことができないときだ。当の吉田は彼を毛嫌いしており、彼が帰るや否や悪口雑言の限りをぶちまける。ポイントカードやお札を取り出すとき、指をべろりと舐めて気持ち悪いだの、金銭の授受の際、手を不自然に触ってきて虫唾が走るだの。それ故大抵彼の対応は私に押し付けられるのだ。そして私が対応すると彼は殊更に不機嫌になる。
「筑前煮を二百グラムと、鮭の切り身とアジフライを二切れずつ。それから大根とじゃこのサラダを二百五十グラム。肉じゃがを三百グラム。あと、ひじきの煮物を百五十グラム」
吉田が対応しないと分かった途端、吐き捨てるような口調になる。私は必死に笑顔を作った。
「かしこまりまし――」
「早くしろ! バスの時間に間に合わなくなる!」
私が言い終える前にこれだ。物事が思うように進まない苛立ちが隠されもせず声に滲み出ている。間に合わないかもしれないなら買い物などしなければいいじゃないかと思ってしまう。急いで筑前煮をトングでプラスチックのカップに盛り、カウンターに備え付けられた計量器にのせる。百九十七グラム。このくらいなら大抵それでいいと言われるが、確認は必須だ。
「百九十七グラムですが、よろしいですか?」
しまったと思ったときにはもう遅かった。ここぞとばかりに噴火する怒り。
「よろしいですかって、いいわけないだろ! 二百って言っただろ! 何で少ないんだよ! ぴったりにしろ!」
唾を飛ばしながら猛然と喚き散らす。吉田が相手ならこんなこと言わないのに。
「は、はい。申し訳ありません」
大慌てで少しずつ具を足しては量っていく。百九十八。二百一。メモリはなかなかちょうどにならない。壊れたのか?
「早くしろ! 早くしろ!」
男性は平手で惣菜のディスプレイとなっているガラスケースを叩いた。
「すみません」
胃と心臓が震えて痛んだ。焦りで手が震え、トングを取り落しそうになる。ああ、もうどうして……。やっとメモリが二百ちょうどになり、値段のシールを印刷した(値段の計算は計量器が自動でしてくれ、計算が終わるとシールを出してくれる)。カップに蓋をしてシールを蓋に貼り付けた。ようやく一つ目。
その後も注文の品を一グラムも前後しないようにカップによそったが、その間男性はずっと「早くしろ」「バスに遅れる」と叫び続けていた。ようやくすべてを済ませ、商品を手渡すと、彼は奪い取るように受け取った。その瞬間、私の尽力が気力とともに引きちぎられたようで、呆然となった。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
頭を下げ、出入り口の自動ドアの音が聞こえるまで床を見詰めた。「近頃の若い者は」「あれでもプロか」などと吐き捨てる声が置き土産のように残された。顔を上げて売り場を見渡すと、吉田が「ざまあみろ」とでも言うような、冷笑を湛えた目で私を見ていた。悲しみが忍び寄り、私を取り囲み、泥沼へと沈める。何だかとても疲れてしまった。彼の対応はもう何度も経験しているが、未だに慣れない。