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那由他に声を掛けようと伸ばされた遺の白い手が身体と共にゆっくりと傾き、倒れていった。遺は重力に抵抗することなく、身体の傾斜するに合わせて薄い瞼も閉じてゆく。
奇妙な空気の流れを感じ取った那由他が振り返り、遺の名を叫んでエレベータ入り口まで駆け戻った。地面に崩れ落ちる遺の身体を心臓から血を流す阿僧祇が支える。
「遺!しっかりしろ!」
遺まで辿り着いた那由他が阿僧祇に抱えられる蒼白な遺の顔を覗き込み、あらん限りの声で呼び掛けた。一番奥に乗っていた恒河沙が蒼光迸る腕でエレベータの操作盤を破壊し、『開』ボタンを点灯させ続けている。遺の身を案じる那由他と阿僧祇の後ろで、恒河沙は荒れ果てた土地の向こうに現れたものを睨み付けた。
激しい風に舞い上げられた砂埃の中、住む者に見捨てられ廃墟となった鉄塔の上にそれは立って居た。物音一つ出さず、しかし絶大な存在感で周囲を圧倒して。
「・・へぇ。キミが か」
物珍しいとばかりに鉄塔の上の男は栗色の前髪を掻き揚げ恒河沙の本当の名前を呼んだ。
呼ばれた恒河沙が肩を強張らせ、遺に目を走らせて完全に気絶していることを確かめる。
「――悪いけど恒河沙って呼んでくれる?この子にはそう呼ばれてるから」
ふてぶてしい態度で恒河沙が鉄塔の上の男に言い、負けず劣らずの態度で男が生意気を返す。
「何故。そいつは気絶してるんだろ?聞こえやしないさ」
そうおどけるように言って、男は神経を逆撫でするように冷たい笑みを浮かべた。その笑顔には感情など無く、唯筋肉を使って顔の皮膚を決まった場所に移動させた、そんな雰囲気だった。恒河沙は微笑むどころか鼻に深く皺を刻むと男の眼を見据える。
鉄塔の先端に立っていた男はその場で音も無く膝をまげてしゃがむと蒼白な顔で浅い息を繰り返している遺と、その体を抱く血塗れの阿僧祇に硝子の如く生気の無い眼を向けた。
「やぁ、 。俺のこと覚えてるかな?」
本当の名前を呼ばれた阿僧祇の身がびくんと震えた。撃たれた傷口から吹き出し続ける血を遺の顔に掛からないように拭い、阿僧祇が警戒の色に満ちた眼を上げる。男の顔を見ると、阿僧祇は眉間に皺を寄せて獣を思わせる縦長の瞳を細めた。
心臓が破れても生き続ける阿僧祇の姿を見て、男は生気の無い硝子玉のような眼を嬉しそうに窄める。
「不死の身体か・・・。暫く見ない間に随分いいものを手に入れたんだな」
男の気味悪いほど赤味のある唇の両端が糸で吊り上げられるようにゆっくりと持ち上がり、針金のような笑みが浮かべられた。
「オマエは何て呼べばいいんだ?」
「・・・阿僧祇」
恒河沙に話掛けた時よりも幾分礼を欠いた言い回しにむっとしながらも阿僧祇が答えた。
「ふぅん――面白い名前じゃないか。そしたらさしずめそこのキミは・・」
笑顔の仮面を被っている男の冷えた眼が那由他を捕らえ、男は鉄塔の上から那由他に声を掛ける。
「那由他って名乗るんじゃないかな?」
男が左右非対称に唇を歪め、にやりと邪悪な笑みを浮かべた。言い当てられた那由他の瞳孔が一瞬大きく開き、次に細く鋭くなる。素直に頷く那由他を見ると、男は初めて嬉しそうに鉄塔の上で声を出して笑った。硝子で硝子を掻いたような耳障りな声だった。
「はは、ホント面白いな。ま、その子程度の頭じゃそれ以上凝った名前考える時間が無駄ってことか」
一通り笑い終えて飽きた男が形だけの笑みを保ったままの不気味な顔を那由他に向ける。
「で?本当の名前は何ていうのかな。見たこと無い顔だけど・・・・そのスジじゃ有名なあの二人を従えてるんだから相当なツワモノなんだろうね」
と男は嬉しそうな顔を横に傾け那由他に尋ねた。先程から一度も瞬きすることなく見開かれた生気の無い澄んだ瞳が那由他を捉えて離さない。その眼を逃げることなく睨み返す那由他の後ろでは、男から見えない角度で恒河沙と阿僧祇が小声で話していた。
「――――誰?」
口の端だけを動かして恒河沙が阿僧祇に男の素性を尋ねる。話を聴いていると知り合いらしい阿僧祇が嫌悪の表情を浮かべ男を睨んだ。僅かに開いた唇の隙間から、腹話術よろしく正面を見たままの阿僧祇が答える。
「・・・同期生。昔の」
「――ふん」
苦々しく呟いた阿僧祇の言葉を聴き恒河沙がつまらなさそうに鼻を鳴らす。銀の指輪を煌かせ胸の前で手を組むと顎を上げて男を見下げる。
「彼もそのスジじゃ有名ってコトか・・」
「それに生意気だったよ。今も変わってないようだけど」
阿僧祇が唇を尖らせて呟き、鉄塔の上に居る男に冷たい視線を送った。恒河沙は男から一瞬たりとも眼を逸らさず阿僧祇の言葉を皮肉で返す。
「キミが言うなら相当だね」
そして顔を顰める阿僧祇の横で指輪を嵌めた右手で拳をつくる。骨の軋む音が聞こえ、恒河沙は口を真一文字に結んだまま組んだ腕を解いて構えをとった。
恒河沙が臨戦態勢に入ったのを男は見逃さず、返答しない那由他から身体の向きを恒河沙へと変えた。からかっているとしか思えない心の無い笑顔を恒河沙に向け、男が膝から手を離し突風が吹く鉄塔の上で立ち上がる。
「あ、そうそう。阿僧祇も忘れてるかもしれないから一応名乗っておくよ。勿論キミ達に合わせて偽名でね」
男が大きく骨ばった右手の平を自分の左胸に当て、優雅にバランスをとって鉄塔の尖端から礼をした。
「六徳だ。以後お見知りおきを」
地面に落ちていた小枝が暴風に巻き上げられ、晴天の虚空の彼方へ飛んでいった。弱まることを知らない強風に揺れる鉄塔の尖端とその足元に人影が見える。
満足そうな顔を上げる六徳と名乗った男を睨めつけて、那由他が口を開いた。
「あんたが狗門の言ってた少年か」
那由他の台詞を聞いた六徳は一本の皺も寄せずに満面の笑みを浮かべてみせた。白い犬歯が赤い唇の間から覗き、日の光を気味悪く反射してぬめりと光った。
「ああ。俺がアイツに教えてやったのさ。人体生成の方法は元より――装置の造り方、施設の立地条件・・・手取り足取り教えてやったよ。馬鹿正直に言うこと聴いて面白かったぜ」
鉄塔の上で六徳が身を屈め、口元を手で隠してくつくつと忍び笑いをした。つり上がった口の端からは鋭い歯が覗く。見る者の背筋に悪寒を走らせる邪悪な笑みを浮かべると、六徳は鉄塔の頂上から四人を見下ろし、話を続けた。
「“資源”の集め方も俺がアイツに教えたんだ。なかなか楽しめただろ?」
「何が楽しめるだと・・・!」
耳障りな声で嗤う六徳に那由他が歯軋りをして詰め寄ろうと立ち上がる。恒河沙がそれを素早く手で制すと、那由他に劣らず嫌悪に燃える蒼眼で六徳を睨み尋ねた。
「―――狗門を唆した目的は」
熱くなる那由他を見下ろし面白がっていた六徳が生気を感じられない瞳を動かした。
「目的?決まってるじゃないか」
六徳の両手がゆっくりと広げられ、眼下に居る那由他、阿僧祇、恒河沙にその貪欲な眼差しが注がれる。よく見るとちぐはぐな六徳の服が激しくなる風にはためいた。
「キミ達みたいな能力者を探すためだよ―――!」
耳元まで引き攣った口から研ぎ上げられた白く艶めく歯が覗き、六徳は口を閉じると悦に入って那由他達を見下ろした。
「待っていた三年間は本当に長かったよ――実験体の寿命を短くするために特製の薬湯を作ったり腐食が早く進む触媒を織り込んだ服を着せたりと色々苦心させられたけど―――まさかキミ達みたいな大物が釣れるとはね・・海老で鯛を釣った気分だよ」
六徳がまた不快な声で嗤うと地面が大きく揺れ、那由他達の背後の地面が組織の崩落に合わせて崩れ落ちていった。嗤うのを止めた六徳が感心した様子で額に手を翳し組織が滅んでいくざまを眺める。
「あーあ・・随分派手に壊してくれたね。ヒトが折角苦労して造ったものを――」
いかにも残念そうに溜息をつくと、六徳は腰に手を当て左右非対称の不気味な笑みを浮かべた。
「狗門も残念だったなぁ・・。あんな奴でも毎日研究を続けてたから、ご褒美を用意してたのに」
「・・・ご褒美?」
狗門を嘲る六徳に阿僧祇が血塗れの顔を上げて聞き返した。巨大な穴と化した本部を眺めていた六徳の口の両端が左右対称に吊り上げられていく。
地面がまた大きく揺れ動き、六徳の立つ鉄塔が揺らいだ。落ちないように揺れる瞬間飛び上がった六徳が尖端より一段下に着地し、立ち上がる。操り人形のように立ち上がった六徳の背後から一人の人影が現れた。薄茶色の長い髪に透き通るような白い肌、物憂げな黄色の瞳。
現れたそれは、狗門の娘そのものだった。
「―――!」
六徳の背後から現れた狗門の娘の姿に那由他が眉を顰め咎めるような目で六徳を見詰める。六徳はしれっとした顔で茶髪の女の肩を叩くと一歩前へ押し出した。自我すら芽生えていない黄色い目が見上げる那由他達を見下ろす。
「あんまり進歩しないから、もう打ち切ろうかと思ってたんだ。狗門には最期に娘の顔でも拝ませてやろうと思ってね」
残酷な言葉を平気で吐く六徳の唇が歪み、押さえ切れなかった笑い声が漏れる。
「情報をこれ以上ばらまかないようにコイツに狗門の息の根を止めさせるつもりだったんだ。―――見たかったなぁ・・狗門が自分の娘に殺される時の顔。きっと最高に面白かっただろうぜ」
ははははは・・・と六徳が仰け反り乾いた笑い声を上げた。性根が腐ってるな、と呟く恒河沙の後ろでは那由他が音を立てて歯軋りしている。阿僧祇の茶色の瞳も、傷を負った猛獣の如く細く鋭くなっていった。
緊張感が高まる荒地の鉄塔で、六徳は歪んだ笑顔のまま付け加えた。
「――ま、いいさ。狗門だけが俺の手駒じゃない」
衝撃の発言に硬直する那由他達を優越感に浸って見下ろして、六徳は高らかに宣言した。
「今に世界中をこの組織のような施設で満たしてやるぜ。そして・・第二第三の狗門を使って能力を持つヒトを狩出してやる」
おぞましい笑顔のまま狗門の娘の姿をした意思の無い肉塊の肩を叩く六徳。
「新たな“資源”も手に入れたことだし―――な」
吹き荒ぶ風の音に運ばれて聞こえてくる六徳の忍び笑いを聞き、こめかみからじとりと冷や汗が垂れる恒河沙の横、那由他が拳を握り締める。
「・・・恒河沙、阿僧祇」
低く唸った那由他の声に恒河沙の蒼い眼が素早く動いた。阿僧祇も気絶した遺をそっと枯れ草の積まれた地面に横たえ、破れた心臓を押さえて立ち上がる。
爛々と輝く暗茶の瞳を正面に見据え那由他が奥歯をぎり、と噛み締めた。
「奴が脅威だ」
黒い服に包まれた身体が力んで強張り、緊張が頂点に達する。
「―――潰すぞ」
那由他の一言に阿僧祇と恒河沙が頷いた。指輪を嵌めなおす恒河沙が横目で那由他を見、冷徹な眼を六徳に向ける。
「・・那由他、遺を連れて離れてて」
「――ああ」
一瞬の間の後低く那由他が唸り、遺の隣まで後退した。一指たりとも触れていない遺の身体が静かに宙に浮かび上がってゆく。那由他が下がると同時に阿僧祇が恒河沙の隣に進み出ると獣そのものの表情で六徳を見据えた。
恒河沙と阿僧祇に睨まれた六徳は涼しい顔でそれを見下ろしている。
「言った通り、生意気だね」
恒河沙が前を見たまま阿僧祇に言った。阿僧祇が頷き、口の中に溜まった血を地面に吐き出す。深紅の血が地面にどす黒い染みを作り、その地面を蹴って恒河沙が砂埃を上げ鉄塔まで駆け出した。
「おっと・・・」
一瞬姿の見えなくなった恒河沙に驚いた六徳が声を漏らし、戦慄を楽しむように身震いした。鉄塔の一歩手前で現れた恒河沙を見定めると六徳の顔に邪悪な笑みが広がる。
「俺と戦うつもりか?」
上着のポケットに突っ込んでいた右手を地面に差し伸べ、六徳が傲慢に言い放った。恒河沙の真上に差し伸べられた右手の平が握られる。
瞬間、真下の空気が捩れ黒い柱が出来た。即座にそれを避けた恒河沙の横で柱は煙のように消えてゆく。黒い柱が消えた跡には、そこだけ地面に深く抉れた穴が開いていた。
上手く避けた恒河沙に余裕の笑みを浮かべると六徳が右手を動かす。右手が動いたと同じ方向に大木をも薙ぎ倒す暴風が吹き、砂埃で恒河沙が見えなくなった。
「今のはきつかったかな」
そのまま右手を懐に入れる六徳の前に恒河沙が現れた。構えた右拳には銀の指輪が煌き、アイスグリーンの宝石が冷たく輝いている。
突如目前に現れた恒河沙に驚きもせず、六徳はにやりと唇を歪め犬歯を覗かせた。
鉄塔の真下から地鳴りが始まり、赤茶けた大地に振動で皹が走った。飛び上がって六徳の前に躍り出た恒河沙が疑問符を浮かべ一瞬下を見る。その隙を逃さず繰り出された六徳の蹴りを左手で受け止めると恒河沙はひび割れた地面に着地した。息つく間も無く鉄塔へ向きを変える恒河沙。
地鳴りの音が止んだかと思われた刹那、割れた地面が持ち上がり巨大な異形の物が現れ恒河沙を喰らおうと、天に触手を伸ばした。
「!」
既に鉄塔まで跳躍した恒河沙が顔を強張らせ展望台下の壁にはり付く。地面から現れた化け物に阿僧祇が琥珀色の瓶を空中から取り出し、その中身を取り出した。それを見た恒河沙が頷いて壁から手を離すと粘つく触手の中へ自ら飛び込んでゆく。
「馬鹿か・・?」
六徳が常識外れな恒河沙の行動を見ようと鉄塔の手すりから身を乗り出す。阿僧祇は瓶の中身を口に入れると深紅の錠剤を噛み砕き六徳目掛けて走り出した。恐るべき俊足が瞬く間に六徳の足元を掬い、六徳は手すりを蹴って尖端に降り立った。
すぐ背後に獣の気配を感じた六徳が心底楽しそうに振り返る。
「――やっと本気になったんだな」
死後硬直を起こしたような気持ちの悪い引き攣った笑みを六徳が阿僧祇に向けると、そこには荒れ狂う獣そのものと化した阿僧祇が立っていた。荒い息が出る口からは刃物のような鋭い牙の列が血に光って見える。
一触即発まで気合を溜めている阿僧祇を見た六徳はおどけるように肩を竦めると小生意気な調子で言った。
「けど残念、今日はこれでお開きだ。俺の野望が叶う日を楽しみにしてろよ、阿僧祇」
傲然とそう言い、傾き始めた鉄塔の足元で巨大な生物と戦う恒河沙に微笑みかける。
「それと恒河沙君も」
阿僧祇が左肩を押さえ、次々と新しく生えてくる血管と肉を鋭い爪で掻いた。気の立っている阿僧祇に六徳は宥めるように手を挙げ、次の瞬間空中に浮いた。
「また会おう!」
耳障りな笑い声を上げて阿僧祇の手が届かない所まで浮かび上がった六徳が得意そうに言い放ち、一瞬遅れて阿僧祇が大声を上げ右腕を振り上げた。
衝撃波が広がる音が荒地に響き、大量の肉片と血液が空中に舞う。
砂埃が晴れた空に、片腕を抉られた六徳が歪んだ笑顔のまま眼下の三人に手を振っていた。
血の流れる間にも抉られた傷口から血管が新生し、新たな身体をつくり上げていく。グロテスクな姿で別れを告げると、六徳の身体は空の青と混ざって消えてしまった。
何処までも澄み渡る青空に、六徳の耳障りな笑い声が何時までも響いていた。
“隠れ場所”を遠く背にして歩く那由他の黒髪が柔らかな風になびいている。その右横で阿僧祇が天に両手を上げ大きく伸びをした。那由他の左横、少々離れた位置でそれを見ていた恒河沙の顔を呆れたような表情が掠める。更に数歩進んだ後、那由他が“隠れ場所”を振り返った。ぼろぼろの掘っ立て小屋にしかみえない“隠れ場所”の前は誰もおらず、唯詰め込み忘れた調味料の瓶が置いてあるだけだった。
「・・・ちょっぴり寂しい?」
暫く“隠れ場所”を眺めていた那由他の横から頭上で手を組んだ阿僧祇が尋ねる。訊かれた那由他は如何とも受け取り難い表情を浮かべる。
「さぁな。寂しいって言やそーかも知れん」
「素直じゃないなぁ」
強がるような語調の那由他の返答に阿僧祇がくす、と笑みを漏らした。茶化しともとれる阿僧祇の態度に反応せず、普段の飄々とした顔に戻った那由他が呟く。
「この方が遺のためなんだ。だから仕方ない」
ドライな言葉に納得いかないと口を窄める阿僧祇を恒河沙が一瞥し、冷ややかな声で尋ねた。
「随分残念そうだね。そんなにあの子を連れて来たかった?」
それから一拍置いて一度目を閉じ、顎を上げて阿僧祇を見下げ言い放つ。
「――実験体として、さ」
感情の欠片も無い声で発せられた恒河沙の言葉に阿僧祇が歩みを止めた。一瞬だけその顔から笑みが消え、すぐに妖しい笑みが浮かび凶気の瞳が恒河沙に向けられる。
「なぁんだ、分かってたんだ」
「気持ち悪いほど気を遣ってたからね。何かしら下心があることは遺にも悟られてたんじゃない?」
あっさりと仮面を捨てた阿僧祇に冷ややかな声で言う恒河沙。その言葉に阿僧祇も軽く頷き、再び頭上で手を組むと残念そうな表情を浮かべ溜息を吐いた。
「多分ね。再生前の彼女の性格を分析して一番効果的な行動を取ってたつもりだったのになぁ」
青空を見上げて残酷なことをさらりと言い、反省の色など皆無に羨ましそうな顔を恒河沙に向ける。
「その反動かわからないけど、恒河沙のこと気に入ってたよね。あの子」
「・・・それがどうかしたの」
ぶっきらぼうに答える恒河沙を眺め、羨望の混じった溜息を吐くと阿僧祇はつまらなさそうに飛行機が横切る青空を眺めた。
「いいなー恒河沙は何にもしなくても遺に好意を持ってもらえてさー。ボクなんかあれだけ頑張ったのにありがとうの一言で帳消しだよ?はぁーあ・・・」
「どうせどこかで化けの皮が剥がれたの見られたんじゃないの?自業自得だよ」
何度も何度も溜息を吐く阿僧祇に鬱陶しいとばかりに恒河沙が冷たい言葉を掛け、そんなことない――と言いかけた阿僧祇がやっぱりあったと溜息を吐く。それ見たことか、と恒河沙が鼻を鳴らし、蒼い瞳を伏せて呟いた。
「キミの実験体になったらまともな死に方しないからね・・・あの子は勘がいいよ」
毒のある恒河沙の台詞に阿僧祇は憤慨するどころか楽しそうに微笑み、空に残る飛行機雲を伸ばした手でそっとなぞった。阿僧祇になぞられたところだけ飛行機雲が消えている。その近くに居た鳥の群れにも手を伸ばしつつ阿僧祇はしれっとした顔で恒河沙に反論した。
「死んだ後も面倒みるよ」
「よく言うよ。墓も作らないくせに・・・」
「二人共もうやめろ」
少し前を歩いていた那由他から不機嫌そうな声で警められ、さらなる毒を吐こうとしていた恒河沙が黙った。阿僧祇も空に遊ばせていた両手を下ろしきまり悪そうに背後で指を組む。
暫しの沈黙の後、眉を寄せ俯き歩く那由他の機嫌を取ろうと阿僧祇が近寄り覗き込んだ。
「でもやっぱり連れてきたほうがいいんじゃないかな?六徳はもうあの子の事知ってるし」
「だからこそ、だ」
暗茶の瞳で阿僧祇を一瞥し、低い声で那由他が応える。立ち止まって首を傾げる阿僧祇を背に真直ぐに前を見据え進む那由他。
「六徳は遺のことは知ってるが、遺が能力を得たことは知らない。オレ達が囮になって六徳の注意を惹きつけておけばいい。それに―――」
那由他が立ち止まり、大袈裟に肩を揺らして一息ついた。
「オレ達にはアイツ以上の脅威がいるだろ」
踵を返した那由他が阿僧祇と恒河沙に言い諭し、暗茶の瞳を向けた。穏やかだった空気がざわめき始める。阿僧祇の茶色の瞳が細く鋭くなり、恒河沙の蒼い瞳に暗い凶気が渦巻く。
頷きも同意の声も無かったが、そこには確かに沈黙という名の肯定があった。
二人の真意を確認すると、殺気立ち過ぎた場を和ませるように那由他は普段の飄々とした顔に戻り、悪戯っぽく笑って見せて歩き出した。那由他が元に戻ったのを見た恒河沙も肩の力を抜き、鼻歌を歌っている那由他の後に続く。
それぞれの歩調で歩いていく二人の後ろで、阿僧祇の獣のようになった瞳もゆっくりと元の円い人懐っこそうな瞳へ戻っていく。強張った首筋を二、三度回して解すと、懐から斑に茶色く染まった白地の布を取り出して広げ、空を仰いだ。無邪気な笑みを浮かべたまま先程見つけた空を飛ぶ鳥の群れに手を伸ばし、そのうち数匹の上を指でなぞる阿僧祇。
数秒後、阿僧祇の広げた布の上に数百メートル上空から鳥が何匹も落ちてきた。斑の茶色い布が深紅に染まっていく。よく見ると、落ちてきた鳥達は両の翼が無く、既に死んでいた。
満足そうにそれらを一通り眺めると、阿僧祇は布で包み始めた。しっかりと結んだ布の端には白いネームプレートが付けられている。皹が少し入っているが、それにはしっかりと名前が刻まれていた。
『縞帯 経』、と。
「今日の晩御飯は鳩だよー」
再びざわざわと蠢き始めた風を背に凶気の笑みを浮かべ、阿僧祇は二人の後を追った。




