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500 lux
紅く染まった夕暮れの空の下、鉄条網が張り巡らされたフェンスの前に遺、那由他、阿僧祇そして恒河沙が立っていた。一陣の風が吹き、四人の髪を乱して去っていく。
実行の時を前にして生唾を飲み込むと、遺はフェンスを開けて地下の本部へと続くエレベータを隠す草を退けた。砂埃が舞い上がり、現れたエレベータに四人が乗り込む。
「ほとんど入ったことが無いところばかりなんだけど――狗門さんは大抵クリーム色の応接室みたいなところにいるよ。エレベータから降りて三本廊下の一番右に曲がったところにその部屋があって、奥には浴室がある。あと二本のうち真中の廊下は白光の部屋と――多分“悪討ち”や“悪人”を再生するための部屋がある」
「もう一本の廊下は研究資料や個人情報の管理をするデータベースになってるね」
左腕に奇妙な機械を刺し込んだ恒河沙が閉じていた眼を開いて三人に言った。その腕からは蒼色の雷電が迸り出ている。
険しい顔つきの那由他が鋭い眼で拳を握っている遺を見た。
「どうする。本当に全部破壊していいんだな?」
「うん。中途半端に壊しても、狗門さんきっとすぐに修復してまた同じことを始めるだろうから―――完全に破壊する」
唇を噛み締め確固とした意志を身体中に漲らせる遺。返事を聴いた那由他は満足そうに頷くと、三人に言い送った。
「阿僧祇と恒河沙は複製室を頼む。オレと遺はデータベースを破壊するぞ」
遺と阿僧祇が頷き、眼を閉じていた恒河沙がふと遺を見た。
「遺はもう“普通”の身体だったね。ちょっとこっち向いて」
遺が恒河沙に身体を向けると、恒河沙は右手を遺の額に当てて小声で何か呟いた。
蒼白い光が遺の額から吹き出して、一瞬の内に消えた。驚く遺に恒河沙が無表情な顔のまま伝える。
「これで“悪討ち”が襲ってきても対等以上に戦えるよ」
「あ、ありがとう」
礼を言いつつ遺はひりひりする額に手を遣ったが、特に何かが変わったようには感じられなかった。恒河沙は謎の儀式が済むと元のように眼を閉じて思考を統一させている。
エレベータが大きく揺らぎ、地下本部への入り口で閉まった。四人がエレベータから降りると三本の白い廊下が見えた。
「データベースは左だよ」
エレベータから降り、眼を開けた恒河沙が背筋を伸ばす那由他に再度教えて中心の廊下の前に阿僧祇と共に立つ。那由他は左の廊下の前に遺と共に立つと二人に言った。
「ああ。信じてるぜ」
「ボクも」
「うん」
那由他の力強く言い放たれた言葉に阿僧祇と恒河沙がそれぞれ応え、四人は廊下を境に二手に分かれた。
綺麗に清掃された等幅の白い廊下を阿僧祇と恒河沙が歩く。
「・・・昔を思い出すな・・・」
白い廊下に張り付く自分の影を眺めながら阿僧祇が凍るような声で独り言を言った。暫く廊下を進むと、白い扉が現れた。
「白光の部屋への扉だね」
双眸を細めて阿僧祇が言い、重い扉を押し開けた。部屋の中は主灯が消えて薄暗かった。
「―――?ここに居る時だけ電気を点けるのかな」
広い部屋の中阿僧祇が消えたままの蛍光灯の列を見て疑問符を浮かべる。恒河沙は壁に光るカメラのレンズを見て鼻に薄らと皺を寄せた。
「違うよ。ボク達が来た事に気付いて灯を消したんだ」
そう言いながら監視カメラに近寄ると、恒河沙はそれを軽く蹴った。ガラスの砕け散る音と機械がショートする音がした。
「この様子じゃ廊下にもカメラが仕掛けられてたね。那由他達の方に追手が行くかも――」
「那由他達にだけ?ボク達が居るここも重要な場所だと思うけど」
不思議そうに小首を傾げて訊く阿僧祇に軽蔑の眼を向けると恒河沙は鼻で笑って答えた。
「ボク達に追手は来ないよ。今からその中へ行くんだから」
恒河沙が足元もよく見えない程の暗闇の中へ躓くことなく進んで行き、奥の扉に手を掛けた。阿僧祇もすぐ恒河沙に追いついて重厚な扉を見上げた。
扉の中から、獣のような息遣いが幾つも聞こえる。
「準備はいい?」
冷め切った蒼い眼で扉を見詰める恒河沙が訊き、阿僧祇が満面の笑みを浮かべた。
「万全さ」
扉が軋んで開き、僅かに開いた隙間から阿僧祇が中へ滑り込んだ。
薄暗い複製室の中は千切れた管と生臭い赤紫色の液体で溢れていた。広い空間にところどころにある濃い闇の中で、何かが息を潜めてこちらの様子を伺っている。
「どう?」
僅かに銀髪が煌き、恒河沙が扉の後ろから姿を現した。先に入ってきた阿僧祇は珍しく嫌悪の表情を浮かべ部屋全体を睨み付けている。
「最低。殆どがボクの遣り方にそっくりだ。誰かが教えたとしか考えられないね」
そう恒河沙に話しかけ、闇に背を向けた瞬間に複製が阿僧祇に飛び掛った。阿僧祇は澄ました顔のまま振り返りざまに相手の身体を真っ二つに引き裂くとまた恒河沙の方を向いた。
「ここに居るのは“悪人”の複製みたい。あの“悪討ち”より脆くて弱いよ」
「複製室に“悪討ち”が居ないとすると――データベースに全員を配置したんだね」
現状を見て推測する恒河沙が眉間に皺を寄せ考える。
「多分大丈夫とは思うけど―――」
「大丈夫だって」
「正確な“悪討ち”の数はわからないじゃないか」
眼を逸らして唇を噛む恒河沙の正論に阿僧祇が苦笑して首を竦める。
「そりゃボクもあっちが心配だよ。でも今はここを壊さないと――」
阿僧祇が途中で言葉を切り、後ろから飛んできた複製を蹴り飛ばした。複製は赤紫の液体を吐きながら空中を飛んでばらばらに千切れていった。恒河沙も次々と襲い掛かってくる複製の手首や喉を握り潰してゆく。
「これじゃ那由他のところへ行くのは無理だな――」
無念そうに言う恒河沙が動かなくなった複製を別の複製に投げつけた。複製はそれを避けることも出来ず死体と共に壁に打ちつけられ肉片が飛び散った。
絶え間無く襲い掛かる複製を倒して二人の足元に一山の肉塊が出来たところで、一旦部屋の中に静寂が訪れた。
「―――?」
あれほど暴れていたのに急に大人しくなった複製達を用心深く恒河沙が観察する。阿僧祇が分厚い扉の向こうから聞こえる微かな音に耳を欹てた。
「誰か来るよ―――!」
恒河沙が耳を澄ますと、革靴で歩く音が白光の部屋に反響している。恒河沙が扉に近づき、そっと押し開けた。隙間から人影を確認した恒河沙が阿僧祇に蒼い眼を向ける。
「狗門だ。阿僧祇は複製の相手をしててくれる?ボクが行ってくる」
「了解」
阿僧祇が真剣な表情で答え、恒河沙は隙間から滑り出て扉の向こうに消えた。
600 lux
白い廊下を進み、複雑に入り組んだコードに満たされたデータベースの中に遺と那由他は辿り着いた。
「ここか―――」
那由他が骨組み丸出しの天井を見上げて言い、手ごろなコードを引き千切るとそれを手に持って静かに眼を閉じた。横で見ている遺が好奇心に駆られて尋ねる。
「何してるの?」
「まぁ見てな」
那由他が眼を開けて手に持っていたコードを床に置き、指を鳴らすと独りでに火が点いた。不思議がってよく見ようとする遺を手で制して下がらせる那由他。
「―――そろそろだ。耳塞いどいたほうがいいぞ」
言われたように遺が耳を塞ぐと、コードが爆発した。真っ赤に膨れ上がったビニールが破裂して溶けた高温の金属が他の機器に火を点け、青い煙と嫌な匂いが部屋全体に立ち込める。那由他はまた手近なコードを千切って手に持ち、それを床に置いて勝手に火が点くのを待った。爆発が起こって近くにあった液晶モニターが吹き飛んだ。
「ど、どうなってんの」
「コードを配列変えて爆発するようにしただけ。おっと・・・」
那由他が遺越しに入り口を見て不敵な笑みを浮かべた。
「お出ましになったぜ」
那由他の視線につられて遺も入り口を見ると、データベースの入り口に人影がちらほら見えた。全身黒尽くめの人間達。“悪討ち”だ。
「那由他は機械を壊してて。あの人達とはわたしが戦う」
遺がはっきりと言い、本部に来る前に持ってきた銀色のモノを制服の胸ポケットから取り出した。遠い記憶をひんやりとした感触と共に思い出す遺。大きく息を吸い込むと、遺は入り口目掛けて踏み切った。同時に他の“悪討ち”達も遺に向かって走り出す。
「あなた達!こんなことしてて間違ってると思わないの?」
“悪討ち”達が繰り出すモノを避けながら遺が叫ぶ。“悪討ち”達は虚ろな目を遺に向けたまま、何も答えなかった。戸惑う遺に後ろでメインコンピュータを破壊していた那由他が声を掛ける。
「――おい、もしかしてそいつら完全に飼い馴らされてるんじゃないか?」
那由他が言って自分の耳の裏辺りを指した。“悪討ち”の素早い蹴りを跳んでかわした拍子に、遺はその首筋に青色のコードが突き刺さり赤紫色の液体が流れているのを発見した。
「ああ―――」
残酷な光景に、遺が眼を閉じて呻いた。遺達がここに来ることに気付いた狗門が遠隔操作プログラムを植え込んだのだ。完全に自我を破壊され生きた操り人形になった“悪討ち”に遺は銀色のモノを捻じ込み、抜いた。
くず折れる“悪討ち”を薙ぎ倒して、他の“悪討ち”が虚ろな眼をして遺に向かってくる。遺はその“悪討ち”にもモノを捻じ込もうと身構えた。途端、真横から銀色のモノが遺の視界に映り、遺はその場から跳び抜けた。
床上十五mはある天井の鉄骨にぶら下がったコードに掴まると、遺は自分の身体能力が何時の間にか以前以上に上がっていることに気がついた。
「調子に乗って無茶すんなよ――」
那由他が遺に声を掛け、最後の機器を壊すと、やって来た“悪討ち”から走って逃げた。
「那由他は恒河沙達のところへ行ってて!ここはわたしが何とかするから!」
遺がコードを振って勢いをつけて飛び降りると、那由他は襲ってきた“悪討ち”の手を叩いて銀色のモノを奪っていた。
「おう!だけど本当に無茶はするなよ!遺が死んだら意味無いだろ!」
起き上がる“悪討ち”に一発喰らわせてから那由他は“悪討ち”達の間をすり抜けてもと来た道を駆けていった。去り際に那由他が投げた銀色のモノを受け取り、遺は両方の手にモノを握ると深呼吸した。
「―――ごめんね、みんな」
悲痛な声でそう呟くと、遺は満身に力を込めて“悪討ち”に立ち向かった。
700 lux
「・・・初めまして、狗門と申します」
狗門が暗闇の中で優雅に一礼した。灯の無い広い空間の中、恒河沙は無言で狗門を見下げ、侮蔑の籠もった声で言った。
「キミがあの装置を造ったんだって?」
「ええ」
「は。技術も材料も粗悪すぎるね。でも最悪極まるのはそれを造った動機だよ」
肌寒い空間に恒河沙が毒を吐き、狗門は業務スマイルを保ったまま動かない。
狗門の取ってつけたような笑顔を見て恒河沙は顔を顰めた。
「最高に下手な笑顔だね。気分が悪くなってくるよ」
「これが私の平常ですので」
恒河沙の毒舌に動じず狗門が笑ったままの顔で言う。恒河沙はサングラスの下にある狗門の眼を睨み付けた。
「嫌になってくるよ―――こんな奴がボク達と同じようなことをして、誰かを不幸に貶めようとするなんて」
最初に現れた時と全く変わらない笑みを貼り付けた狗門に向かって恒河沙は静かに蒼白い手を伸ばした。
「たとえ不幸のゆえにこれを行ったとしても、キミは他人の不幸を知ろうともしなかった。それがどんなものか解るように―――」
伸ばした手の先に居る笑ったままの狗門を見詰める恒河沙の口角がゆっくりと上がり、氷の如く冷たく微笑んだ。
「真綿で首を絞めてあげようか」
血と肉でずぶ濡れになった阿僧祇が扉を開けて隣の部屋の様子を窺った。恒河沙と狗門が対峙しているのを見た阿僧祇は死者ばかりとなった広間から出て二人の前に姿を現した。
「おや、あなたにもお初にお目にかかりますね。狗門と申します」
恒河沙の背筋が凍るような脅しにも動じず、狗門は阿僧祇に微笑みながら礼をした。阿僧祇が眉間に皺を寄せ狗門を嫌悪の眼で見る。
「もう少し笑顔の練習をした方がいいよ。それじゃ相手を不快な気持ちにさせるだけだよ」
茶色の瞳を細めた阿僧祇に言われ、狗門の笑みがますます広がった。
薄暗い部屋に革靴で走る音が響く。恒河沙が最初に振り向き、次に狗門が人形のように白い首を捩って部屋の入り口を見た。
那由他が埃だらけの姿で現れた。
800 lux
「・・・おまえが狗門か」
「那由他さんですね。お待ちしていました」
薄暗い空間の中で、狗門が那由他に礼をした。那由他は仁王立ちのまま腕を組んでその様子を冷ややかに見詰めた。
「あんたに訊きたいことがあるんだ」
丁寧に礼をしていた狗門が顔を上げた。もはや業務スマイルではなく怪しげな狂気の笑みを浮かべながら、狗門は血色の悪い唇を開いた。
「何のためにこんなことをしているのか――ですね。実にくだらない、けれど私にとっては生命よりも大切な問題ですよ。そう、これは全て航空機事故で太平洋に沈んでしまった私の愛娘を甦らせるためなのです」
異常なほど冷静に狗門は説明して、耳障りな笑い声を上げた。
「確かに、家に残っていた髪で彼女と全く同じ体組織の人間を造り出すことは出来ました。しかし、それは私の愛した娘ではない。一卵性双生児がそうであるように、同じ外見をした別人です。私がいくら娘の経験に忠実に従って育てても、必ず違うところが出てくるのは目に見えて明らかでした。だからこそ私は死者の記憶を留めたまま甦らせることが出来る、この技術を―――この奇跡の技術を研究し続けたのです」
「あの装置の造り方は誰から教えてもらったの」
闇の中に居た恒河沙が独白する狗門を止めて詰問した。狗門は薄ら笑いを浮かべて恒河沙の問いに答える。
「全く通りすがりの少年でしたよ。そう、丁度あなたくらいの歳に見えました。あんな少年がこのようなことを知っているのには驚きましたが、何も訊かないでくれと言われたのでそれ以上は知りません」
狗門の正直な返事に恒河沙は溜息を吐いた。狗門は両手を広げ、朗々とした声を張り上げ薄暗い部屋の中に響かせた。
「金の亡者だった縞帯は役に立ちましたよ!失敗作を多額の金で買い取って、実験体まで提供してくれた。そのお陰で私は一度再生した人間に他の人間の記憶を混ぜ込むことに成功し、悲願へと一歩近づけたのですから―――!」
芝居の中の台詞のように言い終えると、狗門は首を回してこれ以上無く満足げな笑顔を那由他に向けた。
「もう終わりですね。貴女達が来て全てが滅茶苦茶になってしまった」
部屋の中に遠くからやってくる足音が鳴り響き、遺が扉を開け放った。
「―――遺、来るな!」
那由他が叫ぶと同時に、狗門が懐から銃を取り出して発砲した。阿僧祇の胸に鉛が穴を開け、鮮血が吹き出した。
「―――っっっ!」
那由他が大声で阿僧祇の本当の名前を叫んだ。
900 lux
血溜まりの中で動かなくなった阿僧祇を見て、狗門は狂気の笑い声を上げた。
「だが今ならまだ間に合いますよ、あなた達を殺してしまえばね!」
弾丸の無くなった銃を床に捨てると、狗門はジャケットの裏からもう一丁銃を取り出した。あまりにも呆気無く動かなくなった阿僧祇に、遺はその場に立ち尽くした。足が竦んで動けない遺に狗門が銃の照準を合わせる。
「・・・遺さん、少しは役に立ってくれるかと思っていましたが、逆にこんな厄介ごとを運んでくるとは失望しましたよ」
冷や汗を流し立っていることしか出来ない遺は震える膝を動かそうと何度も挑戦したが、一寸たりとも動くことは出来なかった。狗門が安全装置を外し、引き金に指が掛かる。
「がふぁっ」
仰向けに倒れた阿僧祇から出た声に、狗門は首を回して阿僧祇を見た。
「おや、まだ生きていましたか。この一発で―――」
狂気に歪んでいた狗門の顔が恐怖に引き攣った。左胸を打ち抜かれた阿僧祇がぎこちない動きで血に塗れた床から立ち上がり、口の中に溜まった血を吐き出して獣のような細長く鋭い瞳で狗門を睨み付けた。
「こんなモノでボクが死ぬと思った?ふざけるなよ!何発でも打ち込めよ、あの医者みたいになっ!」
鬼のような形相で阿僧祇が吼えた。胸に残った弾丸を指で抉り出すと、阿僧祇はそれを床に叩き付けた。
「何で阿僧祇がそのことを知ってるの―――?」
震える遺の口から漏れた言葉に阿僧祇は乾いた笑い声を上げ、遺を見た。阿僧祇の顔半分が那由他になっていた。
―――変身の専門は阿僧祇だったのか・・・。
那由他の顔の方を右手で押さえよろめきながら近寄ってくる阿僧祇に、狗門はまだ弾丸の残る銃を取り落とした。
「化け物・・・」
「死ねない苦しみが解るか?」
心臓が鼓動する度に血が吹き出す阿僧祇を見て狗門はへなへなとその場に座り込んだ。
「これがおまえの造ろうとしていたモノなんだよ―――おまえの娘の成れの果てなんだよ――――!」
阿僧祇が血の詰まった喉から掠れた咆哮を上げた。那由他だった顔半分が薄茶色の髪と黄色い眼の少女に変化する。
「わ、私は―――」
狗門が眼前の心臓が破れても生き続ける顔半分が娘の形の阿僧祇を見た。
「私は娘をこんな化け物にしようとしていたのか・・・」
「もしくは永久に生き死にを繰り返す哀れな出来損ないにね。薄々勘付いてたんじゃないの?キミの粗悪な技術じゃ二年が関の山だってことを」
遠巻きに見ていた恒河沙の毒舌が追い討ちをかけ、狗門は完全に放心状態になってしまった。阿僧祇は顔を顰め酷い悪態をつくと狗門から離れた。歩く度に胸から血が吹き出し、足元に点々と血溜まりを作った。
「・・・これで眼が覚めたか?」
空を見詰める狗門に、気を落ち着けた那由他が問いかけた。答えは無かった。那由他は眼を閉じ溜息を吐くと苦い顔で恒河沙に令を下した。
「恒河沙、まだ複製室の装置はそのままだな。指輪で壊してこい」
恒河沙が無言で頷き、複製室への扉を開けた。分厚い白亜の扉は軋んだ音を立ててゆっくりと倒れ、赤紫色の飛沫が上がった。
死体を踏んで複製室の中央に進んだ恒河沙が一箇所だけ何も無いコンクリートの台の上で静かに右手を上げた。その人差し指に、アイスグリーンの宝石が嵌め込まれた銀の指輪が輝いた。一瞬だけ躊躇すると、恒河沙は宝石を下にして拳を床に振り下ろした。
刹那、白い光と黒い闇が混然として吹き出した。
―――?
一瞬間だけ轟音が広間に響き、直後全ての音が消えた。呼吸する音も、心音さえも。
―――何が起こったの?
光と闇の吹き出る中心に必死で眼を向ける遺。その中心では恒河沙が拳を複製室の床に突きたてていて、指輪の宝石から光と闇が吹き出していた。
遺の脳内に初めて三人と出会った夜の光景が甦る。暗い路地裏に集う三人、指輪を見せる恒河沙、満足そうに頷く那由他―――。
光と闇に包まれながら、遺はいつも見ていた恒河沙の銀の指輪のことを思い出していた。
―――「いいじゃんか恒河沙はそれ持ってるんだから」
思い出の中阿僧祇が真紅の錠剤を恒河沙から取り上げ言う。あの時見せた恒河沙の儚い一面。遺の話を聞きながら何度も銀の指輪をくるくると回す恒河沙。
「―――そうか―――そうだったんだ・・・」
遺の口から言葉が漏れた。声は空間へ吸い込まれ音は何も聞こえなかった。
―――「例のモノを持って来いよ。アレがなけりゃ取引が進まない」
夜の闇の中薄いカードに向かって話す那由他の声が頭の中で聞こえる。そうだったんだね、と遺はまた口を動かした。光が唇を掠め、遺の音を奪っていった。
無意識に恒河沙を見ると、陰陽の渦中に居る恒河沙は傷だらけになっていた。残酷なほど凶暴な光と闇が荒れ狂う中、恒河沙はどんな深い傷を負っても決して動かなかった。傷口から流れ出る血は風に巻き上げられ、花弁のように宙に舞った。
無表情だった恒河沙の顔が泣きそうに歪み、紅色の薄い唇が細く開いて何か呟いた。
それは懺悔のようだったけれど、その声は誰にも届かなかった。
今にも涙が頬を伝いそうな恒河沙の姿を見るのに耐えられず遺は顔を背けた。
視線の先に狗門が居た。
代名詞のようだった業務スマイルは剥がれ落ち、狗門は両膝をついて白い床に座っていた。眼前の光景など見えておらず、狗門の眼は遥か彼方を見ていた。いつもワックスで固め上げていた黒髪が風に乱され、たなびいているのが哀しかった。狗門からも眼を逸らすと、阿僧祇が見えた。
大分緩やかな呼吸に戻っていたが、それでも心臓が鼓動する度に鮮血が胸から溢れ出ていた。阿僧祇は唯真直ぐに恒河沙を見ていた。時折胸の痛みに顔を顰め胸の前で手を握る姿の痛々しさに遺は視線をずらし、白黒の世界の中那由他を探した。
少し離れたところに、那由他が黒髪を靡かせ立っていた。
「那由他・・・」
聞こえるはずは無いと知りながらも遺は口に出して呟いた。闇が遺の口から声を掠め取っていく。無音の世界の中、何の変化も起こらない。
やはり聞こえないのだと諦めかけたその時、那由他が遺の方へ振り向いた。
「!」
驚きと喜びが混濁する遺に那由他が口の片端だけ上げて皮肉な笑みを浮かべた。光と闇の向こうで那由他の唇が動く。
―――正しく伝わってるか?
音は聞こえなかった。けれど遺の頭中に那由他の声がはっきりと聞こえた。眼を見張る遺の頭中にまた同じ言葉が響く。那由他が返事を求めていることに気付いた遺は、声を張り上げ叫んだ。
「聞こえたよ!ちゃんと伝わってるよ!」
音は空しく荒れ狂う闇に吸い取られたが、光の向こうの那由他には遺の声が届いたようだった。那由他は苦笑し、黒髪を揺らして緩く首を振った。
―――正しいかどうかは遺にもわからないか。
「そんなこと―――」
ない、と言いかけると那由他は遺から視線を動かし何かを見詰めていた。つられて遺も見ると、再び恒河沙だった。
泣きそうだった表情はいつもの無関心な顔に戻り、恒河沙は蒼い瞳を閉じた。
恒河沙がゆっくりと息を吸い込むと、荒れ狂っていた光と闇が次第に弱まっていく。最も傷ついた右手を左手で支えながら、恒河沙は銀の指輪を、拳を床から離した。恒河沙が立ち上がる頃には、指輪から出ていた光も闇も消えてしまっていた。
無音だった空間に、幾重もの低音が響き始めた。
「・・・何の音・・・?」
不審な音に眉を顰め思ったことを口に出すと、声はきちんと耳へ届いた。恒河沙が身体に付いた埃を払い仏頂面で那由他に言う。
「行こう。ここはもう崩れる」
「―――ああ」
恒河沙の言葉に重々しく那由他は頷き、次に狗門を見た。心ここにあらずといった様子で床に跪いている狗門に那由他が声を掛ける。
「あんたはどうするんだ?」
狗門は答えなかった。質問すら聞こえていないようだった。那由他は眼を閉じて首を横に振ると、狗門の傍を通り過ぎた。
「行くぞ」
胸から血を流しつつも立っている阿僧祇の横を過ぎ様に那由他が言った。開け放たれた扉の向こうに歩いてゆく那由他の後ろ姿を、遺は慌てて追いかけた。
建物の軋む音が反響する薄暗い広間に、三人の男が居た。
狗門の遠くを見詰めていた目は次第に焦点が合い始め、現実に戻ってきた狗門は両手を床についた。その様子を恒河沙が冷たく、阿僧祇が哀しそうに眺める。やがて狗門は身を起こすと、恒河沙に疲れきった顔を向けた。
「・・・この場所は崩れるのか」
「止めるのは無理だろうね」
恒河沙が冷淡に言い、狗門は静かに眼を伏せた。それを見た恒河沙は不愉快極まりないと鼻に皺を寄せ、先程那由他が尋ねたことと同じ質問をした。
「キミはどうするのさ」
狗門は俯いた青白い顔の眉間に皺を寄せ、暫く沈黙が続いた。地下の建物が大きく軋み、狗門は重い口を開いた。
「私は―――ここに残る」
「言うと思った」
語尾に被せて恒河沙が皮肉な口調で言った。落胆した狗門の前に立つと、険しい顔をして狗門を指し宣告した。
「でもボクはキミを殺さないからね。言ったでしょ?『真綿で首を絞めてあげよう』って。キミはこの場に残って破れた願いと絶たれた希望に埋もれて死のうと思ってるだろうけど、そんなことはさせない。キミがこの建物のどこに居ようと、瓦礫に潰されて死ぬことのないようにしておいたからね」
驚きと恐れが狗門の表情に現れ、懇願するように前に立つ恒河沙を見上げた。突き放すような冷たい蒼眼が狗門を見下し、言葉の止めを刺した。
「生きて苦しみを味わうがいい」
苦悶に喘ぎ始めた狗門の前から恒河沙が歩み去り、扉の方へ歩いてゆく。狗門はその背中に手を伸ばし、あらん限りの声で哀願した。
「待ってくれ!私を―――わたしをここで死なせてくれ!」
恒河沙が銀髪を揺らして振り向き、無慈悲な蒼い眼が必死に髪振り乱す狗門を一瞥した。
その歯牙にもかけない態度に、狗門は苦しそうに床を見詰め独白する。
「―――ここが壊れてしまったら、もう娘を甦らせることが出来ない・・・。ここを捨てて去ってしまったら、それは娘を捨てたも同然だ。ここには娘の全てがあるんだ!形見も写真も、―――思い出も・・・」
薄い唇を噛み締め狗門は白いコンクリートの床を、爪が割れて血が出るほど力を込めて掻いた。
「ここから離れてしまえば、いつか娘のことを忘れてしまう―――忘れるまでいかずとも、まるで居ないのが当たり前になってしまう・・・そんなのはごめんだ!娘こそがわたしの全てだったのに、その思い出すら失うことは耐えられない・・・!」
頭を垂れて肩を震わす狗門に、恒河沙は静かな声で述べた。
「キミだって同じことを彼らにしていたんだよ、狗門」
狗門の身体が大きく震え、止まった。打ちのめされた顔を上げると、恒河沙が何の期待も持たない視線を投げ掛けていた。狗門を支えていた手の力が抜けてゆき、冷たい床の上に狗門は呻きながらゆっくりとくずおれた。倒れた狗門から嗚咽が聞こえたが、恒河沙は無感情な蒼眼で唯見下ろしているだけだった。狗門の泣く様子を一瞥すると、恒河沙は踵を返して扉の敷居を越えた。
狗門のむせび泣く声を背中に浴びつつ、恒河沙は白い廊下へ去っていった。
狗門の不規則な啜り泣きが破壊された広間に響き、一人残った阿僧祇は破れた心臓を手で押さえながら狗門に近付いた。阿僧祇の細長い影が狗門に被さり、狗門は涙の流れる顔を上げた。
「狗門さん」
阿僧祇が弱弱しく微笑んで言った。潤んだ暖かい茶色の瞳が狗門の漆黒の瞳を覗いたが、狗門は阿僧祇の身体を透かした向こう側を見ていた。阿僧祇は哀しげに笑うと二、三度咽て真赤な血を吐いた。
吐いた血の一滴が狗門の頬にかかり、狗門は虚ろな眼で阿僧祇を見た。狗門の黒眼に気遣わしげに微笑む阿僧祇が映る。
その胸に無残に開いた穴を見て、狗門は力無く呟いた。
「・・・君にひどい事をしてしまった」
阿僧祇は笑って首を振り、右手を伸ばすと乱れた狗門の横髪をそっと撫で付けた。覇気を失くした狗門は顔を上げ阿僧祇に向かい請うた。
「そこにある銃で・・・わたしを撃ってくれないか」
爪先から血の流れる指で銃を指す狗門。阿僧祇は黙って落ちていた銃を拾うと、銃口を床に向けたままのそれを狗門に見せた。狗門は頷き、自虐的とも見える笑みを浮かべた。
「すまないね―――またこんなひどい事を」
狗門が申し訳なさそうに言い、阿僧祇は眼を閉じて強く首を振った。そして狗門の後ろへ回ると、引き金に指を掛け、引いた。
血と神経が飛び散った中に倒れた狗門の後ろに、阿僧祇が微かに煙の立ち昇る銃を手に静かに眼を閉じていた。瞼が震えて開き、足元でうつ伏せに倒れ動かなくなった狗門に切ない表情で阿僧祇は語り掛けた。
「―――大丈夫、・・・大丈夫、だよ。裁きの時はまだ・・・来てないから」
語り終えると、阿僧祇は狗門の横に未だ暖かい銃を置いた。血に濡れた狗門の髪を整えると、阿僧祇は一度だけ微笑んでみせた。赤い液体の中に、一粒だけ透明なモノが落ちた。
阿僧祇が廊下へ出ると、恒河沙が不機嫌な顔で壁に寄り掛かっていた。
「あれ・・・待っててくれたんだ?」
意外な展開に少し驚きつつも阿僧祇が言うと、恒河沙は壁から背を離し責めるような口調で言及した。
「―――銃声が聞こえたんだけど」
「うん」
それだけ言い口を閉じる阿僧祇に恒河沙が針のような視線を浴びせる。
「・・・なるほどね。キミは狗門から永久に償いをする時間を奪ったわけだ」
「彼にはもう、生きる希望も残ってなかったんだよ?人生の目標も、行動の動機付けも全て失って、どう生きろって言うの」
建物の軋む音が激しくなり、白い壁に皹が走った。崩壊の進みに押されて阿僧祇と恒河沙がエレベータに向け歩き出す。
「誰でも一度は絶望する」
歩きながら恒河沙が言い、隣を進む阿僧祇を温度の低い蒼眼で一瞥した。
「どんな無意味な人生でも、それが生きることなんだ」
「そんなの不公平だよ」
俯いたまま阿僧祇が涙声で呟いた。阿僧祇の泣き言に恒河沙は嫌そうな顔をして溜息をつくと、空に向かって喋った。
「何と比較して?他人の人生?世界中の誰より幸せで居続けたい?」
「そういうことを言ってるんじゃ・・・」
「それとも何。自分も他人も皆同じように幸せでも、満足できる自信があるワケ?」
「―――違うって」
「結局さ」
恒河沙が歩きながら急に横を向き、阿僧祇に銀の指輪を嵌めた指を突きつけた。
「見てられなかったんでしょ?狗門を自分と同一視しちゃって、まるで自分が苦しんでいるように思った。今現在キミも苦しんでるからね。それで今度はすり替えさ。自分は苦しくても死ねないから、狗門を殺してしまうことで自分も苦しみから解放された気分を味わってるわけだ」
恒河沙に断定的に言われた阿僧祇の眉間に皺が寄り、反論しようと口を開いたが何も言わなかった。何の反発の無いことに、恒河沙は言葉を緩めることなく阿僧祇を責め立てる。
「そして自己満足しつつ、狗門には決してこの状況を超えることを許さない。自分が苦しんでるのに誰かがそれを克服していけると知るのは惨めな気分にさせられるからね。――とんだ偽善者だよ、キミは」
黙って聞いていた阿僧祇の円い瞳が獣のような縦長の瞳へと変化してゆく。
「恒河沙だってそうじゃないか」
阿僧祇が険しい顔で反駁すると、それを予め想像していたように恒河沙は澄ました顔で受け答えた。
「ボクは自覚してる」
「・・・それがどれだけ役に立つか楽しみだね」
阿僧祇が苦々しげに言い捨て、会話は打ち切られた。扉を開いて待機するエレベータの前へ着くと、二人は無言のまま遺と那由他の乗るエレベータの中へ入った。
エレベータのモーターが軋む音と、建物が崩壊寸前に出す音を聞き不安を感じた遺は誰とも無しに尋ねた。
「上まで無事に着けるかなぁ・・・」
「ボクが逃げ道も確保せずここを破壊するとでも思ってるワケ?」
すかさず恒河沙に毒を吐かれ、遺は首を竦めた。階表示を見ていた那由他が阿僧祇と恒河沙の方へ首だけ振り向いて訊く。
「―――狗門は残るって言ったのか」
「うん」
「・・・・」
阿僧祇が答え、恒河沙は無言だった。横目でエレベータの壁面を見詰め硬く口を閉ざしている恒河沙に那由他が呼びかける。
「恒河沙?」
訝しがる那由他の問い掛けに、恒河沙はこの上なく面倒臭いといった様子で口を開いた。
「ああ狗門?言ってたよ、『ここに残る』ってさ。ホントもう五月蝿くて嫌になっちゃったよ」
「・・・そうか」
恒河沙の返答に少し顔を曇らせ階表示の明かりに目線を戻す那由他に、阿僧祇が加えて気を取り直し言う。
「でも恒河沙が狗門さんに瓦礫が当たらないようにしてくれたから、建物が崩れて狗門さんが死ぬことは無いよ」
那由他の肩甲骨まで黒髪のかかった後姿に安心させるように声を掛ける阿僧祇。恒河沙は阿僧祇にしか聞こえない小声でこれ以上死にようが無いしね、と呟いた。狭い空間の中に流れる妙な雰囲気に、遺は先程竦めた肩をそのままに三人を交互に見回した。
「遺―――」
那由他の声に遺は竦めた肩を元に戻し、那由他に顔を向けた。
「なに?」
「これで・・・良かったんだな?」
地上まであと少しのところに灯ったランプを見詰める那由他の問いに、遺は静かに頷いた。動きと共に、声が遺の唇から漏れる。
「―――うん」
肩甲骨まである黒髪が動いて、長い前髪の下で那由他が少しだけ笑うのが見えた。
「遺が満足したんなら、これでもいいか」
まるで自分自身に言い聞かせるように言った那由他の言葉を遺が胸の中で繰り返す。
―――確かに、これで良いんだ。もう“悪人”だからと処分される人もいないし、“悪人”を処分させられる“悪討ち”も居ない。
だけど――と遺は心の中で思い返す。
―――本当にこれが最上だっただろうか?“悪人”“悪討ち”のシステムは無くなったけれど、そのために何人もの“悪人”や“悪討ち”達を殺してしまった。遠隔操作プログラムに操られていたせいで襲い掛かってきたけれど、彼らだって元は遺と同じ、“人間”だ。遺達が組織を滅ぼしに来なければ、彼らにプログラムが植え込まれることは無かった。
赤紫色の染みの出来たセーラー服を見て唇を噛む遺。そっとその染みに触れると、まだ乾ききっておらず生臭い液体が指に付いた。
―――それに結局、狗門さんも助けられなかった―――。
無念を感じながら、遺が赤紫に染まった指先をもう一方の手でそっと握り締める。広間を出て那由他を追った後、エレベータに続く廊下の角を曲がる直前に、遺は発砲音を聞いていた。それは微かな、小さな溜息にさえ掻き消されてしまうような音だった。先にエレベータに乗っていた那由他には聞こえなかったようだが、遺にははっきりと銃声が聞こえていた。狗門の遺言のようだったし、事実そうだったのだろう。
組織を残しておくことはどうしても出来なかったけれど、やはり遺の胸には緩やかに後悔の念が渦巻いていた。胸に付着した染みを暫く眺めていると、考えていることがわかったのか那由他が階表示に向かって言った。
「憐れみは正義じゃない」
遺が驚いて顔を上げた。那由他は表示計を見たままだ。次のブロックを過ぎると、もう地上だった。
「でもどっちも大事」
地上に着き扉が開くと同時に那由他が言い、振り返りもせずすたすたと出て行ってしまった。おどけるように付け加えた那由他の言葉に遺は少しだけ肩の荷が降りたように感じ、エレベータから一歩外へ踏み出した。
那由他に声を掛けようと上げた自分の手が視界の端に入り、次にその部分が暗くなって見えなくなった。
―――あれ?
暗くなってゆく視界の中で那由他が振り返る。ほぼ黒くなった視界の中、上に靡く自分の髪が見えた。
―――どうしてかな・・・
朦朧としていく意識の中、那由他の自分の名を呼ぶ声が聞こえ、誰かに抱きかかえられるのを感じた。
1000 lux
さよなら。
遠くで那由他の呼ぶ声がする。ああそうか、わたし倒れたんだ、と遺は朦朧とした意識の中で考えた。自分は大丈夫だと示そうと起き上がろうとしたが、小指一本動かせない。
―――どうしてかな・・・
遺の意識に、倒れる寸前思ったことが再び繰り返される。やはり無理をしたのがいけなかったのだろうか。感覚の無い暗闇の中で遺はそう思い、那由他の忠告を聴かなかったことを悔やんだ。折角阿僧祇と恒河沙が身体を造ってくれたのに、“悪討ち”との戦いで前より身軽になったのを調子に乗って、逃げもせずに無理して戦ったのが祟ったのだろう。身体の感覚が戻ってきて、遺は全身に引き裂かれるような痛みを感じていた。
―――ごめんね阿僧祇。
折角助けてくれたのに・・・そこまで思って遺の意識は混沌の中へ落ちかけた。
「遺」
那由他の声が耳元で聞こえ、右手が強く握られるのを感じた。
―――あ、痛い。
那由他の強すぎる握力に遺は眉間に皺を寄せ、那由他に不平を言った。
「那由他痛いよ・・・」
「目が覚めたようだぞ」
那由他の声が再び聞こえ、遺は閉じていた瞼を薄ら開いた。左枕元に那由他が遺の顔を覗き込んでいた。いっこう緩められない右手を握る手を見ると、遺の手を握っていたのは那由他ではなく、恒河沙だった。
「ご・・・恒河沙、痛いよ・・」
掠れた声でそう言うと、卓上時計を見ていた恒河沙が鬼のような蒼眼で遺を見た。
「二度とこんな無茶しないで。いいね?」
普段より数倍迫力の増した声で言って、恒河沙は開いている方の手でボールペンを持ち、紙に何か書いた。遺の脈拍を測っていたようだ。
叱られた遺は何も言い返すことが出来ず、熱を持つ瞼の下で目を泳がせる。足元の方から駆け足で近寄ってくる音が聞こえ、阿僧祇がいくつかの薬瓶を抱えて現れた。右手の痛みが消え、見ると恒河沙は手を離して阿僧祇から受け取った薬瓶の中の薬を注射器で吸い上げていた。
思い遣りの欠片も無い動作で腕に注射針が突き立てられ、液体が体内に入ってくるのを遺は感じた。恒河沙の刺す注射があまりにも痛いので遺は那由他の方へ顔を向け、気を紛らわそうとする。那由他に目を向けると、珍しく暗茶の瞳を心配そうに遺へと向けていた。
「心配したぞー」
「うん・・ごめん・・・」
思ったことをそのまま言った那由他に謝ると、注射器を机に置いた恒河沙が低い声で横から口を挟んだ。
「謝るくらいなら最初から気をつければいいんだよ」
「・・・すみませんでした」
成分のわからない注射を受けて、遺の身体から痛みが薄れていった。表情が顔に出せるほど筋肉の緊張が緩んできた遺が身体を起こそうとすると、阿僧祇がやんわりとそれを押し戻した。
「まだ寝てないと。がんばったんだよね、仕方ないよ」
全てを包み込むような暖かい茶色の瞳に、遺は安心して再び横になった。そんな阿僧祇の甘い言葉を聞いて恒河沙が思い切り鼻に皺を寄せる。使い終えた薬瓶を屑篭に入れると、不機嫌そうな声で阿僧祇と遺に釘を刺した。
「言っとくけど、今回はボク達が居たから死なずにすんだんだよ。あんなに身体中の筋肉や神経がずたずたになるまで戦い続けてたら“悪討ち”じゃなくても半年と身体が持たないってこと、絶対忘れないように」
改めて事の重大さを指摘され、遺と阿僧祇が黙り込む。機嫌の悪い恒河沙の向かいでは、那由他も苦い顔でそれに同調していた。
「――恒河沙の言う通りだ、遺。これからは自分の身体は自分で管理しないと・・特に、こんな状態になってみろ、一般人なら誰も面倒見きれないんだぞ?」
「はい・・」
那由他にまで言われてしゅんとする遺を見て、阿僧祇がつられて哀しそうな表情になる。
それに気付いた那由他が阿僧祇に恒河沙が使い終えた薬瓶を持って帰るように頼み、阿僧祇は奥の部屋へ消えてしまった。阿僧祇が扉を閉めるのを確認した恒河沙が振り返り、卓上時計を見てから遺に指示をする。
「さっき薬打ったから、今日安静にしてたら明日にはもう動けるから。ただし、今日だけは絶対に動かないように。このベッドから起き上がるの禁止。わかった?」
「うん、わかった」
「メシはオレが持ってくるからな。何か食べたいものがあったら阿僧祇に言っとくぞ」
刺々しい恒河沙の脅しの次に那由他が待ってましたとばかりに急に元気が良くなり、楽しそうに遺に言った。嫌な予感がした遺は先手を打って弱弱しい声ながらも那由他に注文する。
「え、えと・・とりあえず何でもいいけど、量は少なめでお願いします」
「んー?いいのかぁ遺?こういう時こそ栄養は沢山取るべきだって紀元前一八〇〇年頃の先人達はなぁ・・」
小食を希望する遺にクダを巻き始めた那由他を、移動した恒河沙が横から押して部屋の外に連れ出していく。恒河沙に摘み出されながらも、那由他は必死に何処の誰だかさっぱりわからない人名を引き合いにしては遺に食物摂取の重要さを説いていた。
「つまりだな、体重四五?の人間が一日に食べるべきとされている量は日本人の平均と比べると―――ってなにするんだ恒河沙!こっからが大事なんだ!」
「安静のジャマ」
情熱的に語る那由他を冷静の極みで追い出すと、恒河沙はぼろぼろの扉を閉めた。木が折れるような音がして扉に半径二?程の穴が一つ開き、そこから那由他の喚く声が聞こえている。横になっていた遺がくすくす笑っていると、恒河沙が無表情な顔で近付いてきた。
恒河沙が自分に向かって来ることに気付いた遺は笑うのを止め、怯えた目で恒河沙を見上げる。零下五百℃の蒼眼は普段と変わることなく無感情な視線で遺を見下ろし、恒河沙はベッド横の木製の椅子に腰掛けた。
「―――忠告しとくよ」
やる気なさそうに座っている恒河沙の薄く整った形良い唇が動いた。首を回して恒河沙を見る遺の頭が傾ぐ。恒河沙は自分の立場を理解していない遺に一つ溜息を吐くと、ベッドの端に肘をついて指を組んだ。
「今日、本部へ乗り込む前にボクがキミに施したのは、キミの持つ能力を最大限に引き出すための儀式みたいなモノ。簡単に例えるなら、銃の安全装置を外す作業みたいなことさ。銃だって暴発防止の安全装置を外さなかったら使えないように、ヒトもその制限を外さなければ能力を最大限使うことは出来ない。・・・ここまでは解ってもらえたかな」
いきなり饒舌になった恒河沙に目を円くしながらも、遺は枕がずれるのも構わず頷く。
恒河沙は遺が頷くのを見ると、組んだ指の上に顎を乗せて続きを話し出した。
「けれど安全装置を外した銃に暴発の危険性があるように、制限を外したヒトにも大きなリスクが生じる。それが、さっき遺が体験したような身体への重大な損傷。銃が使い方を間違えれば暴発するように、遺だって能力の使い方を誤れば死んでしまう。だから―――」
恒河沙が言いにくそうに言葉を切り、澄んだ蒼い眼で遺の眼を覗き込んだ。
「約束してほしい。二度とあの能力を使わないと」
凛とした声で綴られた言葉が遺の耳を打ち、部屋の中は無音になった。
静寂に包まれた部屋に布の擦れる音がし、話を聞いていた遺の顔に苦笑が広がっていく。
「・・・・」
笑い出す遺を微笑みもせず見詰める恒河沙に、遺は眼に浮かんだ涙を指で拭って答えた。
「使わないって、そんな―――持ってて使わないのなんて無理だよ。もう一回制限掛けてくれるなら出来」
「一度外した制限は、元には戻らないんだ」
真面目な顔で恒河沙が遺に言った。再び部屋の中に静寂が訪れ、壁の穴から差し込む太陽の光がシーツにまだら模様を造る。笑った顔のまま、遺は暫し固まった。
「だから頼んでる。遺なら出来ると思って、あの時制限を外したんだ」
答えの無いベッド上の遺に淡々と恒河沙が続ける。しかしその眼はいつものように遺を見下す冷たい視線ではなく、戸惑いと後悔を感じさせるものだった。固まっていた遺の表情がゆっくりと溶け、顔から笑いが消えてゆく。
不安の混じり始めた部屋の空気を吸い込むと、恒河沙は遺に言い聞かせた。
「この世界には、遺以外にも制限に縛られないヒトが沢山存在している。その殆どが、生まれたときから制限が外れていたヒト達だ。大半は周りの一般人に影響されて自分も『制限が掛かっている』と思い込んでいるのだけれど、稀に自分が特別な能力を使えることに気付いてしまうヒトも居る」
恒河沙の話を聞いていた遺の脳裏に本部のデータベースを破壊する那由他や自由自在に他人に姿を変える阿僧祇の姿が過ぎる。同時に目の前で喋る恒河沙の指輪にも眼が吸い寄せられた。
「・・それって、那由他や恒河沙達のこと?」
眉根を寄せて遺は恒河沙に尋ねる。恒河沙は遺の質問を手で遮ると、答えることなく続けた。
「いい?遺。銃の型が違えば性能が異なるように、ヒト一人ずつも能力に差があって、強い能力を発揮出来るヒトも居れば微弱な能力しか使えないヒトも居る。・・・そう遠くない昔に、そういったヒトを能力の強さで振り分けて使おうとした機関があった。彼らは世界中の能力に目覚めたヒトを狩出しては弱くて使い様の無いヒトを殺し、強いヒトを傘下に収め育て上げていったんだ。その機関はあるヒトによって滅ぼされたけど、今でも機関の一員だったヒト達は生きている。そして自分勝手にその機関がやっていたことを個人個人で行ってるんだ」
虹彩の筋一つひとつが視認できるほどの距離になった恒河沙が、遺を見ると唇を噛んで呟いた。
「キミは複雑すぎる。身体は微弱な能力にしか耐えられないのに、対する能力はボクの予想を超えていた。彼らに見つかれば、きっと格好の餌食になってしまう。見つからないためには、能力を隠して生きていかないと」
「・・・だから二度と使うなって言ったの?」
眼を上げて恒河沙を見詰めると、恒河沙は眼を閉じて静かに頷いた。俯いたままの恒河沙から囁くような声が聞こえる。
「――使わなくても、能力を全て隠すことは出来ないけど・・」
金の睫毛に縁取られた瞼を開くと、恒河沙は再び芯の通った声で話す。
「もちろん、彼らや彼らの部下以外にもキミの能力を感知して近寄ってくるヒトは居る。そのヒト達に対しても警戒を忘れないでね」
「―――うん・・」
顔を曇らせ頷く遺の横で恒河沙が立ち上がり、扉へ歩いてゆく。何時の間にか那由他の声も聞こえなくなって、部屋の中には恒河沙の歩く音だけが響く。扉の蝶番が軋む音がして首を上げると、恒河沙が無感情な顔で振り返っていた。
「最後に一つだけ覚えておいて。能力は強ければ強いほど、そのヒトを歪みやすくする」
恒河沙は呟くようにそう言うと、後ろ手に扉を閉めた。
扉の開く音で目が覚めた。身を起こすと、那由他が昨日とは違った糸色の黒いカットソーを着て扉の隙間から顔半分だけ出して遺の様子を伺っていた。未だ少々痛む節々を押さえつつ、遺は起き上がって那由他に声を掛けた。
「那由他、着替えたんだ?」
「ん。ってか二日も同じ服着るのは好きじゃないし」
「二日・・・」
那由他の言葉に遺は考える。恒河沙が部屋から出た後、遺はどうやら眠ってしまったらしい。部屋に差し込む陽光の角度がそれを証明していた。気付けば、枕元にラップを掛けた食べ物が置いてある。
「昨日一応持ってきといたんだけどな・・寝てたし、起きたら喰うかと思って」
頭を掻いて言い訳しながら那由他が部屋に全身入ってくる。遺はふっと微笑むと那由他に礼を言った。
「ありがとう。ちゃんと少なめにしてくれたんだね」
「うーん・・残すと勿体ないと思ったからオレがつまみ食いを」
「えぇ?」
情けない顔で遺が聞き返すと那由他は気まずそうにへらへらと笑って誤魔化した。頬を膨らませる遺の隣に座ると、喰えない顔で訊いてくる。
「もう安静は終わったんだろ?恒河沙に頼まれててさ、遺と外散歩して来いって。リハビリ代わりに」
那由他が遺の顔を覗き込み、暗茶の瞳が返事を要求している。遺は掛け布団を退けるとベッドから降りた。
「うん。昨日よりずっと体調良いし大丈夫」
「おーしんじゃ散歩行くかー」
肩を回す遺の横にベッドから飛び降りた那由他が立ち、先回りして扉を開けて遺を通す。
遺が那由他に礼を言って頭を下げて部屋から出ると、阿僧祇と恒河沙が居間で忙しそうに薬棚の整理をしていた。遺に気付いた阿僧祇が手を止めて微笑みかける。
「おはよ、遺」
「おはよう・・って、何してるの?」
机いっぱいに並べられた薬瓶を指して遺が訊くと、阿僧祇は肩を竦めて手近にあった薬瓶を新聞紙で包み段ボール箱に詰めた。
「薬品の整理。使わないのや少なくなったのをこの中に入れてるんだ」
隣で作業していた恒河沙が手を休める阿僧祇を邪魔そうに睨んで、二つ重なった段ボール箱を“隠れ場所”の外へ運んでいく。恒河沙が一歩進む度に、薬瓶のぶつかる音が遺の耳に聞こえた。
ふと肩に暖かいものが触れ、振り返ると那由他が首を傾げて立っていた。
「どーした?」
「ううん何でもない」
首を振ると、那由他は器用に段ボール箱の隙間を縫って居間を通っていく。遺も真似して後を追いかけ、二人は玄関に着いた。扉が開き、恒河沙が何も持っていない手を暇そうにして来た道を帰っていく。閉まりかけた扉を手で押さえ、那由他は遺に道を譲った。
「あ、ありがとう」
「ん。・・さて、何処行くかなー」
“隠れ場所”の外に出ると、前の通りは積み上げられた段ボール箱で占拠されていた。
あまりの量に呆れる遺に気付かず、那由他は頭の上で腕を組んだまま気ままに足を進める。遺が後ろから駆け足で寄ると、それに気付いた那由他が立ち止まり振り返った。
「お、ごめんごめん。――なぁ、どっか行きたいところある?」
唐突にそう訊かれ、遺は腕を組んで考えた。
「えーと・・湖かな」
「湖?」
怪訝そうに首を傾げる那由他に遺が笑って頷き、那由他の前に出て後ろ向きに歩き出す。
「そう。小さい頃よく遊びに行ってたんだ」
―――それに・・・
と遺の笑顔が一瞬消え、黒い瞳が遠くを見詰める。
―――恒河沙との思い出もあるし・・・。
急に静かになった遺に那由他がまた首を傾げ、我に返った遺は再び微笑んだ。先程の笑顔より微妙に影を含んだその顔を那由他は不思議そうに見ていたが、特に尋ねることもせず素直に頷いた。
「よし!じゃぁ行こっ!那由他」
切ない想いを胸に仕舞いこんだ遺が空元気な拳を青空に突き上げ、それに驚いた小鳥達が電線から飛び立っていった。
爽やかな風が穏やかに草原を撫でていく澄んだ小さな湖の畔で、遺と那由他が仲良く二人並んで草地の上に座っていた。静かに凪いでいる水面を見詰める遺の横顔を、体操座りしている那由他が漫然と眺めている。
唯々無言の続く遺の横で、那由他は暇そうに一人遊びを始めた。足元を這う蟻を人差し指に乗せ、蟻が落ちたらまた人差し指に乗せるという果てしない遊びを。やがて手を伸ばしても蟻に届かなくなったころ、落ち着きの無い那由他に雰囲気を掻き乱された遺がくす、と声を漏らした。耳聡く聞きつけた那由他が空々しく遺に声を掛ける。
「―――綺麗な場所だな」
「景色見てなかったじゃん」
遺がくすくすと笑ってそう突っ込むと、那由他は体操座りから胡坐へと姿勢を変えて、波一つ無い湖面を見渡した。
「見なくてもわかるよ。空気の匂いとか、そこに住んでるモノとかでな」
そう言って鼻を上に向け、空気の匂いを嗅ぐ那由他。今度は遺がその様子を眺めている。
日に焼けた草の匂いと立ち上る水の匂いを嗅ぎ終えた那由他が、自分を眺める遺に湖を見詰めたまま尋ねた。
「・・これから――どうするんだ?」
訊かれた遺は日の光を反射する黒い眼を那由他の暗茶の眼に向けると、悩んだ後にこう答えた。
「どうだろう――正直言って、よくわからないよ。だって組織は滅んじゃったし、家に帰ろうにもあの家はもうわたしの家じゃないし、というか『わたし』は法律的にとっくに死んじゃってるし」
悩ましげに眉根を寄せて考える遺の言葉を、那由他は急かすことなく落ち着いた雰囲気で聴いている。言葉を詰まらせた遺は先程那由他に遊ばれていた蟻を見詰め、薄紅色の唇を噛んだ。
「でも、わたし―――」
俯いていた遺の頭が擡げられ、真直ぐな瞳が雲ひとつ無い青空に向けられる。じっと聴いていた那由他が真剣な面持ちになり、唇から紡がれる遺の言葉が空間に響いた。
「“悪”を止めるのは必要だと思う」
抽象的な口調の遺に那由他が首を傾げ、遺は慌てて付け加えた。
「あ、その、あの組織みたいに“悪人”は全て抹殺っていうことじゃなくてね。なんて言うか――人に悪いことをさせる要因みたいな・・例えばあの組織のような“悪”を止めることが必要だって意味」
「・・そうか」
「わかってくれた?」
拙い説明を理解してもらえただろうかと心配そうに尋ねる遺に、那由他が優しく微笑んでみせた。その真意は遺には理解出来なかったが、那由他は気にすることなく口を開く。
「遺にその意志があるんだったら、それでいいのさ。――けど、無茶すんなよ」
昨日から再三聞かされてきた言葉を聴いて、遺は苦笑した。
「わかってるってば。那由他は心配性だなぁ」
口を尖らせて拗ねたようにそう言うと、那由他は先程と同じように優しく、少し哀しそうに微笑んだ。そしてそのまま澄んだ湖面の果てを見詰め遺に言う。
「何時までも一緒に居られるわけじゃないからなー」
間抜けた声で那由他が言い、遺はくす、と笑い声を漏らした。冗談としか思っていない遺に那由他はまた優しく微笑む。
陽光に照らされ絵の中の風景の如き那由他に、次の瞬間消えてしまいそうな儚さを覚えた遺は何でも構わず尋ねようと口を開いた。
「ねぇ那由他、どうして普段は女の姿なの?別に男の姿でも構わないんでしょ?」
唐突ながらも鋭い遺の質問に那由他が暗茶の眼を円くし、次に面倒臭そうな顔になると肩甲骨まである黒髪を手櫛で梳きつつ眼を泳がせて答えた。
「まぁそうだけど・・男の姿だと言うこと聞かないからさ――」
「誰が?」
「阿僧祇と恒河沙。オレは男でいる方が下着の枚数少なくて済むし楽なんだけどな」
そう付け加えて何でかなー、と面白くなさそうに草地に横になりぶつぶつと呟く那由他。
一気に現実臭くなった那由他を見て、安心した遺は思わず笑いを漏らした。不満を呟いていた那由他がつられて笑い出し、二人の笑う声が澄んだ湖の畔に幾重にもこだました。
那由他と二人で飽きるほど笑い転げた後、遺は“隠れ場所”の宛がわれた部屋で夜を過ごした。昼の間に干しておいた清潔そうな白いシーツは太陽の匂いが染みていて、遺は心地よい香りに包まれつつ藍色の部屋の中でベッドに横になっていた。
いつもならすぐ眠りに落ちることが出来るのだが、今日だけは何故か眼が冴えて眠れなかった。昼、湖の畔で那由他が遺に尋ねた言葉が遺の頭の中で何度も空回りする。
―――・・・これから――どうするんだ?
わからないよ、と遺は布団の中で呟いた。組織が滅び万事は終わったはずなのに、遺の心は落ち着かなかった。何をしたいかはよくわかっていた。けれど、どうすればいいのか全くわからなかった。
―――わたし・・これからどうすればいいのかな・・・。
闇の中眼を開き、何も見えない漆黒を見詰め遺は心の中で自分に問いかけた。いい考えが浮かんだと思っても、それを言葉にすることが出来ず、歯痒い思いだけが募ってゆく。自問自答を繰り返し、輪廻の如く回り続ける疑問とあやふやな道標に振り回されるうちに、疲れた遺は静かに眠りへと落ちていった。
“隠れ場所”の老朽化した壁の穴から陽光が差し込んでいる。その一筋が眠っている遺の瞼に注ぎ、遺は眩しさから眼を開いて顔に手を翳した。
「朝、か・・・」
小鳥達が遠くで囀る音に遺は布団から這い出て両手を天井に突き出し背伸びをする。昨日夜遅くまで考え込んでいたせいか、今日は普段より瞼が重かった。乱れた布団を整え寝巻きから着替える遺の鼻が敏感に異変に気付く。
いつもなら朝起きると阿僧祇の作る朝食の匂いが“隠れ場所”中に満ちているのに、今日は何の匂いもしなかった。首を傾げて上着を着ると、遺は部屋の扉を開けた。油を差していない錆びた蝶番が軋んだ音を立ててゆっくりと開く。
朝日が幾本も柱状になって差し込む居間に、那由他と阿僧祇、恒河沙が居た。
ソファに座ることなく誰かを待っている三人の様子は、とても朝食の準備をしているようには見えなかった。扉が軋む音に那由他が気付き、いち早く振り向く。
張り詰めた雰囲気の三人に見詰められ、遺は蛇に睨まれた蛙のように立ち竦んだ。黒い眼を限界まで円くして強張っている遺を見て那由他が言いにくそうに頬を指で掻く。隣に立つ恒河沙が蒼い眼で那由他を急かすと、那由他は重い口を開いた。
「―――さよならだ、遺」
小さく、けれどはっきりと聞こえた那由他の声に遺は全身が砂袋のように重くなるのを感じた。足先から力が抜けてゆき、遺はおぼつかない足取りで那由他に近寄ると震える声で聞き返した。
「さ、さよなら・・?」
情けない声の遺を辛そうに眺め、那由他は頷いた。耳鳴りの始まった頭を押さえ、遺はその場から二、三歩後退りした。遺の足が、昨日阿僧祇と恒河沙が整理していた段ボール箱の角に当たる。それを絶望的な眼差しで見下ろす遺は次第に言葉の意味を理解し始めた。
―――昨日、荷物を整理してたのはこのためだったんだ。
焦点の合わない眼を殆ど薬瓶の無くなった空の薬棚へ向ける遺。動揺が抑えきれずそのまま顔に出ている遺に阿僧祇が声を掛けようと、手を伸ばす。
「遺・・・」
混乱している遺にその声は届かなかったらしく、阿僧祇に応えることなく遺は両拳を握り締めている。気持ちを落ち着かせてよく考えると、次第に心が静まってきた。
―――そっか。そうだよね・・。
遺の黒い目が居間に並ぶ三人を見、那由他の言った言葉を受け入れようとする。彼ら程能力があるのだから、あの組織を滅ぼすだけが仕事ではないのは当たり前だ。どころかこの“隠れ場所”に寄ったのだって、“悪討ち”だった遺を助けるためだった。本当ならもっと早く遺に別れを告げてもよかったのに、組織を滅ぼすまで手伝ってくれたのだ、と。
そこまで思い、遺の胸にまた熱いものが込み上げてきた。
―――でもわたし、まだ那由他のこと全然知らないよ。
熱くなった目頭を押さえ、遺が顔を上げる。遺を心配して気を揉んでいる阿僧祇や泣き出しそうな遺を気まずそうに見詰め頭を掻いている那由他、鬱陶しそうに眺める恒河沙それぞれが遺の目に映った。
―――もっと阿僧祇のこと知りたいよ。
白くなるまで握られた拳が更に力強く握られ、遺は三人の顔を涙に滲んだ目で眺める。
必死に涙を堪える遺の目と恒河沙の蒼眼が合い、恒河沙は冷淡な表情を改めると苦い顔で小さく溜息を吐いた。腕を組む恒河沙の指に煌く銀の指輪に、遺の記憶が呼び出される。
―――恒河沙の話、聞きたいよ。
だから―――、と遺は潤んだ瞳で那由他、阿僧祇、恒河沙を交互に見詰めた。
『自分もついていく』
そう喉まで出掛かったが、声に出す勇気が無かった。
彼らと自分は世界が違うのだと、葛藤しつつも心の奥底では理解していた。
物体の性質を変える能力、誰にでも身を変えられる能力、一瞬にして巨大な建物を破壊する能力、総てが遺の想像を超えていた。彼らが決して遺に自分達のことを語らない理由が、今の遺にはよく解っていた。
彼らの向こうには、“踏み込んではいけない世界”があるのだと。
踏み込めば、一瞬にして消し飛ばされるのだろうと。
そうと解って連れて行って欲しいと言うことが、生き残る自信が遺には無かった。言ったとしても遺の身を思う彼らが許すはずも無かった。特に那由他が渋るのは目に見えて明らかだ。
遺は火照った顔を俯けて目を伏せると、涙を拭って顔を上げた。
「・・・連れて行ってって、言わないの?」
阿僧祇が眉を八の字にして小首を傾げ遺に訊く。ふっ切れた遺は笑って首を振ると、まだ少し震える声で言った。
「――いいんだ、納得したから」
そう・・、と阿僧祇が寂しそうに言い、那由他が胸を撫で下ろすのが見えた。
―――これでみんなともお別れか・・・。
皮肉な笑みを浮かべつつ目を伏せる遺の足元に、恒河沙の影が落ちた。目を上げると、恒河沙が阿僧祇に並ぶよう一歩遺に近寄っている。無表情のまま一度那由他を振り返ると、那由他が右手を上げて合図をし、恒河沙は遺に向き直った。
「那由他から聞いたよね?これからどうしたいかって」
藪から棒な質問に、遺は訳が解らず唯頷いた。
「で、でも、まだ何をしたいかは決まってなくて――」
「―――ヒソカ ユイに戻る気は無いんだね?」
「え・・」
懐かしい名前を聞き、遺の目が円く見開かれる。恒河沙は口を閉じたままその場を下がり、阿僧祇に話を譲った。暖かな茶色の目を泳がせて阿僧祇がつま先を見つつ遺に話す。
「・・・昨日、遺が那由他と散歩に行ってるときに恒河沙と二人でそのこと話してたんだ。そしたら那由他も、遺が鬼籍に入ったままはマズいんじゃないかって言って――だから・・」
床にのの字を書いていた阿僧祇の足が止まり、茶色の瞳が真直ぐ遺を見詰めた。
「だから用意しておいたんだ、遺が家へ帰れるように」
そう言って阿僧祇が、状況を飲み込めず目を白黒させる遺の前に古びた羊皮紙を一枚差し出す。そこには移動陣とはまた違った、読解不可能な文字の羅列が書かれていた。
「こ、これは・・・?」
遺が羊皮紙に手を伸ばすと、羊皮紙が弱弱しい光を発した。触ろうとする遺の手をそっと離して、阿僧祇が文字の書かれた羊皮紙の説明をする。
「――これは遺と、遺に関わったことのある人達の記憶を抹消する魔札だよ。遺が“悪討ち”に殺された時から今までの記憶と引き換えにその日数分の平凡な日常の記憶が遺の脳に記憶されて、遺の家族や知り合いからもヒソカ ユイさんが死んだ記憶が消える―――普通の記憶が上書きされるんだ。遺が触れば魔札が発動して、全て元通りになるんだ」
説明を終えた阿僧祇が遺の様子を上目遣いで伺い、羊皮紙を遺に差し出した。
「・・・どうする?触れば家に帰れるけど、ここでの記憶は全部消える」
奇妙に歪んだ文字が羅列された古い羊皮紙を眺める遺。那由他に訊かれたときには考えもしなかった、いや考えられなかった選択肢が今、目の前に示されている。黄ばんだ羊皮紙の色が、遺に自宅の居間でくつろぐ家族を照らす明かりを思い出させる。懐かしい家族の元へ帰れる――今の自分の記憶と引き換えに。魔札が映る目の奥で、この数ヶ月間の体験が遺の頭中を巡った。暗く狂気に満ちた組織での思い出。不可思議で理解し難い“隠れ場所”での思い出。それらは残酷で、それでいて不思議な温もりを感じた。
魔札に目を注ぎ考え込む遺をじっと待つ阿僧祇。傍から見れば、まるで時が止まったかのように眼に映るだろう。それほど、遺は沈思していた。家に帰り、何もかも忘れて家族と過ごす―――。狗門の組織で再生された頃からずっと望んでいた、遺の悲願だった。阿僧祇に説得されついていったのも、自分の身体を取り戻したかったのも、家に帰りたかったからだ。コピーが事故で死亡してから叶わないと絶望した望みを、阿僧祇達が用意してくれたこの羊皮紙に触れれば手に入れることが出来る。阿僧祇の手に握られた魔札は何よりも魅力的に思えた。
―――だけど・・・。
遺は一瞬躊躇すると手を伸ばした。
そして羊皮紙に触れないように、光るそれを阿僧祇に返した。
阿僧祇の茶色い瞳が驚きで円くなる。後ろに立つ那由他と恒河沙もまたそれぞれに驚きの表情をしていた。
―――だけど、忘れる訳にはいかないんだ。
俯いたまま、阿僧祇の腕を掴む遺の手が微かに震えた。そう、忘れることなんてできない・・遺が自分自身に言い聞かせる如くもう一度胸中で繰り返す。湖で那由他に言った答え――あれは紛れも無く遺の本心だった。野望を打ち砕かれ放心しきった狗門の顔、蹲る父を心配する子ども、痛みと後悔に涙を流すニット帽の男、放課後他愛ない話をして盛り上がった級友の屈託ない笑顔。誰一人、心の髄まで悪に染まっていたわけではなかった。ただ、悪を行うように仕向けた原因があっただけ。それさえなかったら、こんな惨事も起こらなかった。
・・・そしてまた裏を返せば、いつ同じようなことが起きるかもわからない。遺の脳裏に、団欒する家族の笑顔が浮かぶ。全てを忘れ、家族のもとへ帰ることもできる。でも、そうすれば誰が“悪”から家族を、友人を、大切な人を守るのだろう?この数ヶ月のことを知ってしまった上で、何もかも忘れることなんてできるだろうか?
俯く遺がふっ、と笑い、小さく首を振った。もうこんな哀しいこと起こしたくない―。
―――だからわたしには、できない。
皆と一緒に笑えなくても、皆の笑顔を守ってみせるから。それが、遺の出した結論だった。
「色々・・優しくしてくれてありがとう。でもわたし、このままがいいの」
顔を上げ微笑んでそう答えると、遺の決意を知ってか阿僧祇は素直に頷いた。阿僧祇の手の平から羊皮紙が光に包まれ消えていく。追われるように飛び立った文字達を見上げて思わず感嘆の声を漏らす遺の前で、那由他が懐から古びた鍵を一つ取り出した。
「――“隠れ場所”の鍵だ。“ここ”はこの鍵を持つ者と、そいつが心を許した者の前にしか現れない。住みたかったら住めばいいし、時々休みにくるだけでもいい。好きに使いな」
鍵を差し出す那由他から受け取ると、遺はそれをセーラー服の胸ポケットに仕舞った。
遺が鍵を仕舞うことを確認した那由他はもう一度遺に笑いかけると、居間から玄関に歩いていって片手をポケットに突っ込んだまま手を振った。
「んじゃ、これでサヨナラだ。元気でな」
「ばいばい遺」
「さよなら」
那由他に続いて阿僧祇と恒河沙が別れを告げ、玄関の扉が開いた。朝の眩しい光が三人の顔を逆光にする。はっとした遺が走って扉まで行くと、三人は扉を開けて外に立っていた。
「待って!」
遺の声に三人がそれぞればらばらに振り返る。閉まりかけた扉を手で押さえると、遺は一つだけ尋ねた。
「また―――いつか会えるかな・・」
朝日に照らされる三人に一縷の希望を賭けて遺が尋ねた。那由他と阿僧祇が驚いて目を円くし、小鳥の鳴き声が空を駆け抜けていく。
「――きっと無理だろうね」
暫しの静寂の後、恒河沙が冷たい眼をしてそう呟いた。嘘でもいいから肯定して欲しかった遺は残念そうに顔を曇らせたが、胸ポケットに仕舞った“隠れ場所”の鍵を握ると最上の笑顔で三人に、最後の言葉を送った。
「わたし、みんなと居て楽しかった!たとえ本当の名前じゃなくても、みんなの名前を呼べて・・嬉しかった!助けてくれたこと、絶対忘れないよ!ありがとう、それから―――」
最後の一言に笑顔がほんの僅かだけ崩れ、泣き笑いの笑顔で遺は呟いた。
「―――さよなら」
握り締めた遺の小さな拳に、透明な液体が一粒落ちた。
数える程の星が空に輝く薄暗い夜に、壊れそうな木造の掘建て小屋が人知れず建っていた。誰も居ない“隠れ場所”の静まり返った台所には一人分の食器が伏せてあり、暗い居間のソファには誰も座っていない。
唯奥の部屋の扉の穴から漏れてくる光だけが、この部屋の明かりだった。
かつては阿僧祇と恒河沙が遺の身体を造っていた奥の部屋から、微かに紙が擦れる音が聞こえてくる。ボールペンの頭をノックする音が聞こえ、紙の上にペンを走らせる音が聞こえてきた。橙色のテーブルランプの下で、遺が分厚いノートに日記を書いていた。
『・・・わたしが顔を上げると、いつのまにかみんな居なくなっていた。恒河沙達が積んでいた段ボール箱もみんなと一緒に何処かへ行っちゃったみたいで、居間に残った一つを残して全ての段ボール箱が“隠れ場所”から消えていた。何も無い居間を見てその後つい泣いちゃったけど、今はもう大分慣れてきた。
あれから、街でどんなに探しても那由他や阿僧祇、それに恒河沙に合うことは一度も無かったな。そんなところに居るはずないって分かってるけど、今でも人ごみに目を走らせてることがある。もしかしたら、またいつか会えると思って・・・。
“隠れ場所”に住んでいたら色々なことがあったけど、一番驚いたのは前の道に人が倒れてたとき。那由他は『鍵を持つ者と、そいつが心を許した者』しか“隠れ場所”に近寄れないみたいなこと言ってたし――会ったこともない人がどうしてそこに倒れてたのか本当に不思議。でももっと不思議なのは、その人が那由他達のことを知ってたこと。
文字通り、っていうのかな、あの湖の水みたいに透き通った水色の髪をした綺麗な人で、ふとしたキッカケで那由他のことを話したらぽろぽろ泣いてた。・・・その人とも色々あったけど―――――またそれは別の話。』
再びボールペンの頭をノックする音が聞こえ、遺は木机にボールペンを置いた。愛しむように日記の表面を撫でると、遺は日記を閉じてテーブルランプの明かりを消した。
居間に漏れていた光が消え、“隠れ場所”は静かな夜闇に包まれた。