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 騙されていたんだ。


 ニット帽の男に会ったことを少しでも早く那由他達に告げようと、遺は息を切らして“隠れ場所”目指して走っていた。もうぼろぼろの外壁が見える程走ってきた遺の目に、“隠れ場所”の前で何かをしている黒尽くめの人が映った。

―――さっきの男?

 顎を上げて走りながら遺はそう思ったが、その考えはすぐに否定された。“隠れ場所”の前に居たのは以前歓楽街で那由他と戦った“悪討ち”、佐波だった。佐波は遺が走ってくることに気付くと素早く駆け出し、瞬く間に見えなくなった。

「違ったのか―――でもあの人、“悪討ち”だよね・・」

 走りながら佐波の去った方向を眺めていた遺は息を整えようと、“隠れ場所”から50mのところで速度を落とし、ゆっくりと崩れ落ちそうな玄関に近寄った。

 “隠れ場所”のぼろぼろの玄関手前に、見覚えのあるコルクで栓をされた灰色の瓶が一つ置いてあった。

「これは・・・!」

 早速拾い上げコルク栓を抜くと、中に二枚の羊皮紙が入っていた。狗門らしい神経質そうな細長い字が赤紫のインクで羊皮紙に刻まれている。


『先日遺さんがお話して下さった那由他さんに、私の知り合いの医師が会いたいそうです。

 同封の紙に書いた電話番号にご一報下されば何時でも面会出来るそうです。

 彼の名前と勤務先の病院所在地ももう一枚の紙に書いておきました。

 会っていただければ幸いです。

                                   狗門  』


 “悪討ち”としての任務要請かと心配した遺はそうでないと知って安心したが、狗門のしつこさとニット帽の男についての嘘にきな臭いものを感じ、もう一枚の羊皮紙に書かれた文字を読んで固まった。


 縞帯 経  F総合病院〈M町四〇‐二〉

       〇九〇‐××××‐××××


 自分の複製の死亡確認を行った医師が狗門の知人だったとは―――。那由他が言った通り、この医師が組織に関わって裏で何か行っているのは間違いなさそうだった。

 全てを読み終えてふとニット帽の男のことを思い出した遺は急いで羊皮紙を瓶の中に詰め直すと、“隠れ場所”の玄関扉を押し開けた。


 光の柱が幾本も降り注ぐ居間に、那由他と恒河沙が居た。

「おう、遺。今恒河沙から遺が組織に行ってきた様子を聞いてたんだ」

 一人掛けソファに寛いで座っていた那由他が陽気に手を振って扉を後ろ手に閉める遺に声を掛けた。恒河沙はひんやりとした蒼い眼を細めて横目で遺を一瞥すると、机に置いてあった自分専用カップを手に取り得体の知れない熱い液体を啜った。

「聞けばおまえさんとこの上司はオレに会いたいみたいだな。狗門とか言ったっけ」

「それは遺が断ったって言ったでしょ」

 愉快そうにソファから身を乗り出して遺に話しかける那由他に恒河沙がカップを見詰める顔に皺を寄せて低い声で説明を繰り返した。

「―――うん。どうしても那由他に会いたいみたい。今もこんなものが届いてた」

 遺が灰色の瓶を差し出し、受け取った那由他が小気味良い音を立ててコルク栓を抜き中身の文書を読んだ。読み終えた那由他は全く平然とした表情で恒河沙に手紙を見せる。

「読む?」

「いいよ。大体見当ついてるから」

「そうかぁー」

 と那由他が少々残念そうに言って羊皮紙を瓶の中に戻した。丁寧にコルク栓を閉めると机の上に音を立てないようそっと置く。那由他の反応を見ようと構えていた遺は肩透かしを食らった気持ちで恒河沙の向かいの一人掛けソファに座った。

「それと、さっき黒尽くめのニット帽の男の人に会ったんだ」

「オカルトマニアか?」

「違うよ。遺を殺した張本人でしょ」

 ああそういえば、と那由他が両手を叩いて合点した。

「で、どうしたんだよ。また殺されそうになったのか」

「ううん。なんだかすごく怯えててわたしを見たら逃げちゃった。でもそれより不思議なのは、何故あのニット帽の男の人が生きてるのかってこと。狗門さんからは死んだって聞かされてたし、わたしを殺した時のあの人の症状が、那由他達に助けてもらう前のわたしのと一緒だったから―――どこかで死んだとばかり思ってたんだけど・・・」

 次第に言葉の勢いを失って小声になっていく遺の前で那由他と恒河沙が顔を見合わせる。

「気になるな――調べといてくれ恒河沙」

「わかった」

 話を聞いて腕を組む那由他に恒河沙が頷いた。那由他は灰色の瓶を机から取って手で弄びながら遺に言う。

「オレは早速電話してこの縞帯って医者に会おうと思う。仲介役として付いてきてくれるか?」

「うん」

 元から付いていこうと考えていた遺が頷くと、那由他は瓶を片手に持って恒河沙に真面目な顔を向ける。

「何かあったら知らせてくれ」

「何も起こらないことを祈るよ」

 恒河沙が応え、那由他は瓶を持ったままソファから立ち上がると電話を掛けるために二階へ昇った。右から二番目の、阿僧祇の隣の部屋に入ると、微かに電話のプッシュ音が聞こえた。呼び出し音の後医師が電話に出ると那由他は部屋の扉を閉めた。

 閉めた薄い扉の向こうから二言三言言葉を交わす那由他の声が聞こえたが、内容は聞き取れなかった。受話器を置く音が聞こえ、ぱたぱたという物音の後に那由他が扉を開けて出て来た。

「奴さん病院で待ってるとよ」

 そう吹き抜けの上から言った那由他はいつもの黒いカットソーと皮パンツではなく、上下とも黒革の鎖がついた開襟タンクトップとショートパンツで、左手には指なしの短い黒革の手袋を、右手には甲に二本金属爪のついた肘下半分まである同じく黒革の手袋を嵌めていた。

 吹き抜けの手すりから身を乗り出す那由他の突飛な服装を見て、遺は眼を丸くする。

「な―――もしかしてその格好で病院行くの?」

 開いた口が塞がらない遺を見てにやりと笑うと那由他は軽々と手すりを飛び越え一階の床に膝を上手く使って音も無く着地した。

「おうよ。あ、でも大丈夫だって。縞帯以外には姿が見えないようにしとくから」

「でもその格好は目立ちすぎるよ。―――?」

 奇妙な服を着替えさせようと提言した遺の目の前から、立ち上がった那由他が忽然と姿を消した。困惑して辺りを見回す遺の耳に那由他の笑い声が聞こえてくる。

「これでも目立つか遺?」

 得意そうな姿の見えない那由他の声に遺は目を丸くしたまま何度も頷いた。眼球の乾きに耐えられなくたって瞬きをした途端、前髪が触れる程近くに那由他が現れた。

「病院じゃ縞帯以外の奴はオレと遺が摩り替わってても気付きようがないさ。縞帯のところまでオレの振りして連れてってくれ」

「は、はいっ」

 不可思議な現象を前に大量の疑問符を頭上に飛ばしながらも遺は反射的に応えた。


「佐々木様ですね。すぐ縞帯先生に取り次ぎます」

 総合病院の消毒臭い正面玄関で受付に用事を告げると、目尻の下がった優しそうな受付嬢がてきぱきと取次ぎの内線を掛けた。

「ねぇ那由他・・・わたし名前なんて言ってないけど・・・」

「他の人が聞いても怪しまれないようにだろ。那由他なんて名前聞いたら耳に残るだろ」

 取次ぎを待つ間小声で隣に居るはずの那由他に話しかけると、那由他も遺に囁き返してきた。受付嬢が静かに受話器を置いて遺の方へ戻ってくる。

「あんまり話しかけるなよ」

 帰ってくる受付嬢に聞こえないよう、那由他が耳元で囁き遺は緊張した面持ちで小さく頷いた。受付嬢は狗門を思い出させる業務スマイルを顔に貼り付けて白い手袋を嵌めた手で奥のエレベータを指した。

「先生のお部屋までご案内致します」

 言われた通りエレベータ前まで行くと、受付嬢が会釈し遺の前を進みエレベータのボタンを押した。汚れ一つ無い磨き上げられた白い扉が開き、遺は受付嬢と共にエレベータの中に乗り込んだ。

 姿の見えない那由他がちゃんと付いてきているか心配で遺は操作ボタンの前に立つ受付嬢の背後で白一色のエレベータの中に目を走らせた。

 不安そうに眉を寄せ落ち着かない遺の肩を見えない那由他の手が叩く。操作ボタンの前に優雅に立っている受付嬢には見えないように、遺の前に文字が書かれたカードが現れた。

『隣にいるから心配すんな』

 肩を強張らせたまま遺がぎこちなく頷くと、カードは空中から消えた。ふと気配を感じて足元を見ると、黒いサポーターを巻いた那由他の裸足が見えた。

 ほんの一部でも那由他を見ることが出来少し安心した遺は小さくほっと息をついた。

「着きました」

 『開』ボタンを押したままの受付嬢に促され、遺はエレベータから塵一つ無い真白な廊下に一歩踏み出した。その後ろから受付嬢がエレベータから降り、白い扉が機械音を立てて閉まる。一本しかない廊下の角で固まっている遺を追い越し受付嬢が満面の営業スマイルを浮かべて案内する。

「こちらが縞帯先生のお部屋です」

 受付嬢は分厚い白亜の扉を白い手袋を嵌めた手で二回ノックした。

「佐々木様をお連れ致しました」

 中からの返事は無く、受付嬢は笑顔のまま礼をすると来た道を歩き出し白い廊下の角を曲がって見えなくなった。受付嬢を眼で見送る遺の隣に那由他が現れる。

「ありがとな。六十秒数えたら先に降りててくれ」

「うん」

 素直に頷いて一歩下がり、遺は扉の前を那由他に譲った。那由他は珍しく硬い表情で扉に手を掛ける。興味深そうに覗き込む遺の隣で一瞬だけ躊躇すると、那由他は決心して扉を開いた。


 白光の中逆光になった男が真白な部屋の窓の側で外を向いて立っていた。日の光の眩しさに那由他は革手袋を嵌めた手を額の上に翳した。

「やぁ、貴女が那由他さんですか」

 窓辺で景色を見ていた男が笑顔で振り向いた。那由他の奇抜な服装を見て男は少し驚いたが、すぐにっこりと微笑み直した。扉を離れて近寄る那由他に向かって肉付きの良い右手を差し出す。

「縞帯 経と申します」

 機嫌よく差し出された縞帯の手を那由他が緩く握り、その手を一瞥した。儀礼の握手を終えた二人は窓辺と扉の側へと戻っていく。

「あなたのお話は狗門さんから伺いました。本物のヒソカ ユイさんを助けて頂いたそうで―――とても感謝していると狗門さんが言っていましたよ」

 世間話でもするように毒気の抜けた声で縞帯は言い、人の良さそうな顔の目尻にきゅっと皺を寄せた。歳は四十代後半程だ。白いカッターシャツに白いズボンの上から糊の効いた白衣を着て、白髪交じりの髪はしっかりとワックスで固めてある。

「狗門さんとはお会い出来ないと伺いましたので、代わりにわたしがお話しようと思ったのですが・・・まさかこんなに早く会っていただけるとは思っていませんでしたよ」

「会えないって言ったのは遺の方だ。オレはあんたでも狗門でも構わん」

 本題を避けるように遠まわしな挨拶をする縞帯に那由他は言い切った。固く腕を組んで仁王立ちになると那由他は縞帯を鋭い暗茶の瞳で見据える。

「オレと会って話したいことって何だ?」

 単刀直入に訊いてくる那由他に縞帯は漆黒の眼を細め口元に老獪な笑みを浮かべた。

「随分率直にものを言うお方ですね。では言わせて頂きましょう。わたしと狗門さんが知りたいのは、貴女がどのようにして彼女の身体を元に戻したかということです」

「戻したんじゃなくて元と同じものを新しく造ったんだ」

 縞帯の言葉に訂正を入れてから那由他は双眸を細めた。窓から燦然と差し込む日の光で逆光になった縞帯を睨むようにして那由他が口を開く。

「オレも一つあんたに訊きたい事がある」

「何でしょうか?」

 脅すように低い声の那由他に動じず余裕に満ちた顔で縞帯が訊き帰した。那由他は縞帯を品定めするように睨めつける。

「あんたらは“悪討ち”を使って何をしようとしてるんだ?」

 那由他の質問に、縞帯はほほ・・と声を出して笑った。壁半分を占める窓に手を伸ばし、全開になっていたブラインドを閉じる。目が開けられない程眩しかった部屋は電気も点けられず一気に薄暗くなった。

「遺さんからも聞きましたでしょう、世界の悪を滅することが目的ですよ」

「きれい事を言うな」

 那由他の刺すような言葉に縞帯の笑いの仮面に小さく皹が入った。狡猾そうな漆黒の眼を那由他に向けると、縞帯は白を切った。

「本当ですよ。そのために“悪討ち”の方に協力してもらう、悪人は複製を造って善人に替える」

「確かにあんたら組織の中には本当に悪を滅するために“悪討ち”を使ってる奴がいるかも知れん。だけどな縞帯先生、オレにはあんたが何かの利益のためにこの組織に関わってるとしか思えんぜ」

 那由他に鋭いことを言われ暗がりで開ききっていた縞帯の瞳孔が縮んだか、縞帯は素知らぬ顔で聞こえなかったように答えなかった。

「―――先生さんよ」

 那由他が低い声で唸り、誤魔化そうとしていた縞帯は笑って溜息を吐くと笑顔のまま冷酷な眼を那由他に向けた。

「やれやれ――その通りですよ。もう既に那由他さんはお察しでしょう・・・わたしの職業と“悪討ち”達を造るための技術の関係を」

 若い医師はそう言ってすぐ隣にある純白の牛革で出来た椅子の肘掛を愛おしむように撫でると那由他に笑いかけた。

「臓器売買ですよ。腎臓も肝臓も、果ては生きたままの動いている心臓だって手に入る秘密のルートを持っていたからこそ、無派閥のわたしが総合病院でここまで昇ってこられたのですよ」

 確信犯の告白に嫌悪の眼差しを送る那由他に、縞帯は口の端を吊り上げて暖かさのカケラも無い冷酷無慈悲な笑顔を浮かべた。

「もちろん、移植してすぐに使えなくなっては困りますからね――せめて余命より長持ちする身体を造れるようにこちらも本物の身体の一部を幾つか提供してきました。この病院では検死を任されているのはわたしだけですし、上手く繋いでおけば偽物でも死体に関係はありませんからね」

 縞帯は椅子の肘掛から手を伸ばして香木の飾り板のついた、事務机の抽斗を開けて分厚い書類を取り出した。

「もちろんこんなことがばれたらわたしは即刻解雇、いえ逮捕されてしまいます。狗門さんも組織のことを世間に知らせたくなかったので裏から色々と手を回して下さって、複製された悪人や“悪討ち”の死体は全てわたしの元へ送られてきて検死されました。勿論、本物の人間として、ね」

 不正に満ちた話を、顔を顰め聞いている那由他の前で縞帯は抽斗から革製の白い筆入れを取り出した。

「狗門さんの技術はとても高いものです。指定された薬さえ飲んでいれば二年は臓器がもちますから、下手をすると新薬なんかよりずっと長生きできますよ。しかしそれでも、本物の臓器にはとても及ばない」

 書類と筆入れを取り出した縞帯が抽斗を閉めかけて、試すような眼で那由他を見た。

「那由他さん、あなたの技術をわたしたちに教えて頂けませんか?わたしの元には、命が助かるなら一億でも二億でも金を積む患者の名簿が沢山あります。利益の七割は貴女のものですよ」

「悪いが――苦しんでる患者から金を巻き上げる手助けは出来ない」

 目の前に立つ上面だけの良心を持った医者に、那由他は吐き捨てるように言った。縞帯は微笑んでそれを聞いていた。

「そうですか。それでは―――」

 閉めかけていた抽斗の中から肉付きの良い手と共に銀色の銃が出てきて、那由他の左胸に銃口が向けられた。

「死んで下さい」

 声と同時に最初の銃声が響き、銃弾が那由他の胸を貫通した。

「くはっ」

 撃たれた反動で仰け反る那由他に縞帯は残りの五発の銃弾を確実に当てていった。その傷口から噴出した鮮血が真白な部屋中に紅い斑点を作り、那由他は血溜りの中で動かなくなった。

「今話したことを人に話されると困るのでね―――貴女の身体は狗門のところへ送って大事な実験材料にさせてもらうよ」

 返り血を全身に浴びた縞帯がえげつなく笑い、白い革靴の先で那由他の脇腹を突いた。


 六十秒数えた後、那由他と縞帯の会話が聞きたくて遺はなるべく遅く歩き出した。廊下を半分程行ったところで、縞帯の部屋から破裂音が聞こえた。

―――何の音?

 遺が訝しんで振り返ると続けて五回同じ音が聞こえ、次いで何か大きなものが倒れる音がした。先程の音が発砲音だと気付いた遺は慌てて部屋の前に駆け戻り、息を殺して部屋の中の音を聞こうと白亜の扉に耳を押し付けた。

 数分待ってみたが、何も聞こえてこなかった。

 全く無音の状態に遺は激しい胸騒ぎを覚え、今すぐ扉を開けて那由他の安否を確かめたいという衝動に駆られた。

 危険を冒すことを承知で欲求に耐えられなくなり扉に手を掛けると、白亜の扉が開いて那由他が部屋から出て来た。

「よぉ、まだ居たんだ」

 無傷で元気そうに出て来た那由他は心配そうに見詰めてくる遺を見て意外そうな顔をしたが、嫌がりもせず遺の肩を軽く叩いた。

「遺のお陰で一気に核心に辿り着いたぜ。ありがとな」

「う、うん・・・」

 いつものように元気でいる那由他に遺はさっきの発砲音が何だったのか尋ねたかったが、那由他は遺を置いてすたすたとエレベータの方へ歩いて行ってしまった。

―――撃たれたのは縞帯の方かも・・・。

 そう思った遺は白亜の扉をそっと開けて中を覗いてみた。ブラインドが全開になって眩しい白光が満ちた白一色の部屋には何処にも人影は無かった。

 奇妙な事に首を傾げながらも遺は那由他の待つエレベータに向かった。

 『開』ボタンを押して待っていた那由他は遺を見ると頷いて姿を消し、遺がエレベータに乗り込むと扉が閉まった。

 那由他が待っていたエレベータの中には、僅かに血の匂いが漂っていた。

 





200 lux


 縞帯の居る総合病院から帰って来た那由他と遺は“隠れ場所”近くの車の来ない交差点で信号待ちをしていた。人気の少ない道路に来てから、那由他は姿を現した。

 謎の発砲音と消えた医師のことを考えていた遺は今が幸いとアスファルトを見詰めていた目を上げて那由他に尋ねようと顔を横に向けた。

 那由他は消えていた。

「あれ?那由他どこに行ったの」

 触れば解るだろうと手を伸ばして適当に空を掴んで見るが何も手応えは無かった。見ると信号が何時の間にか青になっていた。

「先行っちゃったのかな・・・」

 そう呟いて開けた前方を見るが人影すら無い。仕方なく遺は真直ぐ進んで一人で“隠れ場所”に帰った。


「ただい―――あ、那由他」

「おー、おかえりィー」

 “隠れ場所”の穴だらけの玄関扉を開けると那由他と恒河沙が居間でソファに座って寛いでいた。その様子に遺は薄紅色の唇と尖らせて那由他に文句を言った。

「もー那由他先に帰るなら言ってくれればいいのに」

「それオレに言ってんの?」

 那由他がソファの肘掛にだらしなく寄り掛かり遺に向かって見当違いだという顔をした。

「そーだよっ!他に誰がいるのさ」

「那由他はずっとここに居たよ」

 恒河沙が空になった那由他のカップにポットから熱湯を注ぎ足し粉末ココアを入れてかき混ぜながら冷静な声で遺に言った。ほぼ寝そべっていると言っていい格好でソファの上から手だけ伸ばして恒河沙からカップを受け取り、ココアを啜る那由他を遺が円い目で見詰める。

「そ、そしたらわたしと一緒に病院に行ったのは誰・・・?」

 空恐ろしくなって蒼くなる遺の質問に、二人とも黙って答えない。恒河沙は答える必要が無いとただ黙殺しているようだが、那由他は明らかに説明するのが面倒臭いといった表情をしていた。

「あ、遺。おかえり」

 扉を軋ませ自分の部屋から出て来た阿僧祇が二階から降りてきて蒼ざめた遺にのほほんとした声を掛ける。

「どうしたの?顔色悪いよ」

「一緒に病院へ行ったはずの那由他がここでボクとお茶してたから驚いてるんだよ」

 小首を傾げる阿僧祇に、恒河沙が謎の熱い液体を優雅に啜って硬直している遺の代わりに状況説明する。阿僧祇は口を開けたまま大きく頷いて納得した。

「あー、そういうことか」

 そして顔面蒼白になった遺の顔を覗き込んで安心させるように言った。

「ほら、前にも言ったよね?那由他は一人とは限らないって」

「那由他って沢山居るの―――?」

 意味深な阿僧祇の話に混乱する遺から出た突飛な発言に一人掛けソファで寝転んでいた那由他が苦笑する。

「そんなことありえんだろ」

「いいねーそしたらボクも一人わけて欲しいな」

 どこまで本気でどこまで冗談か分からない言葉を阿僧祇がへらへら笑いながら言う。

「そのふざけた口を閉じられないなら縫ってあげるよ」

 自分専用カップから顔を上げ鼻に皺を寄せた恒河沙が殺意の視線で笑っていた阿僧祇を黙らせる。阿僧祇はつまらなさそうに肩を竦めると人差し指で那由他の肩をつついた。

「―――んぁ?」

「那由他、ちょっと・・・」

 真顔に戻った阿僧祇が那由他に目で合図をし、油断して弛みきっていた那由他の顔が引き締まった。寝そべっていたソファから起き上がりカップを机に置くと那由他は恒河沙に一言理を入れた。

「恒河沙、ちょっと上で阿僧祇と話してくるぜ」

「どうぞお構いなく。遺の話でも聴いてるよ」

 恒河沙にしては快い返事に、那由他と阿僧祇は階段を昇って二階へ行ってしまった。まだ混乱の渦中に居る遺は頭が煮詰まる程那由他が同時に二人存在した謎について考えている。その様子を眺めていた恒河沙は遺の思考を一旦休めようとソファから立ち上がり遺の眼前で指を鳴らした。

「ほわっ」

「病院で何か変わったことはあった?」

 慌てふためく遺に冷静沈着な態度で恒河沙が訊く。再び席に着く恒河沙につられてソファに座ると、遺はあの奇妙な出来事を思い出し恒河沙にぶちまけた。

「そうそれ!すごく変なんだよ那由他も縞帯さんも!縞帯さんの部屋で二人で話すから六十秒経ったら先に帰れって言われたからそうしたんだけどさ、六十秒経って廊下を戻ってたらいきなり銃声がして」

「銃声?」

 人の命を助ける病院ではまず聞きそうにもない種類の音に恒河沙は怪訝な顔をした。恒河沙の問い質しに遺は音がするほど激しく頷く。

「そうそう!信じられないよね?わたし那由他が撃たれたのかと思って走って戻ったんだ。でも何の物音もしなくって・・・不安になってドアを開けようとしたら那由他が平気な顔で部屋から出てくるんだもん。じゃ、縞帯さんが撃たれたんだと思って部屋の中を見たら誰も居ないでしょ。あの部屋にドアは一つしか無かったし、廊下も一本しか無かったのに縞帯さんは何処かに消えちゃったんだ」

 一方的に捲し立てる遺の話を少々圧倒されて聴いていた恒河沙が話し終えた遺に気だるそうな顔で訊いた。

「銃声は何回聞こえたの」

「六回。あ、それとね、エレベータが行きは何の匂いもしなかったのに、帰りはちょっと血の匂いがしてたよ」

「・・・ふーん」

 必死に思い出して話す遺の前で恒河沙が興味の無さそうな声を出して、右手人差し指に嵌めた銀の指輪をくるくる回した。

 訊くだけ訊いて何も答えてくれない恒河沙に遺が不満げに詰め寄る。

「ねぇねぇねぇ、いったいどういうことなの?那由他は本当は何人居るの?なんで病院で銃声が聞こえて、どうして縞帯さんは密室から消えちゃったの」

「・・・少しは自分で考えたら」

 無愛想な冷めた声で恒河沙が言い、向かいのソファから身を乗り出して迫ってくる遺の顔を手で押しのけた。つれない恒河沙に遺は頬を膨らませるとソファに体重を掛けて座り込んだ。

「わかんないから訊いてるんじゃん」

 ソファの糸くずを千切りながらいじける遺を完全無視して恒河沙はカップに入った謎の熱い液体を啜る。遺は目の前にある那由他のココアが入ったカップを見て、恒河沙に甘えた声を出した。

「わたしもココア飲みたいな」

「注げば」

 冷淡に言い放つ恒河沙に遺は唇を尖らせる。

「那由他には言わなくても注いでたじゃんか」

「那由他は那由他、キミはキミ」

 言い返す余地を全く与えない恒河沙の反論に遺はまた上気した頬を膨らませた。恒河沙は最後の一口を飲み終えると、再び空になっている那由他のカップにポットから熱湯を注ぎ足し粉末ココアを小さじ三杯半入れてムラにならないようかき混ぜた。ソファから立ち上がり空になった自分専用カップを台所に持って行きそれを洗うと、恒河沙は冷蔵庫の中からチョコレートを運んできて一欠けら那由他のカップに入れ、丹念に混ぜ合わせた。

 甲斐甲斐しくココアの入った那由他のカップの世話をする恒河沙を遺は心底面白くないという眼で眺める。

 二階の扉が開く音がして、那由他と阿僧祇が部屋から出て来た。階段を下りてくる二人を遺と恒河沙が見上げる。

「お!サンキュー恒河沙」

 机の前までやってきた那由他が湯気を立てるココア入りカップを持ち上げ美味しそうに飲む。恒河沙は黙々とポットの中に水を注ぎ足して二袋目の粉末ココアの封を開け、那由他の次の襲撃に備えていた。

 カップの中のココアを飲み干すと那由他が遺と阿僧祇に言った。

「ちょっと恒河沙と二人で話したいから、外で時間潰しててくれや」

「はーい」

 遺が口答えするよりも先に阿僧祇が元気よく手を挙げて返事をし、遺の腕を掴んで外へ引き摺り出した。

「阿僧祇放してよっ」

 恒河沙との遣り取りで機嫌が悪かった遺が身体を捩って阿僧祇の手から腕を抜こうとする。言葉通り阿僧祇が手を放したので、遺は本日二度目のアスファルト激突をした。

「痛――――っ」

「ごめんごめん」

 涙ながらに擦り剥けた鼻頭を手で押さえて立ち上がると、阿僧祇がその手を退けて遺の鼻を両手でそっと包んだ。ひりひりする痛みが引いてゆき、何時の間にか皮の剥けた鼻頭は元に戻っていた。

「うわ、凄い」

「隠し事は無しって約束したからね。こういうこと出来ると便利でしょ?」

 遺の鼻から手を放した阿僧祇が優しく微笑んで両手を広げて見せた。遺の機嫌が少し直ったのを見て、駅の方角を指し提案する。

「あっちに商店街見つけたんだ。ちょっと行ってみない?」

 絶対に一寸とは言えない距離を軽い足取りで歩き出そうとする阿僧祇を遺は後ろから抱きとめた。

「や、やめよーよ往復一時間は掛かるの知ってるから」

 そう言って頑なに首を横に振る遺を阿僧祇の茶目っ気ある円い瞳がからかうように見た。

「歩いたらだよね」

「歩く以外にどうするのさ――ここバス通ってないし」

 遠くの商店街に行くのを渋ってぐずる遺に阿僧祇は明るい満面の笑みを浮かべた。中華風の赤い上着から二枚の黄ばんだ紙切れを取り出しその一枚を遺に渡す。

「はいどうぞ。商店街への直通切符」

「これのどこが―――?」

 黄ばんだ紙を広げると、墨汁と筆で描かれた小さな円陣と簡単な幾何学図形が黒く光っていた。遺の脳裏に火葬場の駐車場に白いチョークで描かれた円陣が甦った。

 黄ばんだ紙を持って目を円くする遺を見て、阿僧祇はこの上なく楽しそうに笑い小さな錆びた鉄筆を取り出した。

「それじゃ行くよ―――」

 阿僧祇が素早く遺と自分の持つ紙切れに描かれた円の中心を鉄筆で叩いた。

 遺の周囲を眩しい白光が包み込んだ。


 気がつくと、遺は古びたマンホールの上に立っていた。少し離れた所阿僧祇も円い象牙色のタイルの上に乗っている。足元のマンホールをよく見ると、小さく阿僧祇の移動陣が描いてあった。

「はい、着いたよ。速いでしょ?」

 タイルから降りた阿僧祇が笑って、マンホールの前にある植木を手で分けて向こう側の景色を遺に見せた。確かに、遺がよく知る商店街だった。

 呆気に取られる遺の背中を押して阿僧祇は遺を通りへと出す。夢心地の遺と興味津々な阿僧祇は賑やかな商店街の中へ入った。信じられない光景に目を疑いながらも遺はふらふらと近くに建つ魚屋に寄っていく。

「へいらっしゃい!今日はハマチが安いよ!」

 黒いゴムエプロンを着た魚屋の店主の、威勢の良い呼び声を聞いて遺は我に返った。

「凄い――凄すぎるよ阿僧祇!」

 瞬間移動に感動して振り向くと阿僧祇はそこに居なかった。あの信号待ちしていた那由他の時のように忽然と消えてしまったのかと辺りを探すと、阿僧祇は花屋の前で花を眺めていた。それに気がついて寄ってきた店員に阿僧祇が注文する。

「ファントムありますか」

 後ろから足音を忍ばせ近付くと、阿僧祇と店員の遣り取りが聞こえてきた。店員が何か言って、阿僧祇はポケットから雷紋のついた財布を取り出し、そこから札束を出して店員に渡した。

「あ?ちょっと阿僧祇!」

 一瞬思考回路が停止した遺は花屋に札束を渡した阿僧祇の腕を掴み店の前から引っ張り出した。

「そんなに払って何買うのっ?」

 花に札束を払う阿僧祇がぼられてやしないかと心配する遺に阿僧祇は悠長な顔で答えた。

「薔薇を買ったんだ。那由他が喜ぶんだよね、特に赤い薔薇は」

「はぁ・・・」

 薔薇を買うために大枚はたいて平然としている阿僧祇に遺は唯驚嘆するだけだった。店員が綺麗に包装し花束となった赤い薔薇を持ってきて、阿僧祇にそれを渡した。

 花屋を後にした二人は行き当たりばったりで商店街のあちこちの店を探索した。阿僧祇は薔薇だけの花束を見て恍惚としている。赤い薔薇を目で愛でると阿僧祇は呟いた。

「他の赤い薔薇でも喜んでくれるんだけど一番はファントムなんだよね」

 大量の薔薇を抱えて嬉しそうに笑う阿僧祇に未だ機嫌の直りきっていない遺は思ったままのことを言ってみた。

「それって阿僧祇の自己満足なんじゃないかな・・・」

「そんなことないよ」

「・・・じゃ帰って那由他に渡してみてよ。わたし見てるから」

 阿僧祇は童顔にまだ商店街で遊びたいという表情を浮かべたが、不平も言わず近くのビルの隙間に入り古びた紙切れと鉄筆を取り出した。遺にも行きと違う模様の描かれた紙を渡すと、阿僧祇は鉄筆で紙に描かれた円の中心を突き二人は再び白い光に包まれた。


 “隠れ場所”に阿僧祇の移動陣で戻ってきた遺は玄関扉を開けてまだ那由他と恒河沙が話しているか隙間から覗いた。

 話し合いはもう終わったらしく、居間には恒河沙の姿は無い。一人掛けソファに座った那由他が机の上に尺取虫のように指を這わせて一人遊びしているのが見えた。遺は扉を開けて“隠れ場所”の中に入ると那由他に挨拶する。

「ただいま」

「おかえりィー。阿僧祇は?」

 那由他の気の抜けた声に阿僧祇が玄関扉の後ろから身体半分だけこちらに現れた。阿僧祇の不可思議な行動に那由他が遊びを止めて首を傾げ、阿僧祇は微笑んで隠していた薔薇の花束を那由他に差し出した。

「ファントムだよ」

「―――!」

 昼下がりの眠気から半分閉じかけていた暗茶の目が見開かれ、那由他の顔が嬉しさに綻んだ。花束を差し出す阿僧祇からそれを受け取ると那由他はうっとりと薔薇の花一つひとつを愛でた。

「阿僧祇ありがとー!」

 花束を片手に持ったまま阿僧祇に抱きついて礼を言う那由他を離れて見ていた遺が思う。

―――確かに自己満足じゃないな。

 歓喜に上気した那由他の薔薇を見詰める横顔を阿僧祇が幸せそうに眺めている。花束に顔を埋め暫く香りを楽しんでいた那由他は薔薇から顔を上げた。

「部屋に飾ってこよっと」

 楽しげな鼻歌を歌いながら花束を持ち階段を昇っていく那由他の後ろで阿僧祇が得意そうに遺に振り向き、遺は嫌々阿僧祇の主張を認めた。

「本当喜ぶんだね」

 少し拗ねた声で遺がそう言うと、阿僧祇は笑ったまま頷いてそのまま二階の自室へ行ってしまった。

 300 lux


 一人で二人。


 阿僧祇に置いて行かれ居間に一人きりになった遺はあれだけ喜んでいた那由他が薔薇をどうするのか気になり、手すりを撫でながら階段を昇っていった。

―――そういえば、“隠れ場所”の二階に行くのって葬式騒ぎの時以来だな・・。

 まだ殆ど入ったことのない部屋ばかりの二階に、遺の中の冒険心が階段を昇る足取りを軽くする。一階も倉庫に入ったことは無いが、恒河沙の部屋や身体を造ってもらった部屋は何度も見ている。他の二人がいったいどのような生活をしているのか遺はあれこれ想像を巡らせた。

 階段を昇り終えると遺はさっき那由他が入って行った部屋に足を向けた。古い木材を寄せ集めて作った扉は下の階のものと変わり映えしないが、きっと那由他らしい部屋が中にあるのだろうと遺は期待に胸を膨らませ扉を開けた。


 白黒の壁紙が張り巡らされた部屋は、家具調度類も全てが白か黒だった。唯先程阿僧祇が送った薔薇だけが点々と壁に飾られ赤味を添えている。

 扉から顔を入れて遺は首を回したが、扉とは反対向きに大きな黒いソファが一つ置いてあるのに気付いただけで那由他の姿は見つけられなかった。

「また消えちゃったのかな―――?」

 そう小さく呟いて、そっと部屋に入った遺は後ろ手に扉を閉めた。

 途端に、部屋全体を揺るがす程の爆音が鳴り始めた。

「きゃ―――!」

 あまりの大きな音に遺は耳を塞ぎその場にしゃがみこんだ。遺の絹を裂くような悲鳴に気付いたのか、黒いソファの向こう側からリモコンを持った手が伸びてきて音量を下げた。

「な―――ゆたっていつもこんな音楽聴いてるの?」

 音量を下げてもまだ激しく鳴り続ける音楽にくらくらする頭を片手で支えて、遺は黒いソファの上に寝転がる那由他を覗き込んだ。

「―――っ!」

 そこに居たのは、あの夜の黒髪の男だった。

「な、な、なんであなたがここに・・・」

 瞬時に飛び退いて身構える遺を見て黒髪の男が声を上げて笑った。少し低かったが、それは那由他の声によく似ていた。

「おいおい、そんなに驚くなよ。オレだよオレ」

 そう言って片足で床を蹴りソファを回転させてその上に起き上がり胡坐をかく男。驚きが冷めてきた遺は恐る恐る問いかけた。

「もしかして―――那由他なの・・・」

「もしかして?くはははっ」

 男がもう一度乾いた笑い声を上げ、世慣れした顔を遺に向けた。那由他と同じ黒いカットソーの上から骨ばった親指で自分を指す。

「だから言っただろ、オレは一人とは限らないってな」

 そこまで言うと、那由他は先程の遺の驚き方が面白かったらしく、堪えきれずに黒いソファの上を笑い転げた。完全に変わってしまった那由他の外見に衝撃を受けた遺は硬直してソファの前に立ち尽くしている。

 奇怪なものでも見るような遺の視線に気付いて、笑うのを止め胡坐をかき直した那由他は少々気分を害して説明した。

「遺はもう、一人目の恒河沙から聞いたんだろ?恒河沙が二人で一人なら、オレは一人で二人ってことだ」

「つまり一人の人格が二つの身体を支配してるってこと?」

 まるでSFのような話の展開に遺はまた眩暈がしてきた。自信なく問い返された遺の言葉に那由他が笑い出す。

「二つの身体?冗談キツイぜ――。恒河沙は内側が変化する、オレは外側が変化する」

 分かり易く言い直して自分の両頬を引っ張ってみせる那由他に遺は目を大きくする。

「さっきの那由他と今の那由他は同じ身体なのっ?」

「おうよ。ただし恒河沙は自由に入れ替え出来ないけどオレは自分の意思で何時どっちになるか決められるんだぜ」

「どっちになるか決めるって何を基準にしてるの」

「うーん・・・基本的に何か行動を起こすときは大抵男だな。ほら歓楽街で会った時そうじゃん、女一人で歩くのは危ないときとかもそうだ」

「じゃ女のときは」

 自らの都合に合わせて雌雄を自在に変えられる那由他の筋が通っているようで通っていない説明に興味を示す遺が催促する。那由他はソファの上で腕を組み白黒市松模様の天井を見上げると、遺に応えた。

「どっかに潜入するときだな。女のほうが身体小さいし柔らかいから色んなところに隠れられる」

「見つかっちゃったときはどうするの?」

「んー?それがねー使い勝手が良いんだこの身体。ちょっと見てみ」

 と那由他が骨ばった大きな右手を差し出して遺に見せる。その手が遺の見る前で見慣れた小さくて白い女の那由他の手に変化した。遺が目を見張ると、小さな那由他の手が段々と骨ばってゆく。

「こうやって自由に身体の一部も変えられるって寸法さ。腕とそれを動かす筋肉だけ男に変えて相手を気絶させてさっさと逃げるわけ」

 自慢げに歯を剥いて笑う那由他に遺は気になっていたことを訊いて見る。

「外見が変えられるってことは、他の人にもなれるんだ」

「いや・・・やろうと思えば出来るけど、専門外だ」

 大袈裟に顎に手を遣って久しぶりに『考えるポーズ』を取った那由他が勿体つけて言った。遺は以前にも聞いたことのある那由他の言い回しに首を傾げる。

「専門外って・・・身体を再生するのも専門外、移動陣も、変身も専門外なら何が那由他の専門なの?」

 突っ込んだ質問をされた那由他がまたまた演技臭く『考えるポーズ』を取ってわざとらしく考える振りをする。

「さぁ―――何だろうな」

 一分ほど散々考えた挙句に那由他の言った能天気な答えに、期待を募らせていた遺は思わず前につんのめった。

「真面目に答えてよっ!」

「だってさァー、阿僧祇は蘇生と魔技術が専門で、恒河沙は毒物専門と桁違いの腕力と握力だぜ?知能も体力もあの二人で十分なんだよ。オレはむしろオマケだな」

「そうかな、那由他は計画を立てるのが専門じゃないの?」

「あー、あれも本当はあの二人のどっちかが立てた方が良いんだ。実際細かいことの指示は全部恒河沙がしてるだろ?あの二人は超役に立つからな、頭の切れる部下を持つと楽ができるぜ」

 擦れたことを言って那由他が頭の上で腕を組み、黒いソファいっぱいに寝転がった。

「えっ・・・那由他が一番偉かったの?わたし三人は平等だと思ってた」

 那由他の言動に驚くばかりの遺に、仰向けに寝転がった那由他は口を動かさず呟く。

「名前が―――」

「え、何?」

 五月蝿い音楽に掻き消され後半部分が聞き取れなかった遺が首を傾げ、耳に手を当てて聞き返した。那由他は面倒臭そうに黒いソファから身を起こすと苦笑しながらひらひらと右手を振った。

「何でもない。遺の言う通りだ」

 それからすぐ真顔になると、那由他は居住いを正して真正面から遺に真剣そのものの顔を向けた。

「遺、あの組織について聴いてほしいことがある」

「うん―――?」

 眉を八の字に下げ首を傾げる遺に那由他は丸めていた背中を弓なりに反る程伸ばし、膝の上で力強く拳を握った。

「縞帯から聴いた話なんだが――どうやらあの組織は大々的な臓器売買をしていたらしい。縞帯はその責任者だったらしくてな。狗門が遺にしつこく生き延びた方法を尋ねたのも、すぐに縞帯に会わせようとしたのも、商品となる人体生成の技術を高めたかったからだろう」

 真直ぐに遺の目を見る那由他の絶望的な説明に遺は体中が冷えていくのを感じた。善で無いにしても悪ではないと信じて行ってきた“悪討ち”の数々の任務が遺の脳裏を掠めていった。

「それじゃ、わたしのしてきたことは・・・」

「――可哀想だが“悪討ち”達は技術向上のために使われている可能性が高いな」

 途中で怖くなり最後まで言えなかった遺の言葉を那由他が重々しい口調で続けた。断罪に近い宣告を受けた遺は頭を垂れると血を吐くように言った。

「狗門さん、わたしのこと騙してたんだ」

「かもしれんな。だが狗門はあくどい金儲けのためだけに組織を動かしてるわけじゃなさそうなんだ」

 固く腕を組み厳しい顔をしている那由他の希望を含んだ一言に、遺は潤んだ目を上げた。

 那由他は懐からクリップで留められた数枚の紙を取り出すと、それらを黒いソファの上に広げて遺に見せた。紙には細かく枠が作ってあり、その中に米粒大の尖った文字がびっしりと書いてあった。

「恒河沙が調べたここ数年の狗門の出納金だ。入る額が多いのに対して、狗門は生活費と家、車の維持費以外は全て組織のために使っている。もともと華族の大邸宅に生まれた一人っ子だから住居の維持費が半端じゃないが、維持費を除いた生活費なんて下手すりゃ一人暮らしの苦学生並みだ。狗門が悪の撲滅なんて美辞麗句を謳ってまで人体生成を行うのは他の理由がありそうだな」

 狗門の奇妙な生活に興味を持って熱心に語る那由他の前で、遺は暗い表情で床を見詰めたまま歯噛みした。

「騙してたことに変わりは無いよ―――」

 暴かれた組織の正体を聴かされた衝撃が次第に狗門に対する怒りへと変化してゆく遺の姿に那由他は険しい顔で胸の内を打ち明けた。

「もし狗門が本当に悪を滅するためじゃなく“悪討ち”を利用してるんだったら、あの組織は滅ぼさせてもらうつもりだ。狗門の言うように悪を滅するために―――な」

 暗い顔を伏せたままの遺を気遣うように那由他が遺に視線を送った。遺は肩を震わせて那由他の言葉に応える。

「・・・わたしも狗門さんの本心が知りたい」

 遺が高ぶる感情に震える声で那由他に言った。床を見詰めていた顔を上げると、遺は獰猛な獣の如き黒い瞳を那由他に向けた。

「組織を滅ぼすときはわたしも一緒に連れていって」

「―――ああ。約束する」

 身体中から怒りの気持ちを漂わせる遺に、那由他が誠実そのものの顔で頷いた。

 





400 lux


 自分が自分でなくなってゆく。


「何故、ボクが阿僧祇と一緒に歩かなきゃいけないワケ?」

 と恒河沙が不平たっぷりの刺々しい声で十七回目の言葉を吐き捨てた。

 小鳥達が屋根から屋根へと飛び移る長閑な住宅街に阿僧祇と恒河沙がやや離れて並んで歩いていた。

「いーじゃん、今日は那由他と遺が二人で話したいって言ったんだから」

 青空を見上げて飛行機雲をのほほんと眺めていた阿僧祇が楽観的な声でそう言うと、道の脇いっぱいまで離れて歩く恒河沙に近寄った。

「よくない。二人で話すんなら奥の部屋で薬品いじってても構わないでしょ、なのに何でボクも阿僧祇と同じように外に放り出されなきゃならないの」

 人懐っこい顔をして服と服が触れ合うほど近寄ってくる阿僧祇に鼻に皺を寄せてこれ以上無く苦々しい顔をする恒河沙。単純明快な拒絶に阿僧祇は残念そうに恒河沙を見ると、半歩だけ恒河沙から離れた。

「文句言えないんじゃない?一日経ったのにまだ『ニット帽の男』について何一つ情報手に入れられなかったんだから。暗に恒河沙だけじゃ頼りないからボクと二人でその人を探してこいってことじゃないの」

 痛いところを突かれた恒河沙が澄ました顔で正論を言う阿僧祇に刺すような眼を向けて氷点下の声で皮肉を言った。

「優秀なキミのことだからボクが居なくても見つけられるね」

「二人で探した方が絶対速いよ―――あ」

 恒河沙の皮肉を皮肉と気付かず真面目に議論しかけた阿僧祇が正面を見詰めたまま立ち止まった。恒河沙も一応合わせて止まり、口を開けたままの阿僧祇を鬱陶しそうに眺める。

「電池切れ?」

「恒河沙、あの人そうじゃないかな――」

 また皮肉られたことに気付かず阿僧祇が言って大きな茶色の眼で前方を見た。恒河沙が小さく肩を竦め怪しまれないようにそれとなく阿僧祇の視線の先を見る。

 全身黒尽くめの、黒いニット帽を被った人が阿僧祇と恒河沙の前を歩いていた。

「追いかける?」

 ポケットに手を入れてゆったりと歩いているニット帽の人を見詰めて阿僧祇が恒河沙に提案する。恒河沙は前方を歩く人を見たまま頷きも賛成もしない。

「話によると相当素早いらしいよ」

「本物だったらね。追いかけてみれば判るじゃん。もしもの時はボクが捕まえるから」

 さっぱり乗り気で無い恒河沙に阿僧祇はお茶目に力瘤を作る振りをしてウィンクして見せた。恒河沙は顔中に皺を寄せて嫌悪の目で阿僧祇を見、嫌々ながら応える。

「じゃボクも一応追いかけるよ。一応ね」

 恒河沙がつれない声で念を押すと、阿僧祇は気にしないといった様子で短く笑ってニット帽の人を追いかけ始めた。恒河沙はやれやれと銀髪を揺らして首を振ると駆け足で走る阿僧祇の後を追いかけた。

 ニット帽は後方の足音に敏感に振り向くと、二人の男が自分を追ってくるのを見て慌てて車道を駆け出した。

 その速さは尋常ではなく、一般人とは凡そ比べ物にならなかった。

「本物だね」

 人外な速さのニット帽に目を輝かせる阿僧祇の後ろをまるで興味無しといった表情で走っている恒河沙が冷めた調子で言った。

「よーし」

 獲物を見つけた猫のように阿僧祇は一瞬身を縮めて、次いで強くアスファルトを蹴って速度を上げた。捕まるまいと必死に逃げるニット帽の足も人並み外れた速さだったが、阿僧祇は更に速かった。見る間に二人の距離が短くなり、阿僧祇は後ろからニット帽の黒いジャージの襟を掴んで引き止めた。

「捕まえたよー」

「はいはいお見事でしたね」

 得意そうに未だ抵抗を続けるニット帽を恒河沙の方へ腕で掴んで向けさせる阿僧祇。恒河沙は随分と前から走るのを止めて悠長に歩いてきて、阿僧祇に気の無い褒め言葉を送った。

「狩りになると楽しそうだね」

「だって楽しいもん。昔はもっと狩ってたよ」

「あ、そう。コレが遺の言ってたニット帽の男かな」

 阿僧祇の物騒な主張をさらりと聞き流し、恒河沙は膝に手をついてニット帽の下にある顔を覗き込んだ。

 そして何とも言えない奇妙な顔をした。

「―――阿僧祇・・・ひょっとしたら人違いかも知れないよ」

「へ?だってニット帽被ってて黒尽くめで足が速い男の人なんでしょ?」

「最後のところが該当するかどうかが問題だね」

 恒河沙が苦い表情でそう言って相手のニット帽を剥ぎ取り、阿僧祇に相手の顔が見えるようにした。

 その顔を見た阿僧祇も、何とも言えない奇妙な顔をした。

「う、ううう・・・」

 ニット帽の下から現れた顔は柔らかな曲線を帯びていて、肌は透き通るように白い。怯えてくるくると忙しく動く潤んだ黄色の瞳には長い薄茶の前髪が掛かっていて、唸り声を出す唇はほんのりと紅色に染まり濡れたように艶やかだった。

 阿僧祇は暫くその顔を当惑した表情で観察すると、そのままその目を斜め後ろに立つ恒河沙に遣った。日光を反射して煌く銀髪の恒河沙のきめ細かく耽美的な青白い肌や長い睫毛に縁取られた大きな蒼い眼、形よく整った薄い唇で構成された少女のような顔が阿僧祇の方を向いて早くしろと無言の圧力を掛けている。

「いや、でも恒河沙みたいなこともあるし・・・」

「ちょっとそれってどういうイミ?」

 困惑する阿僧祇にすかさず恒河沙が険悪な雰囲気を醸し出しながら尋問する。恒河沙の声色に身の危険を感じた阿僧祇が今度は相手の黒い手袋を外してみた。

 逃げられないと悟り無抵抗になった相手の手は顔と同じように透き通る程白く華奢で滑らかだった。

「・・・・・」

 自分の手よりも小さな白い手を握って阿僧祇が沈黙し、相手の胸元のファスナーに視線を向けたがすぐ激しく首を振って思考を否定した。

「本人に訊くのが一番だよねっ」

 空々しく無暗に明るい声を出して先程一瞬浮かんだ考えを闇に葬り忘れようとする阿僧祇。後ろから阿僧祇のすることを見ていた恒河沙が口を開く。

「訊いてみるの?さっきから唸り声しか出さないから喋れないんじゃない」

 本人の前で失礼極まりないことを恒河沙が言った。

「オ、オレはし喋レるゾ・・・」

 相手の紅色の唇が微かに動き、細く不安定な声が発せられた。茶色の瞳を円くした阿僧祇と少々驚いた恒河沙が互いの顔を見合わせる。いきなり喋りだした相手の様子を伺いつつ、阿僧祇が優しく話掛けた。

「キミ男なんだね?」

「・・・サァな。今のオレはどちラかもわカらない。昔のコトを言うなラ別だガ」

 そう細い声で言うと男は薄い茶髪を物憂げに揺らした。いま一つ確信できない阿僧祇が男をなるべく刺激しないように尋ねる。

「キミが歓楽街で殺した人たちの中で、三人連れの女子高生を覚えてる?」

 阿僧祇の質問に、怯えて泳いでいた男の瞳孔が小さくなった。

「三人・・・だっタか?人数はもウ覚えてない・・デも一人、あの髪の長いコの顔がズット忘れらレない」

「遺だ―――」

 男の話を聴いていた恒河沙が顔を顰めて呟いた。男は恒河沙の声にびくんと震え、恐怖に見開かれた眼で恒河沙を見た。

「そう、ユイって名だっタ。関係無かったのに殺してしまった―――いつも気をつけていたのに・・・死期が近くて朦朧としてたから・・・!」

 男の細い声は次第に不安定さが減ってしっかりした口調になっていった。遺のことを思い出して苦悩する男の姿を恒河沙が無感情な顔で見下ろし、阿僧祇はつらそうにしている男の背中をそっと摩った。

「死期が近い?遺が“悪討ち”になってからもう二ヶ月は経つはずだけどキミはまだ生きてるじゃない。同じ“悪討ち”の中では長命な方なんじゃ?」

 冷淡な態度で恒河沙が一理有ることを言うと、男は首が千切れるほど激しく首を横に振り、助けを求めるようなか弱い目で恒河沙を見上げた。

「オレは毎回一週間の命なんだ。あの子を殺してしまったのも、オレがこんな身体になったのも全部全部全部全部狗門―――アイツのせいだ」

 男は吐くようにそう言うと、今自分が言ったことを誰かに聞かれてはいまいかとおどおどして黄色い眼で辺りを見回した。

「狗門って組織の代表のことだよね」

 力が抜けて自力で座れなくなってきた男を抱いて支えながら恒河沙に確認を取る阿僧祇に、男は華奢な白い手で縋りついた。

「頼む!オレを殺してくれ―――!」

「へ?」

 突然の不可思議な頼み事に眼を白黒させる阿僧祇に、男は秀麗な顔に悲哀の色を湛えて懇願した。

「アイツはオレ達の身体を再生する時に、少しずつ身体を誰かのものとすり替えていくんだ――!“悪討ち”になって二回も死ねば、もう再生された時には皆黄色い目になってるんだ。ミスなんかじゃ無い、アイツは故意に造り替えていくんだ。記憶も、身体も・・・・そうやって同じ一人の人間を造ろうとしてるんだ!」

 男の華奢な白い手が阿僧祇の腕を掴み、男は激しく語ったために息を切らせながら焦点の合わない黄色い眼を阿僧祇に向けた。男の色白な顔を嫌な汗が何本も伝い流れていく。

「オレは最初の“悪討ち”の一人だから見てきたんだ!今まで何人もの黄色い目で薄茶色の髪の女の死体が狗門の実験室から運び出されてくるのを・・・同期の奴らは全部で八人居たけど今じゃ再生されて生きてるのはオレ一人で・・皆あの女の姿に変えられて処分されていったんだっ。オレも一週間毎に死ぬように設定されて――一週間分の記憶と引き換えに毎回再生される度に少しずつ知らない奴の記憶が植え付けられて・・自分がどんな名前なのかも狗門に呼ばれない限り思い出せないんだ。いつかオレも他の奴らみたいになるんだと―――でもあの女の子のことが何時までも頭に残ってて―――」

 男の話が意味不明になり始め、一息に喋った男は空気を求めて細い肩を上下させて息を吸い込んだ。

「―――うぐっ」

 肺いっぱいに空気を吸い込んだ男の口から赤紫色の液体が溢れ出し阿僧祇の服を濡らした。衰弱が目に見え始めた男は震える手で阿僧祇の襟首を掴むと贋物の血塗れの顔を近づけ再び懇願した。

「お願いだ―――今日で七日目なんだ・・オレが死んだら他の“悪討ち”がオレを回収しにくる・・・回収されたらまた再生されてしまう・・・自分以外の自分になりたくない・・・オレを助けてくれ・・・!殺してくれ・・・!」

「死体を回収されたら再生されるんでしょ?殺すだけじゃ死体が残るよ」

「殺したらばらばらに刻んで排水溝の中に捨ててくれ・・・細菌汚染されたら狗門でも再生出来ないから・・・」

 冷ややかな態度を改めない恒河沙に虫の息でそう言うと、男は阿僧祇の胸に頭を凭せ掛け苦しそうにまた赤紫の液体を吐いた。恒河沙は冷めた眼で男の背を摩る阿僧祇を見てその意思を問う。阿僧祇は恒河沙を真面目な顔で見上げると、咽る男の背中を摩って静かに囁いた。

「――わかった・・・。ちゃんと処分するから安心して・・・」

 阿僧祇の約束を聞くと、男は長い長い安堵の溜息を吐いた。そして動かなくなった。


 日光に照らされくっきりと陰のついた“隠れ場所”の前に阿僧祇と恒河沙が並んで立っていた。阿僧祇も恒河沙も後味の悪い顔をしている。

「さっきのこと、遺に言うよね?」

 元気の無い阿僧祇の問いかけに恒河沙が無言で頷き、崩れそうな“隠れ場所”の扉を開けた。二人は少し躊躇すると、同時に中に入った。

「いよっす、おかえり」

 居間の奥から那由他がいつものように陽気に挨拶しながら現れ、二人の深刻な表情を見て顔を引き締めた。

「何かあったんだな」

「うん・・・」

 阿僧祇が小さな声で言い、那由他は居間の方へ身体を向けると大声で遺を呼んだ。

「遺!」

 呼ばれてすぐやって来た遺は那由他の厳しい語調から事態を察して険しい顔で現れた。

「阿僧祇と恒河沙が何かあったらしい」

 そう言って居間に移動した那由他が一人掛けソファに腰を下ろした。阿僧祇と恒河沙も二人掛けソファに座り、遺が残りのソファに腰掛けた。


「―――そっか・・そんなことがあったんだ・・・」

 落ち込み気味の阿僧祇の話を聴いた遺は寂しそうに呟いた。表情暗く眼を伏せる遺に阿僧祇が謝る。

「ごめんね、一目会いたかっただろうけど」

「ううん、あの人がどういう人か知れれば十分だったの。ありがとう」

 遺が大人しく言って阿僧祇に弱弱しく微笑んだ。それから那由他に視線を向けると、遺は獣の如き目をしていた。

「・・・那由他―――」

「ああ。これで狗門の目的がはっきりしたな。奴は“悪討ち”や“悪人”の複製を特定の誰かを甦らせるためだけに利用してたってわけだ」

 那由他が腕を組み、今までに無く険しい声で言った。遺はまた眼を伏せ、細い声で囁くように言う。

「すごく偏った考えかも知れないけど―――たとえ大切な人を生き返らせるためでも、他人の命を犠牲にするのは許せないよ」

 遺が狗門への復讐の炎を燃やした黒い眼を上げた。

「あの組織は滅ぶべきだよ」

 怒りと口惜しさに顔を顰め低く唸る遺に恒河沙も指輪を嵌めた右手を挙げて賛成した。

「理由は違うけど、ボクもそれに賛成だ。たかが一人を蘇生するのに膨大な時間と生命を浪費する組織なんて何の役にも立たない」

 冷静に論理的な見解を述べる恒河沙の隣では、服に付着した赤紫色の血の染みを握って阿僧祇が頷いた。

「“悪討ち”の中にはあの人みたいな人達がもっといるはずだよ。これ以上誰かをあんな目に遭わせたくない」

 遺、阿僧祇、恒河沙の眼が一斉に那由他に注がれた。那由他は苦渋の表情をすると強く瞳を閉じて、開いた。

「遺、本部までオレ達を連れて行ってくれ」

「任せて」

 決意に輝く遺の漆黒の瞳と、那由他の暗茶の瞳とがしっかりと重なった。

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