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 謎は謎を呼ぶ。謎を謎と呼ぶ。


 雑草が伸び荒れ果てた空き地、強風に煽られて巻き上がった砂埃の中、鉄条網が張り巡らされたフェンスの前に遺が立っていた。その身を水色の制服ではなく、黒のパンツスーツに包んで。

 一陣の風が吹き、遺の黒い髪を乱した。遺は一度大きく息を吸うと、そのまま胸を張ってフェンスを押した。


「これはこれは、遺さん!ご無事でしたか!」

 エレベータで地下に降り、以前狗門とよく会っていたクリーム色の部屋を覗いた遺を、狗門は喜びの声を上げて迎えた。親しげに遺を部屋に招きいれたが、振り返って遺を見た瞬間の驚愕した表情を遺は見逃さなかった。

「二日間も連絡が無くて心配していたのですよ。“悪討ち”であることを感付かれたと言っていたので、最悪の事態も考えていました」

 阿僧祇の笑みとは全く違った機械的な笑みを浮かべ、遺にいつもの機械が持ってきた飲み物を勧める狗門。それを断って遺がクリーム色の絨毯に座り込むと、狗門も隣に座った。

「・・最悪の事態・・・?」

 親しげな、けれど感情の伝わってこない狗門に遺が慎重に問い返す。遺の頭の中で、本部に来る前に聞いた恒河沙の声が反響する。


「組織の中の誰にも、キミが性格まで元に戻ったと悟られるんじゃないよ」

「うん。でもなんで―――?」

「彼らがキミの性格を故意に変えたかも知れないからね」

 首を傾げる遺にそう言う恒河沙の蒼い瞳は、永久に溶けることのない氷のように冷たかった。


「どうかしましたか?」

 気付くと狗門が不審そうに遺を見ていた。我に返った遺はなるべく落ち着いた様子を装い、少々低めの声で狗門の問いに答えた。

「いや―――少し疲れただけだ」

 気分が悪くなったように額に手を当てて見せると、狗門は闇のようなサングラスを掛けた顔を曇らせ、いかにも心配そうな声を出してみせた。

「任務でお疲れでしょう。すぐ寝所を用意させます」

「眠くは無い」

「しかし、大分身体が痛んでいるでしょう」

 気遣うつもりで言った狗門の言葉に遺の耳が微かに動いた。

「――何故そう思う」

 嫌悪とも取れる遺の睨みに狗門はたじろいだが、すぐに業務スマイルを顔に貼り付け言いよどむことなく返答した。

「連絡の途絶えた日に捜索隊を派遣したのですよ。そうしたらビルの隙間に任務の跡と、遺さんの吐いた血が発見されましたので」

 笑顔のまま答えた狗門は持ったままのカップの中身を空々しいほど自然に飲み干し、機械を呼んで空のカップを片付けさせた。

 それを見ていた遺が狗門に疑問を感じながら問う。

「オレが死んだと思ったのか」

「ええ、最悪の事態として・・でもお元気そうで、何よりです」

 先程振り返って遺を見た時の狗門の顔を思い出す遺。その驚きようは明らかに死霊を見たときの表情だった。

「驚いただろう」

「少し――急に帰って来られましたので」

「死体が無くなっていてだよ」

 狗門の口元が引き攣った。闇のようなサングラスの下では図星を突かれた黒い瞳が大きく見開かれている。考えを言い当てられた狗門は震える手を気取られぬようさり気無くもう一方の手で押さえ込んだ。

「冗談がお上手ですね」

 引き攣った顔から無理矢理つくった笑顔を遺に向ける狗門。遺は仮面に等しいそれを一瞥するとクリーム色の壁を見詰めた。

「冗談?そんなこと言う余裕なんて無かった。少なくともその時は」

 ここまで言って横目で狗門の様子を伺う遺。狗門は綺麗に整えられた眉の間に薄く皺を寄せ、足を小刻みに動かしている。遣る瀬無い思いが込み上げてきた遺は狗門の方へ身を乗り出し、黒いスーツを着たその胸倉を掴んで狗門を問い詰めた。

「ど、どうしたんですか」

「知ってたんだろっ?半年経たずに死ぬって分かってたんだろ!」

 襟が皺だらけになるのも構わず襟首を掴み、感情に任せて怒鳴る遺の身体を狗門がやんわりと押し返す。

「すみません・・・私の不行届きが遺さんを苦しめることになって申し訳ない」

 狗門に居住いを正して頭を下げられ、遺は少し冷静さを取り戻した。顔を上げた狗門は口を真一文字に結んでいる。

「私が最初に説明しておくべきでした。定期的にここへ戻って検診を受けなければならないと・・・」

 苦渋の感を漂わせ謝罪する狗門に遺は先刻の激情から来る心苦しさに眼を逸らした。

 さっきの無礼を謝ろうと遺が口を開きかけたその時、クリーム色の絨毯が敷かれた床に手をついた狗門が静かに言った。

「唯今知りたいことは何故貴女が生きてここに居るかだけです」

「!」

 真摯な態度に心を許しかけていた遺の顔が歪む。狗門は床に手をつき俯いたまま微動だにしない。綺麗に整えられた狗門のうなじを見詰めると、遺は息を吐き搾り出すように答えた。

「―――助けて・・もらった」

「どなたにですか」

 間髪入れずに尋ねる狗門を遺が睨む。狗門は顔を上げ緩やかな動作でサングラスを外した。目の表情と言葉の意味だけ見れば遺のことを心配しているようだが、尋ねる間合いが短すぎた。

「那由他という女だ」

 顔を顰めて遺が答えると狗門は険しい顔で二、三度目を瞬き、また元の誠実そうな顔に戻った。

「そうなのですか。しかし、あの時遺さんの身体はもう腐敗が始まっていたはず――どうして今、以前と変わらずお元気なのですか」

 遺を心配する素振りをして情報を引き出そうとする狗門に、遺はあらかじめ恒河沙から教えられた筋書きの通りに話し始めた。


「――もし誰に助けられたのかって訊かれたら、ボクと阿僧祇のことは言わずに那由他のことだけ話すんだよ」

「え?」

 指示を聞いて目を円くする遺の前で恒河沙は優雅に自分専用のカップから謎の熱い液体を啜った。遺の左隣、上座のソファには那由他がくつろいで座っている。

「組織が刺客を仕向けた時のためだな」

 ソファの肘掛に片肘をついてその上にだらしなく顔を乗せた那由他が他人事のようにさらりと言った。

「そ、そしたら那由他だけが危ない目に遭うじゃん!」

 那由他の安否を憂えて憤慨する遺を那由他と恒河沙が杞憂と言わんばかりの目で見た。

「そうそう。那由他だけがね。一人だけ、危険な目に遭うの」

 台所から飲み物を運んできた阿僧祇までもが、不安がる遺を楽しそうにからかった。余裕の表情を浮かべる三人を見て遺は握っていた両拳を解きかぶりを振った。

「わかんないよ―――」

「時が来れば解るよ」

 カップから口を離して無愛想に恒河沙が言い、重力のままにソファに寄り掛かっている那由他が続けた。

「那由他は一人とは限らないからな」

「そう。だから無駄に心配しないで他は全部喋っていいよ」

 最後に阿僧祇が言い、悪戯っ子のように遺に向かって微笑んだ。


 打ち合わせ通りに自分が助かった経緯を話し終えた遺は一息つくと眼下で珍しく露わになっている狗門の表情を探った。暫く物思いに耽ってた後、狗門は再びサングラスを身に着けた。

「遺さんの話が本当なら――その身体は誤処分される前と全く同じなんですね?」

「ああ。実際その通りだよ。どこにも継ぎ目が無いし、赤い血が流れてる」

 複製の身体に生えた管と不完全な血液のことをさり気無く批判する遺の言葉に、狗門はきまり悪そうに足を組み替えた。

「それでは、もし遺さんがよろしければ検査をさせていただけますか」

 漆黒のサングラスを細く長い指で上げ、狗門が遺を見た。狗門の申し出に遺は踟?しながらも頷いた。狗門は冷笑を顔に貼り付けるとクリーム色の絨毯から立ち上がり、遺を別の部屋へと連れていった。


 狗門の後ろについて初めて通る廊下を歩いていくと、突き当たりの一つ手前の扉で狗門が立ち止まった。黒いスーツの懐から鍵束を取り出すと銀の鍵で扉を開けた。

「どうぞ」

 貧血気味なのか青白い手を広げ、中を示す狗門に背中を押され遺は部屋に入った。すぐ後ろで狗門が灯りを点けると部屋全体が光に包まれ、蒼い内装が露わになった。

「まず血液検査をしましょう」

 狗門に促されスーツの上着を脱いで勧められた椅子に座ると、狗門は遺の右手をアルコール綿で拭い注射針を刺した。暗赤色の静脈血が緩やかに採血機の中へ流れてゆく。

 百?ほど血を抜くと、狗門が金属棒を遺に差し出した。

「これで口の内側をこすって下さい」

 言われるままに遺が口の内側を金属棒で擦ると、狗門は棒に付着したものを奇妙な機械の中へ入れた。

 数分の間、部屋の中は吐息すら聞こえず唯機器の唸る音だけが響いていた。やがて血液を吸い込んだ機械から電子音が聞こえ、意味の解らない数字を無数に羅列した紙が吐き出された。狗門がそれを手に取り目を見張る。直ぐに後ろの機械が様々な色のランプの中から赤色の灯を点滅させた。狗門は振り返ると信じられないという顔で灯を凝視した。

「―――完全に人間だ――」

「だからそう言っただろ」

 長い時間待たされて飽きが来た遺に狗門は喰いつくように詰め寄った。

「その那由他という人は、遺さんの身体を一から造りなおしたんですね?」

「あ、ああ」

「しかもたった半日で?意識の混濁も無く?」

「え・・・まぁ。寝て起きただけって感じだったな」

 次第に迫ってくる狗門に、遺は椅子から立ち上がり一歩後ずさる。

「那由他さんに会わせて下さい」

 遺の背が壁に当たり、互いの前髪が触れるほど詰め寄った狗門の要求を遺は反射的に跳ね除けた。

「駄目だ」

「何故」

 狗門の会って当然という口振りに遺は焦慌し目を泳がせ理由を思索する。

「忙しいから・・・」

「真夜中でも早朝でも構いません」

「仕事場から出られないんだ」

「私がそちらへ赴きます」

 忙しいと理由を言えば言うほど追い詰められると解った遺は、仕方なく別の理由に考え直した。

「彼女は“悪討ち”について良く思ってない。だからあんたには会いたくないんだよ」

 口から出任せの嘘に狗門が垂頭喪気する。あれだけ張り詰めていた気迫が消えてゆき、遺に背を向け機器の所へ戻ると無言で片付けを始めた。血液の入った試験管を洗うと、狗門は背を向けたまま遺に語りかけた。

「そうですか―――非常に残念です。機会があればお話したかったのですが―――」

 ここまで言うと狗門は試験管をステンレス製の網に伏せ遺の方へ振り返った。

「報告ありがとうございました。せっかく本部まで来て頂いたので、任務地へ戻る前に身体を休めていきませんか」

「・・・そうだな」

 警戒を緩めた遺が同意すると狗門は微笑んで機器の電源を切った。


 クリーム色の部屋に戻って機械が運んできた軽い食事を狗門と採った後、遺は狗門に勧められ浴室へ向かった。

「どうぞ寛いでください」

 業務スマイルで形式だけの言葉を吐くと狗門は脱衣所から出てクリーム色の部屋の方へ白い廊下を歩き去った。角を曲がって狗門の姿が見えなくなるまで見送ると、遺は脱衣所の扉を閉めた。

 桃色のタイルが敷き詰められた脱衣所には同じく桃色のバスタオルと遺が身に着けている防具やスーツの新品が一式用意されていた。

「これっていつ準備されてるんだろ」

 一人には広すぎる脱衣所には他にもタオルや着替えを入れる場所が幾つもあったが、遺の場所以外は全て空だった。奇妙な光景に遺は首を傾げると服を脱いだ。

 桃色のバスタオルを身体に巻いて風呂場の扉を開けると一面湯気で煙っていた。桃色の浴場にはやはり誰も居ない。

「あれ?」

 湯に入ろうと巨大な浴槽に近付いた遺は一人で疑問の声を上げた。遺の声が全て桃色の浴場に淋しく反響する。

「前来た時は桃色のお湯だったのに・・・」

 そう言って無色透明な湯を不満げに覗き込む遺。手で湯加減をみた後タオルを巻いたまま静かに湯に浸かる。

「おっかしいなー」

 両手に汲んだ湯をさらさらと水面にこぼしてみるが何の変化も見られない。片手に少し湯を採って舐めてみたが、以前桃色の湯に入った時のむせるような甘い匂いも味もしなかった。

 湯が変わっていることに一人首を傾げていると脱衣所の方から微かな物音が聞こえた。

「?」

 無意識に浴場の扉に目を遣ると、擦りガラスの向こうに何かの影が蠢いていた。本能的に息を殺して身を固めると扉の向こうの影は段々小さくなり、もう一度物音を立てて見えなくなった。

「・・・・」

 暫し息を潜めていたが、何も起こらなかった。遺が溜めていた息を一気に吐き出し、吐息が水面を波立てる。まだ正体不明の何かを警戒しつつ、遺は数分前脱衣所で蠢いていた影に思いを巡らせた。

―――さっきの何だったんだろ・・・。

 前回来た時に遺の髪を切り揃えてくれた機械が頭中を過ぎったが、どう見てもあれは遺の腰より低いものだった。

―――大きさからすると人間ぽかったけど・・・

「もしかして他の“悪討ち”かな」

 そう考えると大体の説明がついた。浴場で任務のため汚れた身体を洗おうとしたら、遺が居たので帰ったのだろう。

「これだけ広いんだから二人くらい平気なのになー」

 確かにこれだけ巨大な浴槽を一人が入浴中だから他の者が使わないのは贅沢過ぎる。先程の人物が異性なら躊躇するのも無理はないが。

 広い浴槽で存分に羽を伸ばした遺はタオルを巻きなおし湯から出た。

 脱衣所の扉に手を伸ばすと、一?ほど隙間が開いていた。

 





80 lux


 なんて非力なんだ。


「どうだったの」

 “隠れ場所”へ戻ると居間には恒河沙一人だった。

「うーん・・思ってたほどは怪しまれなかった」

 恒河沙の問いに生返事を返しつつ、遺は黒いパンツスーツの上着を脱ぎいつもの一人掛けソファに腰掛けた。中途半端な遺の応えにすかさず恒河沙が尋問する。

「思ってたほどじゃないって何?答えるんなら詳しく答えてよ」

「え、その、だから『どこに行ってたのか』とか、『もしかして裏切ったのか』とか訊かれると思ってたんだけど」

 詰問されてしどろもどろに答える遺を恒河沙はクズ石を見る宝石鑑定士のような眼で見下した。

「たとえそう思ってたとしても直に言うワケ無いでしょ」

「そうだけどさ・・・」

 恒河沙に思考を完全否定され、狗門との騙し合いのような会話で心労の溜まった遺がげんなりして机にうつ伏せる。それを見て恒河沙が一言。

「行儀が悪い」

 恒河沙に見えないように遺が思い切り顔を顰めると、恒河沙は向かいの二人掛けソファに座り机を指で叩いた。

「それで?相手はどんな様子だったの」

 恒河沙の有無を言わせない強硬な態度に遺は聞こえない程度で溜息を吐き、顔を上げた。

「狗門さん、わたしが生きててすごく驚いてた。気付かれないように隠してたけどずっと手が震えてたし・・・。あの雰囲気は絶対この二日間でわたしが死ぬって解ってた」

「それでもキミを“悪討ち”として働かせてたワケか。部下想いだね」

 皮肉を織り交ぜつつ相槌を打つ恒河沙に遺は話を続ける。

「でもわたしは死なずに本部へ戻ってきた。だからだろうけど――何故かしつこくどうして生き延びられたのか訊いてきたよ」

 後半部分を聞いた恒河沙が冷たい蒼い眼で遺を見た。それから無言で眼を伏せると右手人差し指に嵌めた銀の指輪を何度か回した。

「―――そう」

 恒河沙の見詰める銀の指輪を気にしながらも遺は話を次へ進めた。

「で、那由他に助けてもらったって言ったよ。これで良かったんだよね?」

 聴いているのか判らない恒河沙の顔を覗き込み上目遣いで確認する遺に、恒河沙は気の無い視線を送りまた指輪へ眼を戻した。

「まぁね。どんな危険に晒されても那由他は大丈夫だから」

「へぇ・・那由他ってそんなに凄いんだ」

 言葉を真に受けて感心する遺を蒼眼が一瞥し、恒河沙は露骨では無いが軽蔑を感じる口調で遺に呟いた。

「凄いと言えば凄いけど那由他が強いワケじゃない」

「そうかなー。ほら、初めて逢った夜恒河沙も見てたでしょ?人間よりずっと強い“悪討ち”相手に那由他は余裕綽々で攻撃を全部かわして、最後には“悪討ち”の方が戦意喪失しちゃったんだよ?」

 那由他の俊敏豪腕ぶりを熱く語る遺に恒河沙は聞く耳持たず欠伸を噛み殺す。

「それはあの“悪討ち”が弱いから。一般的には那由他だって強いよ、でも上には上が居るからね」

「むーん」

 半ば納得し半ば認めたくない気持ちで遺が息に乗せて声を吐く。恒河沙は遺から顔を背けて崩れそうな木製の薬棚の方をぼんやりと見ている。しばらく恒河沙の意味深な言葉に思いを巡らせた後、遺は気を取り直して続きの状況説明を再開した。

「狗門さんに那由他のこと話した後さ、わたしが本当に人間かどうかって色々と検査されたんだ。ま、人間だって結果になるのは当たり前だけどね」

 遺の少々傲慢な言葉に恒河沙は眼だけ遺を見た。ソファに寄り掛けていた身体を薬棚から遺へ向けて座り直すと冷めた顔のまま遺の発言をなじった。

「ヒトに造り直したとは限らないよ。外見はヒトでも中身は別モノに造るくらい簡単なんだから」

「でも狗門さんは『完全に人間だ―――』って言ってたよ」

「那由他の前でヒト以外を造る気は無いからね。キミは運が良い」

 恒河沙の何処まで行っても否定的な言動に思わず頬を膨らませる遺。恒河沙はそんなことはまるで眼中に無く、早く続きを教えろと机を白い指で叩いた。

「――ったく・・・えーと、検査のところまで話したんだっけ。人間だって結果が出たら、狗門さん急に真剣になって『那由他さんに会わせて下さい』って言ってきたんだ」

 恒河沙が銀髪の影から遺を見た。久しぶりに興味を持ったらしく、腕を組んで静かに遺の言葉を待っている。

「何て答えたの」

 恒河沙の質問に遺は少しも間を置くことなく答えた。

「駄目だって答えた。だって狗門さん怖かったから」

 肩透かしな遺の答えを聞いて恒河沙はその秀麗で色白な顔を顰めた。組んでいた腕も解き、机に両手をついてそれを身体の支えにして遺に険しい顔を近付ける。

「バカじゃないの?那由他は大丈夫だって本部に行く前にも言っておいたでしょ。つまり那由他を使って狗門から組織の情報を聞き出そうってことだったんだよ、どうして判らなかったのさ」

「そ、そんなこと言われても・・・あの時の狗門さんは勢い余って人殺しでもしちゃいそうな気迫だったし――。やっぱり那由他を危ない目には遭わせられないよ」

 詰め寄られて眉を八の字に寄せ弁解する遺に、恒河沙は普段の無関心な顔に戻り乗り出していた身をもとに戻した。

「――ま、いいや。これくらいは予想範囲内だし修正も可能」

 冷静に言い二人掛けソファに深く腰掛けつつ凍るような視線で遺を睨み付ける恒河沙。

「それにしても、本当使えないねキミ。もう少し頭が使えると思ってたけど・・これじゃ小学生にでも頼んだ方がマシだった」

 無礼を言われても言い返せずにしゅんとして首を竦める遺を見て、恒河沙は少しだけ言葉を和らげた。

「他に何か気付いたことはあった?」

 恒河沙に訊かれ遺は俯いていた顔を上げた。

「うん。関係無いかも知れないけど――前入った時はピンクだったお風呂のお湯が普通のお湯になってたよ」

「風呂?」

 遺の突飛な発言に恒河沙は拍子抜けた声を出した。聞く気を無くした恒河沙の前で遺が真顔で頷き、その様子を詳しく話し出す。

「そのお風呂っていうのが、もの凄く大きいんだ。二十人は軽く入れちゃうくらい大きくて、壁も床も洗面器も、タオルまで全部ピンク色なの。前に入った時はお湯もピンク色だったんだよ。甘ーい匂いがしたんだ」

 喋りだした遺の難解な説明を嫌々聴く恒河沙。口角を下げ、時折眼を泳がせる。

「それで、お風呂に入ったら変な事があってさ。脱衣所の中に誰かが入って来て、こっちを見た後お風呂に入りもせず出てっちゃったんだ」

 遺が語った最後の奇妙な出来事に恒河沙は退屈そうに伏せていた蒼い目を上げた。

「多分他の“悪討ち”だと思うけど、どうして帰っちゃったのかなぁ」

 気の抜けた声で答えも無い独り言に近い疑問を述べ、糸くずが出ているソファの背に凭れ掛かる遺。恒河沙は二、三度物憂げに瞬きをしただけだった。

 双方黙って木漏れ日のように陽が差す“隠れ場所”の居間を静かに時が流れてゆく。恒河沙は何か思案を巡らせているらしく、足元斜め下を見たまま身動き一つしない。暇になった遺は黙っている恒河沙をそっと観察した。

 青白いが儚げで整った顔には薄く影が差し、万年氷のような蒼い眼を金の睫毛が縁取っている。少し長めの外に跳ねた銀髪は、穴だらけの天井から差す日光に当たって眩しい程煌いていた。

 一通り恒河沙を観察した遺はふと恒河沙の容姿に気になる点を見つけた。

「ねぇ恒河沙」

「なに」

 思考を中断された恒河沙が無愛想な低い声で応える。鬱陶しそうにされるのにも構わず遺は円い目を恒河沙に向けたまま首を傾げて訊いた。

「恒河沙って元は金髪だったんだよね?」

 無心の遺の問いに恒河沙の口端が少し歪んだ。明らかに不快だと見て取れる表情で恒河沙は遺を見た。遺は無邪気に思ったことを述べ始める。

「今は銀髪だけど、よくみたら睫毛が金色じゃん。ということは髪も金髪でしょ?どうして銀髪になったの?脱色したの」

「うるさい」

 恒河沙の殺意が籠もった一言に遺は黙った。余計なことを言ったと唇を噛み締め身を竦める遺の前で、恒河沙は険悪な空気を醸し出している。以前恒河沙が錠剤を飲むところを遺が見てしまった時と同じ居心地の悪さが居間全体に広がっていった。

 おどおどと恒河沙の顔色を窺う遺に、恒河沙は固く結んだ口を解いて息を吐いた。

「キミにボクの苦しみは解らないよ」

 恒河沙は退廃的な声でそう言ってソファから立ち上がり、奥の部屋へ行こうと遺に背を向けた。慌てた遺が恒河沙を呼び止める。

「待って!」

 遺の呼び掛けに恒河沙が止まった。扉を見詰めたまま振り向かない恒河沙に遣り切れなくなった遺は掠れた声で必死に叫んだ。

「わからないなんて最初から決めつけるのやめようよ!確かにわたしは恒河沙のこと何も知らないよ、でも話してくれればきっと――だからもっと話してよ!」

 拳を握り締めてずっと思っていたことを叫び終えた遺を、恒河沙がゆっくりと振り返って眺めた。骸のように無情な蒼眼が遺を見下げ、静かに伸ばされた華奢な両手が遺の首を掴んだ。

「この苦しさは言葉で伝えられない」

 叙々に力の入る恒河沙の手は氷のように冷たかった。

 怯える遺の黒い眼を恒河沙の蒼い眼が覗き込む。恒河沙は遺に顔を近付け、文字通り互いの額が触れ合った。否応無しに遺が覗き込んだ恒河沙の瞳は暗い凶気に満ちていた。

 首を絞められ息苦しくなった遺は恒河沙の手を離そうと身を捩る。

「く、苦しいよ」

「それでもキミが知りたいと言うなら―――」

 まるで映画の一場面のように遺を取り巻く時の流れが遅くなり、恒河沙の唇が動いた。

「ボクの苦しみを見るがいい―――――!」

 蒼眼の暗い瞳が極限まで開き、遺の目の前が真白になった。


 白光の眩しさに閉じた眼を開けると、遺は深いふかい水の中に居た。驚いた遺は透明な紺の水中をもがき、遥か上に微かな陽光を見つけた。

 空気を求めて遺は水面を目指し泳いだ。水を掻き分ける指先があまりの冷たさに悴んでくる。冷水に凍えて震えながらも遺は身体に纏わりつく水をきって上に進んだ。

 紺色だった水が次第に蒼から水色へ、最後には透明になって、遺は手を伸ばせば水面に届くところまで泳ぎ着いた。

 最後の一掻きをしようと手足を縮めたその時、近くで何かが水中を暴れる音がした。

―――?

 透明な液体の中身体を捻って音の聞こえる方を向くと、遠くで金髪の男が水中で仰向けになり、もがいていた。

 目を凝らして男の顔を見ようとした遺に急流がぶつかる。そのまま下流へ流されそうになった遺は急いで水面に顔を出した。

「―――ぷはっ」

 立ち泳ぎをしながら水面に金髪の男の姿を探すが、激しい水飛沫で周りがよく見えなかった。戸惑った後、遺は大きく息を吸い込むと再び水中に戻った。

 流れに逆らって泳ぐと、少し遠くなった場所に人影が見えた。満身の力を込めて流れの中から抜け出すと遺は人影の方に泳ぎだした。

 途中二回ほど息継ぎをして水中に戻ったところで、遺の水を掻く手が止まった。先程よりもずっと近くなった人影の金髪が揺れ、その顔が見えた。

 恒河沙だった。

―――なんでこんな所で溺れてるの?

 我が目を疑う遺の前でもがき続ける恒河沙の金髪がゆらゆらと流れる水に揺れている。

 恒河沙を助けようと泳ぎかけた遺は視界に映ったものを見て凍りついた。

 水面から伸びる手が、恒河沙のか細い首を絞めていた。

 その首を絞める手の元を目で追っていくと、黒髪の男が恒河沙を水中へ沈めていた。遺は一瞬あの夜の男を思い出したが、どうやら別人のようだった。抵抗する恒河沙の上げた水飛沫に濡れて、男の黒髪は額や首筋に張り付いている。

 苦しみもがく恒河沙を眺める男の冷然とした瞳を見て、遺はやっと恒河沙がただ溺れているのではないと理解した。泳いでゆこうとしたが、恐怖で身体が動かなかった。

 恒河沙の抵抗は段々激しくなり、その華奢な手が首を絞める男の腕や肩を掴んで爪を立てた。水面に出そうになった恒河沙の頭を片手で乱暴に掴むと、男は爪を立てる白い指を引き離してさらに深くへと恒河沙を沈めた。

 恒河沙は音を立てて口から気泡を吐き、引き剥がされてもまだ男の腕を掴んでいた華奢な手が力無く離れていった。動かなくなった恒河沙を男はもう一度片手で下に押した。恒河沙の身体がゆっくりと深淵へ落ちてゆく。

 はっとした遺がすぐに沈んでいく恒河沙を追いかけたが、最早身動き一つしなくなった恒河沙は急流に巻き込まれ瞬く間に見えなくなってしまった。

 息が続かなくなった遺は水面に出て必死に辺りを見回したが、恒河沙の姿をみることは出来なかった。

「・・・・」

 背後に感じた微かな息遣いに振り向くと、黒髪の男が、波一つ立たない水面に立っていた。常識では考えられない男の様子を見て遺は水の中後退りした。

「・・・くく」

 男が水中から手を引き上げ、恒河沙の手の形に痣がついたそれを見てほくそ笑んだ。その禍々しさに思わず遺は引き攣った声を上げた。

 騒がしかった水音が止み、完全な静寂の中男が緩やかにこちらを見た。濡れた黒髪の下から覗いたのは、鋭利な刃物のような笑みだった。

「――――っ」

 声にならない己の悲鳴に、遺は目を覚ました。


 目が覚めると、遺は薄暗い、壁も床もコンクリートで出来た広い空間に一人で座り込んでいた。呆けたように脱力していると、前方から足音が聞こえた。

 皹の入った床から顔を上げると、濃い陰の中に誰かの足が見えた。誰かは呆然とする遺の前に進み、止まった。

「・・・だれ?」

 問い掛けても返事の無い相手の顔を見ようと遺は目を凝らすが、丁度顔に陰が掛かっている。その人物が頭を動かしたので、煌く金髪が見えた。

「恒河沙なの?」

「――やぁ、久しぶり」

 突如として背後から聞こえた声に遺は飛び上がった。即座に振り向いて構えを取ると、緑髪の男がコンクリートの床に凛と立っていた。

 初めて見る男だったが、遺はすぐにあの挨拶が恒河沙に向けられたものだと解った。闇の中から、一歩恒河沙が進み出た。

 何時にも増して不機嫌そうな恒河沙を見て緑髪の男がくつくつと忍び笑いをする。

「本当に、君は何時見ても不幸せそうだな」

「キミみたいな奴が居なくなれば、ボクも少しは幸せになれるんだけどね」

 優越感漂う満面の笑みを浮かべる男に対して恒河沙は顔を顰め毒を吐く。男はそれすらも笑って片付けると意地の悪い眼で舐めるように恒河沙を見た。

「相変わらず毒舌だな。あの時もそうだった。だが―――今度はあの時のようにはいかないぞ」

 自分の言葉に眼を細めると、緑髪の男は静かに両手を広げた。恒河沙は男を睨み付けたまま闇の中に立っている。

「呪うよ」

「呪うなら自分の賢さを呪うんだな――不幸者」

 男の広げられた両手に二本の細身の剣が握られていた。何処から剣を取り出したのかと遺は驚いたが、恒河沙は全く動じていない。闇の中で静かに右手を伸ばすと、蒼い光が恒河沙の白い右手を包み込んだ。

 明るさを増してゆく蒼光を眺めて緑髪の男は妖しく微笑み、黒鋼の剣を握りなおした。

「では―――かつて第二の   とまで言われたその能力、拝見させてもらおうか」

 緑髪の男が獣のような声で言う。

―――第二の何だって?

 聞き取れなかった遺が首を傾げる間も無く、灰色の空間に蒼光と暗黒が満ち満ちた。

 咄嗟に両手で顔を庇った遺が激しい熱風に吹き飛ばされる。床に叩きつけられ転がったが、遺はすぐに身を起こした。

 コンクリートで出来た広大な空間は、始めと同じように静まり返っていた。

 唯違うのは、先程まで恒河沙の立っていた場所に緑髪の男が立ち、その足元に仰向けに倒れた恒河沙が右手を踏みつけられていることだった。

 灰色の床を掻く恒河沙の左手を男はもう片方の足で押さえつけた。

「最初から、大人しく俺の言うことに従っていれば良かったんだよ。そうすれば何も失わずに済んだのにな」

 緑髪の男は残酷な声でそう言って黒鋼の剣を恒河沙の頬に滑らせた。恒河沙の青白い顔が痛みに歪み、紅い血が真白な頬から一筋流れた。

「歯向かうなら消えてもらう」

 言葉と同時に男の持つ二本の剣が恒河沙の胸に突き刺さった。


 息を呑んで眼を閉じると周りの冷気が引いてゆき、首以外は暖かい空気に包まれた。

「・・・?」

 恐る恐る目を開けると恒河沙が青白い手で遺の首を絞めていた。“隠れ場所”のぼろぼろな壁が遺の目に入る。

「―――!」

 現実に引き戻された遺が息を吸おうと首を振った。限界まで締め上げられた首が、骨の軋む嫌な音を立てた。

「ご、恒河沙―――」

 掠れた声でそれだけ言うと、肺の空気が無くなって何も言えなくなった。呼吸が止まったのを見て恒河沙の手が少し緩み、遺はすかさず空気を吸い込んだ。

「キミはこれ以上耐えられないだろ」

 冷ややかな声で恒河沙が呟いた。再び強くなる恒河沙の握力を少しでも弱めようと遺は歯を喰いしばる。

「――わ、わかったよ、恒河沙・・・二度も死にそうになったんだもんね・・・苦しかったんだよね・・・・」

 切れ切れに喘ぎながら言うと、無表情だった恒河沙の蒼眼が激怒に燃えた。

「キミにはこれ以上耐えられないんだよ――――理解すら出来ずに壊れてしまうくせに、慰めようとするんじゃない・・・!」

 本気になりかけた恒河沙の手がさらに強く遺の首を絞め、遺を身体ごと壁際まで追い詰めてゆく。勢い余った遺は壁に頭を打ち付けた。

「うっ・・・」

「どうしたの?」

 遺が小さく呻くと同時に二階の扉が開き何も知らない阿僧祇が出て来た。階段を下りようと手すりに手を掛けた阿僧祇の目に遺の首を絞める恒河沙が映った。

「恒河沙っ!」

 批難と悲鳴の混ざった叫び声を上げて阿僧祇が恒河沙に広げた右手を向けた。

 瞬く間も無く恒河沙は吹き飛ばされ穴だらけの壁に激突する。老朽化した木材が衝撃に負けて折れ、倒れた恒河沙の上に幾重にも重なった。開放された遺は首を押さえてその場に倒れた。

「う・・ぐふ」

 締められて痛む喉を押さえて咽る遺に階段を駆け下りてきた阿僧祇が駆け寄る。

「怪我は?」

 喉を押さえる遺の手をそっと外し、阿僧祇が遺の首を診た。暖かな茶色い目が丸く見開かれる。

「ひどい痣だ・・・」

 阿僧祇に言われて遺は薬棚のガラスで自分の首を見る。ガラスに映った白く華奢な首に恒河沙の手の跡がくっきりとついていた。

 木片の落ちる乾いた音がして、遺は恒河沙が吹き飛ばされた方向に首を回した。折り重なった木材の下から、血塗れになった恒河沙が這い出てきた。

「恒河沙・・・」

 遺が声を掛けるが、恒河沙は見向きもせずに無言のまま左腕に刺さった釘を抜いた。少し血が吹き出ると勢いが弱まって傷口から血が滴った。

「ごめん――」

 恒河沙に謝ろうとする遺を阿僧祇がやんわりと手で制し、遺は口を閉じた。

「相当気が立ってるから。話掛けない方がいいよ」

 阿僧祇の忠告に頷いたものの、遺は納得出来ずに血塗れの恒河沙を見詰めた。恒河沙は鼻に皺を寄せながらも流れる血など気に掛けず身体に付いた木粉と埃を払い落としている。

 一通り身なりを整えると、恒河沙は顔を上げ、その蒼い目が遺の目と合った。気後れする遺に対して恒河沙はまるで初めて遺がそこに居ると気付いたような表情をしていた。

 突き刺すような蒼い眼に耐え切れなくなって遺は目を伏せた。恒河沙の表情が次第に侮蔑的なものへ変化してゆく。

 恒河沙が遺に向かって一歩踏み出し、阿僧祇が遺の前に護るように手を広げ恒河沙を警戒した。遺を庇う阿僧祇に冷淡な眼を向けると、恒河沙は遺を瞥見した。

 しり込みする遺に恒河沙が近付く。

「・・・」

 歩み寄る恒河沙に阿僧祇は広げた両腕の拳を握り締めた。

「――自分の重荷さえ持てないくせに他人の荷物に手を出すなよ」

 体中の毒を一息に吐くように、苦々しい表情で恒河沙が呟き遺の横をすり抜けた。慌てて遺が振り返ると、恒河沙は既に奥の部屋の扉を閉ざし、鍵をかける音が聞こえた。

 肩を落とす遺に阿僧祇が後ろから心配そうな声を掛ける。

「遺、首が赤く腫れてるよ」

「うん・・・」

 扉の向こうに気を向けたまま生返事する遺を阿僧祇は優しくソファへ誘導した。

 細い顎を持ち上げて首の痣を診る阿僧祇に遺はぽつりと呟いた。

「・・・わたしじゃ――恒河沙の力になれないのかな・・・」

 遺の切ない言葉に阿僧祇が顔を上げる。あどけない円い目が遺を見詰めた。

「恒河沙の闇が深すぎるだけさ。受け止めようとしたら壊れちゃうよ」

 阿僧祇の優しい瞳を遺が見返す。

「阿僧祇でも壊れてしまうほどなの?」

「ボクが?あはは」

 遺の問い掛けに、歳より幼く見える顔を綻ばせ阿僧祇が屈託無く笑った。明るい笑みを遺に向けると阿僧祇は楽しそうに詠った。

「ボクはもう壊れきっちゃった」

 無邪気で明るい笑顔のまま全身凍るような冷たい声で詠うと、阿僧祇は優雅な動作で遺の細い顎を上げ、もう一方の手で優しく喉を撫でた。

「・・・っ」

 凶気を感じて冷や汗を流す遺の顎から手を離すと阿僧祇は両手を軽く叩いた。

「はい、終わり。これで痣も消えたよ」

 阿僧祇に言われ薬棚のガラスで自分の首を見ると、あれほどくっきりついていた痣が跡形も無く消え、火照るような痛みも引いていた。

 感心する遺の前で跪いて服についた埃を払いながら阿僧祇が立ち上がる。

「恒河沙のことは気にしないでいいよ。また一つ小さな苦杯が増えただけなんだから:」

 そう言って阿僧祇は微笑んだまま無邪気な眼を細めて遺に小首を傾げて見せ、戸惑う遺を残してまた二階へ昇ってしまった。

 一人残された遺は俯いて、さっきまで恒河沙が座っていたソファを眺めていた。

 





90 lux


 二人で一人。


 薬瓶でいっぱいになった薬棚の並ぶ締め切った部屋に置いてある古びた木製の椅子に、恒河沙は座っていた。眉間に皺を寄せ鬱屈とした表情を浮かべている。

 古い板切れを張り合わせた薄い扉を叩く音が聞こえた。首だけ振り向くと、阿僧祇が顔半分を覗かせて恒河沙の様子を窺っていた。

「何か用?」

 ぶっきらぼうに言い首を戻して薬棚に並ぶ薬品を眺める恒河沙。阿僧祇は軽い足取りで音も立てずに恒河沙に近寄った。笑顔で顔を覗き込んでくる阿僧祇に恒河沙は鬱陶しそうな顔をしてそっぽを向いた。

「用が無いなら帰ってくれる?キミと一緒に居ると気分が悪くなる」

 毒を含んだ恒河沙の言葉に阿僧祇はおどけた調子で茶色の片眉を上げ、小さな声で短く笑った。顔を背ける恒河沙の前に移動する。

「まだ怒ってるんだね」

「・・・・」

 阿僧祇の指摘を恒河沙は肯定も否定もしなかった。阿僧祇は自分の膝に両手をつくと椅子に座る恒河沙の足元にしゃがみ込んだ。

「ひょっとして、遺が理解してくれるって期待してた?そうだとしてもあんなに怒る必要は無かったと思うよ」

 しゃがんだまま顔を両手で挟んで支えながら阿僧祇が上目遣いに恒河沙に言った。恒河沙はそれを不快そうな眼差しで見る。阿僧祇は立ち上がると、椅子を引くように手を空で動かし、現れた黒と白の猫足の革椅子に座った。

 椅子に座ると、阿僧祇は優雅に足を組んで肘掛に片肘をつき恒河沙に向かって意味深な笑みを浮かべた。

「遺に『自分じゃ恒河沙の力になれないのかな』って訊かれちゃった。勿論無理だけどさ。恒河沙の持つ闇は深すぎるからね」

 一旦言葉を切ると、阿僧祇は恒河沙の顔色を探った。恒河沙は変わらず面白くないという思いを身体全体から漂わせている。

「―――遺はボクに恒河沙の力になってほしそうだったんだ。恒河沙はどう?こんなボクでもよろしければ」

 そう言って恒河沙に笑って小首を傾げる阿僧祇。恒河沙は鼻に一層皺を寄せると、椅子を下げて阿僧祇から少し離れた。

「キミみたいな破壊者は願い下げだね」

「ひどいなー、それじゃまるでボクが触れるモノ全てを壊してるみたいじゃん」

「――実際そうでしょ」

 陰惨な恒河沙の視線を阿僧祇は微笑んで手で遮った。手を下ろすと、阿僧祇が恒河沙に問いかける。

「恒河沙はこのままでいいの?今のままじゃ、恒河沙の痛みを失くすことが出来るのは、この世にたった三人だけだよ」

 恒河沙に心配そうな眼を向ける阿僧祇。恒河沙はその円く茶色い眼を挑戦的に睨み返すと、素気無く答えた。

「三人で十分だ」

 臆する事無く平然と言い放つ恒河沙を見て阿僧祇が悪戯っ子のように白い歯を見せて笑った。それを聞いた恒河沙は冷静な声で毒を吐く。

「キミには理解者なんて一人も居ないだろ」

 恒河沙の中傷に阿僧祇のあどけない顔から笑みが消えた。円かった瞳孔が蛇のように細く鋭くなってゆく。

「―――本当毒舌だね。恒河沙を見てると・・・・」

 気味の悪い薄ら笑いを浮かべながら阿僧祇が音も無く俯き、不気味な陰がその顔に張り付いた。頭を垂れる阿僧祇を恒河沙の感情乏しい蒼眼が見詰める。

「殺したくなるよ」

 阿僧祇が顔を上げ、三日月のような瞳孔が恒河沙の冷たい蒼眼に殺意を送った。張り詰める気迫に恒河沙は一瞬たじろいだが、顎を下げて阿僧祇を見下ろした。

「殺せば?そしたらキミは死ねなくなる。引き分けだね」

 恒河沙の無意味な強がりに阿僧祇は声を出さず嗤った。

「彼が居るよ。彼ならボクを死なせてくれる。怯えるのは恒河沙だけさ」

 空威張りを見透かされた恒河沙が薄い唇を噛み、阿僧祇は恒河沙から眼を離し革椅子から立ち上がった。白黒の椅子は背を向けたまま恒河沙の後ろに回る阿僧祇の陰の中へ静かに溶けていった。

「ねぇ、恒河沙―――どんなに幸せでも苦しみから逃れられないのに何故生きるの?」

 阿僧祇の長く優雅な手が虚空を緩やかにかき回す。

「絶対幸せになれないって知ってるのにどうして生きてるの?」

 阿僧祇が背の後ろで手を組み首だけ振り返った。肩越しに見える恒河沙は苦悶の表情で拳を固く握っている。阿僧祇は寂しげな笑顔で恒河沙の背中を暫し眺めると、来た時と同じように軽い足取りで音も立てずに部屋を出て行った。


「うぉーい起きろーメシだぞー」

「んん・・・?」

 玉杓子で鍋底を叩く音に遺は目を覚ました。寝惚け眼を擦りながら糸くずだらけのソファから身を起こすと那由他が空の鍋と玉杓子を持って仁王立ちしていた。

「え―――もう夕ごはん?」

「はァ?完全に寝惚けてるな遺。今は朝の七時だぞ」

 舌足らずに尋ねた遺に那由他が呆れて言った。黒髪の向こうに見える、昨日恒河沙が吹き飛んで出来た壁の穴から爽やかな朝の光が差している。遺は大きな欠伸を一つすると、小声で呟いた。

「わたしソファで眠っちゃったんだ・・・」

「遺はどれ位食べるんだ?」

 寝起きでまだ頭が朦朧としている遺に那由他が容赦無く尋ねる。おそらく那由他は寝起きでも真夜中でも食欲の変わらない屈強な胃を持っているのだろう。

「――ちょっとだけ」

 本当は何も食べずにもう少しだけ眠りたかったのだが、遺は那由他の押しに負けてそう答えた。那由他は楽しそうに白い皿にコーンフレークをこれでもかと注いでいる。

 食欲旺盛な那由他をぼーっと眺めていると、阿僧祇が両手にとても趣味とは思えない赤いギンガムチェックのミトンを嵌めて台所からやって来た。

「あ!おたま無いと思ったら那由他が持ってたんだ」

 那由他の持つ玉杓子にミトンを嵌めた手を差し出す阿僧祇に那由他が物々交換を求める。

「ミトンと交換しよーぜ」

「駄目だよーこれからスープ運ぶんだから」

「台所で一杯ずつ注いでくればいいだろ」

 抵抗する阿僧祇に提案してミトンを脱がせようとする那由他。片方取られたミトンを取り返すと、阿僧祇はそれを手に嵌めながら反論した。

「那由他は三杯飲むじゃんか。スープカップは四つしか無いんだから、一々取りに行くの面倒じゃない?」

「うーん・・・」

 那由他がスープを毎回注ぎに行くことと今ミトンで遊ぶことの損得を計算している隙に阿僧祇は玉杓子を手に入れて台所へ戻って行った。

「あっ待て阿僧祇!」

 那由他の声に未だ夢と現実の境を行き来していた遺がはっとして気付いた。

「恒河沙は―――?」

「まだ寝てるんじゃねーか?恒河沙にしては珍しいな」

 そう言って首を伸ばし奥の部屋を見る那由他。つられて遺も見ると、扉は昨日のままにしっかりと閉ざされ静まり返っていた。

「起こしてくる」

「やめとけって、もしかしたら研究してるかも知れないし。研究中断されても起こされても不機嫌になるから」

 那由他の勧告を聞きながら遺は板切れを張り合わせた扉を見詰めた。

 相変わらず、扉は閉ざされたままだ。

「スープ出来たよー」

「お!美味そー」

 嬉々として玉杓子で少しでも具を多く取ろうと鍋の中身をかき混ぜる那由他を後に遺はそっと席を立った。

「起こしに行かない方がいいと思うけど――」

 パステルカラーのスープカップを運んできた阿僧祇に言われ、遺は笑って答えた。

「ちょっと見てくるだけだから」

 そう言うと、心配そうな阿僧祇の視線を振り切って遺は薄っぺらい奥の部屋の扉に手を掛けた。扉は軋んだ音を立てて難なく開いた。

―――昨日は鍵が掛けてあったような・・・。

 不思議に思いながらも片目だけ扉の隙間に当てて部屋の中を見ると、恒河沙は古い木の椅子に座ったまま薬棚下の机に突っ伏していた。

 音を立てないように足を忍ばせ部屋の中に入ると、遺は出来るだけ静かに扉を閉めた。

「恒河沙・・・」

 小声で名前を呼んで見るが返事は無い。遺はその場で暫く考えた後に意を決して恒河沙に歩み寄り、腕に乗せられた恒河沙の顔を覗き込んだ。

「・・・・」

 一瞬眠っているのかと遺は思ったが、目を閉じる寸前のところでうつらうつらしているようだった。薄い瞼が微かに動き、それに合わせて金色の睫毛が震えている。

 この様子なら自力で起きるだろうと判断した遺が息を潜めて顔を離したその時、薄い瞼がゆっくりと開き澄んだ蒼い眼が遺を見詰めた。

「あ――ごめん、起こしちゃったね」

 気まずくなり下手な作り笑いをする遺を恒河沙は何も言わずじっと見ている。

「な、なに?」

 那由他の勧告を思い出して昨日のように怒るかとどぎまぎする遺を見たまま一度瞬きすると、恒河沙は静かに微笑んだ。

「起こしに来てくれたの?ありがとう」

 てっきり嫌味を言われると思っていた遺は恒河沙の意外すぎる素直な言葉に自分の耳を疑った。恒河沙はそれを気にせず伸びをすると椅子から立ち上がって扉の隙間から部屋に流れ込む朝食の匂いを嗅いだ。

「うわーおいしそーなにおい。もうキミはごはん食べた?ボクお腹空いちゃった」

「ご、恒河沙―――混合物は嫌いじゃなかったの―――?」

「コンゴウブツ?奈良にある大仏のこと?」

 蒼い眼を円くし、本気で首を傾げる恒河沙のあまりの変わり様に遺は訳が解らなくなった。

―――もしかして昨日頭でもぶつけたのかな・・・。

 冷や汗を掻きながら考えている間に恒河沙は扉を開けて居間に歩いていった。

「おはよー」

「よっす」

「おはよ、恒河沙」

 恒河沙の変貌ぶりを気にも留めず普通に挨拶を交わす那由他と阿僧祇。遺は奥の部屋から小走りで出てくると那由他に小声で耳打ちした。

「恒河沙何か変だよ?どうしちゃったの?」

「んー・・・どうやら昨日は相当疲れてたみたいだな。一時間以上眠るとこうなるんだ」

「いちじかんっ?それじゃいつも一時間しか眠ってないの?」

「二日に一回だけな」

 遺の理解力を超えた那由他の説明に眩暈がした。すると、いつも不機嫌で無愛想な顔だったのは寝不足だったからかと遺は一人ごちた。

「やっぱ人間じゃないなぁ・・・」

 普通の人間ならとっくに死ぬか発狂してしまう恒河沙の生活様式に遺は別の意味で感動した。昨日奥の部屋に閉じ籠ってからずっと眠っていたとすると、恒河沙は十五時間も眠っていたことになる。普段眠っていないのにそんな長時間眠って大丈夫なのかと遺が恒河沙に眼を向けると、恒河沙は肩と首をくるくる回していた。

「ふぁ・・よく寝た・・・」

 欠伸を途中で噛み殺し、舌足らずに言う恒河沙。呆気に取られている遺に気付かずいたって普通に二人掛けソファに座る阿僧祇の隣に座り、白い皿にコーンフレークと牛乳を那由他と同じ位に注いだ。

「食べられるんじゃん―――」

 更に牛乳を足して自分専用のスプーンでコーンフレークを口に運ぶ恒河沙を見て遺が脱力して呟く。それにしても、あの変わり様は何だろうか。たった一時間程の睡眠で皮肉屋の冷血漢にも、ごく普通の人間にもなる恒河沙の精神構造が遺は気になった。

「このスープおいしいね。誰が作ったの?」

 貪るように具だらけのスープを掻き込む那由他の横で、ほとんど汁しか入っていないスープカップから顔を上げて恒河沙が訊く。

「阿僧祇がつくると美味いな」

「ほめられると作った甲斐があるよ」

 当然のように空のカップを突き出す那由他からカップを受け取りなるべく具の入ったスープを注ぐ阿僧祇。恒河沙がスプーンを持つ手を止めて遺に言う。

「はやくしないと那由他が全部食べちゃうよ」

「う、うん・・・」

 得体の知れないものでも見るように恒河沙を見つつ席につく遺の前に阿僧祇が汁ばかりのスープを差し出した。遺はそれを受け取ると、火傷しないように息を吹きかけながら恒河沙の様子を見守った。

「阿僧祇は料理が上手だねー」

 さりげなく二杯目を注ぎながら、満面の笑みで恒河沙が言った。昨日までは阿僧祇に嫌悪の情を抱いているのが傍から見てもわかる程だったのに、仲の良い友人のように笑いながら談話している。戸惑う遺の前で、話していた阿僧祇が何かをふと思い出した。

「あ、そうそう。コレ恒河沙に渡そうと思ってたんだ」

 阿僧祇が玉杓子を置いて空の右手を軽く握る。その手を開くとオレンジ色の小さなぬいぐるみのクマが手の平に転がっていた。阿僧祇からクマのキーホルダを差し出された恒河沙の顔が文字通り明るくなる。

「ありがとう」

 クマのキーホルダを両手で大事そうに受け取ると、恒河沙は阿僧祇に向かって丁寧に感謝を述べた。二杯目のコーンフレークを食べている那由他がキーホルダを握って嬉しそうにしている恒河沙を見て言う。

「ほんっとクマ好きだなぁ」

「うん!大好き」

 と恒河沙がキーホルダを胸の前で抱いて幸せそうに笑った。昨日の恒河沙からはとても考えられないような天真爛漫の笑みだった。


 朝食が済んで片付けが終わると、那由他と阿僧祇は打ち合わせがあると言って二階へ昇って行ってしまった。居間にはまた遺と恒河沙の二人が残された。

 気まずくて話すことが無く手持ち無沙汰に立っていた遺の手を恒河沙が引っ張る。驚いて振り向くと、人懐っこい眼が遺を見詰めていた。

「?」

「ねぇ外で遊ぼうよ」

 そう言って恒河沙は意味が飲み込めず首を傾げる遺を連れて外へ出た。“隠れ場所”の前で地虫をついばんでいた小鳥達が扉の音に驚き飛び立っていく。

 少し離れた電線に止まる小鳥を見る恒河沙に、遺は躊躇いながらも心に引っかかっていたことを聞こうと口を開ける。声を出そうとした一瞬先に、恒河沙が言った。

「ごめんなさい」

 突然の謝罪に眼を円くする遺の前で恒河沙が振り向き、哀しい目をして微笑んだ。

「昨日は恒河沙がキミにひどいことしちゃったから――」

「お、怒ってないの?」

 言葉を詰まらせながらも、遺は恒河沙に尋ねた。恒河沙は長い睫毛を伏せて頭を振る。

「ボクは怒ってないよ。恒河沙はちょっと怒ってるけど――キミに怒ってるんじゃないから安心して」

「―――?」

 奇妙な話し方をする恒河沙に不審げな眼を向ける遺。恒河沙は遺に向かって少し肩を竦めると、哀しい顔で無理に笑ってみせた。

「ボクたち二人で一人なんだ」

 そして自分の胸にそっと華奢な手を当てた。その切ない様子に、遺は唐突に理解した。

―――二重人格なんだ。

「恒河沙の言ってた苦しみってこれのこと――?」

 思わず漏れた言葉に遺が慌てて口を手で塞ぐと、恒河沙は手を下ろして頷いた。

―――あっちの恒河沙が殆ど眠らないのはこの恒河沙を外に出さないようにするためだったのかな・・・。

 遺が勝手に考えるうちに恒河沙は草木が植えられた歩道を歩き始めた。その後ろを小走りで追いかける。

「――ねぇ、今のあなたは何か別の名前があるの?」

 追いついて歩調を緩め横から顔を覗き込む遺の問いに恒河沙は首を横に振って答えた。

「ううん。元々一人だったから名前は一つだよ。それに二人で一人なのに名前が二つもあるなんて変でしょ?」

 むしろ一つの名前のほうがどちらの話をしているのか判り難くてややこしいと感じながらも、遺は更に新たな質問を恒河沙に投げ掛けた。

「じゃぁ、どっちが最初から居たの?それとも最初の人格が分裂して別々の人格になったの?」

「最初に居たのはボク。後から恒河沙が生まれたんだよ」

 何の躊躇も無く答える恒河沙の答えを遺は素直に信じそうになったが、もしかするともう一人の恒河沙も同じことを言うかもしれないと思い直した。

 恒河沙はさっぱり考えずに歩いているらしく、道の角に来るたびに適当に曲がって先へと進んだ。

「どうしてもう一人恒河沙が生まれたのかな―――」

 横で歩きながらそう呟くと、道端に植えられた草花を楽しそうに眺めていた恒河沙は急に切ない顔をして俯いてしまった。

「知りたいなら教えてもいいよ。でも恒河沙怒るだろうな――」

 前より歩みを遅くして、恒河沙は十字路を左に曲がった。土地ぎりぎりまで建てられた古いアパートの向こうに、小さな湖と野原が広がっていた。

 ぱっと顔を輝かせ湖の畔に駆け寄り、草地に座ってさざ波の立つ水面をじっと覗き込む恒河沙。歩いて追いついた遺はその隣に腰を下ろし、恒河沙が話し出すのを待った。

 遺の無言の期待に気付いた恒河沙は揺れる水面を観察するのを止め、座り直すと素直な声で話し始めた。

「恒河沙が不幸なのは恒河沙の生い立ちに関係があるんだ」

 詠うようにそう言って恒河沙は膝を抱き雲ひとつ無い澄み渡った青空を見上げた。

「昔々・・・まだボクしか居なかったころ、自分が居る世界に耐えられなくなったんだ」

 抽象的で難解な表現に首を傾げる遺を見て恒河沙は言葉を変えた。

「要するに二次反抗期が早すぎたんだね」

「ふぅん―――」

 それでもいま一つ理解出来ず気の抜けた相槌を打って遺は恒河沙を見た。どう歳を取っているように見ても十七、八にしか見えない。ということは第二の恒河沙は現れてからまだ十年も経っていないことになる。歳で言うなら小学校中学年程度のはずの第二の恒河沙をあそこまで擦れさせたのは何なのだろうか。

 黙ったまま考える遺の隣で恒河沙は記憶の糸を辿るように青い空に蒼い眼を泳がせた。

「ホントもう何もかもが嫌になっちゃって全部が憎くって自分の無力さを知ってでも認めたくなくてね。ある時、すごく哀しくて死にそうになったんだ。そしたら急に電気が切れたみたいに視界が真っ暗なって――気がついてみたら困ってたことが解決してるか、どーでもよくなっちゃってたんだ」

「真っ暗になったらって―――その間の記憶は?」

 遺の心配そうな問いかけに恒河沙が首を振った。

「無いよ。多分その時初めて恒河沙が生まれたんだと思う。だけど最初は“もう一人”が現れたことに全然気付かなかった。恒河沙のすることが段々激しくなって、全く記憶に無い事が起こるようになってからやっと気が付き始めたんだよ」

 膝を抱えたまま透明な水面の向こうを見ていた恒河沙は一旦言葉を切り、息を吸った。

「絶対おかしいって思い始めた時、初めて恒河沙がボクの意識のある内に現れたんだ。恒河沙は自分が何故生まれたのか大体解ってたから、それをボクに教えてくれた」

「ちょっと待って・・話し合いなんて出来るの?いくら二重人格でも体は一つなんだから」

「二人とも起きてると話が出来るんだ。片方がもう片方の意識の中で喋ることもあるけど、大抵は後から起きてきた方が外に出て話すよ」

「外、ですか―――」

 恒河沙の突然には信じられない説明に開いた口が塞がらない遺。恒河沙は頷くと話を元に戻した。

「恒河沙がボクに教えてくれたって言ったよね?どうして二人目が現れたのか。恒河沙はボクのひずみの産物なんだって」

 白い腕で抱えた膝の上に日に当たっていない青白い頬を置き遠くを見詰める恒河沙。

「壊れそうなほどの憎悪や苦悶が恒河沙を造ってるんだ。ボクの苦しさや悲しさを取り除いてくれる。だから、ボクが痛みを感じても、傷ついてるのは恒河沙のほうなんだ」

「それじゃ、あの恒河沙は二人分の苦痛を引き受けてるんだ・・・」

 話を聞いて常に無愛想な恒河沙を思い出し、遺は少し同情した。思わず口から漏れた遺の言葉に、恒河沙が膝に埋めた顔を動かす。

「うん――おかげでボクはどんな悲しくて苦しいことがあっても次の日には明るくしていられるんだ。だけど、代わりに恒河沙が苦しむことになっちゃう――。しかも恒河沙が何か楽しいことを感じても、楽しいことや嬉しいことはボクのものになってしまうんだ。幸せを感じてもそれが自分のものじゃないなんて・・・」

 暖かい風が緩く吹いて二人の髪を揺らし、恒河沙が暗い眼を伏せて薄い唇を動かし囁くように言った。浅い湖の水草が生える水底を見詰めながら恒河沙は続ける。

「ボクが苦痛を感じなければ恒河沙も苦しまなくて済むんだ。・・でもそうすると恒河沙は消えちゃうんだ。恒河沙を苦しめたくないし、恒河沙が居なくなるのも嫌なのに・・・」

 蒼い眼に涙を溜め、細い声を震わせながら恒河沙は金髪を揺らし項垂れた。丸く小さくなる恒河沙の背中を遺が慰めようと摩った。

 暫く沈黙した後に恒河沙が頭を上げた。丸めていた背筋を伸ばすと恒河沙はまだ潤んでいる眼を拭い無理矢理笑顔を造った。

「だから悩むのはこれで終わり。恒河沙のためにも、いつも笑顔でいなきゃ」

「恒河沙・・・」

 空元気を心配して声を掛ける遺の前で、恒河沙は膝の上で組んだ腕の中に顔を埋めた。

「―――もう眠くなってきちゃった・・・ごめんね、先帰ってて――もうそろそろ恒河沙が起きそう・・・・」

 最後に蚊の鳴くような声で言うと、恒河沙は腕の中でうっすらと開いていた瞼を閉じて静かな寝息を立て始めた。まだ怒っている、と聞いたのを思い出した遺は眠る恒河沙を起こさないようにそっと立ち上がると忍び足で来た道を戻り、角の古アパートの陰から恒河沙の背中を見守った。

 振り返ってから数秒も経たない内に静かに眠っていた恒河沙が立ち上がった。

 湖の方を見詰めたまま動かない恒河沙を、古アパートの植え込み越しに遺が息を潜め見詰める。

 急に、恒河沙が手を振り上げ湖の水面を叩いた。

 一瞬水面が下がり、次に水の弾ける音と共に激しく高い水柱が立った。

「―――!」

 常識を超えた現象を前に立ち竦む遺に背を向けたまま、恒河沙は肩を怒らせてまだ水飛沫の上がる湖を後に別の道から帰っていった。

―――言うこと聞いておいて良かった・・・。

 恒河沙の激怒ぶりに自分が直に触れなかったことに遺は胸を撫で下ろし、安堵の溜息を吐いた。耳を澄まし恒河沙がこちらへ戻ってこないことを確認すると、遺は自分も帰ろうと後ろを向いた。

 眼の前を、黒尽くめで黒いニット帽を被った男が歩いていた。

―――!

 遺と同じ方向に歩くニット帽の男の出現に遺は息を呑んだ。男の後姿はあのニット帽の男の背格好とよく似ていた。

―――あの男は死んだんだ。

 男から目を逸らさずに、遺は自分の中で膨らむ期待を論理的に押さえ込んだ。頭では理解しているものの、無意識に歩調が速くなる。

―――生きているはずが無い・・・!

 鼓動が高鳴る胸を片手で押さえつつ、近付いた遺は後ろから男の肩に手を伸ばした。

「あの・・・」

「ひっ」

 声を掛けると同時に男が小さく叫び、触れる寸前の遺の手を払い除けて遺を突き飛ばした。瞬間的に出された男の力は凄まじく、遺は為す術も無く民家の生垣に背中からのめり込んだ。

「きゃあ」

 驚いた拍子に間抜けた悲鳴を上げる遺。突き飛ばした後振り返った男は遺の顔を見た途端、じりじりと後ずさりを始めた。

―――この力、やっぱり・・・?

 ぽきぽきと小枝を折りながら、遺が生垣から身を起こす。男は遺の一挙手一投足に怯え、向かいの民家のブロック塀に背中が付くまで後ずさりした。全身を緊張させ今にも走って逃げ出しそうな男に、遺は焦ってつい大声で呼びかけてしまった。

「あなたもしかして―――」

「うわぁっ」

 遺の声に驚いた男が飛び上がり走り出す。遠ざかっていく男を見て遺も慌ててその後を追った。男は怯えて足が縺れているが、それでも遺を少しずつ引き離して行く。男の健脚ぶりに遺は全速力でニット帽の男を追いかけた。

 突如男が立ち止まって振り向き、背後から迫ってくる遺の姿を確認した。思いの外近くに居る遺に男は更に怯えた様子で一瞬固まった。

 捕まえられる、と思った矢先、男は瞬きする間も無くブロック塀を遥かに超える跳躍をして民家の屋根に上ると二度と振り返らずに逃げていってしまった。

「ちょっと待って!」

 遺が叫び、男と同じように助走してブロック塀に向かって飛び上がり―――激突した。

「いたたた・・・」

 跳ね返されて地面に倒れ、アスファルトで膝頭を擦り剥いた遺が髪振り乱した情けない顔で起き上がる。顔を上げて紺色の瓦屋根を見上げた時にはもう、ニット帽の男の姿は何処にも無かった。

「そういえばもう普通の身体なんだっけ・・・」

 皮が擦り剥けて毛細血管が破れ、赤い血が滲んだ白い手の平を見て、遺が独り言を言った。狗門の居る本部で再生された頃の身体ならこの塀も楽々飛び越えられただろうが、それでは今ここに生きてはいない。男を捕まえられなかったことは悔しいが、短命のあの身体に戻る気は全く起こらなかった。

 手の平から目を上げ、遺はニット帽の男が去っていった方向の青空を見詰める。

―――あの能力、間違いない―――!

 再びニット帽の男に遭遇出来た遺の血の滲む拳に、知らぬ間に力が入っていた。

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