2
10 lux
背を向けて立つ男に、遺は両手を掴まれて身動きが取れなくなっていた。
威嚇するように低く呻る遺に、男は続ける。
「このまま無理を続けると腐敗で死ぬぞ」
「うるさいっ!」
掴まれていた手を振りほどき、掴みかかると男はひらりとそれを避けた。
「―――くそっ」
巧く関節をクッションにして着地する男の向こう側から陽気な声が聞こえる。
「やっほーう、お待たせー♪」
ビルの隙間の突き当たりから茶髪で長身の男、続いて銀髪の男が現れた。男の気が一瞬そちらに向き、すかさず遺は殴りかかった。
「危な――――」
茶髪の男が言うまでもなく、黒髪の男は振り向きざまに飛んできた遺の手を払い除け、遺は硬い道に投げ出された。
すぐ立ち上がろうと遺は地面に両手をついた。次の瞬間、遺の口から大量に赤紫色の液体が流れ出た。
「うぐっ」
身体を支える力を失い倒れこむ遺の前に誰かが近寄る音がする。多分黒髪の男だろう。
遺は力を振り絞って千切れそうに痛む首を上げた。
見えたのは、月光に照らされた黒髪の女だった。
「あ――――?」
思わず遺は自分の目を疑った。目の前に、あの黒髪の男と全く同じ服装の女が居る。
―――見間違えていたのか――?
いや違う、と遺は即座に否定した。目の前で戦っていたのは確かに男だった。肩甲骨まである髪の長さは同じでも、身長も肩幅も違う。
「何コレ」
後ろに佇んでいた銀髪が興味薄そうに女に尋ねる。
「知らん。大体見当はつくけどな」
女の声は黒髪の男の声によく似ていたが、黒髪の男の声はもう少し低いものだった。銀髪の男は蔑むように地面に這う遺を見下ろし、後ろに下がった。
「肺と神経系の一部がやられてるね。放っとけばそのうち死ぬよ」
「死にそうだよーかわいそうだよーなんとかしようよー」
残酷なまでに冷静に言い放った銀髪の横、茶髪の男が女の後ろから眉を八の字にして遺を覗き込み言った。
「オレじゃなんともできんぞ。助けたけりゃ自分でやれ」
女はそう言って遺の前から下がり、茶髪の男が前に出て咳き込む遺に手を差し伸べた。
遺はその手を振り払い、反動でまた赤紫色の液体を吐いた。
「触るなっ・・・!」
「自分から接触したのにね。理不尽だよ」
銀髪の男が一番遠くから寒いくらい澄んだ蒼い目だけ遺に向けて言う。茶髪の男は悲しそうに手を引込めると、両手を屈んだ膝の上に置いて遺に話しかけた。
「キミはまだ助かる見込みがあるんだ。命を無駄にするのはもったいないと思わない?」
暖かい茶色の瞳を遺は険しい目で睨み返す。黒髪の女が肩を竦め、茶髪の男に言った。
「説得に時間が掛かりそうだな。先に話してるぞ」
「うん」
茶髪の男が女に向かって頷くと、女は銀髪に向き直った。茶髪の男が遺を説得する方法を考えている間、遺は二人の会話に耳を欹てる。
「持ってきたか」
「勿論」
銀髪が至極当然と言い切り、右手を甲の方を向けて女に見せる。その人差し指に、アイスグリーン色の宝石が嵌められた銀の指輪をしている。それを見て女は満足げに頷いた。
「相変わらずお上はオレ達のことをあまり信用してくれてないみたいだ。だからそれとなく―――」
「よーし、ねぇキミ」
二人の会話が本題に入りかけたところで茶髪の男が遺の視界に割り込んできた。大きな茶色の瞳に月光が入り、まさしく茶目っ気たっぷりだ。
「あのさ、キミの身体はどう見てもあと二日ももちそうに無いんだよね。それに再生方法も良いものじゃないし、その方法だと二回目の再生はもっと難しくなるよ?」
遺の顔を覗き込み、気遣うように控えめに微笑む男。その言葉に遺が鋭く問う。
「だからなんだ」
「だから・・・このまま死ぬのが嫌だったら、ボク達にキミの身体を治させてくれる?少なくとも今のままよりは、寿命を延ばすことができるよ」
優しく言うのを半分ほどしか聞かず、遺は茶髪の男の向こうに見える黒髪と銀髪の様子を伺う。二人はただ話しているだけだ。
―――取引じゃないのか?
自分の考えに自信を失くした遺が視線を元に戻すと、茶髪の男が優しく微笑みながら待っていた。
「ね?生きようよ」
「でも・・・」
決心出来ずに目を伏せる遺の耳元に顔を寄せると、茶髪の男は小さな声で甘く囁いた。
「自分の身体、取り戻したいんでしょう?」
見開かれた遺の眼前を、忌まわしい過去の記憶達が通り過ぎて行く。
無理矢理歓楽街へ連れて行こうとする友人達、道路の向こう側に立つニット帽の男。溶けていく自分の身体、悲鳴―――そして涙。
「取り戻せるのか・・・?」
何時の間にか喉から声が漏れていた。口からでた自分の声は耳から身体へ入り、自分の中で反響する。
―――取り戻せるなら・・・
茶髪の男は壊れやすく繊細なガラス細工を診る職人のように微笑んだ。
―――取り戻せるなら・・・!
話が終わった黒髪と銀髪が遺に歩み寄ってきた。
「どうだ?」
「助けてもいい?」
女の質問に茶髪の男は質問で返し、それを聞いた銀髪の男は顔を顰めた。女は少し考えると、辺りを見回した。
「誰にも見つからんならいいぞ」
女の言葉に茶髪の男は眉を上げる。
「ここではちょっと・・・」
「できないの?お得意の魔法陣で治してやればいいでしょ」
銀髪の男の言及に茶髪は弱腰ながらも弁明する。
「陣は真平らなところじゃないとムリなんだ。ここは狭いし、デコボコすぎるよ」
「んー」
二人のやり取りを傍で聞いて眉間に皺を寄せ大袈裟な身振りで考える黒髪の女。ポン、とオーバーアクション気味に手を叩くと、茶髪と銀髪を指して言った。
「よーしわかった!応急処置しろ!」
「はァ?」
女の急な提案に銀髪の男がいかにも不服そうに抗議の声を上げる。それを聞いた黒髪の女はこれまた大袈裟な身振り手振りを交えて二人に説明する。
「確かここら辺に隠れ場所が用意してあるだろ。あそこなら治療に必要な場所も道具もある。そこに着くまでの応急処置だ」
足元でまた赤紫色の液体を吐く遺を見下ろす銀髪。そして顔を上げて再び女を見る。
「何とかもつんじゃない?」
「見た目的に無理じゃん」
笑えないボケに女が突っ込み、銀髪は不満げに鼻を鳴らして一歩下がる。
渋々茶髪の男の隣に立つと、銀髪の男は茶髪に言った。
「ボクは神経系だ。肺を頼むよ」
「うん」
茶髪の男が真剣な面持ちで頷き、茶髪と銀髪は地面に無様に這い蹲る遺を見詰めた。黒髪の女は遠巻きにそれを眺めている。
突如、遺の身体に激痛が走り、遺は人間とは思えない悲鳴を上げた。
痛みにのた打ち回る遺を三人は唯黙って見るだけだ。遺は耐え切れない痛みから逃げようとして必死にもがいた。
始まったと同様に、身体を駆け巡る激痛は何の前触れもなく止んだ。静かになった空間に、遺の悲鳴のこだまが消えていく。
「やれやれ―――」
最初に口を開いたのは黒髪の女だった。
「防音壁を張っとかなけりゃ今頃警官が飛んで来てたぜ」
「ごめん、痛かったよね・・・」
まるで自分のことのように心配し謝る茶髪の男の横から、銀髪の男が悲鳴にも動じず事務的に遺に言う。
「もう吐き気も頭痛も無いでしょ」
「あ―――」
地面を掻いて爪が剥がれ、血まみれになった白い手を自分の頭に持っていく遺。男の言うように、確かに今までの症状全てが無くなっていた。茶髪の男が地面に片膝をついて、遺の血まみれの手をとってゆっくりと立たせる。少しふらついたが、立たされた後は粗方自力で歩くことができた。
「行くぞ」
黒髪の女が素早く辺りを見回して言い、ビルの隙間から表通りに向かう。銀髪の男がそれに続き、遺と、それを支える茶髪の男が後を追った。
遅れてビルの隙間から出ると、黒髪の女と銀髪の男が道の半ばで足を止めていた。
「どうしたの?」
遺を隣で支えて歩いてきた茶髪の男が不思議そうに尋ねる。銀髪はその声に目だけ後ろを見たが、何も答えずにまた視線を戻した。つられて銀髪の見る先に目を遣ると、黒髪の女が緊迫した様子で拳を固く握っている。そしてその肩越しには黒尽くめの女が、銀色の細長いモノを片手に街灯の上ひっそりと立っていた。
「―――!」
遺の喉から引き攣った声が出る。月光を背後に逆光になった黒尽くめの女は、まるで息すらしていないほどに静かにそこに居た。あのニット帽の男以来に見る、“悪討ち”だった。
“悪討ち”は我が目を疑う遺をちらと見ると、黒いピンストライプスーツの懐から灰色の瓶を投げて遣した。咄嗟に避けようとする遺の横で、茶髪の男がそれを受け取る。
「おまえが『遺』か」
“悪討ち”の女は感情の無い声で遺を見据えたままそう尋ね、遺が頷くと懐から一枚の羊皮紙を取り出しそこに書かれた文章を掲げ宣告した。
「おまえの代行者として告ぐ。“悪討ち”『遺』は日ノ岡町の任を解かれ、代わりに“悪討ち”『佐波』が日ノ岡町の任に就く。本部から追って任地の沙汰あるまでは行動を共にする。解ったな?『遺』」
女の顔は月光で逆光になっていたが、夜目の利く遺にはその顔がよく見えた。何の感情も無い、まるで獣のようだった。頷かない遺を見て、佐波と名乗った“悪討ち”は一寸だけ眉を顰め、遺と共にいる三人を訝しげな目付きで見回した。
「こいつらは?」
街灯の上から傲慢な態度で佐波が訊く。茶髪の男が不安そうに黒髪の女を見詰めると、女は鋭い目付きで茶髪に指示した。
「下がってろ」
茶髪の男が頷き、遺の手を引いてビルの陰に入り込んだ。隙間から見える景色の中で、銀髪の男が黒髪の女に近付くのが見えた。
「このままじゃ、あの死に損ないを連れて帰るのは難しいね」
「おまえも下がってろ」
低い声で黒髪の女が言い、銀髪は苦い顔をするとすごすごと遺達の居るビルの隙間に戻って来た。やってきた銀髪に茶髪が外の様子をはらはらと心配しながら尋ねる。
「だ、大丈夫かな・・・」
「あいつらの差し金じゃ無いみたいだ。心配無用だよ」
少しも動揺せず銀髪の男は言うと、埃だらけのコンクリート壁に寄りかかり、外の様子など気にも留めないといった雰囲気で人差し指に着けた指輪をくるくる回した。
銀髪の言葉を聞いた茶髪は微かに安堵の溜息を吐き、掴んで放さなかった遺の手を放した。
「よかった―――黒尽くめだからてっきり・・勘違いしちゃった」
茶髪の男が言うのを聞いて遺は小首を傾げる。しかし二人は最早“悪討ち”には関心が無くなったらしく、無言でそれぞれに暇つぶしを始めてしまった。尋ねられる雰囲気では無いと感じた遺は黒髪の女と“悪討ち”がどうなったか見ようと茶髪の肩越しに首を伸ばした。
月光が雲に遮られ、黒髪の女と“悪討ち”は暗闇の中互いに睨み合い構えていた。
“悪討ち”の身体は一般人よりも数段夜目が利くことを知る遺は黒髪の女が溶かされると感じ、茶髪の男の服を引っ張る。
「ん?」
「気を付けたほうがいい・・アイツは人間じゃないんだ」
まだ液体が喉の奥に残る遺はしゃがれた声で忠告したが、茶髪は全く気にしていない。
どころかにっこり微笑むと、遺の身体を回して黒髪の女と“悪討ち”がもっとよく見えるようにして、遺の耳元で囁いた。
「どっちが勝つか見ててごらん」
「だから―――」
遺が“悪討ち”の身体能力と人体を溶かす酵素について話そうとするが、茶髪の男は聞く耳持たずに黒髪の女を眺めている。言っても解ってくれないかと遺は諦め、もしもの時は自分が女を庇おうと腹に力を入れ対峙する二人に視線を戻した。
“悪討ち”は自分の前に現れた黒髪の女を一瞥して口を開いた。
「・・・どこの“悪討ち”だ?自分の任地に戻れ」
黒いカットソーに黒いレザーパンツと黒尽くめの女を同じ“悪討ち”と思ったようだ。
偉そうに言う“悪討ち”を女は小さく鼻で笑うと質問に答えた。
「ご期待に添えなくて残念だけど、オレは“悪討ち”じゃぁないぜ」
黒髪の女の返答に、“悪討ち”の佐波は予想外だと驚いた。その無表情な顔に一瞬だけ困惑と動揺の色が浮かんだ。銀色のモノを握り直し、今度は慎重に尋ねる。
「ならば何故あの“悪討ち”と共に居たんだ」
「話すと複雑になるけど・・まぁ死にそうなところを助けたって感じかな。あ、オレじゃなくてさっき居た茶髪と銀髪がね」
黒髪の女が殺気をものともせず悠々と答える。佐波は秀麗な顔に皺を寄せると、凄みを利かせた声で迫った。
「だから、何故おまえにあの“悪討ち”が近付いたんだっ」
一般人に正体を悟られるなと命令された遺がその一般人と共に居たことが、彼女は気に入らなかったらしい。佐波は握る銀色のモノが軋むほど手に力を入れ、高ぶる感情を抑えようとしている。一触即発な佐波の態度を見て黒髪の女は気まずそうに頭を掻いた。
「うーん・・いきなり飛び掛って来たからな―――何故って言われても」
正直に話してしまう黒髪の女に遺は遠くから首を振ったが、既に遅かった。“悪討ち”が攻撃するのは悪人だけ。女の言葉は自分が遺から悪人として攻撃されたことを証明してしまった。
黒髪の女の言葉を聴き、佐波の顔に残酷な冷笑が広がる。先程の“悪討ち”に対してよりもさらに高慢な様子で佐波は銀色のモノを胸の前に構えた。
「なるほど・・貴様は悪人と云うわけか」
「悪?・・まぁそう言えばそうなるかな・・」
黒髪の女が顎に手を遣って考える隙に、佐波は街灯を蹴って女へ飛んだ。バネのように撓った腕が銀色のモノを女の喉下に突き出す。
「ならば死ね!」
「ひっ・・・」
耳元まで裂けるほど冷酷な笑みを浮かべた佐波の攻撃を見て遺が引き攣った声を上げる。
だめだ、もう間に合わない。
思わず両手で目を塞ぎ女の最期を見るまいと肩を竦める遺。しかしその耳には空を切り裂くモノの音しかしなかった。
「―――?」
目を開くと、佐波が突きを外してよろめく姿が見えた。黒髪の女の姿は無い。
「悪いな。そんな簡単に死ぬわけにはいかないんだ」
もんどりうって地面に手をついた佐波の背後から声が聞こえ、佐波はすぐさま振り返った。黒髪の女がポケットに両手を突っ込み、気楽な姿で立っている。
背後を取られた佐波は歯噛みすると、筋肉を収縮させて素早く振り返った。またしても首筋めがけて繰り出されるモノを屈んで避けると、女は佐波の足元を掬った。
「!」
背中から硬い地面に打ち付けられた佐波の右手を女が抑え、その手に持つ銀色のモノを取り上げると遠くへ投げた。唯一の武器を取り上げられた佐波は相変わらず余裕のある女を見て怯む。
「な、何者なんだ、貴様・・・!」
佐波の本音に黒髪の女は暫し考える。力の緩んだ手を振り解くと、佐波は女の腹を蹴った。が、女は一瞬速く後方に飛んでいた。カットソーに付いた佐波の爪先の土を払い落とすと、女はにやりと笑ってみせた。
完全に優位に立つ女の笑顔に、佐波は顔を顰める。乱れたショートヘアの下から、冷や汗が頬を伝った。
「おい、行くぞ」
相手にならないと思ったのか、黒髪の女はビルの隙間に居た遺達を呼ぶと佐波に背を向けて歓楽街外れの坂の方へ歩き出した。女の強さに驚嘆する遺を押して茶髪の男が女の後を追う。
「――――っ」
全身に力を入れ、ビルの壁を蹴って女を追いかけようとした佐波の頬を何かが掠めた。そのひんやりとした感触に佐波の身体が震える。動かない身体の眼だけを壁に向けると、さっき遠くへ放り投げられたはずの銀色の細長いモノがコンクリート壁に突き刺さっていた。
「やめときなって、お嬢さん」
遠く坂の上で黒髪の女が佐波の方へ振り返り面倒臭そうに言った。片手をポケットに突っ込み、もう片方の手はダーツを投げた後のような格好で。
本能的な恐怖を感じた佐波の瞳孔が暗闇の中小さくなっていく。じっとりと冷や汗で濡れた震える手で壁のモノを掴むと、その場にへたりこんだ。
「そんな馬鹿な・・」
去って行く女の後方で有り得ない、有り得ない、と口の中で何度も呟く佐波の前に影が落ちた。人影に気付いた佐波が歯の根の合わない顔を上げると、銀髪の男がこれ以上無いほど冷ややかな眼で佐波を見下ろしていた。
銀髪の蒼い眼を見上げながら、佐波はピンストライプスーツの内ポケットを探り、小型の無線機を耳に当てた。
「――本部に連絡しなくては・・・」
冷や汗でずぶ濡れになったこめかみに無線機を押し当て、佐波は無線機の電源を付けようと人差し指を無線機の横にある赤いスイッチに掛けた。銀髪の男は黙ってその様子を見ていたが、スイッチを入れようとしたその時、佐波に向かって手を伸ばした。
佐波が顔を引き攣らせるが、催眠術にでも掛かっているかのように男の蒼い眼から眼を逸らせることが出来ない。
銀髪の男は固まったまま冷や汗を掻く佐波の手から無線機を取ると、それを地面に落とした。その間、一瞬たりとも佐波の怯える目から眼を放さずに。
「見たね」
銀髪の背筋も凍る冷たい声に佐波は震え上がった。
「な、何を・・・」
巧く舌の回らない佐波の首に、男の片手が掛かる。まるで冬の海に落ちた死人のようにその手は冷たかった。銀髪の男は蒼い眼を少しだけ嫌悪に窄めると、その手を離した。
足元に倒れる佐波を冷淡な眼で一瞥すると、銀髪の男は街灯の灯に銀髪を煌かせ遺達が向かった方向へ歩き出した。背後で佐波の声が聞こえ、続いて地面から立ち上がる音が聞こえた。
佐波は銀髪の男が去って行く後ろでその場から立ち上がると、乱れた髪を整え、地面に落ちた無線機を拾って内ポケットに収めた。それから辺りを見回すと、何事も無かったようにビルの隙間へと消えていった。
坂を越えた道路を渡ったところで、遺達の後ろから銀髪の男が追いついて来た。
「遅いじゃん、もー」
茶髪の男が口を尖らせて茶化したが、銀髪の男は相手にせず一直線に黒髪の女に近付く。
女がそれに気付き振り向くと、銀髪は他に聞こえない低い声で何か言った。黒髪の女はふっと笑うと、銀髪に礼を言う。
「よかったのかなー、あの人困るんじゃない?ボク達にこの子連れて行かれて」
茶髪の男が星の瞬く夜空を見上げつつ誰とはなしに尋ねると、銀髪の男が振り向きもせずそれに答えた。
「辻褄は合わせといたから」
「そっか。じゃ平気だね」
訳の分からない会話を終えると、茶髪の男は安心したと微笑んだ。黒髪の女は後ろも見ずに歩いていき、銀髪の男が小走りで追いついていった。
不思議なことに、その後“隠れ場所”に着くまでは誰にも彼らが見えていないようだった。
20 lux
価値観とは他人それぞれなものだから。
“隠れ場所”は―――はっきり言って丸見えの掘っ立て小屋だった。月明かりに照らされたそれは一層ボロく見え、中に無精髭を生やしたおじさんが住んでいるのかと思わせるほどだった。
「ここが―――?」
「そー。オレ達の隠れ場所」
最初に“隠れ場所”を見た時もそのボロさに驚いたが、中に入ると今度は別のことでもっと驚いた。外同様ボロボロの内装だが、明らかにそこは外から見たときの大きさを超えていた。平屋建てのはずなのに、吹き抜けのある二階建てになっている。遺は思わず玄関の前で立ち尽くした。
黒髪の女が中に入ると、自動的に灯りが点いた。
「んー上々ー」
黒髪の女は満足そうに笑い、遺に続いて男二人も中に入って来た。
「薬品が少ない」
即座に銀髪が文句を付けた。黒髪の女は居間の一人掛けソファに座り答える。
「買い足せばいいだろ」
そうして、ソファのスプリングを使って座ったままに何度も飛び跳ねた。
「うはーこれすげぇスプリングがきいてる!」
「モルヒネとか手に入れるの大変なのに・・・」
銀髪の男が女の横でぶつぶつ呟いて手近にある散らばった瓶を集める。黒髪の女は飛び跳ねるのを止めてその様子をしげしげと観察する。
「希塩酸じゃなくて濃塩酸だって言ったのに・・王水作れないじゃんか・・・」
その他にも臭素が足りない、ケイ素が無いルビジウムが欲しいと呟きながら銀髪の男は薬瓶を今にも崩壊しそうな木製の棚に並べていった。不思議そうに見詰める遺の肩を茶髪の男の手が叩く。
「今から準備を始めるんだけど――その前にもう少しキミのこと教えてくれる?今の身体を治すんじゃなくて、元の身体を造るために」
遺が振り向き、不審げに茶髪の男を見る。
「おまえたち―――いったい何者なんだ?」
「ん?」
遺の問いかけに黒髪の女がだらしなく寝そべっていたソファから身を起こす。銀髪の男も薬瓶を置いて遺を振り返った。茶髪の男は一寸戸惑い、女の方を示す。
「それは彼女に訊くのが一番だね」
茶髪の男にそう言われた女は顎に手を遣ると、どこかのテレビドラマの探偵がよくする“考えるポーズ”をした。
「そうだな――オレ達は・・・」
黒髪の女は暗茶の眼を細めると、顔を上げて答えた。
「オレは那由他。そこの茶髪が阿僧祇。あの銀髪が恒河沙だ」
女の自己紹介に茶髪の男は少し眼を丸くしたが、すぐに元の笑顔に戻った。しかし銀髪の男は顰めた顔を戻そうとはしなかった。茶髪の男が改まって遺に挨拶する。
「よろしくね。えっと・・・」
「遺だ」
遺が簡潔に名を述べ、女が軽く会釈をする。銀髪が女に歩み寄り、小声で囁いた。
「なんでボクが一番少ないのさ」
「河だから」
女の答えに銀髪は黙る。渋々ながらも納得したようだ。
茶髪の男は遺の背中を押して女の隣のソファに座らせ、自分は嫌がる銀髪と二人掛けのソファに座った。
女はソファの肘掛に片肘をついて顔をその上に乗せた。
「オレは専門外だから見物させてもらうよ」
女の宣言に男二人が頷き、銀髪が刺すような鋭い声で遺に言った。
「血液型、身長とか基本的な身体情報を言って。できれば両親の血液型も」
「血液型はA。身長は・・一六一?。体重は以前計ったので――」
遺が自分の身体について述べ、銀髪が時々質問することが十数分繰り返された。
最後に、茶髪が一応確認にとばかり遺に尋ねた。
「家は近いのかな?」
遺はここが家からどのくらいか少し考え、頷いた。銀髪と茶髪が互いの顔を見合わせる。
「どんな家?覚えてること全部教えて」
茶髪の男が水を得た魚とばかりに顔を輝かせて遺に続けて訊く。遺は古い記憶を辿りながら、ここからどのくらいか、どのような外観か、自分の部屋はどこにあるかを話した。
それを聴いていた銀髪が女の方を向く。
「協力して」
「あいよ」
言われて女が眼を閉じた。眼を瞑ったままの女に銀髪が言う。
「採ってきて」
女は黙ったままだ。眼を閉じたまま一瞬何か悩んだ顔をすると、支えにしていないもう片方の手が空を掴んだ。黒い髪が二本、握られていた。
「どっちか判らなかった。頼む」
銀髪の男は二本の黒髪を受け取ると、すぐに片方を捨てた。
「こっちが本物だ」
そして暫し沈黙し、疑うような目で遺を見た。女も同じように遺を訝しげな眼で見ている。
「あんたの家にもう一人あんたが居たぜ」
複製について言われた遺は黒髪の女から眼を逸らし、床に泳がせる。女は言うのを止めず、話を続けた。
「しかも人間じゃない。どういうことだ?説明してもらおうか」
遺はごくりと生唾を飲んだ。三人の目が遺一人に注がれている。
「お・・・オレは・・・」
言葉に詰まった遺はポケットから一枚の紙を取り出した。昨日狗門から届いたメモだ。
茶髪の男がそれを遺から受け取り、一度眼を通して女に渡した。
「つまり、悪い人を殺してしまおうって組織の人なんだね?」
狗門のメモを読んだ茶髪の男が眉根を寄せて遺を見詰める。男の視線を避けるように遺は俯き頷いた。
「だからオレに飛び掛ってきたのか」
メモを片手に持って読んでいた女がそれを銀髪の男に渡す。
「・・・この狗門というのは」
「組織の・・代表と言っていた」
メモから眼を上げた銀髪の鋭い質問に気まずそうに答える遺。膝の上で拳を握り締め、搾り出すように続ける。
「酵素で人を殺すから、死体は残らないと・・。ケースは銀色で・・さっきの場所に」
「これか」
女の手には何時の間にか細長い銀色のモノが握られていた。銀髪の男にモノを投げ渡し、片手で受け取った銀髪がそれを調べる。
「これだけは賞賛に値する代物だね」
銀髪の男が言い、木の机の上に銀色のモノを置いた。茶髪の男はそれを横目で見ると、遺に向かって安心するように微笑んでみせた。
「とりあえず、髪の組織を元にキミの身体を造ってみよう。自分の身体を取り戻すことがここに来た理由なんだから」
「・・・」
三人の顔色を上目遣いで窺う遺に、茶髪の男は笑って手を差し出した。
30 lux
もうすっかり日が昇り、“隠れ場所”のボロボロな壁の隙間からは幾筋も太陽の光が差し込んでいた。
居間らしき空間の奥の方では恒河沙が銀髪を太陽光に透かしながら計器をいじっている。
「どーだ?」
「修復は完全に終わったよ。あとは意識を移し変えるだけ」
慣れた様子で右手を伸ばしダイアルを回す恒河沙の後ろで、寝起きの那由他は眠そうな暗茶の眼をこすっている。
「・・・ちょっと眠ってくるわ」
「二、三日ってこと?」
「いや。半日経ったら起こして」
「どこがちょっとなんだか・・・」
「何か言ったかぁー?」
「別に」
ひとまず恒河沙が不満を言い終えると、那由他は黒髪を掻き揚げ二階へと昇っていった。
暫く経って、巨大な計器のさらに奥の扉が開き、茶色い髪が覗いた。
「やっほ、恒河沙」
明るい阿僧祇の挨拶を計器の調整を続け黙殺する恒河沙。返事が貰えず頬を膨らませる阿僧祇に恒河沙は問う。
「全部元に戻したの」
阿僧祇の楽しそうな茶色の瞳が恒河沙を見て細くなる。
「うん。全部」
満面の笑みで答える阿僧祇に、恒河沙は計器から手を離し言葉を吐く。
「最低だね、キミは」
「あははははは」
阿僧祇が本当に楽しそうに笑った。それから純真無垢な笑顔を恒河沙に向けた。
「そんなのずっと前から知ってるじゃん」
阿僧祇の正真正銘の優しい笑顔を、正真正銘の憎しみを込めた蒼い眼で睨む恒河沙。
数秒間対峙した後、二人の口が同時に開いた。
「「良く出来た仮面だね」」
一方は本当に本心から、一方は皮肉を込めて。恒河沙は不快そうに顔を顰めると、計器の方に向き直った。
「恒河沙」
阿僧祇が言った。恒河沙は計器をいじる手を止めたが振り向かない。
すぐ作業を再開する顔の見えない恒河沙にむかって、阿僧祇は微笑みながら訊いた。
「今でも死ぬのが怖い?」
恒河沙の透けるように色白な手が止まった。
「・・・まぁね」
振り返らずに蒼い眼だけを阿僧祇に向ける。
「そっちはどうなのさ阿僧祇」
阿僧祇は唯微笑んで恒河沙の質問を待つ。恒河沙は一瞬蒼い眼を伏せると、躊躇い気味に阿僧祇に尋ねた。
「今でも・・・生きるのが怖い?」
「うん」
阿僧祇が答え、哀しそうに笑った。壁の隙間から差し込む柔らかな日の光が顔に当たり、まるで泣いているように見えた。
昼の光が眼に入り、遺は目に刺すような痛みを感じたが、それもすぐに治まった。もう一度目を開けると、阿僧祇と恒河沙が崩れそうな天井を背景に自分を覗き込んでいた。
「おはよう」
阿僧祇が遺に少しおどけた感じでそう挨拶した。恒河沙が横でそれを訂正する。
「今は昼過ぎだよ」
「お・・・わ、わたし・・・」
無意識に口から出て来たのは“オレ”ではなく“わたし”だった。その方が自然に思えた。差し出された阿僧祇の手を借りて起き上がると、穴の開いた天井から部屋いっぱいに差し込む光の柱が見えた。
―――世界ってこんなに明るかったっけ。
日の眩しさに目を細めて遺は額に手を翳した。見えた袖口は黒いスーツではなく、あの日着ていたセーラー服だった。
「これ・・・?」
「それ制服なんでしょ?スーツから寸法測って買ってきたんだ」
阿僧祇の良く通る明るい声が遺の頭の中で反響する。
「・・ありがとう・・・」
感謝の言葉を述べる遺の隣で恒河沙が、やってらんないよという顔をする。制服の感触を手で確かめる遺の前に阿僧祇が大きな鏡を置いた。
「自分の身体、取り戻せたでしょ?」
顔を上げて鏡を見ると、太陽の光に包まれた自分が居た。髪も、目も、薄紅色の唇も全てあの日のままだった。赤紫色の液体を流し込んでいた忌まわしい管はその跡すら無かった。ヒソカ ユイが、自分を見詰め返していた。
「―――っ」
鏡を見詰める遺の中から熱いものが込み上げてきて、液体が握り締めた拳の上に落ちた。
唾液ではなく、涙だった。
「ど、どうしたの?どこか違った?間違ってた?」
鏡を見たまま泣き出した遺を心配して顔を覗き込む阿僧祇に、遺は泣きながら激しく首を振った。
「間違ってない・・間違ってないよ・・・!」
そう言ってまた泣きじゃくった。とめどなく涙を流す遺に阿僧祇はおろおろしている。
ひとしきり泣いた後、遺はまだ流れる涙を拭って二人に向かい微笑んだ。
「ありがとう」
生まれて初めて笑った気がした。
40 lux
「あー、治った?」
眠りすぎて腫れぼったくなった瞼をこすりながら、那由他が軋む階段を踏み二階から降りてきた。下の居間兼食堂では遺と二人が独特の匂い漂う夕食のカレーを食べていた。といっても、恒河沙は一口も食べていなかったが。
「うん!」
「はい」
遺と阿僧祇が二人同時に返事をする。那由他は何度も頷き、食卓に近寄ると自分用のソファに寄り掛かり皿に盛られた夕食を見た。
「あ、カレー」
「食べる?」
「おう」
那由他が食卓の端に置かれた炊飯ジャーと鍋から好きなだけ飯とカレーを盛り付ける。
「寝起きでもいつもと食欲変わんないんだね・・」
「なー、チーズないの?チーズ。スライスチーズじゃなくてとろけるヤツ」
「冷蔵庫のチルド室」
恒河沙の言った通りに冷蔵庫に向かいチーズを取り出すと、那由他は遺の隣の一人掛けソファに座った。山盛りのチーズカレーが机にどんと置かれる。
「凄い量食べるんだねー、那由他って」
遺がカレーを見たままの感想を率直に言う。
「そうか?」
「阿僧祇より多いじゃん」
「うん。一・五倍はあるよ」
カレーを半ばまで食べていた阿僧祇がスプーンを置き、全く手が付けられていない恒河沙の前に置かれたカレーを指す。
「同じ量注いだんだよ。ほら」
「ふーん」
適当に相槌を打ちカレーを食べるところだけスプーンでかき混ぜて掬うと、那由他はカレーを食べ始めた。
「何か性格変わったな」
「え・・・?」
チーズカレーを掻き込みながら那由他が遺に向かって喋る。
「前は何か、感情の幅が狭いってかさ。ちょっとぎこちない感じだったから」
那由他に言われ、狗門の元で再生されたころを思い返す遺。
「うん・・・前はあまり深く考えられなかった。本能的に動いてた」
「今もあんまり考えてないでしょ」
「そんなことないよっ!」
恒河沙の皮肉に顔を赤くしてムキになる遺。相手にされていない遺が恒河沙を恨みがましく睨むのを見て阿僧祇がクスクス笑う。
「まぁまぁ・・。それより恒河沙、そのカレー喰わないのか?」
遺を諌めつつも物欲しそうな目で冷めかけたカレーを見る那由他の方に恒河沙がカレーを押し遣る。
「いらない」
「よっしゃー」
拳を天井に突き上げ、残りのチーズを全てカレーに振り掛ける那由他。恒河沙は仏頂面のまま席を立って玄関右手の奥の部屋へ行こうとする。
「あ、あれ―――恒河沙、まだ何も食べてないじゃん」
遺の言葉に恒河沙が振り返り、摂氏マイナス五百℃の蒼眼で遺を睨む。
「だからいらないってば」
恒河沙の凍りつくような眼差しに硬直する遺に、阿僧祇が横から慰めの言葉を掛けた。
「恒河沙は混合物が好みじゃないんだ」
「アレは除くけどなー」
那由他が二人の会話に割って入って付け加えた。当の本人は不機嫌そうに奥の部屋に扉を開けて入っていってしまった。
各自夕食を食べ終えた後に、遺は篭ったきり出てこない恒河沙の居る奥の部屋の戸を少しだけ開けてみた。
ぎっしりと薬品が詰め込まれた分厚い木の壁に囲まれて、恒河沙が仏頂面で立っていた。
隙間だらけの扉から覗く遺に気付かず、恒河沙は棚を見詰めている。
―――何してるんだろ?
不思議な部屋に佇む恒河沙に興味が湧いた遺は扉をもう少しだけ開けた。立ち尽くしていた恒河沙の華奢な白い手が、棚の上の一つの瓶と注射器に伸ばされる。
瓶の中の無色透明な液体を注射器で吸い上げると、恒河沙は手馴れた様子でそれを自分の左腕に刺した。液体がピストンに押し出されて、静脈を通じ体内に入ってゆく。
―――クスリ?
連想が嫌な方向へ進み、思わず遺の身体が硬くなる。恒河沙が遺に気付く様子は全く無く、注射器を棚の下の机に置くと液体の入った瓶を片付けて、棚の一番奥から紅い錠剤の入った瓶を取り出した。
厳重に封をされた瓶の蓋を開けて二、三粒錠剤を取り出す恒河沙。深紅のそれを口に入れると、味わうように何度も噛み締めた。
ごくり、と溜飲の下がる音がして恒河沙は薄く整った唇を拭った。
手の甲に、真紅の血が付着していた。
「あ・・・!」
血を見て息を呑む遺の声に恒河沙が獣のように反応し、振り返る。扉の陰から覗いている遺を見ると、後ろめたいことを見られたと鼻に皺を寄せた。
「見たね」
口の端から青白い肌と対照に一筋の血を垂らして恒河沙が言った。遺の方に一歩近付いたが、遺は恒河沙から目を逸らすことすら出来なかった。恒河沙の口端から垂れた血が床に落ちて小さな斑文を造った。
「そ、それ何・・・?」
凍りつくような蒼眼に見られるのに耐えられなくなり遺は錠剤の入った瓶を指した。恒河沙は振り返りもせずに瓶の方へ少し目を逸らし、また遺を見た。
「キミに言う必要があるワケ?」
そしてまた朽ちそうな床を軋ませ近付く。生臭い血液の匂いが遺の鼻をついた。
「だ、だってさっき注射したのは薬物じゃないの?」
強くなってくる血の匂いから逃げようと扉を閉めかけた遺の手を恒河沙は掴んで部屋に引き摺り込んだ。抵抗しようと遺がもがくと、痛みと共に掴まれた手首の骨が軋む音がした。飽くまでも冷たい蒼い眼が遺を見据えている。その視線と尋常でない握力に、遺は初めてニット帽の男に会ったとき以上に強く確信した。
「人間じゃ・・ない・・・」
怯える遺を恒河沙は無言で観察している。まるで力を入れているとは見えない手の力を少し弱めると、遺の言葉に応えた。
「ヒトであってヒトじゃない。人間では無いことは無い」
掴んでいた遺の手を放すと、恒河沙は何事も無かったように机上から白いハンカチを取って口元を拭った。
「さっき打ったのはブドウ糖とアミノ酸だよ」
「え?」
恒河沙が、驚く遺の方に顔を向けた。相変わらず冷静で無関心な顔だった。
「死にたくないからね。仕方なく」
そう言って机上に置かれた他の瓶達を一つひとつ棚に戻してゆく。また新しい瓶を正面の棚から出すと、白い錠剤を飲み込んだ。
「今のはコラーゲン」
「そんなの・・・普通に皆と食べればいいじゃん」
口を尖らせて言う遺を恒河沙は思い切り睨みつけた。
「あんな不純物だらけで酸化して栄養価の偏ってるモノ食べられるワケ無いでしょ」
まるで早口言葉のように畳み掛けられて、遺は反論すら出来ずその場で立ち竦んだ。
たじろぐ遺を見て、恒河沙はいつもの無関心な顔に戻り棚に白い錠剤の入った瓶を戻した。深紅の錠剤が入った瓶だけが古びた木机の上に置かれている。その両脇に手を置くと、恒河沙は遺に背を向けたまま独白し始めた。
「死にたくないから摂ってるだけ。本当は食べたくない、飲みたくない、味覚なんて――要らない」
食欲を完全否定する恒河沙の言葉に遺は困惑し、当然のことを問い返す。
「ど・・どうして?おいしいものって沢山あるよ?好きな食べ物だって、一つくらいあるでしょ?」
俯いたままの恒河沙の肩に、遺は近付いてそっと手を触れようとする。途端、遺は元の立位置に戻っていた。
「あれ・・」
「ボクに触るな」
棚を見詰めたまま言う恒河沙に、遺は眼を伏せて唇を噛んだ。
時が止まったかと思えるほど居心地の悪い沈黙が、緩やかに部屋の中を渦巻いてゆく。
「やっほーぅ」
その沈黙を阿僧祇が盛大にぶち壊した。安っぽい木材で出来た扉を蹴飛ばして入ってきた阿僧祇を、恒河沙がこれ以上無いほどの嫌悪の顔で迎える。
「勝手に入ってこないでって言ったじゃないか」
「あ!恒河沙イイモノもってるじゃん」
恒河沙の苦情を全く気にせず、阿僧祇は深紅の錠剤が入った瓶を恒河沙の腕の間から取り上げた。
阿僧祇が瓶の蓋を開けるのを見て恒河沙は血相を変えそれを取り戻そうとする。
「返せよ!」
「いいじゃんか恒河沙はそれ持ってるんだから」
伸ばされた恒河沙の白くて細い手を掴み、その右手に光るアイスグリーンの宝石が嵌め込まれた銀の指輪を指す阿僧祇。
一瞬壊れそうに儚い表情になった恒河沙に、阿僧祇が微笑んで深紅の錠剤を見せた。
「二、三粒ちょうだい」
あれほど抵抗していた恒河沙が力無く頷き、阿僧祇は瓶の中から錠剤を取り出した。そして何処から取り出したのか判らない小さなアルミのケースに錠剤を入れた。金属に硬い物が当たる音が小気味よく響く。
「・・それって・・・」
ケースの中の錠剤を見て眉を顰める遺に、阿僧祇が明るい茶色の目を向ける。
「これが何か知りたい?」
初夏の太陽のように楽しげに微笑む阿僧祇に遺の身が震える。そろそろと後ろ手に扉へ手を伸ばした時、再び扉が開いて那由他が部屋に入って来た。
「オマエ達、研究はかどってんのかぁー?」
肩甲骨まである黒髪を弄りながら気の抜けた声を出す那由他の寝惚けた眼が深紅の錠剤を捉えた。眠そうだった眼が丸くなり、次に窄まる。微かに舌打ちの音が聞こえた。
「恒河沙。それを仕舞え」
先程までの間抜けた声とは打って変わった那由他の低く鋭い令に、恒河沙は瓶を棚に戻しその上に奇怪な文字の書かれた布を被せる。それを見届けた那由他が今度は阿僧祇に向き直った。
阿僧祇が那由他の鋭い視線に首を竦め、ぎこちない笑顔をつくって気を逸らそうとする。
「遺を助けたかったんだろ?」
「うん・・・」
亀のように首を竦め茶色の眼を泳がせる阿僧祇に、那由他が息を吐く。
「じゃぁこれ以上首を突っ込ませるな。せっかく修復した記憶を消さなきゃならなくなるぞ」
渋顔の那由他に言われ阿僧祇が肩を落とす。
「返事は」
「・・・はい」
しゅんとなった阿僧祇の返事に那由他が頷く。出て行こうと那由他が扉を見ると、遺が心配そうに立っていた。
「あ、あの・・わたし」
胸の前で白くなるほど握り締めた遺の小さな拳を暫く眺めると、那由他は目を上げ遺に向かって言い放った。
「以後気を付けるように」
突き放すような言い方に怯んだ遺を避けて、那由他は部屋から出て行った。
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形あるものは死す。
“隠れ場所”で一夜を明かした遺は身体の機能回復のため、近くの街を歩いていた。横には阿僧祇が、後ろには那由他と恒河沙が歩いている。
「ちゃんと歩けてるね。良かったよかった」
阿僧祇がぱちぱちと拍手しながら隣を歩く遺に微笑みかける。遺も阿僧祇に微笑み返し、また前を向いて歩き出す。
「当たり前だよ。ボクと阿僧祇が造ったんだから」
さして感動もせずに恒河沙が後ろで減らず口を叩く。その横で聞いていた那由他が苦笑して、そりゃそうだと呟いた。
暫く雑談しながら歩道を進んで行き、やがて四人は小さな交差点に出た。明るかった遺の顔から笑顔が消えてゆく。
「どうしたの?」
俯く遺の顔を阿僧祇が隣から気遣わしげに覗きこむ。黒光りするアスファルトを見詰めたまま、遺は寂しそうな声で囁いた。
「このまま真直ぐ行くと、わたしの家に着くんだ・・・」
気を揉んでいた阿僧祇の表情が安堵の笑みに変わる。さらに俯く遺に気さくに提案した。
「帰ってみれば?」
「・・無理だよ・・・あの家には『わたし』が居るもん」
阿僧祇の提案を即座に否定する遺。硬い地面を見詰めたままの遺の背中を、暖かい手が押した。
「青だぜ」
そう言ってまた遺の背中を押す那由他の声に、遺は伏せていた目を上げた。青い空の中青い信号を見た遺は、躊躇いがちに一歩を踏み出した。
ヒソカ ユイの家に四人が近付くにつれて、道端に妙な標識が見え隠れした。黒縁の中に、黒い文字の看板。そして黒服の人々。
白いガードレールに取り付けられたそれを見て、遺は目を見開いた。
『ヒソカ家告別式場↓』
信じられないといった顔で、遺が青ざめた口元を手で覆う。
「そんな・・・!」
遺の後ろから看板を覗き込んでいた那由他が顔を顰めた。
「こりゃ誰が死んだか確かめに行かないとな」
遺の手を力強く握ると、放心状態の遺を那由他が引き摺っていく。丁度横を通っていた男子高校生が、驚愕の表情で遺を凝視していった。
それに気付いた恒河沙が学生を一瞬睨み、また元の視線に戻す。学生は急に辺りを見回し始めると、暫く立ち竦んだ後カバンを抱えて遺達と逆の方向へ走っていった。
ヒソカ ユイの家に着くと、そこは喪服の男女で溢れかえっていた。涙を拭く人々の真中を、那由他が片手で掻き分けるようにして入ってゆく。後に続こうとした遺の前に、若い男が立ちはだかった。
「きゃ」
急な障壁に遺が跳ね返され足をふらつかせる。男は謝るどころか遺に気付くことすらなく家の外へ出て行った。よろめいた遺を後ろから阿僧祇が支える。
「大丈夫?」
「うん――驚いただけだから。でも・・」
小ぢんまりとした門を潜り歩道に出る男を不可解そうに眺める遺。
「あの人まるでわたしが見えてないみたいだった」
遺の言葉に阿僧祇が眉を上げる。遺が男を眼で追う間に振り返って恒河沙に目配せすると、恒河沙は小さく肩を竦めた。
「遺―――!」
那由他の声がお悔やみを言う人々の間から聞こえた。続いて人ごみの中から手と顔が出てきて遺の手を掴む。
「どうしたの?」
はっと我に返り間抜けた声を出す遺に険しい顔を向ける那由他。
「はやくこっちへ」
質問に答えず遺の手を引き家の奥へ連れて行く。その後ろを阿僧祇と恒河沙が慌てて付いていった。沢山の人を掻き分けて進む間も、誰も四人に気付く者は居なかった。
住み慣れた居間は、白黒の布と薄い色の花で飾られ、その中央に白い棺が置かれていた。
「―――!」
棺の向こう側に見える菊の花で囲まれた写真に遺は息を呑んだ。自分が、いやヒソカ ユイが微笑む写真。へなへなと座り込む遺の横で、仲の良かった友人の母とヒソカ ユイの母が涙を交え話しこんでいた。
「交通事故だなんて、本当にお気の毒で・・」
「・・っあの子――最期までわたしの手を握って、笑ってたんです・・あんなにひどい怪我だったのに、わたしに泣かないでって・・心配しないでって・・」
そこまで言うとユイの母親はハンカチに顔をうずめむせび泣いた。友人の母が気の毒そうに同情して背中を撫で摩る。
悲嘆に暮れる家族を呆然と見ていた遺の背中に、悪寒が走った。すぐ隣で遺を心配してそっと様子を見ていた阿僧祇の足に縋りつく。
「な、なに?」
急に足を掴まれて戸惑う阿僧祇の服を握ったまま自分の複製が入った白い棺を指す遺。
「アレは機械なんだ」
細く震える声が遺の薄紅色の唇から漏れる。
「金属でできてるんだ」
白い棺を指す遺の指が震え始める。
「火葬したら――――」
震えが押さえきれなくなり、遺の歯がかちかちと鳴る。途切れた言葉を後ろからやってきた恒河沙が続けた。
「ヒトじゃなかったって、バレるね」
冷めた眼で壊れた複製の入った棺を見る恒河沙の隣で、阿僧祇が考え込む。
「でも――変だよ。死亡の確認は医師がするんでしょ?解剖だってしたはずだし、どんなにヤブ医者でも、開いて中を見たら間違えるわけないじゃん」
「ということは―――」
棺中のヒソカ ユイを観察していた那由他が後ろの会話を聞き、顔を上げて言う。それに被せて恒河沙が再び口を開いた。
「考えられる可能性は二つ。ヒソカ ユイは生身のヒトだった、もしくは確認した医師が一枚噛んでる」
「どうやら後者の方が可能性あり、だな」
恒河沙の推測二択から那由他が即断する。阿僧祇、恒河沙もそう思っていたらしく、同時に頷いた。阿僧祇と同じ動きをしてしまった恒河沙の鼻に皺が寄る。
花に囲まれた棺の横から立ち上がると、那由他は動かぬヒソカ ユイを一瞥した。
「その医師から何か訊き出せるかもしれないが――今はこの窮地をいかに脱するかの方が先決だ」
暗茶の瞳が阿僧祇と恒河沙を素早く射、鋭い声が響く。
「もう一度ヒソカ ユイの身体を造れ」
「期限は?」
阿僧祇が飄々として那由他に尋ねる。その顔にはまるで状況を楽しむかのような笑み。
那由他は時計ではなく、窓から見える太陽の位置を確認する。
「三時間」
「まかせといて」
恒河沙が冷めた声で応え、阿僧祇が無邪気な笑みを満面に浮かべた。三人の遣り取りを聞いて安堵する遺に恒河沙が付け加える。
「短時間だから細かい再現は出来ないよ」
「構わん。だが骨だけは完璧に頼むぞ」
間髪入れずに那由他が答え、床に座ったままの遺を片手で引き上げた。
「オレ達はその間死亡の確認をした医師を探す」
那由他の言葉に遺が弱気に頷く。それを見ると、阿僧祇と恒河沙は黒い人ごみを掻き分けヒソカ ユイの家から出て行った。二人で残された遺は那由他に先程感じた素朴な疑問を投げ掛けた。
「探すってどうやって・・・?」
二人を見送っていた那由他が遺の方に向き直る。真面目な顔で一瞬上を見て考えると、遺を正面から見据えた。
「秘密だ」
そして意味が飲み込めず硬直する遺を置いて、居間の卓上に据えられた年季の入った書類入れの中から一枚の書類を抜き出した。気がついた遺が那由他に近付きそれを読む。
「『死亡診断書』・・・?」
文章を上から眼で追っていく遺の気を一点に集中させようと那由他が署名の欄を指す。
「ここだ。上記の者は法的に死亡したことを確認する――縞帯 経」
遺が書類を読み終えると那由他は白くて薄いその紙を畳んで懐に仕舞った。辺りを見回すと、那由他は空を見詰める中年の女性に近付き声を掛けた。
「それにしても、目の前でお子さんを亡くすなんてご不幸でしたね。ここから近くだったんでしょう?」
「そうねぇ、近くの交差点だったらしいわよ。学校の帰り道にトラックと・・・」
「どうも」
喋りだした女性に一礼し、その場を去る那由他。女は瞬きをすると、夢から覚めたような顔をしてきょろきょろと辺りを窺った。不思議そうにしている遺の隣に帰ってくると、那由他が早速尋ねる。
「交差点ってのは、さっき通ったところのことか?」
「多分・・・。他に三叉路が一つあるけど、通学路とは反対方向だし」
暫く黙って頭を掻くと、那由他は外に向かった。その後ろを遺が慌ててついてゆく。
交差点に着くと、那由他は肩甲骨まである黒髪を風に靡かせ考えていた。顔を上げ、車の来ない交差点の中心でゆっくりと回転する。
「ここから見える病院はあそこしか無いけど・・・まさかな」
と言いまた頭を掻く那由他。不可思議な行動に首を傾げる遺を見ると、那由他は気の抜けた声を出した。
「ま、一応行ってみっか」
水彩絵の具で描いたような空を背景にあまりにも美しく整えられた丘の上、汚れて灰色になった病院が建っている。那由他と遺は酸性雨でペンキの溶けたその外壁を見上げていた。
「関係者出入り口は・・・っと」
病院の門の前で那由他が周囲を見、次に脇目も振らずに主病棟の裏手へ歩き出した。
「ちょ、待ってまって」
呼んでも全く気付かない那由他を慌てて追いかける遺。人工的なツツジの生垣を通り過ぎると、若草色のペンキで塗られた鉄製のドアの前で那由他が立っていた。
『御用の方は正面玄関へ』
若草色の扉にはクリーム色の文字が書いてあり、ご丁寧にもその下には同じくクリーム色のペンキで簡素な地図が添えてあった。
扉に書かれた文章をまるきり無視して那由他が扉を押し開ける。軋んだ音を立てて開いた扉の向こうは職員専用のロッカールームだった。那由他は躊躇うことなくつかつかとロッカールームに入っていく。
「いいの・・?こんなことしちゃって・・・」
「言えた義理かよ」
怯えながら中を覗く遺に那由他は短く笑って辛辣な台詞を吐く。一つひとつ職員達の名前を確認する那由他の背後で遺は頬を膨らませた。
「こっちにはナシか――なぁ、そっちのロッカーは・・・」
振り向く那由他が膨れ面の遺に気付いた。
「お、スマン。冗談だよ、冗談」
怒った遺を見て意外そうな顔をし、気の無い声で謝る那由他に、遺が舌を出す。
「べー」
そして下瞼を人差し指で目一杯下げた。那由他は奇妙な表情をすると顔に掛かった黒髪を掻き揚げて再びロッカーのネームプレートを調べ始めた。その後ろへ背後霊のように遺がへばりつく。
「暗くてよく見えんぞ」
「・・・・」
「遺、もうちょっと左にずれて」
「・・・・」
「もーし?」
沈黙に徹する遺の決意を悟って、那由他が空に拳を突き上げる。
「オレは圧力に屈しないぜっ!」
「・・・・」
那由他の空元気な決意表明が虚しく埃まみれの天井に吸い込まれてゆく。その後黙々と三十ほど職員の名前の確認をした後、那由他が再び口を開いた。
「すんませんごめんなさいどいてください」
「・・・最初からそう言えばよかったのに」
「後悔先に立たーず」
ふてくされた遺の言葉に那由他がすかさずボケてみせる。もー、と溜息を吐くと遺は二、三歩下がって那由他から離れ、向かい側のロッカーに向かった。
「わたしはこっち探すから」
「あいよ」
江戸っ子のような相槌を打ち視線をネームプレートに戻した那由他の動きが止まる。
「・・いや、もう探さなくていいよ」
「え?」
振り返る遺の向かい側で二ブロック分の大きさの白いロッカーを見詰める那由他。
「縞帯 経、見つけたり」
白色のネームプレートを見詰める暗茶の瞳が、嬉しそうに窄まった。
「でもさー、同じ身体を二回も造るなんてつまらなくなーい?」
“隠れ場所”の中で阿僧祇が恒河沙に言った。応えは無い。
「やっぱりさ、毎回微妙に違うモノを造るのが醍醐味だと思うんだよね。なんて言うのか、挑戦?創造?建設―――」
「―――怠慢」
二人掛けソファに一人で座って自分専用のカップから謎の熱い液体を啜っていた恒河沙がぼそっと答える。
「なっ・・・ボクは何も慢ってないし怠けてないよっ!」
培養液の調整を放り出し、歳より幼く見える童顔を赤らめて抗議する阿僧祇に恒河沙がまた一言付け加える。
「要するに数値調整が面倒臭いんでしょ。pH上がりすぎてるよ」
「うぇっ?あ!やばっ・・」
慌てて銀色のダイアルを慎重に捻る阿僧祇。それを見ながら熱い液体を一口啜って机に置く恒河沙。
「そーいうのを怠慢って言うんだよ」
横に誰もいない広々としたベージュの二人掛けソファでゆったりと足を組むと、阿僧祇の背中に刃のような言葉を次々と投げつける。
「大体、キミはいつも数値調整が大雑把過ぎるんだよ。もともと専門はコレだったんでしょ?役に立たないことばっかりにうつつを抜かしてるから技術が落ちるんだよ。使わないと脳は衰えるんだから。あ、でもキミみたいな魔技術師にはもともとこんなハイテク使いこなすこと事態がムリだったのかな残念だったね」
無表情に顔色一つ変えず一息で言い切ると、恒河沙はカップを持ち上げ熱い液体を一口啜った。
恒河沙の冷徹無慈悲な言葉の数々に阿僧祇は涙を円く茶色い目に溜めて恨みがましく恒河沙を見た。
「―――毒舌」
「どうも」
阿僧祇の精一杯の反発を涼しいカオして皮肉で返す。空になったカップを机に置くと、立ち上がって阿僧祇の横に立ち計器を見た。
「そろそろ乾かす?」
「そうだね」
恒河沙の提案に賛成して阿僧祇が計器の右下にある小さなボタンを押した。培養液が排出される音が響き、次第に小さくなり消えてゆく。
恒河沙は目を細めて計器の目盛りをみると、それが零になるのを確認した。
自動的にリセットされていく計器を一つひとつ点検する恒河沙に対して、阿僧祇は鼻歌を歌いながら指で空に何か描いている。それに気付いた恒河沙がいらついた声を出した。
「・・・ちょっと」
「ボク魔技術師だから。ハイテクなこと分かんないから」
へらへらと笑って恒河沙を茶化す阿僧祇。苦い顔をする恒河沙の前でポケットから琥珀色の小瓶を取り出した。中には深紅の錠剤が十数粒入っている。
「それいつの間に――!」
小瓶に詰められた深紅の錠剤を見て恒河沙が蒼くなる。阿僧祇は唯微笑むと瓶から錠剤を出して手の平で転がした。
「いいでしょ?このくらい」
手の平で転がる紅いカケラに茶色の瞳が恍惚とした視線を送る。目を上げると、阿僧祇は柔らかな笑顔を恒河沙に向けた。
「元は幾らでもあるんだから」
口角の上がった唇から出た声は妙に感情が無く、冷酷だった。
「那由他が、絶対に殺すなって言うからさ。最近足りてないんだ」
深紅の錠剤を口に入れ咀嚼する阿僧祇の口から一筋の血が垂れる。それをほっそりとした指で拭うと、阿僧祇は満足そうに指を舐めた。
「でもどんなモノよりこれがいい」
妖しげに哂って手に付着していた錠剤の粉まで舐め尽くす。
「大切に使ってよ。手に入れるの大変なんだから」
琥珀色の瓶からもう一つ深紅の錠剤を取り出す阿僧祇に恒河沙が釘を刺す。あどけない茶色の瞳を円くした阿僧祇が顔を上げ意外そうな声を上げる。
「冗談でしょ?ボクこれが無いと“病気”になっちゃうよ」
甘えた目を恒河沙に向けるが、恒河沙は暗い蒼い眼で阿僧祇を見ただけだった。不安に駆られた阿僧祇が恒河沙に問いかける。
「もしかして指輪のせい―――?」
そう言ってアイスグリーンの宝石が嵌められた銀の指輪を指すと、恒河沙が苦い顔で頷いた。その答えに落胆した阿僧祇がへなへなと床に座り込む。
暫く互いに沈黙した後、恒河沙のポケットから軽快な電子音が響いた。
「―――なに」
ポケットから薄いカードを取り出してそれに喋りかける恒河沙。鶯色のカードから聞こえる那由他の声に適当に相槌を打つと、名刺ほどの半透明なカードをまたポケットに仕舞った。
「持って来いってさ」
虫食いだらけの木の床に座り込んで放心状態の阿僧祇に儀礼的に言うと、恒河沙は計器の横にある軋む扉を開けた。
そのまま扉の内側から振り返り阿僧祇を見るが、床を見詰めたまま阿僧祇は何も答えない。呆れたと言わんばかりの視線を投げつけると、恒河沙は扉を閉めた。
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「遅いぞ!」
白い棺を運んできた阿僧祇と恒河沙を那由他が一喝する。
「叱るのは阿僧祇だけにしてほしいよ」
と、ぼやきながら恒河沙が造ったばかりの体の入った棺を黒いアスファルトの上へ慎重に下ろした。ほぼ同時に、霊柩車がその横に止まる。高く昇った太陽が霊柩車の下に黒々とした影を作る。
「よし今だ」
御影石で建てられた火葬場を背後に、那由他が二人に合図する。霊柩車の運転手が、下車して車体の後ろに回り、手に持つ鍵で棺入れの鍵を開けると、黒光りする扉を開け――るような動作をした。扉は開いていない。
他の車から降りた数人の男達が霊柩車の周りに集まってくる。阿僧祇と恒河沙が持ってきた棺を彼らの前に置くと、喪服姿の男達は何の疑問も持たずに出来たばかりの死体を火葬場へ運んでいった。
棺の後ろから黒服の群集がのろのろとついてゆき、やがて駐車場には四人を残して誰も居なくなった。
「生まれる前から死んでるなんて皮肉だね」
巨大な火葬場に吸い込まれていった白い棺を眺めて恒河沙が呟いた。
「生きてないから死なないだろ。ほらヒソカ ユイを運ぶぞ」
絢爛豪華な霊柩車の扉を開けて、運ばれていった棺と全く同じ白い棺を下ろす那由他。
それを両端から阿僧祇と恒河沙が支える。遺も最後の一面を持った。
「・・・・」
丁度顔を見る場所を持ってしまった遺が複雑な表情になる。遺が棺の窓を凝視することに気付いた恒河沙が感情の無い声で話し掛けた。
「帰ったら解剖したいんだけど」
「・・・構わないよ」
「じゃ、お言葉に甘えて」
遺と恒河沙の会話に阿僧祇が顔を上げて口を挟む。
「ボクにも組織片くれる?調べたいことがあるから」
「わかった」
了承を得た阿僧祇と恒河沙は再び無言になり、棺を運ぶのに徹した。会話が尽きて沈黙する遺に那由他が声を掛けた。
「遺の後ろが丁度良いな。遺、足元に気をつけて下がってくれ」
言われた遺が少し棺を持ち上げ、首を回して段差を気にしながら平らに削られた白い岩の上に乗った。
「棺は一旦地面に置くぞ」
那由他の言葉通りに棺が白い岩の横の黒いアスファルトに下ろされた。棺から手を放した那由他が手に付いた砂を払いながら阿僧祇に言う。
「ここなら出来るか?」
「うん。大丈夫」
阿僧祇が頷き何時の間にか持っていた白いチョークで岩の平らな面に円を描き始めた。
平面に描かれた線が太陽光を反射してきらきらと輝く。円の中に複雑な多角形と奇妙な文字を書き終えると、阿僧祇は額の汗を拭い立ち上がった。
「はいどうぞ」
「どうも。じゃ棺をこの上に置こう。線を消さないようにそーっとな」
白い棺をまた四人で持ち上げて円の中心へ慎重に置くと、四人は円から出ないようにその周りに立った。カットソーの裾が円から出ているのを直し、肩甲骨まである黒髪を束ねた那由他が遺に黒い輪ゴムを渡す。
「一応結んどきな。風が拭いて靡くかもしれないから」
「う、うん・・・」
一度もポケットに手を入れずに輪ゴムを渡した那由他が、何処から輪ゴムを出したのか怪しみながらも遺が髪を結ぶと、阿僧祇が軽く息を吐いた。
「じゃ行くよ」
「おう」
那由他の返事と共に阿僧祇は胸前で印を結び何か呟いた。途端に視界が白一色に染まり眩しさに遺が眼を閉じると、光はすぐおさまった。
「―――?」
「いやー、やっぱ阿僧祇の移動陣は便利だなー」
しっかりと閉じていた眼を開けると、四人は屋内に移動していた。見たことの無い部屋だが、ぼろぼろの木で出来た壁や床からすると“隠れ場所”の何処かだろう。四人の足元には先程阿僧祇がチョークで描いた円陣によく似た、しかし巨大な円陣が床に彫られていた。
「いったいどうやって・・」
「棺、下に降ろすの手伝って」
恒河沙の強い口調に遺は質問する間も無く円の中心に置かれた棺の窓側に手を掛け持ち上げた。向かい側では那由他が澄ました顔で足元を見ながら階段を下りつつ棺を運んでいる。何事も無かったようにしている那由他に遺は素朴な疑問をぶつけてみた。
「ねぇ那由他――わたし達どうやってここに戻ってきたの?」
真剣な面持ちで足元を確認していた那由他が暗茶の瞳を遺に向けた。
「さぁな。オレは専門外だから・・阿僧祇に訊いてくれ」
そう言うとまた崩れ落ちそうな木の階段へ視線を戻してしまった。
そのまま棺を運ぶのに熱中してしまった那由他から、遺は仕方なく阿僧祇に眼を移す。
探るように遺を見ていた阿僧祇と眼が合うと、阿僧祇は慌てて遺から茶色い眼を逸らした。その行為に遺は眉根を寄せると、今度は恒河沙の方を見る。
「どうして教えてくれないの?わたし誰にも喋らないよ」
「皆そう言って喋るんだよね」
棺を運び、横を向いたまま恒河沙が冷めた声で応える。恒河沙の言葉に遺は頬を膨らませると、棺を下ろすまで口をきかなかった。
棺を計器の奥の部屋に納めた後、那由他は二階の自室へ、恒河沙はヒソカ ユイを解剖するため計器の奥の部屋に篭ってしまい、遺と阿僧祇は二人で居間に取り残さていた。
無言のままソファの背から出ている糸くずを弄る遺に、阿僧祇が来客用のカップを渡す。
「―――ありがと」
短く言ってそれを受け取ると、香りも嗅がずに一口飲んだ。ビターチョコで作られたホットチョコレートだった。チョコレートの香りとほんのり苦い味が口の中に広がる。
「さっきはごめんね」
阿僧祇が遺の正面になる側の二人掛けソファに座り、卓上のミルクを自分のカップに注ぐ。マドラーを手に取ると、阿僧祇はゆっくりとそれでかき混ぜ始めた。
「だけど那由他の言う通りだから――。ボク達のことを言うと遺が危ない目に遭うかもしれないから―――」
阿僧祇の苦しげな告白を背中で聞いた遺がゆっくりと振り向き、正面を向いて座った。
「阿僧祇達って何してる人なの?」
遺が不審の眼差しを送ると、阿僧祇は顔を曇らせカップの中身をかき混ぜる手を止めた。
「それは言えないよ」
「悪いことしてるの?」
阿僧祇が顔を上げた。遺の頭を気まずい想いが掠める。
―――そういえばわたし、“悪討ち”だったんだ・・・。
阿僧祇の怯えたような澄んだ円い瞳に今度は遺が当惑した。
「や、その、悪いことしてたら殺そうだなんて考えてないから、うん」
淀んだ空気を軽くしようと手を動かして空を漕ぐ遺を見て、阿僧祇がふと思い出したことを口にした。
「そう言えば、遺は戻らなくちゃいけないんじゃない?」
「ど、どこに」
挙動不審から抜けきれずどもる遺に、阿僧祇は茶髪を揺らして小首を傾げながら話を続ける。
「その狗門って人のところに」
忘れかけていた男の名を聞き、遺の身を冷たいモノが貫いた。悪夢と狂気の記憶が遺の脳内に繰り返される。
顔を顰めて俯く遺に阿僧祇はさらに尋ねた。
「まだ“隠れ場所”に来て二日だけど、前に遺から見せてもらったメモからすると、毎日その狗門って人と連絡を取り合ってたみたいだからさ。怪しまれるんじゃないかな」
「・・そうだね・・・」
自身の膝を見詰め元気無く答える遺を阿僧祇の無邪気な童顔が覗き込む。
「じゃぁ、こうしない?遺がボク達に遺の組織のことを教えるかわりに、ボク達は遺にボク達のことを教える」
「でも――」
阿僧祇の提案に遺が心配そうに眉を寄せる。
―――そんなことしたら阿僧祇達の身に危険が――
そう考えてはたと気付いた。
―――那由他と阿僧祇も同じことを―――?
眼を上げると、阿僧祇が茶色い瞳を円くしながら遺の返事を健気に待っている。未だ迷う遺の目と興味深そうな阿僧祇の眼が重なった。阿僧祇は微笑んでまた首を傾げる。
「よし、わかった」
勢いつけて言った遺の言葉を聞き、阿僧祇は嬉しそうに歯を見せて笑った。遺は迷いを振り切り、ソファから前へ乗り出して阿僧祇を見据える。
「今までのこと、全部、話すよ」
その語感から遺の決意を感じ取った阿僧祇が真剣そのものの表情で頷いた。
「ありがとう。でもその前に――」
阿僧祇が席を立ち、不思議そうに眺める遺の前で二階と計器の奥の部屋を見た。
「那由他と恒河沙を呼んでこよう」
再び遺を見た阿僧祇の優しいけれど芯の通った眼に、遺は思わず頷いた。
阿僧祇に呼ばれ食卓の周りに集まった四人がいつもの通りにソファに腰掛けている。阿僧祇の説明を聴いていた那由他が、露骨に嫌そうな顔をしてみせた。
「取引か・・・リスクが大きすぎるな」
「お互いのこと、もう少しくらい知っててもいいでしょ?」
情報交換と聴いて渋る那由他に阿僧祇が人情に訴えるように説得する。隣で肩を竦めたままの遺を見ると、苦い顔で那由他が言った。
「――このまま放っとくにはちと事がヤバイとは思うが・・・」
「でしょ?」
阿僧祇の押しに那由他が思案顔で唸り、薄桃色の爪で肩甲骨まである黒髪をかき乱す。
「仕方無いか――遺の入ってる組織の正体を見極める方が大事かな」
溜息を吐いて折れた那由他に遺と阿僧祇が顔を輝かせる。恒河沙は那由他と同じように苦い顔のままだ。
那由他との交渉を成立させた阿僧祇は会話の主導権を遺に譲った。三人の視線を一身に浴び、遺は緊張して身体を強張らせる。
「あの日――わたしが帰ろうとした時に・・・」
遺がゆっくりと自分が組織に入ることになった経緯を語りだした。悪友に誘われて歓楽街へ連れられかけたこと、そこを“悪人”と間違えられて“処分”されたこと、ニット帽の男のこと、狗門のこと、“悪討ち”のこと。話が終わりに近付くにつれて遺の声は震え、顔からは血の気が引いていった。最初は聞き流していた恒河沙も何時の間にか耳を傾け遺の話を聞き漏らすまいとしていた。
「―――それで那由他達に遭って、助けてもらったの。あとはこの通り」
と言って手を広げて見せて、遺は話し終えた。暫くの間話の余韻を部屋に漂わせ、口を閉ざしていた恒河沙が言った。
「興味深いね」
後の二人は何も言わずただソファに座っている。恒河沙は再び沈黙を破った。
「――そして不快だ。彼らは不完全な方法で人々を複製している」
「解剖して何か解ったんだ?」
言葉を切る恒河沙に阿僧祇が隣から訊く。冷徹な蒼い眼を一瞬阿僧祇に向けると恒河沙は話を続けた。
「そもそも細胞自体が不完全なんだよ。そしてそれに合わせるため血液も本物とは違った成分になってる。あれじゃ怪我した時にすぐヒトじゃないと悟られるよ」
恒河沙の述べる見解に、遺は狗門の元で再生された頃の自分の身体から生えていた管と、その中を流れる赤紫の液体を思い出した。遺が考えているうちにも序々に話に熱が入り始めた恒河沙が前のめりになって机に手をつく。
「だけどそんなことはどうでもいいんだ。問題は――」
「大量虐殺か?」
那由他が遺から聴いた組織の行動理念に眉を顰めて訊くと恒河沙は首を横に振った。
「複製の造り方が阿僧祇達のものに似すぎてるんだよ」
「同じこと研究してたら行き着く先は同じでしょ?」
「他にもいくつか方法があるのに、わざわざ不完全でもこの造り方を選んでるんだ。何か知っているとしか思えない」
恒河沙の断定的発言に阿僧祇が一度開いた口を閉じた。那由他はソファの肘掛に両手を置き眉間に皺を寄せている。遺を見て躊躇った後、低い声で恒河沙に尋ねた。
「調べるか?」
「可能なら」
そして三人が一斉に遺を見た。那由他と恒河沙の鋭い視線に遺が顔を引き攣らせる。
「どうするの。協力する?」
一番遠い席から恒河沙が蒼い瞳で遺を見下す。脅迫的な物言いに冷や汗をかきながら、遺は掠れて消えてしまいそうな声で答えた。
「協力します・・・」
蚊の鳴くような遺の返事に、射るようだった恒河沙の視線が和らいだ。音を立ててソファに背をもたせ掛けると誰に言うでもなく恒河沙が言った。
「じゃぁ計画を立てよう」