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わたしがしていることは正しいのだろうか。
いや、正しくてもおかしい。
だってこれは、人殺しなんだ。
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手違いで死ぬなんて。
授業終了の鐘が鳴り、彼女は躊躇いもせず鞄を肩に担いだ。長いストレートの黒髪が肩と鞄の間に挟まれて、彼女は少し顔を顰めた。
「ユイ、駅まで一緒に帰ろ」
後ろから黄色い声がした。振り向くと、ツインテールを揺らして級友が笑っている。
その後ろには傷んだ茶髪をなびかせた女の子が。
「・・・うん。わかった」
反射的に笑顔で答えてしまった。この後図書館で平面図形の復習をしようと思っていたのに。
「じゃ、帰ろ。早くしないとあたし部活の先輩に見つかっちゃうから」
茶髪の女の子が無意識のうち偉そうに言い、抜け目無く辺りを見回す。駆けるようにして教室から出て行く二人をユイは追いかけた。
「ねぇ、こっちは駅へ行く道じゃないよ」
ユイの投げた言葉に二人が同時に振り返る。誤魔化しているような、必死でにやけを抑えているような顔だった。二人が同じ表情をするので、ユイは少し不安になった。
「やだなぁユイったら。これから遊びに行くんじゃん、とろいの〜」
級友が微笑みながら近寄ってきて、夏服から露出されたユイの白い腕を掴んだ。
「ほらユイ、お金無いって言ってたじゃん?だから行こうよ」
「で、でも―――わたしお金持ってないよ」
「お金なんて、行けばいくらでも貰えるよ。あんた顔も良いし」
茶髪の女の子が無表情のまま口元だけ笑って言う。おもむろに通学鞄から無造作に札束を掴み出すと、それで自分を扇ぎ始めた。その様子を級友が羨望の眼差しで見詰める。
「ね、すごいでしょ。ユイならあれぐらいすぐ貯まるよ、行こう?」
不気味なほど満面の笑みを浮かべる級友に腕を引っ張られ、前のめりになるユイ。
―――この子たち、何言ってるの?
二人に引っ張られるままに歩き連れられていく。目の前に坂が見えてきた。
―――あの坂の向こうって、確か―――
坂の向こう側から男が一人歩いてくる。黒いダウンジャケットに黒いニット帽を身に着けているようだ。
―――有名な歓楽街・・・。
「ううう・・・」
坂の手前、ユイ達の向かい側の道路の上でニット帽の男が唸った。口の端から唾液が垂れている。級友はユイの手を引き、茶髪の女の子は背中を押している。二人とも笑っているが、目はまさしく死んだトカゲの如く濁っている。
男は道路の向こう側で止まっている。深く被ったニット帽に隠れて顔がよく見えないが、こちらをじっと見ているようだった。垂れた唾液が道路に点々と落ちていく。
「ちょっと、ヤバイよ・・・」
「平気へいき。こわくないよ、みんな優しいもん。ね?」
「そーそ。聞くよりも実践が一番だって」
二人に押され、ユイが横断歩道を踏んだ。
途端、男は隠し持っていた銀色の細長いモノをユイの首筋に捻じ込み、抜いた。
一瞬にして道路を横切った男の速さは、人間のものではなかった。
―――ナイフ?
そう思いながらアスファルトの上にへなへなとユイは倒れた。遠くであの二人の悲鳴が聞こえる。
二人を見ようと必死で首を動かした。
見えたのはどろどろに溶けた自分の体だった。
―――やっぱナイフじゃないか。
そう思って言切れた。
視界が消える刹那、空を見上げるニット帽の男が見えた。顔を伝って落ちたのは唾液では無く、涙だった。
ヒソカ ユイ 、享年十七歳。
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怒りで目が覚めた。
目が覚めた途端、自分が何に対して怒りを抱いているのか判らなくなった。
自分を引き摺りこもうとした級友達に対して?それとも、自分の体をどろどろに溶かしたあのニット帽の男に対して?
「ああ・・・」
怒りと憎しみで混沌とする意識の中、溜息とも呻きともつかない声が漏れた。
自分が横になっていることに気付いて体を起こそうとした。
その瞬間、激痛。
「う、ぁあああっ!」
か細い少女が出したとは到底思えない声を上げながら、無理矢理身体を起こした。
身体から生えている管が不規則に音を立てて千切れていく。
「・・・っ・・・ふー」
痛みに眩めきながらも目を見開くと、藍色の闇の彼方に一筋の光が見えた。
床から生える太い管に足を取られるのにも構わず、その光へと歩き出す。
一際太い管に躓き前のめりに手をつくと、丁度そこが光の漏れている扉だった。
「・・・・」
この先に何があるのか考えようとするが、怒りに支配された頭では扉を押し開けるのが精一杯だった。彼女は、まるで壊れるかと心配しているように慎重に、腕に力を入れた。
案の定、腕に生えた千切れた管から赤紫色の液体が勢いよく噴出した。
急に扉が軽くなり、暗い空間に白光が差した。
白光の中逆光になった男のシルエットが見えた。
「目が覚めましたか、ユイさん」
逆光の男が両手を広げる。
「ユイ・・・?」
呼ばれた名前を繰り返す彼女。懐かしいけれどなかなか思い出せない想い出のように、名前の記憶は彼女の脳内を掠めていく。
男が眩しい白光の部屋の壁際を指した。
「どうぞお好きな服をお召し下さい」
男の指すほうを見ると、白く光る壁に黒い服が何着も掛けてある。
彼女は黙って一番近くにあった革のパンツスーツを手に取った。筋肉の収縮に合わせ、管に残っていた液体が床に滴る。
彼女がスーツを着終えると、男は黒い椅子を引いてきて彼女をそれに座らせ、向かい合って置いてあったもう一脚に腰掛けた。
「・・・まぶしい」
「少し照明を落としましょう」
男が言い、手に持つ銀色の円盤を右に回すと白光が弱まった。
彼女の前に、黒尽くめの男が座っていた。
黒髪をワックスで固め上げ、洒落た黒いスーツと黒革の靴を身に着けている。
その顔には、シャープで機能性のある闇のようなサングラス。
一目見て造りモノと判る笑顔で男は彼女に尋ねた。
「ご気分は」
「・・・・」
只ただ睨めつける彼女に、男は困惑すらせず冷笑を顔に貼り付け続けた。
「再生されたばかりでまだ意識がはっきりしていないようですね。リハビリとして話をしましょう」
男はゆったりとした動作で足を組み、少し前へ乗り出す。
「まず始めに、我々は貴女に謝らなければなりません」
男が顔を曇らせる。あらかじめプログラムされているかのように、この上なく済まなさそうな顔だ。
「誠に申し訳ございませんでした。どうか手違いで貴女を処分してしまったことをお許し下さい」
動物的だった彼女の瞳に、人間らしさのカケラが覗いた。
「・・・処分?」
「つまり、あなたの身体を溶かしてしまったことです」
全く反省の色も見せずいけしゃあしゃあと男は述べる。顔にはまた造りモノの笑みが浮かべられている。
「あんた、何者なんだ」
その質問を待っていたらしく、男は破顔して説明をし始めた。
「よくぞ尋ねて下さいました。我々は―――そうですね、陰の裁き人とでも言いましょうか。社会の悪を我々の手で滅することを主な活動としているのです。それで、私はその代表を務める、狗門と申します」
「クモン?」
「天狗の狗に門の字を書きます」
目の前の奇妙な名の男を訝しげに見る彼女。男はそれを気にも留めず話し続ける。
「どうすれば社会の悪を滅せられるのか・・・その方法は簡単で単純です。悪人を、ひっそりと消してゆけばいい。後に残るのは彼らの悪行を知る善人だけ。少しずつですが確実に、世界は善へと向かっていくのですよ」
身振り手振りを添え説明する男を、彼女が虚ろな目で見る。
「・・・よくあるのか?」
「はい?」
「・・・よくあるのか?こういう、こと」
白黒の部屋に沈黙が流れた。
「い、いえ・・・そうそうあることでは・・・」
唐突な質問にしどろもどろに答える男。サングラスでは動揺を隠し切れず、困惑の表情が見て取れる。
答えを聞くと、彼女は男との会話に関心を失って部屋の中を見回し始めた。
「手違いで処分したことは謝ります。しかしあの二人と共に歓楽街へ行こうとしていたので、部下が間違えてしまったのです」
彼女の脳裏に級友とその友人の顔が過ぎる。
「・・・死んだのか」
「悪人でしたから」
あっさりと言い切る男。足を組み直すと、蝋人形のように生気の無い指でサングラスを外した。異様に輝く黒い目が彼女を射抜く。
「ですが、あなたは手違いで処分されたので、再生されました。そこで―――」
「家に帰りたい」
男の言葉を遮って彼女が言った。男は気まずそうに薬品で変色した細長い指をクルクルと回している。
「それは無理です」
「なぜ」
「もうコピーを送ったからです」
少しも言い淀まない男の言葉に、彼女の目が見開かれる。
「コピー?」
「私が駆けつけた時にはもう、貴女の体組織はほぼ全てと言っていい程破損していましたので・・・再生に一週間ほど掛かったのです。ご家族が心配されないよう、貴女のコピーを送らせて頂きました」
男の話を聞きながら、自分の手を見詰める彼女。細い半透明の管が何本も垂れ下がり、滴を垂らしている。
「コピーには処分前の貴女の人格が完全に再現されていますが、貴女は自分の名前すら覚えていません。このまま家に帰れば、家族は貴女のことを怪しみますよ」
狡猾そうな黒い目が彼女を見据える。
「じゃぁ、これからどうすればいいんだ」
彼女の問いに狗門が嗤う。黒く輝く目を窄めると、殆ど囁くような声で言った。
「我々と共に―――悪を滅しませんか」
白黒の部屋に再び沈黙が訪れる。無表情な彼女の顔を見て、男は椅子を前に引いて言葉を続けた。
「そうそう在ることではありませんが・・稀に貴女のように手違いで処分され、再生された人々が居るのです。そういった人々の殆どが我々と共に悪を撲滅する作業に従事してもらっています」
虚ろな彼女の瞳を、造りモノの笑顔を浮かべ男が覗き込む。
「いかがですか?悪の無い世界、素晴らしいと思いませんか」
「・・・・」
写真のように動かない男の前で、彼女は沈黙を続ける。やや俯き加減の視界に、腕から生える管が見える。その管が級友の手と重なって見える。
―――あの時手を振り払えば、こんなことにはならなかった・・・。
彼女が男を見た。男は深く椅子に腰掛け指を組み微笑んでいる。
「何をすればいい」
「これを」
と男が目を細めてサイドテーブルに掛けられた黒い布を取り、そこに並べられた一つを彼女に手渡した。
銀色の細長いモノだった。
少し間を置いてから受け取ると、彼女は男と共に白光の部屋を出た。
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世の中悪人だらけだ。
血の匂いが立ち込める部屋の前に彼女は居た。錆びた鉄の扉の向こうには全て黒で統一された胸当てや肘当てが壁に掛けてある。
彼女は右手を開いて見た。男から受け取った銀色のモノが僅かな光に妖しく煌いている。
「これから貴女の仕事について説明しましょう」
隣に居る男が口を開いた。長い手を後ろで軽く組み、胸を反らせて優雅に立っている。
「貴女にお願いしたいのは、“悪討ち”という仕事です。我々の計画の中で最も重要な役目と言っていいでしょう」
彼女が横目でちらと男を見、男もサングラスの下から彼女を細めた目で見る。
「先程渡したモノですが・・・もうユイさんもどのようなものか解っていますね」
彼女が頷いた。忘れもしない、彼女自身を溶かし殺したモノ。
「コレで悪人を殺すんだろ」
彼女のあからさまな言い様に、男が苦笑して両手を振る。
「殺すだなんて、そんな。世界を善にするためには悪人など不要なのです。処分と言って下さい」
男が懐から彼女が持つものと同じ銀色の棒を取り出す。
「コレは私が開発したモノです。必要無いので特に名前はありませんが――。中には人間の体温で反応を始める酵素が入っています。コレを相手の体内に捻じ込むと酵素が反応を始めます。そして体組織の全てを気化します。死体が残ることはありません」
細長い指で棒をクルクルと回す男。煌く棒を軽く投げて右手で受け取ると、また続けた。
「酵素ですので、極ごく少量でも身体を気化できます。コレ一本で約二百人を気化できる量が入っています。捻じ込んだらすぐに抜いて、あまり無駄使いなさらないでくださいね」
音速を超える程の勢いでモノを首に捻じ込み、抜いていたニット帽の男を思い出す彼女。
「・・・わかった」
「それでは最後に・・・」
男が足元に置いてあった金属製の書類ケースから黄ばんだ羊皮紙と鉄製のペンを取り出した。
「?」
彼女が不審げに顔を顰め、男は一番上の楷書体で書かれた文字を指で示す。
「“悪討ち”になるための契約書です。下に貴女の新しい名前で署名して下さい」
そう言いセピア色の線で囲まれた枠を指す男。
「新しい名前・・・?」
「ヒソカ ユイは今、高等学校で授業を受けています。貴女はもうヒソカ ユイではありません」
男に言われ眉根を寄せて考えると、彼女は男から鉄のペンを受け取り署名した。
『遺』
「ありがとうございます」
男は素早く羊皮紙を丸めると鉄のペンと共に書類ケースへ仕舞いこんだ。
「それではあの中から自分に合った防具をつけて下さい」
男に言われ扉の中に入り、小さめの胸当てを手に取った。鏡の前に進む彼女の後ろで、男は静かに扉を閉めた。
鏡の前に立ち上着を脱ぐと、首から下が内出血を起こしていた。
防具を着けて出てくると、男が冷笑を湛えて待っていた。地図を渡され、どこに行くべきか告げられると、彼女はエレベータで地上に向かった。
任務地は生前の自宅近くだった。坂を越えたあの歓楽街だ。
「初日は様子を見て、誰が悪人か見極めて下さい。―――といっても、場所が場所ですから、善人を見つけるほうが難しいですけどね」
と狗門は言った。
街で一番高い建物の最上階から、遺は街を見下ろしていた。
―――あの男に会うかもしれない。
そう思いながら道を行き交う人々を見ていた。ニット帽の男は現れなかった。
初日の調書に悪人と思しき者のことを書いてガラス製の瓶に入れ、ビルの間にある専用の回収機へ投函し本部に送ると、予め指定されていた場所で眠った。歓楽街の外れにある桜の木の上だった。
次の朝起きると、枝に昨日調書を書いた悪人についての詳しい個人情報が書かれた紙が挟んであった。紙には赤紫色のインクで『要処分』とスタンプが押されていた。
自分自身を囮にして、遺は『要処分』と認定された男を路地裏へと誘い込んだ。いつ覚えたのか自分でも驚くほどに、遺は男を誘惑する術を心得ていた。
男は疑いもせずついてきて、溶かされた。遺は男が気化する様子を最後まで見ていた。
何か言っていたようだが、何も聞こえなかった。最後まで溶け残っていた遺に差し伸べられた手が目に焼きついて離れなかった。
全てを見届けると、遺は他の悪人を誘い出しに街へ戻って行った。
その日もニット帽の男は現れなかった。
次の日もその次の日も、悪人を探し、選り分け、溶かし続けた。
毎回変わる指定場所で遺は夜を過ごした。ある日はゴミ箱の横、別の日は廃タイヤの上だったが、つらくはなかった。むしろ何も感じなかった。
乗り捨てられた車の中で配給の固形食糧を口に運びながら、遺は夜空を見上げた。
夜空には排ガスを通して見える星だけが輝いていた。
―――あの男にはもう会えないのか。
虚ろな目で瞬く星の向こうを見る遺。ふと何故会いたいのか考えたが、よく判らなかった。会って何をしたいのかさえ分からなかった。
遠くを見詰めるうちに、いつのまにか遺は眠っていた。
夜明け前に目覚めると、窓ガラスの割れた助手席の上にいつもの書類が置いてあった。
書類は日毎に数を増しているようで、初日あたりでは数枚だったものが今では十数枚になっている。紙束を手に取ると、遺は数え始めた。
「十三枚か」
数え終えた書類を四つに折ってスーツのポケットに突っ込むと、虚ろな目を不快そうに窄め、呟いた。
「――世の中悪人だらけだ」
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自分であって自分じゃない。
歓楽街から続く坂を子どもが一人走っていた。必死の形相で走りながら、子どもは時々後ろを振り返る。
坂の向こうから、遺が走ってきた。遺を見た子どもの瞳孔が限界まで開かれる。
全力疾走の甲斐無くすぐ遺に追いつかれた子どもは、そのまま歩道に組み伏された。子どもの涙に濡れた柔らかい頬がアスファルトで擦られ血が滲むのにも構わず、遺は感情の無い目で子どもの首筋を見下ろす。いつものように銀色のモノを捻じ込もうと振り上げた遺は、後ろから聞こえてきた笑い声に凍りついた。
虚ろな目を見開いて振り返ると、ヒソカ ユイが友人と下校していた。
呆然とする遺の腕からすり抜けた子どもが振り返りもせずに一目散に逃げていく。それを止めようともせず、遺はその場からゆっくりと立ち上がった。
道の脇、街路樹の陰の中に入る遺の前を、ヒソカ ユイとその友人が他愛も無い世間話をしながら笑いさざめき通っていく。
―――似ていない・・・。
遺は思った。仕方の無いことだ。同じ顔、同じ声、同じ身体でも自分はあんな風に笑えない。ヒソカ ユイが人殺しなどしないように。
任務で汚れ、乱れた黒髪の下からヒソカ ユイの流れるようなロングヘアを眩しそうに見詰める遺。
その痛いほどの視線に気付いて、ヒソカ ユイが振り向いた。
街路樹の陰を通して一瞬二人の目が合い、反射的に遺は彼女から顔を叛けた。
「どうしたの?」
会話の途中で黙ってしまったヒソカ ユイを気にして、友人が後ろから彼女の見ている方向を見ようと覗き込む。
「ううん、なんでもない」
軽く笑ってみせると、友人は納得してまた歩き出した。ヒソカ ユイもそれに続いた。
二人が木漏れ日の中楽しげに歩く姿を遺は唯見詰めるばかりだった。
その夜、遺は元自分の家に行ってみた。白いペンキで塗られた柵の向こうを覗くと、蔦の絡まる窓から漏れる橙色の灯の中で、ヒソカ ユイとその家族が楽しそうに夕食を採っていた。
その日から毎晩、そこに通うのが遺の日課になった。
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ヒソカ ユイに会ってから、遺はあのニット帽の男にも会えるのではないかと期待していた。
一度本部に手紙で男の消息を訊いたが、返事は無い。
狗門に会って直接話そうと思った遺は、武具と衣服の交換を理由に本部へ戻った。
「体調はいかがですか」
狗門の第一声はこれだった。良好だ、とだけ答えると狗門は嬉しそうに破顔した。
「そうですか。丈夫なのが何よりです。任務でお疲れでしょう、さぁどうぞこちらへ」
狗門について入ったクリーム色の部屋は暑くもなく、涼しくも無い快適な部屋だった。
壁と同じクリーム色の絨毯に遺が座り込むと、狗門がその前に立った。
「何かお飲みになりますか」
愛想良く見せようと微笑む狗門の顔は下から見上げると不気味だった。
「何も要らない」
「そうですか」
狗門は少し眉を上げると、軽く二回手を叩いた。遺達が入ってきたものとは別の入り口から小型の機械が現れ、陶器で出来たカップに湯気の立つ飲み物を注いで狗門に渡した。
狗門はそれを一息で飲み干すと、遺の左隣に腰を下ろした。
「武具の交換と聞きましたので、少し心配したのですよ。どこかに怪我でもなさったのかと」
そう言って闇のようなサングラスの下から遺を探るような目付きで狗門が見る。
「服があちこち擦れたんだ。風呂もずっと入ってないし」
傷み切れてばさばさになった黒髪の生える頭皮をぼりぼりと掻く遺を見て、狗門は済まなさそうな表情を見せる。
「これはこれは・・・。身なりも気になる歳の方に、とんだ失礼を致しました。すぐ湯の準備をさせます」
「そんなことはいいんだ」
「は」
狗門が固まって遺を見た。顔がさっきまでの営業スマイルのままだ。
困惑する狗門の横で、遺が無表情なまま続ける。
「そんなことはいいんだ」
「と仰いますのは?」
幾分いつもの調子に戻って狗門が遺に尋ねる。暫し沈黙する遺を待つ間に、機械を呼んで空のカップを持って行かせた。
「オレの前にあの歓楽街で任務を遂行していた男について知りたい」
噛み締めるように出された遺の言葉に狗門が貼り付けていた笑みを消す。
「どのような男でしょうか」
「全身黒尽くめで黒いニット帽を被った男だ」
漆黒のサングラスの下から射るように鋭く横目で遺を見ると、狗門は再び前を向き業務スマイルを浮かべながら答えた。
「現在居る“悪討ち”の中で、ニット帽を被っている男は六名居ます」
微笑みながら狗門が言うのを聞いて遺が眉を寄せる。狗門は前を向いたまま更に続ける。
「そのうち五名があの歓楽街で任務遂行にあたりました。一人に特定するのは難しいのでは――――?」
「一番最近居たヤツだ」
狗門の言葉を遺が遮る。自信を持って言った遺を狗門はまた盗み見た。
「一番最近居たヤツについて知りたいんだ」
狗門は黙っていた。黙ってクリーム色の壁の向こうを見詰めている。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「残念ですが・・・」
前を向いたままの狗門の顔が遺憾の表情に変わっていく。
「その男は死にました」
狗門の吐いた言葉に遺は目を見開いて狗門を見た。狗門は口惜しそうに薄く青黒い唇を真一文字に結んでいる。
「死んだ?」
思わず遺が大声を上げた。黒い瞳が限界まで開かれ、組んだ手の上に顎を乗せ、遠くを眺める狗門を凝視する。
「はい」
「そんな馬鹿な!アイツが?あの男が?あんなに速いのに!あんなに強いのにっ!」
狗門の糊の効いたスーツの襟を掴み、感情に任せて前後に揺する遺に狗門は冷ややかな視線を送る。
「何故だ!有り得ない!殺されたのかっ?」
狗門がいかにも残念そうに遺を見た。その薄い唇が動いた。
「衰弱死ですよ」
狗門の襟を掴んでいた遺の白い手が震え、力無く膝の上に落ちた。また狗門の口が動いた。
「内臓の衰弱が死因でした。無理しすぎたんでしょうね」
遠くで響く狗門の声を聞きつつ、遺は床を見詰めるしかなかった。
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「再生を試みましたが、単一酵素による分解ではなく腐敗でしたからね。発見された時にはもう・・・」
頭の中で切れ切れに残る狗門の言葉を反芻しながら、遺は桃色の湯に浸かっていた。
「ゆっくり入って気分転換して下さい」
そう言って狗門が用意させたものだ。遺があと二十人入ってもまだ余裕のある巨大な浴槽に、一人だけで湯に浸かっている。
「死んだのか―――」
溜息に乗せて言葉を吐く遺。これでもう、殺される時に見せた涙の正体は分からなくなってしまった。なぜ苦しそうに呻っていたのかも。――まぁ、単に内臓が痛んでいただけかもしれないが。
―――しかし・・・・、
遺は足を桃色の水面に出して小さな水しぶきを上げた。桃色の湯に波紋が広がってゆく。
―――あの時見せた涙は、痛み以上の何かがあった・・・。
目から上だけを残して、暖かい湯に潜る遺。洗った髪が水に浮き、水面の上下に合わせて動く。
―――思い込みか・・・?
湯から顔を出して息を吸い込む遺。湯気と共に肺に満ちる甘い匂いに目が眩む。
「過ぎた事を考えても仕方が無い――、か」
目を伏せ独り言を言うと、遺は桃色の湯から出た。
脱衣所に戻ると、桃色のバスタオルと共に新しい防具と衣服が置いてあった。どれも以前に遺が身に着けていたものと全く同じサイズだった。
黒いスーツを着終えると、脱衣所の入り口から遺の腰ほどの高さの機械が入ってきて遺を鏡の前に座らせ、幾つもある腕の一本を使って遺の髪を乾かし始めた。機械は何本もある手で遺の髪を梳り、場合によっては切り揃えた。
数十分後、鏡の中にはヒソカ ユイに瓜二つになった遺が居た。
只一つ違うのは、遺の首には赤紫色の線が一本走っていることだった。
「髪型一つでこんなにも変わるのか」
仕事の済んだ機械が去っていくのを見ながら遺は小奇麗に整えられた髪をいじった。扉が開いて、脱衣所に狗門が入ってきた。
「汚れた時はいつでも来て下さい。ここの鍵です」
狗門が差し出す鍵を無造作に遺が受け取る。中世を彷彿とさせる金の鍵が遺の手のひらで輝いた。
遺は黙って渡された鍵を見詰める。
「あのさ・・・」
「なんでしょうか」
無表情な顔を狗門に向ける遺。金の鍵をスーツの胸ポケットに仕舞う。
「今まで随分悪人を処分してきたけど、どうして誰も騒がないんだ?」
素朴な疑問を投げ掛ける遺に狗門は笑顔を貼り付けて答える。
「まだ説明していませんでしたか。至極簡単な仕組みですよ。遺さんに起きたことをそのまま当て嵌めればいいのです」
狗門に言われ、目を瞬かせると遺は俯いて少し考えた。
「再生するのか?」
「いえ。複製をつくっておくのです。その人の“良い所”だけを残したものを」
狗門がこの上ない笑顔で答えてみせた。遺の目は相変わらず虚ろなまま狗門を見上げている。
「遺さんは時間が無かったので骨格までロボットでしたが、普段の複製は脳以外全て生身にしておくのです。脳の代わりの遠隔操作プログラムも、熱で溶解する物質で造ってあります」
「なぜ遠隔操作する必要がある。もう悪人ではないんだろ?」
噛み付くように問い質す遺に、狗門は唯冷笑する。
「“良い所”だけ集めた人工知能を入れても、何時それが変わってしまうか分かりません。それに、何かの拍子に人間でないと悟られる可能性もあります。そういった事態を避けるため、頃合いを見計らって適当な死因で死んでもらうのです。例えば、誤って崖から落ちるとか、事故で湖に車ごと落ちるとか」
冷ややかに微笑んだまま説く狗門に、遺は僅かながら胸中に反発を感じた。狗門もそれを悟ったらしく、急に真面目な口調になる。
「この方法の良い点は、悪人が死ぬ前に善人に変わるという点です。“終わりよければ全てよし”という風に、彼らの死ぬ前の善行はそれまでの悪行より強く人々の心に残るでしょう。そしてそれを手本に、少しでも善人を増やしていくのが我々の狙いなのです」
「・・・そうか」
「ご理解いただけましたか?」
業務スマイルを貼り付け満足げに遺に問う狗門。遺は唇を噛み締め沈黙し、狗門を押し退けると脱衣所から出て行った。
7 lux
今朝もまた指定された場所で目覚めた遺は、枕元にメモの入った灰色の瓶を見つけた。
コルク栓を開け丸められたメモを取り出すと、神経質そうな細長い字が紙の上に走っていた。
『任務の増加に伴い、周辺住民から不審に思われる“悪討ち”が増えています。くれぐれも正体を悟られぬように細心の注意を払って任務を遂行して下さい。
狗門 』
読み終わった遺はメモを畳んでまた傷んできたスーツのポケットに仕舞いこんだ。
「悟られるなって・・・悟られたらどうなるっていうんだ」
コルク栓の抜けた灰色の瓶を蹴飛ばすと、瓶はころころと歓楽街の表通りのほうへ転がっていった。追いかけるように裏路地から表通りに出て行くと、仲の良さそうな三人連れの親子とすれ違った。
「お母さん、あの人」
どこかで聞いたことのある子どもの声に後ろを見ると、子どもが遺を指している。その敵愾心溢れる顔を見て遺は思い出した。
―――前に逃がした子どもか。
ふと気付くと子どもの父親が凄い形相で大股に遺のほうへ歩いてくる。ぐいと乱暴に遺の方を掴むと、父親がくぐもった声で言った。
「君、うちの子供にナイフを突きつけたんだって?」
「・・・」
「こんな昼間から一人で何をやってるんだ?さっきは裏通りから出て来たみたいだな」
身長を使って思う存分に遺を見下す父親の前で遺は黙り続ける。父親の後ろには心配そうに手を組む母親にしがみ付いた子どもが憎悪の眼差しでこちらを見ている。
「見たところまだ高校生くらいだな。家は何処なんだ?君の父親と話がしたいんだが」
遺は喋らない。怒りを抑える父親と、その妻と子を繰り返し交互に見る。張り詰めた雰囲気を感じ取ってか、遺達の周りに野次馬が集まりだした。何も答えない遺に父親のこめかみが痙攣している。そろそろ時間切れだ。
「聞こえないのかっ!」
ついに父親が怒号を上げた。同時に遺は右手拳で父親の鳩尾を突く。
「うっ」
遺の突きをまともに受けた父親は腹を抱えて蹲り、子どもと母親がそれに縋った。
痛みに悶える父親の様子を見ている遺と、顔を上げた子どもの目が合った。冷たい目の遺を、子どもはありったけの憎しみを込めて睨みつけている。
「もしもし、警察ですか!」
母親が最新式の可愛らしい携帯電話をしっかりと握り締め、それに向かって金属をこすったような耳障りな悲鳴を上げた。母親が警察を呼ぶ声が歓楽街の一画に響く。悲鳴を聞いてさらに集まり出した野次馬を掻き分けて、遺は裏路地へと退避した。
「そうですか・・・早速そんなことになってしまいましたか」
柔らかな照明に照らされたクリーム色の部屋で狗門が呟く。隣では、遺が頭を垂れてクリーム色の絨毯に座っている。
「すぐに任地を変えましょう、と言いたいのは山々なのですが・・」
機械に注がせた飲み物を飲み干し既に空となったカップを手で弄びながら狗門が語尾を濁す。
「あの歓楽街は我々組織にとっても重要な拠点でして・・・。遺さんの代わりになりそうな“悪討ち”の方々もほぼ同じ規模の任地にあたっていまして、代行者が見つからない状態なのですよ。もう少し、お願いできますか」
狗門がいつもの業務スマイルで遺を見た。断りきれない雰囲気に遺は頭を垂れたまま長いながい溜息を吐く。
「・・・わかった・・・」
「それまでの任務は目立たないよう、夜に行った方がいいですね」
また溜息を吐く遺に狗門が親身そうに忠告する。空になったカップを機械に渡し、それを手で追い払った。
「なるべく灯の無い所、ビルとビルの隙間がいいでしょう。はっきりと姿を見られないように」
「ああ」
遺が俯いて絨毯の毛先を眺めながら言う。黒い前髪を顔に垂らして立ち上がると、クリーム色の扉を開けて狗門に言った。
「なるべく早く代わりを見つけてくれ」
「ええ―――なるべく」
気弱な遺の言葉に狗門が冷笑して答えた。遺は奥歯を噛み締めると、扉を閉めた。
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なぜだ。
夜の任務もあまりつらくはなかった。再生された身体は以前のものよりも数段夜目が利いたので、月明かりすらない暗黒の夜でも相手が誰だか容易に識別できた。
狗門に例の話をしてから、寝所として指定されるところは専ら裏路地の人目につかない狭く汚れた場所だった。
狗門に忠告されたように夜に任務をこなすうちに、昼夜逆転した生活になったが、特に困ることは無かった。
人目については困るので、毎日通っていたヒソカ ユイの家には行けなくなったが。
いつものように自分を囮にして悪人と認定された男をビルの間に誘い込み、処分してから寝所に着くと、また灰色の瓶が置いてあった。コルク栓を抜いて丸められた紙を取り出すと、今度は黒ではなく赤紫色のインクで文字が書かれていた。
『追加事項
薬物取引、武器・臓器売買を行っている犯罪者を見つけた場合、一刻も早くそのよう
な悪を撲滅するため、本部に連絡せずともその者を処分せよ。
狗門 』
文字を読んだ遺は眉を顰め、もう一度文章に目を通した。今まではどんな悪人だろうと一度は本部に連絡を入れ、認定されてからしか処分しなかったのに、何故急に方法が変わったのだろうか。確かにそのような犯罪は殺人に次いで重大な犯罪かもしれないが、報告もせず処分してはその後複製が造れるのだろうか。
奇妙に感じつつ本部から届いた書名入りの文書を眺める遺。狗門は何があっても丁寧な文体を貫き通していたが、この文書だけはやけに簡潔で、あけすけ過ぎる。まるで軍隊か何かの命令文書のようだ。
疑問を残しながらも、遺は紙を畳んでスーツの胸ポケットに仕舞い、ポリバケツの間に身を横たえた。
再び目を覚ました時、ビルの間に月が昇っているのが見えた。歓楽街にしては珍しく、今日は人影が疎らだ。
遺は生ゴミくさい地面から起き上がると、今日処分する予定の男を捜した。
なるべく灯を避けて歓楽街を小一時間歩いた後に、遺は目的の男が一人でビルの間に入って行くのを見つけた。
周りに誰も居ないことを確認すると、遺は男を追いかけてビルの間に入っていった。
ビルの隙間を半分程行ったところで、遺の足が捨ててあった空き缶に当たった。背後からの音に男はぎくりとして振り向き、遺の姿を見て意味深な笑みを浮かべた。
「おやおやぁ、こんな時間にキミ一人?オレが家まで送ってやろうか」
そう言って男はにやけながら酒臭い息を吐いて遺に近付く。遺は男を見据えたまま、銀色のモノを取り出し構えた。
遺の手に握られる銀色のモノを見て、焦点の合わなかった男の目が恐怖に開かれ、赤かった顔色が白くなっていく。
「や、やめろよ。いくら欲しいんだ?」
男が全てを言い終わらないうちに、遺は男の首筋にモノを捻じ込み、抜いた。男は一瞬訳が分からないといった顔をしたが、やがて腐った木が倒れるように地面に崩れ落ちた。
埃の積もった地面の上で溶けていく男を見詰める遺の足元に、何かが落ちて黒い染みを作った。男の溶けた体組織では無かった。
「?」
ふいに現れた染みに遺が顔を顰め、無意識に白い指で顔を触る。
「―――!」
遺の手に液体が触れた。唾液だった。
「・・・なぜだ」
小刻みに震えながら手に付着した唾液を見る遺。今までこんなことは無かった。遺が見詰める間にも、唾液は口元を流れ落ち地面に染みを作っていく。
「なぜだ・・・!」
焦燥する遺の脳裏にニット帽の男の姿が甦る。道路の向こう側で、唾液を垂らしている姿を。
溶け残った男の顔が遺に向かい、何か言った。
何も聞こえなかった。
9 lux
理解不能。
溶けた男の染みが残る地面を後にして、遺はよろめきながらビルの隙間の向こう側へ行こうとしていた。
最初は自力で歩けたが、次第に立つのも息苦しくなって皹の入ったコンクリートの壁伝いに歩くようになった。遺が歩いた後に、等間隔に唾液が落ちて出来た染みが並んでいる。
あとどれ位かと痛む首を持ち上げ前方に目を凝らすと、遺の前を同じ方向に歩く人がみえた。人は大分ゆっくりと歩いているらしく、遺は壁伝いに歩いているのに何時の間にかその人との距離は縮んでいった。
頭痛に耐えながらもその人を見ると、どうやら男のようだった。何かを持って、それに向かって喋っている。話し方は携帯電話のそれとよく似ていたが、携帯電話よりも小さいらしく、手に隠れてよく見えない。男は肩甲骨まである黒髪を黒いカットソーの上に靡かせている。
「今約束の場所に向かって歩いてる。時間通りに着きそうだ」
黒のレザーパンツの下から覗く革靴が道端に転がっていた石ころを蹴る。左手を翳すと、黒くて優雅な女物の腕時計が見えた。
「そっちもちゃんと来るんだろうな」
男が話し相手に念を押す。さらに距離が縮んで、遺には男が何を持っているのか見えるようになった。男は薄いカードのようなものに対して確かにそう言った。男の手に持つ薄いカードのようなものから返事が聞こえたが、何と言ったかは聞き取れなかった。
「例のモノを持って来いよ。アレが無けりゃ取引が進まない」
男は通話が終わったらしく、カードをポケットに仕舞った。男の最後の言葉に遺は顔を上げた。
―――薬物取引?それとも武器か?
懐深くに仕舞ってある銀色のモノに手を伸ばす遺。男はビルの隙間の突き当たりに来ると、足を止めた。周りを二、三度見回し、肩を竦める。どうやらまだ相手が来ていないらしい。遺は銀色のモノを握り締め身構えた。
「やめときな、お嬢さん」
飛び出そうとした刹那発せられた男の言葉に遺が固まる。男は土埃で変色した壁に手を置くと、遺の方など振り返りもせずに色艶のいい自分の爪を眺めている。
「―――っ」
男の態度に、遺はありったけの力で踏み切った。途端、男も壁を蹴り宙を舞い、遺の持つモノは虚しく空を突いた。
男は何事も無かったかのようにまた遺に背を向けて爪を見ている。
男の余裕ぶりに遺はぎり、と薄紅の唇を噛んだ。体制を立て直すと、もう一度男に向かって駆ける。
男は背を向けたまま少し飛ぶと、遺の手を叩いた。
「だからやめときなよ」
叩き落された銀色のモノが金属音を立てて硬い地面を転がっていく。驚愕する遺の手を掴んだまま、男が忍び笑いをする。
「―――このっ」
自由な方の腕を撓らせると、遺の拳が空を切り裂いて男に迫った。が、男はそれをいとも簡単に背を向けたまま受け止め、拳のまま捕まえた。
「―――っ」
憤怒の声を上げて遺はもがいたが、男は相変わらず背を向けたまま微動だにしない。
手が使えないならば口を開けて噛み付こうとした刹那、男が遺に話しかけた。
「随分傷んでるな、あんたの身体」
「!」
男に言われ、遺はたじろいだ。
暫くの間、月の光と静寂だけが辺りを満たしていた。