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第六話:『滲んだ想いと、名もなき者の朝』

 慶応から明治へ。年号が変わったからといって、世界が急に輝き出すわけではなかった。


 明治二年、冬。

 策太郎は、京の場末にある河原のあばら家で、熱を出して寝込むおキクの傍らにいた。


 かつての「坂本」という偽名は、今や新政府の探索対象となりかねない危うい足跡でしかなかった。策太郎はただの「無一文の佐藤」に戻り、日雇いの力仕事で食いつなぐ日々。龍馬が想い描いたはずの新しい国で、策太郎はかつてないほどの空腹と寒さに震えていた。

「……ねえ、策太郎。もう、やめなよ」


 おキクが、弱々しい声で言った。


「あんたが隠し持ってる、そのボロボロの紙。……坂本さんの遺品だかなんだか知らないけど、そんなものがあったって、お腹は膨れない。それを捨てて、どこか商家に丁稚でっちにでも入りなよ。佐藤として、真面目に生きなよ」


 策太郎の手には、あの日もらった龍馬の遺品である一通の紙切れがあった。

 そこには龍馬の筆跡らしき「……よう見えてるぜよ」という文字がある。だが、長年の風雨で濡れて滲んだその文字は、もはや策太郎の「願望が見せた幻」のようにも見えた。


(本当に、龍馬さんはわしを見ていたのか? ただの、わしの思い上がりではないのか?)


 確証は何一つない。龍馬を救えなかった。おキクに傷を負わせた。自分はただ、歴史の濁流に放り出された、泳ぎ方も知らぬ端くれに過ぎない。


「……おキクさん。わしは、坂本さんにはなれん。でもな」


 策太郎は、冷え切った手に息を吹きかけ、立ち上がった。


「わしが灯した提灯を、あのお方が見ていたかどうかは、もうどうでもいいんだ。……わしが、あのお方のために火を灯した。わしの人生に、その一瞬があった。それだけで......それだけで、わしはこのクソ寒い明治を、笑って生きていける気がするんだ」


 策太郎は、あばら家の隅にあった、わずかばかりの米粉と、拾ってきた枯れ枝に火をつけた。

 彼は、龍馬の真似をして国を論じるのをやめた。代わりに、震える手で小さな団子を丸め、火にかけた。


 そこへ、一人の男が通りかかった。

 泥だらけの軍服を着た、かつての敵――元見廻組の生き残りらしき男だ。今は職を失い、死んだ魚のような目で河原を彷徨っている。


 策太郎は、黙って焼き立ての団子を一串、その男に差し出した。


「……食え。佐藤の団子だ。毒は入ってないぜよ」


 男は怪訝そうに策太郎を見、やがて貪るように団子を食った。


「……苦いな」


「ああ、少し焦げた。だが、腹には溜まるだろう?」


「……ああ。……美味い」


 男の目から、一筋の涙がこぼれた。

 策太郎はその時、悟った。

 龍馬が成し遂げた「大政奉還」という偉業の影で、こうして明日をも知れぬ命を繋ごうとしている「佐藤」たちが何万人もいる。自分にできるのは、提灯を掲げることではない。その佐藤たちに、一時の温もりを差し出すことなのだと。


「おキクさん。わし、店を出すよ」


 策太郎は、ボロボロの『龍馬の紙切れ』を丁寧に畳み、懐の奥にしまった。


「坂本龍馬を助けることはできなかったが、佐藤策太郎を待っている奴なら、この町にいくらでもいる」


 おキクは呆れたように笑い、それから少しだけ誇らしそうに、策太郎の手を握った。


「……あんたの団子が焦げないように、私が番をしてあげる。その代わり、日本一の佐藤になりなよ」



 夜明けが、ゆっくりと河原を照らし始めた。

 この国の歴史には、この朝の団子の味は記録されないだろう。

 だが、この不確かな、泥だらけの希望こそが、佐藤策太郎が自らの意志で掴み取った、真の「夜明け」であった。


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