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第五話:『近江屋の火影と、佐藤の維新』

 慶応三年、十一月。

 京の町には、刺すような冷たい風が吹き始めていた。

 大政奉還という歴史的快挙が成し遂げられた一方で、町は祝いムードどころか、獲物を狙う獣のような殺気にあふれていた。


「……龍馬さんが、危ない」


 佐藤策太郎は、「はずれ屋」の二階で、いつになく真剣な表情で古びた地図を広げていた。

 龍馬が近江屋という醤油屋に身を隠していることは、情報通ではない策太郎の耳にさえ届いていた。それほどまでに、暗殺の噂は町に充満していたのだ。


「あんた、まさか行くつもり?」


 おキクが、火鉢に炭を足しながら静かに言った。その声は、いつもより少し震えている。


「相手は本物の人斬りだよ。あんたみたいな、大根と間違えて自分の指を切るような男が行って、何ができるっていうの」


「……何もしないさ。わしなんかが行ったところで、風除けにもなれん」


 策太郎は、かつて龍馬から返されたガラクタの望遠鏡(万華鏡)を懐に押し込んだ。


「でもな、おキクさん。龍馬さんは、わしに『そのままでええ』と言ってくれた。わしみたいな『佐藤』が、ドブ川を掃除して笑っているから、自分は前を向けるんだって。……なら、わしにできるのは、あのお方の周りを少しでも明るくしておくことだけだ」


 策太郎は、店の台所からありったけの「提灯ちょうちん」を持ち出した。

 十一月十五日。夜。

 河原町の近江屋周辺は、不気味な静寂に包まれていた。


 策太郎は、近江屋の表通りから少し離れた暗い路地で、その日も必死に作業をしていた。

 彼がやっていたのは、警護でもなければ、待ち伏せでもない。

 毎晩、路地裏の至る所に提灯を吊るし、それに火を灯していくことだった。


「これじゃ……これじゃ足りないぜよ。もっと、もっと明るく……」


 策太郎の狙いは、単純だった。

 もし刺客が来るなら、闇に紛れて来るはずだ。ならば、近江屋に続く道という道を、昼間のように明るく照らしてやればいい。光の中では、刺客も容易には動けないはずだ――。


 だが、運命は非情だった。

 策太郎が路地の奥で震える手で最後の提灯に火を灯していた、その時。

 表通りの方から、「ドタドタ」という激しい足音と、鋭い怒号が聞こえた。


「――っ! 坂本さん!」


 策太郎は駆け出そうとした。だが、その瞬間、路地の角から二人の男が飛び出してきた。抜身の刀を持った、返り血を浴びた男たちだ。暗殺を終えたばかりの見廻組だった。


「誰だ貴様ッ!」


 刺客の一人が、策太郎に向かって刀を振り上げた。

 策太郎は腰が抜け、尻餅をついた。逃げることも、刀を抜くこともできない。

 死ぬ。そう確信した策太郎の手が、無意識に懐の「万華鏡(竹筒)」を掴んだ。

 彼はそれを、武器のように刺客へ突き出した。


「く、来るな! これは……最新式の……火薬銃ぜよ!」

 刺客は一瞬、足を止めた。提灯の明かりが、策太郎の持つ竹筒の先にあったビー玉を反射し、怪しく、鋭く光り輝かせたからだ。


「――チッ。手傷を負うのは得策ではない。行くぞ!」

 刺客たちは、策太郎を「ただの腰抜け」ではなく「得体の知れない伏兵」と勘違いし、闇の向こうへ消えていった。


 ――静寂が戻った。


 策太郎は、震える足で近江屋へと走った。

 だが、辿り着いた時には、全てが終わっていた。

 冷たい床の上で、巨星は墜ちていた。

 策太郎は、その姿を見て、声もなく泣いた。自分が灯した提灯は、龍馬を守る役には立たなかった。歴史の歯車は、無慈悲に彼をすり潰していった。



 数日後。

 京の町は、龍馬の死という衝撃に揺れていた。

 策太郎は「はずれ屋」の縁側で、ぼんやりと空を眺めていた。


「……わしは、やっぱり佐藤だった。坂本さん一人、救えなかった」


 すると、おキクが隣に座り、一通の汚れた紙きれを差し出した。


「これ、近江屋の片付けを手伝いに行った人から回ってきたよ。あんたのじゃない?」


 それは、龍馬の筆跡で、殴り書きのような言葉が残されていた。


『佐藤君。おまんが毎晩、灯してくれている提灯、二階の窓からよう見えてるぜよ。……これからの日本は、おまんら「佐藤」が、面白うしてくれ。』


 策太郎は、その紙を顔に押し当てて、子供のように声を上げて泣いた。

 龍馬は、策太郎の光を見ていたのだ。


 新しい時代は、すぐそこまで来ている。

 坂本龍馬という名は、歴史に刻まれるかもしれない。

 だが、佐藤策太郎という名は、どこにも残らない。

 けれども、策太郎は立ち上がる。

 彼は懐から、あの万華鏡を取り出し、冬の澄んだ空に向けた。


「……おキクさん。団子、焼こう。世界一美味い、佐藤の団子だ」


 英雄のいない世界で、名もなき佐藤は、今日も泥臭く、愛おしい日常を歩き出す。

 それが彼に託された、最高に面白く、最高に誇り高い「維新」だった。


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