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第四話:『逃げ水の夜、あるいは佐藤の慟哭』

 龍馬に「そのままでええ」と言われたあの日から、策太郎は浮かれていた。

 英雄に認められた。自分は特別な「佐藤」なのだ。そんな全能感に酔い、彼はまたも自称「坂本」として、危うい橋を渡ろうとしていた。


 ある夜。策太郎は長州の不逞浪士たちから「連絡役」を頼まれる。


「坂本さんの知り合いなら、度胸はあるはずだ」


 おだてられ、鼻の下を伸ばした策太郎は、重要な密書を懐に、深夜の木屋町を歩いていた。


「……策太郎、やめなよ。顔が真っ青だよ」


 背後から、おキクがついてきていた。彼女の目は、いつものツッコミとは違う、湿った暗さを湛えていた。


「これは国事ぜよ、おキクさん。女は引っ込んでいろ」


「国事? あんた、刀の抜き方も知らないじゃない。……私の父親もね、あんたみたいに『志』って言葉に酔って、結局、道端で犬みたいに斬り殺されたの。私には、あんたが死に急ぐ馬鹿にしか見えない」


 初めて聞くおキクの独白。だが、高揚した策太郎の耳には届かない。


「わしは、坂本さんに並ぶ男になるんだ!」


 その時。

 路地の先から、冷たい金属の擦れる音が響いた。


「――そこにいるのは、長州の犬か」

 闇から現れたのは、新選組の巡邏隊だった。

 獲物を屠ることに慣れきった、血の臭いのする男たちだ。


「ひ……っ」


 策太郎の膝が、笑った。

 英雄への憧れ、坂本という偽名、高説。それらが、冷酷な剣気を前にして、砂の城のように崩れていく。


「待て、俺は……俺はただの、佐藤だ! 坂本じゃない! 何も知らないんだ!」


 策太郎は、あろうことか密書を地面に投げ捨て、おキクの前に立ちはだかるどころか、彼女を置き去りにして後退りした。

 指先が震え、腰が抜けて、全身から力が抜けていく感覚に襲われる。龍馬の前で見せた「覚悟」など、どこにもなかった。


「命乞いか。見苦しい」


 隊士が刀を振り上げた。その刃が月光を跳ね返し、策太郎の目を焼く。


「やめて!」


 おキクが割って入った。彼女は策太郎を突き飛ばし、鋭い包丁を構えた。


「この男は、ただの馬鹿なんです! 頭がおかしいだけの、何の価値もない佐藤なんです! ……お願い、殺さないで……っ」


 誇りも何もない、惨めな命乞い。

 隊士は吐き捨てるように笑い、包丁を弾き飛ばした。おキクの頬に刃がかすめ、鮮血が舞う。


「……興が削がれた。佐藤とやら、その女の言う通り、貴様は虫ケラだ。一生、泥を舐めて生きていろ」


 隊士たちが去った後、路地には静寂と、策太郎の嗚咽だけが残った。

 投げ捨てられた密書。震えが止まらない足。そして、頬を切り、地面に倒れ伏したおキク。


「……ごめん。ごめん、おキクさん……」


 策太郎は這い寄り、彼女の手を握ろうとした。だが、おキクはその手を、冷たく振り払った。


「……坂本龍馬なら、絶対に逃げなかった。……あんたは、佐藤ですら、ないよ」


 おキクはよろよろと立ち上がり、独りで闇の中へ歩いていった。

 策太郎は、自分の情けなさに、何度も何度も地面を叩いた。




 英雄に憧れた男の、メッキが剥がれた夜。

 懐の万華鏡を覗いても、そこにはキラキラした世界などなかった。ただ、歪んだ自分の顔が、泥の中に映っているだけだった。


 ただ、この夜の慟哭が、後に彼が初めて自分の意志で火を灯すための、血の混じった「燃料」となることを、まだ誰も知らない。

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