第三話:『泥棒と英雄と、汚れた万華鏡』
その日、京の町には不穏な風が吹き荒れていた。
佐藤策太郎は、相変わらず「はずれ屋」の軒先で、ゴロ(隊士一号)と日向ぼっこをしながら、社中の改名を検討していた。
「よし、今日からは『地球社中』だ。龍馬さんの『海援隊』が海を助けるなら、わしは地球そのものを助けるぜよ」
「地球を助ける前に、今月の宿代を助けてくれない?」
おキクが、空の財布を策太郎の鼻先に突きつけた。
「あんたが昨日『最新式の望遠鏡だ』って騙されて買ってきたあれ、ただの竹筒にビー玉詰めたゴミじゃない」
「ゴミとは失礼な! わしにはこれを通して、日本の夜明けが見えたんだ!」
策太郎が竹筒を覗き込む。見えるのは、歪んだおキクの顔と、キラキラと光るガラクタの破片だけだった。
その時、路地の向こうから「泥棒だ! 誰か捕まえてくれ!」という悲鳴が聞こえた。
見れば、小汚い男が風呂敷包みを抱え、猛烈な勢いでこちらへ走ってくる。
「……! きた、これぞチャンスぜよ!」
策太郎は立ち上がった。龍馬さんならここで鮮やかに銃を構えるか、あるいは理路整然と説得して改心させるはずだ。
「待てい! 逃がさんぜよ!」
策太郎はカッコよく路地へ飛び出そうとした。……が、運悪く足元のゴロが欠伸をして伸びをした瞬間だった。
「わわっ!?」
ゴロの尻尾に足を滑らせた策太郎は、そのまま前方へダイブした。
ドゴォォォン!
策太郎の頭は、逃げてきた泥棒の腹部に、完璧な角度でめり込んだ。
「ぐはっ!?」
泥棒は悶絶し、抱えていた風呂敷包みを放り出して気絶した。
「……やった。わしの『頭突き八策』が炸裂したぜよ……」
星が飛ぶ頭を押さえながら、策太郎が誇らしげに周囲を見渡すと、そこにはいつの間にか、黒い紋付き袴を粋に着こなした、一人の男が立っていた。
逆立った髪。鋭いけれど、どこか懐かしいような、深い目。
策太郎の心臓が、今日一番の速さで鳴った。
「……坂本、龍馬さん……?」
本物だった。噂の中の英雄がそこにいた。
龍馬は、気絶した泥棒と、地面にめり込んでいる策太郎を交互に見て、豪快に笑った。
「こりゃあ傑作じゃ。銃も刀も使わずに泥棒を仕留めるとは。おまん、名前は?」
「さ……坂本です! いえ、あの、佐藤です! 佐藤策太郎です!」
策太郎は、慌てて泥だらけの顔を袖で拭った。憧れの人の前で、せめて格好をつけたかった。
「わ、わしも社中を作って、日本を洗濯しようと……その、ドブ川を掃除したり、漬物を漬けたりしておりまして……!」
龍馬は、策太郎が落とした例の「竹筒の望遠鏡」を拾い上げた。
策太郎は顔から火が出るほど恥ずかしかった。そんなゴミ、今すぐ捨ててほしかった。
龍馬はその竹筒を、片目で覗き込んだ。
「……ほう。こりゃあ、面白い」
「え……?」
「このビー玉越しに見ると、血生臭い京の町も、万華鏡のように綺麗に見えるのう。佐藤君、わしらが作ろうとしちゅう『新しい国』も、案外こんな風にキラキラしちゅうのかもしれん」
龍馬は策太郎の肩をガシッと叩いた。
「おまんは、そのままでええ。わしが大きな船で海を渡るなら、おまんはその足で、この町の泥の中を歩いていけ。おまんのような奴がおるから、わしは安心して上を向いて歩けるんじゃき」
龍馬はそう言い残すと、風のように去っていった。
策太郎は、しばらくの間、動けなかった。
手の中には、龍馬が返してくれた竹筒が残っている。
「……おキクさん。聞いたか? 龍馬さんが、わしを『そのままでいい』って……」
「はいはい。良かったね。でも、その泥棒が盗んだの、うちの店の『おにぎり用の梅干し』だよ。あんた、結局自分の食いぶちを守っただけじゃない」
策太郎は、照れ隠しに空を仰いだ。
竹筒を覗く。
ガラクタのビー玉が光を反射して、泥だらけの路地を、見たこともない黄金色に染めていた。
「いいんだ。わしは、坂本龍馬にはなれん」
策太郎は、初めて心の底から笑った。
「でも、わしは『世界一の佐藤』になってやるぜよ!」
歴史の歯車は、確かに龍馬が回している。
けれど、その歯車が錆びつかないように、泥だらけになって笑っている男が、この町にはいた。
策太郎の「自称・維新」は、ようやく、ほんの少しだけ輝き始めた。




