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第二話:『縁側八策と、消えた大根』

 京の朝は、出汁の香りと共にやってくる。

 だが、佐藤策太郎の朝は、おキクが放つ「冷水」と共に始まった。


「ひゃうっ!?……お、おキクさん、何をするがぜよ!」


「いつまで寝てるの。坂本龍馬さんは、あんたが寝てる間に地球を半周くらい歩いてるよ」


「地球は歩けん、船で進むものだ……」


 策太郎は寝ぼけ眼をこすりながら、書きかけの紙を握りしめた。そこには、昨夜一睡もせずに(実際は三行で寝落ちしたが)考え抜いた、新しい国家構想が記されていた。


 その名も、『縁側八策』


「いいかおキクさん。世の中を根本的に変えていくためには、まずは『庶民の生活の安定と向上』が必要ぜよ。いくら公武合体とか議会とか言っていても、庶民一人ひとりの生活実感や納得感の無い体制では、みんなの生活をより良いものに変えていくことはできず、この国を強くすることもできん。じゃから、わしの国家構想は『庶民の生活の安定と向上』、つまり、この『縁側の平和』ぜよ!」


 策太郎が誇らしげに広げた紙には、力強い筆致でこう書かれていた。


 第一策:長屋の騒音は日没までとすべし。

 第二策:隣の家の煮物の匂いで、白飯を食うことを禁ず。

 第三策:……


「……あんた、ただの近所迷惑の苦情処理係じゃないの」


「馬鹿を言うな。これが『庶民の生活の安定と向上』の根幹ぜよ!」


 策太郎は、この『八策』を誰か影響力のある人物に認めさせようと、再び京の町へ飛び出した。今回のターゲットは、薩摩藩の重鎮・西郷隆盛である。


「西郷さんは懐が深いと聞く。わしのこの『縁側八策』を読めば、きっと『チェストー!』と叫んで感動してくれるはずだ」


 しかし、策太郎には致命的な弱点があった。

 ――極度の方向音痴である。


「おかしいな。ここが薩摩藩邸のはずだが……」


 策太郎が辿り着いたのは、高い塀に囲まれた立派な屋敷だった。しかし、そこは藩邸ではなく、京都守護職・会津藩に繋がる重要人物の「隠れ家」であった。周囲には、殺気立った不審者警戒の役人たちが潜んでいる。


「よし、龍馬さんのように、塀を乗り越えて密談を申し込むぜよ!」


 策太郎は「よいしょ、よいしょ」と必死に塀にしがみついた。だが、運動神経も人並み以下の彼は、塀の頂上でバランスを崩し、そのまま反対側の庭へと真っ逆さまに転落した。


「ぎゃふんっ!」


 落ちた先は、運悪く(あるいは彼にとって幸運なことに)、大きな「漬物桶」の中だった。

 ドボン! という凄まじい音と共に、策太郎の体は大量の塩水と、漬かりかけの大根の山に沈んだ。


「だ、誰だ貴様ッ!」


 即座に、抜刀した会津の若侍たちが駆け寄ってくる。


「不審者だ! 刺客か!?」


 策太郎はパニックに陥った。塩水が目に沁みる。

 ここで「坂本の真似をして忍び込みました」と言えば、即座に首が飛ぶだろう。


「ち、違う! わしは、わしは……『漬物奉行』だ!」


「漬物奉行……?」


「そうだ! この大根の浸かり具合を視察しに来たのだ! ほら、この紙を見ろ、これが秘伝の配合表だ!」


 策太郎は、懐から濡れてボロボロになった『縁側八策』を差し出した。

 若侍たちは困惑した。墨が滲んで「第一策:……」「第二策:……」という文字だけが辛うじて見える。


「こ、これは……何やら深遠な秘術が書かれているようだ」


「『第一策』の下、かすかに『塩』という字が見えるぞ。塩加減の極意か?」


 その時、屋敷の奥から一人の男が現れた。鋭い眼光を持つが、どこか疲れを湛えた老武士。彼はボロボロの紙を手に取り、じっと見つめた。

 策太郎は生きた心地がしなかった。心臓の音が、漬物桶の底まで響いている。

 老武士は、策太郎の書いた「隣の家の煮物の匂いで、白飯を食うことを禁ず」という、滲んで判読不能に近い箇所を指でなぞった。


「……『欲を捨て、分をわきまえ、隣人と共にあれ』。そう書いてあるのか?」


「え? あ、はい! まさに! その通りぜよ!」


 老武士は深い溜息をついた。


「今の京は、誰もが私欲に走り、隣人を斬り捨てようとしている。漬物一つ、静かに浸かる時間さえ許されぬ。……小僧、この配合表は預かっておく。お前の命もだ。疾く失せろ」


 策太郎は、文字通り「這々の体」で屋敷を追い出された。

 全身からヌカと塩水の臭いを漂わせ、大根を一本だけ手土産(というか、どさくさに紛れて掴んでいたもの)にして、策太郎は「はずれ屋」に帰り着いた。


「ただいま……おキクさん。今日も……死にかけた……」


「あんた、今度は漬物屋に転職したの? 臭いんだけど」


 策太郎は、自分の『八策』が結局、漬物の重石にされたことに涙した。


「わしの志は、大根と一緒に沈んだ。龍馬さんは船の上、わしは桶の中。これが器の差か……」


 だが。

 その夜、あの屋敷では、老武士が策太郎の『八策』を重石代わりに漬物桶の上に乗せていた。

 老武士は、戦の準備に明け暮れる部下たちを制し、こう言った。


「今夜は戦の話はやめだ。この『漬物奉行』が持ってきた教えに従い、静かに飯を食おう。平和とは、案外こういう所から始まるのかもしれん」


 京の町に、一晩だけ、剣の音が止んだ一画があった。

 策太郎は知らない。自分が書いた「縁側八策」が、張り詰めていた武士たちの心を、ほんの少しだけ緩めたことを。


「おキクさん。この大根、美味いぜよ」


「それ、盗んできたんじゃないでしょうね」


 策太郎の「維新」は、今日も一歩も進んでいない。

 しかし、彼の周りだけは、不思議と夕飯の香りが温かかった。


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