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第一話:『鶴亀社中、ドブ川に立つ』

 慶応三年、京。

 時代は、音を立ててひっくり返ろうとしていた。

 薩摩が動き、長州が吠え、幕府の威光は夕日のように陰り始めている。まさに風雲急を告げる、激動の真っ只中である。

 ――そんな時代の荒波とは、およそ無縁な場所があった。


 京の片隅、四条河原へ続く細い路地。そこに、一人の男が立っていた。


「……よし。今日からここが、日本の中心ぜよ」


 男の名は、佐藤策太郎。

 土佐藩の裕福な商家に生まれながら、「日本を洗濯する」という同郷の英雄・坂本龍馬の噂に当てられ、勝手に脱藩して京へ転がり込んできた二十三歳である。

 彼は、自らの隠れ家である長屋の軒先に、誇らしげに一枚の看板を掲げた。


『貿易結社・鶴亀社中つるかめしゃちゅう 総裁・坂本策太郎』


「策太郎。あんた、また苗字を書き換えたね」


 背後から、冷ややかな声が飛んだ。宿の看板娘、おキクである。彼女は盆を抱え、策太郎が掲げた看板を呆れた目で見上げていた。


「違うぞおキクさん。これは『志』の表れだ。今日からわしは佐藤を捨てた。坂本として、この腐った日本を洗濯してやるがぜよ」


「洗濯の前に、自分のふんどしを洗いなよ。それから、その『鶴亀』ってのは何? 坂本さんのところは『亀山』だったでしょ」


「亀は万年。わしはさらに鶴の千歳を加えた。つまり、坂本さんより千年長持ちする組織というわけだ。完璧な策だろう?」


 策太郎が胸を張ると、どこからか「クゥン」と情けない鳴き声が聞こえた。看板の足元で、片耳の垂れた野良犬が、所在なげに尻尾を振っている。


「ほら、おキクさん。早くも志士が集まってきたぞ。これが我が社中の第一号隊士、『ゴロ』だ」


「それ、ただの野良犬じゃない。あんた、本当に大丈夫?」


 おキクの溜息を背中に受けながら、策太郎は腰にある竹光刀をカチャリと鳴らした。


「見ていろ。今日は歴史が動く日になる。まずは、日本を洗濯するための第一歩――軍資金の調達だ」


 策太郎が向かったのは、京で最も羽振りの良い呉服屋『越後屋』だった。龍馬がグラバーと渡り合ったように、自分も豪商と手を組み、蒸気船の一艘も手に入れる。それが彼の描いた完璧なシナリオだった。

 しかし、現実は非情である。


「お引き取りを」


 越後屋の番頭は、策太郎のなり損ないの土佐弁を聞くや否や、鼻で笑った。


「坂本様? ああ、あの才谷(龍馬の変名)様のお仲間ですか。ですが、あの方はもっと……こう、眼光に鋭さがありましたな。お前さんのは、ただの寝不足か、あるいは単なる迷い犬の目だ」


「な、何を! わしの『新・国家構想』を読めば、あんたも腰を抜かすぞ! 第一条、商人は客に優しくすべし! 第二条、おまけの飴玉は二個にすべし!」


「……門番。このお方を外へ。二度と敷居を跨がせるな」


 数分後。策太郎は、ゴロと一緒に路地のドブ川の縁に放り出されていた。

 自慢の看板は泥にまみれ、懐には一文の金もない。日本の洗濯どころか、自分の着物がドブ水で汚れただけだった。


「……ちくしょう。時代がわしに追いついてないだけだ」


 策太郎が膝を抱えて呟いた時だった。

 路地の向こうから、数人の男たちが血相を変えて走ってきた。その後ろから、黒い羽織を翻し、抜刀して追いかける集団――新選組だ。


「御用改めだ! そこをどけ!」


 本物の、死の香りが路地を満たした。策太郎の心臓が跳ね上がる。逃げる男の一人が、策太郎の目の前で足を滑らせて転んだ。新選組の刃が、その男の首筋に振り下ろされようとした、その時。


「わ、わあああああ!」


 恐怖のあまり、策太郎は持っていた泥まみれの看板を、無我夢中で新選組の足元へ投げ飛ばした。

 運が良いのか悪いのか、看板は先頭を走っていた隊士の脛に直撃。隊士が「ぐおっ」と呻いて前のめりに転倒し、後ろの隊士たちもそれに重なって倒れ込んだ。


「今だ、逃げろ!」


 策太郎の叫びに、転んでいた男は弾かれたように起き上がり、路地の闇へと消えていった。


「貴様……何者だ!」


 這い起きた新選組の隊士が、血走った目で策太郎を睨む。

 策太郎の足は、ガタガタと震えていた。腰が抜けて動けない。彼は必死に、虚勢を張った。


「わ、わしは……坂本! ……の、隣に住んでいたこともある、佐藤策太郎だ!」


 結局、本名を名乗ってしまった。

 策太郎はその後、新選組に追いかけ回され、京の町を三周半逃げ回った挙句、ボロ雑巾のようになって「はずれ屋」に帰り着いた。


 夜。おキクが差し出したおにぎりを頬張りながら、策太郎は悔しそうに涙をこぼした。


「今日も……何も報われなかった。日本は一ミリも洗濯できなかった。わしは、坂本さんにはなれんのかもしれん」


 おキクは黙って、策太郎の泥だらけの頭を、ポンと叩いた。


「……あんたが投げたあの看板、あそこに書いてあった『鶴亀』って文字がね、逃げた男の人の目に入ったみたいだよ。あの人、走り去る時に『鶴亀に救われた』って言ってた」


「え?」


「まあ、どうせあんたの勘違いだろうけど。でも、あのおにぎり、美味しかったでしょ? あんたがドブ川に落ちたおかげで、川下の洗濯女たちが『面白いものが見れた』って笑ってたよ。あんた、国は変えられなくても、誰かの機嫌くらいは変えられたんじゃない?」


 策太郎は、口いっぱいにおにぎりを詰め込んだ。

 情けなくて、惨めで、それでもおにぎりは温かい。


「……明日だ。明日は、もっとマシな組織にしてやる。社中しゃちゅうじゃなくて、もっと大きな……『佐藤組』とか……」


「坂本はどうしたのよ」




 策太郎の「維新」は、まだ一歩も進んでいない。

 だが、彼がドブ川に捨てたはずの看板は、夜の風に吹かれながら、確かに誰かの明日を照らしていた。

 歴史には、一行も載らない物語。

 佐藤策太郎の、報われない戦いは始まったばかりである。

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