笑顔
一瞬空気が重くなりかけたその時だった。
琴音は無言でトレーを持つと、今作ったばかりのオレンジジュースを乗せ始めたのである。それはもう自分で客席まで持ってく猛アピール以外の何物でも無かった。
「ちょっと琴音ちゃん! 大丈夫なのか?」
因みにまだ接客のことなどは一切教えていない。なので店長がビックリするのも当たり前。とは言っても、
「本人が行きたいって思ってるんだったら、任せてみましょうよ」
隆美さんにそう言われてしまうと、
「そ、そうか......ま、まぁ、常連さんだしな。失敗しても大目に見てくれるだろ。よし! 琴音ちゃん、頼んだぞ!」
旦那さんたる店長も、ここは腹を括るしか無かったようだ。
因みに......
実は昨晩、琴音は母から接客の極意を教わっていたのである。やはり母は母で、類い希なる愛娘の『個性』のことが気になってたに違い無い。
では一体、それがどんな極意だったのかと言うと......
※ ※ ※ ※ ※ ※
話は1日遡って、
4月11日(金)22時30分。
以下は彼女の部屋でのお話となる。
「琴音、あなたに接客業の極意を教えておきましょう」
「接客業の......極意......」
「そう。接客で一番大事なことは何だか分かる?」
「......」
「分からないわよね......ならば教えて上げます。それはね、これよ」
何をするかと思えば、母は頬の肉を引き上げ目をトロンとさせ、首を10度程倒してるではないか。
どうやら何かの感情表現を教えようとしてるらしい。
「さぁ、あなたも一緒にやってみなさい。はい、まずは左右両方の頬を引き上げて」
「......」
「そうよ、ちょっと固いけど......まぁいいでしょう。次に目をトロンとさせて。この前ソルトのことを可愛いって思ったって言ってたでしょう? その時のソルトの顔を思い浮かべて」
「こんな......感じ......?」
「ちょっと目が引き吊ってるけど......まぁ上出来だわ。それでそのまま首をちょこんと傾げて」
コクリ......
「そう、それでいいわ。それじゃあね......琴音、その表情を崩さないままこっちに来て」
母はそんな言葉を掛けながら、優しく琴音の手を取った。そしてどこへ導くのかと思えばそれは、
「今の自分の表情を見て」
鏡の前だったのである。
そしてそんな鏡に映し出された年若き乙女の顔と言えば、
「琴音......忘れないでね。これが笑顔よ。やっぱあなたには......笑顔がよく似合う」
そう......
それは天使も恥じらう程のとても美しい『笑顔』だった。
「笑顔......」
もちろん琴音の記憶の中で、そんな表情を見せたことなど一度も無い。
現時点において、それが何の感情も無い上辺だけの笑顔であったことは言うまでも無いのだが......
「そうよ。笑顔にはね、人の心を幸せにする魔法が掛けられてるの。だからあなたは、お客さんと接する時はその素敵な笑顔を浮かべなさい。
そうすれば、お客さんも笑顔を返してくれるからあなたも一緒に幸せになれるのよ」
きっと母は、少しでもそんな『笑顔』の意味を琴音に理解させたかったんだろう。
とにかく以前の琴音を呼び戻す突破口にでもなれば......そんな思いが込められていたに違いない。
「幸せ......って」
「今のあなたに言っても分からないと思うけど......でもこれだけは覚えておいて。全ての人には幸せになる権利が有るってことをね」
そこまで語った母の目には、うっすらと涙か浮かび上がっていた。きっとこの時母の心の中では、様々な感情が複雑に渦巻いてたんだろう。
一方、そんな母の涙に気付いた琴音はと言うと、当然の如く素朴な疑問が浮かび上がって来る訳だ。
「涙......それは......悲しんでる......の?」




