誠也
どうやら彼こそが、琴音の母が言うところの『番犬』だったらしい。まぁ、予想通りと言えばそれまでのことではあるのだが。
すると、
「ありがとう」
「えっ?!」
この時、一瞬『番犬』は耳を疑ってしまった。なぜなら、所謂『琴音』の口から『お礼』の言葉など、一度足りとも聞いたことは無かったのだから。
そしてそんな番犬の驚きが乾かぬうちにも、
「ありがとう......沢渡誠也......さん」
何と、2度目の『お礼』。
ところが今度はなぜか表情を曇らせてしまう『番犬』だった。本来であれば、喜ぶべき場面である筈なのだが。
「そうか、確かに俺はそんな名前だったけな。ハッ、ハッ、ハッ、その通りだ」
どうやら......琴音の発したそんな名前に、深い意味が有るらしい。上部だけの笑い声で、内に秘めた寂しさを隠し切れるものでは無かった。
やがて誠也は心の中で襟を正すと、今度は頬のシワを伸ばし徐に口を開き始めた。どうやら、この辺りから重要な話が始まるらしい。
「向日葵......いや琴音だったな。実は君にどうしても話さなきゃならないことが出来ちまったんだ。耳はしっかり聞こえんだろ? 別に反応しなくてもいいから、少しだけ俺の話を聞いててくれ」
そんな話を始めた誠也の視線の先に、琴音の姿は無かった。ただ夜空を見上げ、唇を噛み締めてる。
「......」
一方琴音の方はと言うと、表情一つ変えること無くただ無言。
「もうあれから5年か......早いんだか遅いんだが俺にはよく分からんけど、俺を取り巻く環境が大きく変わっちまってな。
ちなみに俺の親父のことって覚えてるか? まぁ、覚えてる訳無いか......俺のことすら忘れちまってるんだもんな」
「......」
「あの事件の影響がちょっとデカ過ぎたんだわ。遂に親父の会社がヤバくなっちまってさ。
このままの勢いで倒産すると莫大な借金が残って親父は首くくるしか無くなるそうだ。
前のお前だったら知ってると思うけど、俺と親父とはどうにも馬が合わなくて毎日ケンカばっかしてた。
そんな仲だから親父の会社が倒産するとか聞いても正直何とも思わなかった訳さ。最初はな......」
「......」
「でもよ......どう考えたって俺のたった1人の父親であることには変わりない。見捨てる訳にもいかんしな......」
「......」
ここまで語り終えると、誠也の視線は上の空とも言える琴音に向けられた。そしていよいよ話は核心へと誘われていく。
「実はさ、親父の会社を助けてくれるって人が現れたんだ。
こんなこと今の琴音に話しても仕方の無い話なんだが、その人の娘さんが俺の事を好いててくれてな。
その人と結婚して婿養子になることが条件って訳だ。
俺は今までたった1人しかいない親父に何一つ親孝行してこなかった。
だから親父の最大のピンチとも言える今親孝行しなかったら、もう一生出来ないんじゃないか? って思ってる。
それで......実はもうすぐなんだが4月20日の日曜日、大阪のホテルで式を挙げることになった。琴音......俺の言ってること......分かるよな?」
「......」
ここで誠也は頬を紅潮させ琴音の正面に立ち、膝を曲げ彼女の視線の高さに目を合わせた。そして震える口から発っせられた言葉と言えば、
「最後にもう一度だけ聞いておく。俺のこと......覚えてたりしないよな?」
今更と言えるようなそんな野暮な質問だったのである。
「......」
しかし案の定、琴音は無言。しかも彼女の視線は誠也の意図と反して、その者の顔に向けられてはいなかった。




